鰯の群れと香りに酔うと、君が抱きしめる
「冷たいものを買ってきます。お茶でよろしいですか?」
華宮さんはフラフラと歩いて行く。
「すいません、お願いします……」
私は奥まった場所のソファーに座った。
大水槽を背に置かれたソファーに蒼い光が反射して美しい。
だけど気持ち悪い。
アジは釣っても二匹までだ。命に感謝しても、食べ過ぎると気持ちが悪くなる。
背もたれに頭を乗せて見上げると、自分も水槽の中に入ったような感覚になる。
大群で泳ぐ鰯がこの水槽の名物だ。
キラキラと光りながら大群で移動する。
何かを求めて、どこかへ向かって、誰も求めてないのに、見事に舞う。
綺麗だなあ……。
私はボンヤリとそれを見守った。
「薔薇苑」
声をかけられて顔を戻すと、もっと奥のソファーに御木元さまが居た。
手には文庫本。
「……こんな所で隠れて本読んでたんですか」
私は近くのソファーにフラフラと移動する。
「柱の陰だし、誰も来ない。クーラーも効いている。静かで本を読むには最適だ」
「まあ……分かりますけど」
ここまで来たら少し観光とかしません? と思うが、水族館を歩き回る御木元さまは想像できない。
私は、うー……と言いながら背もたれに頭を乗せた。
「気分が悪いのか」
御木元さまが本から目を離さずに言う。
「釣りゾーンで、華宮さんとあじフライ七匹分食べたら、気持ち悪くなりました」
「……華宮がそんなことするのか」
御木元さまがチラリを私の方を見た。
「私は二匹しか釣ってませんよ。華宮さんが五匹も釣ったんです」
「華宮が釣り……」
御木元さまは心底不思議な言葉のように口にした。
「最後には自分で口から針も外して、楽しそうでしたよ。御木元さまも今度やりましょうよ。楽しいですよ、釣り」
「断る」
御木元さまは瞬時に本に戻った。
まあ御木元さまが釣りしてる絵は、想像も出来ない。
「お待たせしました。緑茶でよろしくて?」
華宮さんがお茶を買ってきてくれた。
「すいません、ありがとうございます」
そして私の横に座る御木元さまに気が付いた。
私は解説する。
「ここでサボって本読んでたみたいです」
「……そうですか」
華宮さんは、静かに私の横に座った。
冷たいお茶を飲んだら、かなりスッキリした。
華宮さんと御木元さまは、婚約者どころか、クラスメイトとも見えないほど、視線も合わさない。
く……空気が重い。
仕方なく私は華宮さんに話しかける。
「釣り、どうでしたか?」
「思ったより楽しかったですわ」
「写メ……」
「薔薇苑さん」
それ以上何か言うな、という表情を華宮さんがする。
じつはアジを釣った華宮さんを写メって、それが超面白い仕上がりなのだが……御木元さまには秘密なようだ。
そしてまた訪れる沈黙……。
仕方なく私は御木元さまに話しかける。
「そういえば、彼女がエスパーだったころ、読みましたよ」
前に御木元さまが図書館で読んでいた本だ。気になったので、買ってみた。
「……どうだった?」
御木元さまは本から目を離さずに聞く。
「すごく面白くて驚きました。特に百匹目の火神。ありでそうでありえない、それでいて怖くて、素晴らしかったです」
「そうか」
御木元さまは目元だけで微笑む。
「漫画で一番近いのは宗像教授異考録ですね」
「星野之宣は天才だ」
御木元さまは本の話題さえふれば、意外と話が続く。
私はポツポツと話す。
「宮内悠介さんは、いつか直木賞取りそうな作家さんですね。文章としては、初期の頃の山田正紀さん、最近でいうと新井素子さん、もっと尖ると円城塔さんを思い出しました」
御木元さまが本から目を離す。
「……薔薇苑は、本が好きなんだな」
「一番好きなのはガラスの仮面ですよ? 泥ダンゴ食べる所ですね」
「それは分からない」
御木元さまは一瞬で本に戻った。
「御木元さまは、SFしか興味ないんだもんなー……、どう思います? 華宮さん」
華宮さんは静かに微笑んだまま、何も言わない。
駄目だ、中継しても会話にならない。
私は諦めてソファーの背もたれ部分に頭を乗せた。
そうすると視界はすべて水槽になる。
ああ、コレ、気持ちいい……。
「……少し胃の調子が悪いので、お薬を頂いてきます」
華宮さんは立ち上がって、消えて行った。
胃薬……私もあったら欲しいなあ……。そんなことを考えながら水槽を見ていたら、そのまま眠くなってきてしまった。
昨日エスパーだったころが面白くて、夜遅くまで読んでしまった。
水が意思を持つ話もあったなあ。
鰯を動かしているのが、意思をもった水だったら面白くない……?
意識をもった水槽の蒼に飲み込まれていく……。
「桐子」
頬に触れられて目を覚ました。
目の前に朝陽さまが居た。
「え、あれ? 御木元さまと華宮さんは?」
私は首を持ち上げる。
「いたたたたた!」
ひっくり返ったまま眠っていたようだ。
「こんな所で寝るなんて、お前はバカか」
朝陽さまが私の首を支える。
「痛い……痛いですー……」
寝違えた状態なのだろうか。少し動かすだけで、かなり痛い。
「何をしてるんだ」
朝陽さまが私の首を支えて、そのまま抱き寄せながら、体を持ち上げてくれる。
その状態で、私は軽く首を動かす。うう……首がじんじんと痛い。
「すいません、鰯の大群見てたら眠くなってきて……御木元さまと華宮さんは……?」
「集合時間だ。とっくに行っている」
「えー……なんで起こしてくれないんでしょうか」
「俺が先に行かせた」
「そうでしたか……すいません、あいたたた……」
体を動かそうとしたら、まだ痛かった。
「無理に動くな」
朝陽さまが私の肩と頭を、優しく包む。
フワリといつもの香りがする。
最近の私は、この香りだけは、本当に好きだと断言できる。
水槽の蒼い光に包まれて、海を漂う魚になった気分。
私はボンヤリと言う。
「……朝陽さま、ひとつ聞いて良いですか?」
「なんだ?」
少し体をズラして、朝陽さまが私を見る。
前髪に水槽のキラキラが反射して、美しい。
「香水、つけてますよね。何をつけてるんですか?」
「香水? ああ、名前か……なんだっけな……知りたいのか」
「はい」
どうにも好きな香りだ。甘すぎず、冷たすぎず。
私は香水なんて全く詳しくない。スタイリストさんにも聞いたのだが、伝え方が悪いのか、全く答えが出なかった。
「好きなのか、この香り」
朝陽さまの声が柔らかくなる。
なんだかイヤな予感。でも素直に言う。
「……はい、好みの、香りですね」
「そうか」
朝陽さまは私を再び抱き寄せた。
そして背中に腕を回して、全身を包むように、丸く丸く抱っこする。
私の首あたりに朝陽さまの髪の毛があって、少しくすぐったい。
「香水はどこの……」
私は完全に包まれたまま、モゴモゴと言う。
「教えない」
朝陽さまは、私の体を優しく包んだ。




