蒼き空と、海の彼方に消える雲は何を語る
運ばれてくる食事は、どれも素晴らしくて、私は声をあげて喜んでしまった。
クレソンとフロマージュコンテのテリーヌ、鮑のヴァンブランソースと山椒風味……どれも美味しい。
「越智さん、美味しいですーー」
私はパクパク食べた。
越智さんが作るメニューは、薔薇苑の家より塩分や味付けがシンプルな気がする。
きっと素材の質が違うんだろうなあ。
私は味わって食べる。
「桐子は、本当によく食べるな」
朝陽さまは、フォークを置いて言う。
「朝陽さまも、結構食べてるじゃないですか」
「そうだな、桐子につられてるな」
朝陽さまが表情を崩して、クシャリと笑った。
「いつもそういう表情してれば良いのに」
私は思わず言う。
「……どんな表情だ」
朝陽さまは長い指先で、自分の前髪に触れながら、顔を隠した。
これが朝陽さまなりの照れなのか?
私は小さく笑う。
食事はすべて食べ終えて、コーヒーが出された。
時間は昼過ぎから、夕方に向かう。
空が群青色から、一気に表情を変え始める。
雲があかね色に染まり、海に引きずり込まれるような速度で流れていく。
あの地平線の先に大きな掃除機があって、雲を飲み込んでいるのだと、子どもの頃本気で信じていた。
雲の奥から見える一番星。
私はその景色をボンヤリと見ていた。
夕方が昼を飲み込み、夜が夕方を堕とす。
この時間が一番好きだと思う。
「一番星」
景色を外で見たいと思い、少し腰を浮かす。
その手を、朝陽さまが掴んだ。
「桐子」
その表情は真っ直ぐで、迷いがない。
キスされる。
まっすぐにそう思った。
「朝陽さま、駄目です」
私は朝陽さまを見て言う。
「何が?」
朝陽さまは、一瞬にして泣きそうな表情になる。ああ、何この表情……!
いや、分かる。
普段、中に閉じこもってる弱い部分が、見え始めてるんだ。
そんなの、もっと分厚い殻の中に入れておいてほしい。
少し可愛いと思ってしまう。
「いえ、あの、すいません、人の話を折るべきではありませんでした。続けてください」
私は慌てて、謝る。
「……仕事みたいな言い方だ」
朝陽さまは静かに言って、私の手を引いて、隣に座らせた。
「桐子、誕生日おめでとう」
「あ、ありがとうございます」
キスじゃないのか。
警戒しすぎて、バカみたいになってるぞ。
私は少し恥ずかしくなって、俯いた。
朝陽さまが、私の左手の薬指にはめられた指輪に触れた。
「もっと、桐子に似合う指輪にしたくて、婚約指輪を買ってきた」
「え? これ、最近頂いたばかりですけど」
「俺が決めた物じゃないから」
「やっぱりそうですか」
形だけの婚約だから、そりゃそうだろう。
「桐子に似合うのは、これじゃない。こっちのが良い」
朝陽さまは、私の指からダイヤの指輪を抜き、ポケットからサファイヤがついた指輪を出した。
それを私の左手の薬指に入れた。
蒼く深く光り、それはまさに今の空のよう。
「……綺麗。ありがとうございます」
私は言った。
ダイヤが乗っただけの指輪より、確かな意思を感じる。
「これならシンプルだから、学校にもしてこれるだろう」
「いや……サファイヤの指輪をして学校にくる人、居ますかね」
「だったら桐子が一番最初に、そうなればいい」
「ええ……?」
お断りだ。
大事に閉まっておこう……と思いながら指輪を見る。
どんどん深くなっていく空の色と同じ深いブルー。
手を浮かせて、その蒼を空に照らし合わせる。
「ありがとうございます。気に入りました」
宙に浮いていた私の手を、朝陽さまが握った。
そして腕ごと引き寄せられる。
私の顔を朝陽さまが覗き込んだ。
夕日に照らされて朝陽さまの髪の毛が金色の光っている。
「桐子。もっと俺を見て?」
朝陽さまが静かに言う。
私は朝陽さまを見つめた。
「……見てます」
「そうじゃなくて」
分かってるけど、そんなこと言われても……。
「俺は桐子に興味がある。目が離せないし、もっと話がしたいと思う。桐子は?」
「前より嫌いじゃないですけど……」
「桐子は、俺の事なんて何も知らないからじゃないか。もっと知ってほしい」
知ってますよ。
盗撮とGPSが好きな変態と言おうと思ったが、とりあえず飲み込む。
「じゃあ教えてください。好きな映画は?」
「映画は見ない」
「好きな食べ物は?」
「なんでも食べられる」
「好きな場所は?」
「意味が分からない」
「…………こんにゃくに釘打ってる気分です……」
私はジト目で見た。
「じゃあ桐子が好きな映画は何だ?」
「お。逆質問タイムですね。最近だとher/世界でひとつの彼女が良かったですね。AIと人間の恋。考えさせられました。同じ監督ならマルコヴィッチの穴が一番好きですけど」
「好きな食べ物は?」
「一つですか?! 困る……、やっぱりお肉ですかね、最近はカルビ系よりヒレ肉……ああでも、甘い物も捨てられません。一番好きなお菓子は結局歌舞伎揚げなんですけど」
「好きな場所は?」
「銚子にある地球の丸く見える丘展望館です。本当に地球って丸いな! って感動しますよ」
「……楽しそうだな」
朝陽さまは呆れるように微笑む。
「九十九里浜も面白いですよ、とにかく大きくて。走っても走っても浜辺だーーってなります」
「行きたいな」
「銚子で釣りをしたことがあるんですけど、アジが超釣れるんです。近くの定食屋で刺身にして食べると美味しいですよ」
「……桐子と一緒に食べたい」
朝陽さまが私の甲にキスをした。
その柔らかさと、甘さに、黙る。
「……はい」
「桐子ともっと出掛けたい。桐子と同じものをみて、桐子と話したい。……駄目?」
駄目? と私の顔を覗き込む朝陽さまの髪の毛がフワリと揺れた。
なんだか強烈な告白をされている気がするけど……。
「契約期間中ですから、はい、大丈夫です」
「……なんか違う」
朝陽さまが私を引き寄せる。
フワリと朝陽さまの香りに包まれて、緊張してしまう。
「ちょっと……朝陽さま……」
「その朝陽【さま】も、もう止めろ。婚約者だぞ」
「朝陽……さん?」
「朝陽。呼び捨てにしろ」
「朝陽……くん?」
「小学生か」
「朝陽……丸……」
「船か」
「……いいツッコミじゃないですか……」
基本的にボケを心がけている私には、ツッコミ役が必要だ。
朝陽さまは、んー……と言って私を抱きしめて匂いを嗅ぐ。
「ちょっと、やめてください。この前から」
「桐子は不思議な匂いがするから」
「ああ、ずっと漢方薬を飲んでいるので」
「薬? どこか悪いのか?」
朝陽さまの声が一気に変わる。
そして私の頬を両手で包む。
その真剣な表情に私は丁寧に言葉を選ぶ。
「子どもの頃に、小児喘息になりました。それからずっと飲んでいる漢方があります。今は発作も出ません」
「今は大丈夫なのか」
「もう五年以上発作もありませんし、お守りのようなものです」
私も朝陽さまも凛子さまのことを考えているが分かる。
凛子さまの細い腕、白い唇。
今にも消えてしまいそうだと思う。
でも私は、凛子さまじゃない。
「……私は、大丈夫ですよ」
朝陽さまの目を見て、小さな声で、でも確かに言った。
「凛子が、俺の家で食事をしたいと言っている」
「良いですね。いつでも、本当にいつでも良いです」
私は朝陽さまに両頬を包まれたまま、微笑んだ。
朝陽さまは、そのままトスンと私を抱き寄せた。
「……ありがとう」
このありがとう、は、違うありがとうだと気が付いている。
私たちは寄り添うように抱き合ったまま、ボンヤリと堕ちていく空を見ていた。




