やがて始まる婚約破棄、交錯する想い
朝陽さまと二人きりになるのが怖くて、私は忍者のような速度で部屋を飛び出して、すぐに庭園に戻った。
凛子さまが去った後の、あの表情は完全に、無。
あの表情をした人に、どんな言葉をかけるのが正解なのだろう。
慰めも違う。
励ましも違う。
凛子さまって、美しい人ですね、も違う。
答えが見つからないので、脱走した。きっと正解だと思う。
5cmのヒールで、頭に挿してある薔薇が落ちないように庭園を疾走する私は、迫力満点だっただろう。
「そろそろ伊賀の国に行くか……」
ドレス姿で言うことではない。
ブッフェは食事はもう終わっていて、デザート中心になっていた。
食べかけだった苺のシャルロットは片付けられていたが、テーブルには苺とイチジクのコンポートや、シナモンとオレンジのペストリーなど、沢山のデザートが並んでいた。
体が糖分を求めている、正確には脳が糖分を求めているのが分かる。
「抹茶のカヌレ……桃とパイナップルのタルト・タタン……」
私はお皿にもりもり盛って、庭園の定位置に座って食べた。
「大丈夫だった?」
振向くと、手にコーヒーカップをもった御木元さまが微笑んでいた。
「はい。凛子さまと友達になりました」
「え?」
御木元さまに事情を説明する。
「なるほど、凛子さまは少女漫画がお好きなんだね。知らなかったな」
「本当に嬉しそうでしたので、私がお力になれるなら」
私は凛子さまの笑顔と、それを見守る朝陽さまのことを思い出していた。
あんな優しい表情、初めて見た。
自分が何とかしたいという意思の強さより、ただ横にいる優しさ。
そんな空気を朝陽さまから感じた。
いつもの私なら「こりゃ良い漫画のネタになる」とノートを取り出すが、リアルな人間があれほど人を想う姿は、ネタにするには重い。
「凛子さまは、ほとんど病院に居るような状態になっているはずだから、喜ぶと思うよ」
「そんなに悪いんですか……」
私も小さい頃、小児喘息で入院した時のころはよく憶えている。
永遠に閉じ込められたような白い部屋と、窓の外の光。
毎日同じ事の繰り返しで、何時になったら出られるか分からない。
幼稚園児の私は、ただ外に出たかった。
「昔からだと思うけど、今回は長いね」
「あの、凛子さまと朝陽さまは、昔からのお知り合いなのですか」
「この裏山周辺は、元々凛子さまの家の持ち物なんだ」
御木元さまが指さした方向は、松園家の反対側……延々と続く高級住宅街が見える。
「大地主さま……ということでしょうか」
「元はね。他にも手広く事業してる家だけど。本当に2歳や3歳の頃から、漣さんと凜さま、朝陽は一緒にいたはずだ」
「そうですか」
どれくらい前から、凛子さまを見ていたのだろう。
どれくらい前から、漣さまと凛子さまは心を通わせて、どれくらい前から朝陽さまはそれを見ていたのだろう。
あの押さえつけてもどうしよもない瞳で、二人をみていたのだろう。
皿にあるカヌレを食べた。
それは甘く、苦く、重かった。
大広間にある大時計が、六時を回った。
パーティー終了の時間だ。
「桐子、帰ろうか」
お父さんに呼ばれて、駆け寄る。
お腹いっぱい食べられたし、オタ友も出来たし、結構楽しかった。
あとは帰って音速で着替えて、ソファーに転がって、作画監督祭りの実況ううう~~。
斉藤卓也さんのライブペイントが見たくて超楽しみにしてたんだ。
全然表に出てこない人で、今回が初めてなの! うふふ~。
私はウキウキしながらお父さんの後ろをついて本邸を出る。
「薔薇苑さま、少しよろしいでしょうか」
スーツを着た人にお父さんが呼び止められた。
まだ仕事の話があるのだろうか。
私は一歩壁際に寄った。
じゃあここらに座って待っていようかな。
「桐子、ちょっと待っていてくれるかな」
お父さんの言葉に静かに頷く。
「いえ、薔薇苑昭彦さまと、薔薇苑桐子さま、お二人でこちらにご足労願えますか」
スーツ姿の人は、私とお父さんを見て言った。
「え?」
私も? なんだろう。
呼ばれるまま、本邸の廊下の奥に向かう。
そこはパーティーの時も入らなかった、間違いない松園家の本邸内部。
天井に大きな梁が見える。それはとんでもない太さで、廊下の上をどこまでも走って行く。
そのまま渡り廊下を歩いて、別の棟に入る。
この敷地内に何棟あるんだろう。家に帰ったらGoogleマップしよう。
独立した小さな棟に入った。
そこは三方が庭園に囲まれた静かな場所で、サラサラと水が流れる音だけが響く。
「お連れしました」
ふすまが開かれた。
広さ二十畳ほどの和室で、木の一枚板の机に数人が座っている。
真ん中に松園浩三総裁。
そして漣さま、朝陽さま、凛子さまの顔を見える。
何、この松園オールスター感謝祭。
「薔薇苑さん、こちらにどうぞ」
松園浩三さまが言う。
声が低く、少し話すだけで空気が揺れる。これが世界を牛耳る松園グループ総裁。
目は優しいけど、大きな体と着物姿が重みを感じさせる。
「失礼します」
お父さんは、入り口で正座して頭を下げる。
私も続く。
「ああ、そんな堅苦しくなくていいですよ」
そんなこと言われても、松園家総裁を目の前に、失礼しまーすと入室出来ないだろう。
体を低くしたまま、室内に入る。
心臓がバクバクと音を立てる。
最後の最後に、何なのよ?
顔を少し上げると、凛子さまが私に手を振って微笑んだ。
なんて可愛いんだ……。
少し安心して、小さく会釈する。
「こちらへ」
導かれて席に座る。
私もお父さんの隣に座る。
部屋は相変らず静かで、水が流れる音だけが響く。
こんな松園家大集合の場所にどうして私たちが呼ばれるの?
静まり帰った部屋で松園浩三さまが口を開く。
「朝陽」
「はい」
朝陽さまが一歩前に出る。
「始めろ」
浩三さまが静かに言う。
「入ってください」
朝陽さまが一言言うと、奥のふすまが開いた。
そこには、着物姿の柏木美玲さまが居た。
その後ろには男性と女性の姿も見える。
顔がよく似ているから、美玲さまのご両親だろうか……。
朝陽さまは、正座を一度崩して、浩三さまの方を向いて宣言した。
「本日この場で、私、松園朝陽と、柏木美玲さんとの婚約を破棄させて頂きます」
それは突然始まった。




