キスの理由と別の顔を、昼下がりに
「って、ノート返してもらうの忘れてるじゃん!」
私は戻った教室で叫ぶ。横の席の海田さんが私をチラリと見る。
オホン、軽く咳払いをして、琴美を振り返って小さく首をふる。
「何やってるのよ。取りにいったんでしょ」
琴美は体を乗り出して、聞く。
「緊急事態すぎて、エマージェンシーだったの」
「同じ意味だけどね」
「琴美さま診療所の予約をお願いしてもいいですか」
「パフェだね」
「おごります」
私は敬礼する。
授業が始まったが、私は全く落ち着かない。ああ、ノートがあったら何か書いて落ち着くのに。
目だけ動かして窓際にいる朝陽さまを見る。飴色の髪の毛が太陽の光でサラサラと光っている。
鉛筆がサラサラと動いていて、鉛筆の先からあの美しい文字が書かれているんだな、と思う。
美玲さんにキスされていた朝陽さまを思い出す。
グッとシャーペンを持つ手に力を入れると、バキリと芯が折れた。
私はこれを特殊能力だと信じて疑わないのだが、見た一瞬を、かなり正確に記憶できる。
だからその瞬間を文字にすることができる。だから断言できるけど、朝陽さまは、嬉しそうじゃなかった。
氷のように冷たい目は閉じられて無くて。
ビー玉のように、そこにあるだけの目。
抱きつく美玲さんの踊る髪の毛に、それを抱きしようともしない、横にダラリと垂れたままの腕と、長い指先。
……そういう性癖かな。
自分で結論だして、グフと小さく笑う。絶対違う。咳払いで笑いを誤魔化す。
違う、あれは、喜んでは、居なかった。
だから何だって話だけど。華宮さんも言っていたじゃないか。生まれた時から婚約者が決まってる時もあるし、相手を好きじゃないほうが上手くいく事が多い。
結婚によって得られるものは沢山有るだろうし、歴史上延々と続いてきた婚姻による社会の成長を、丸ごと無視する気は全く無い。
愛だ恋だと言えるのは、幸せな証拠なのかも知れない。
でもそれじゃ、面白くないよなあ……と私は結局英語のノートに絵を書き始めた。
ぶらりと垂れ下がった腕と、力ない指先が、ツボなのだ。というか、指先の絵って、全然書けない。
私にデコちゅーした時は……手が私の背中に回ってた気がする。
力を入れると、再びボキリとシャーペンの折れた。あああ……もう、早くノート返してほしい。
五時間目が終わり、スマホを確認すると朝陽さまからメールが入っていた。
【生徒会準備室へ】
チラリと朝陽さまの席を見ると、居ない。もう出たのか!
私は琴美の席をみて、大きく頷いた。そして教室を出て、生徒会準備室に向かう。
昨日会議した場所だ。ここは入り口に暗証番号の入力が必要で、各学級の委員長と副委員長しか入れない。
暗証番号を押して、部屋に入る。
「ごめんね、渡し忘れたね」
朝陽さまが待っていた。
「私こそ忘れてて、すいませんでした」
私は入り口で頭を下げた。
朝陽さまは私に向かって紙袋を出した。ちゃんと袋に入れてくれるなんて、優しい。
「ありがとうございます」
私はそれを受け取って中身を見た。うん、間違いなく私の妄想ノート。本当にどこで落としたんだろう。そしてクルリと回れ右。早く戻ろう!
「薔薇苑さん」
後ろから呼び止められた。
「……はい」
私はドアに手をかけたまま振向く。
「前はごめんね、突然」
「はい……?」
前が沢山ありすぎて、よく分からない。
「僕、海外暮らしが長くて、クセで額にキスしちゃうんだけど……」
「あーーー、はい、ええ、大丈夫です」
言葉をかき消すように叫ぶ。本当に挨拶かよ!!
「あと、薔薇苑さんの副委員長にお願いしたのも、理由があるんだ」
朝陽さまは、机に腰掛けた。机に腰掛けても尚、あまる足の長さ。同じ上靴なのに朝陽さまが履いてると格好良く見える。何なのもう。
「はい、なんでしょうか」
私は一度固く目を閉じて、頭を軽く振った。
落ち着け、私。
「薔薇苑さん、少女漫画に詳しいでしょう」
「ええ、はい」
想像してなかった言葉に、少し驚く。
それが副委員長とどう関係するのだ?
「僕の知り合いが、長く入院してるんだ。その方は少女漫画が好きでね。前に薔薇苑さんが話していたお蝶婦人? エースを狙えも読んでいた」
入院中か。それは暇だろう。
私も中学の時に階段から落ちて骨折、一週間入院したけど、暇でガラスの仮面をもう一度読んだ。風よ風よ……私を連れ去ってくれ……。
「何か持っていってあげたいって、事ですか?」
「僕は詳しく無いから」
朝陽さまは目を反らして言う。いつもニコニコスマイルの朝陽さまが目を反らすのは珍しい。
なるほど。本の紹介係ね。それなら私は間違いなく適任だ。
「その人の一番好きな漫画は何ですか?」
私は少し緊張が解けた。
この話題なら得意だ。
「好きな漫画……なんだろう」
「分かりやすく言いましょう。病室に持ち込んでいる漫画はありますか」
私は入院したとき、新しい漫画も沢山持ち込んだけど、一番すきなガラスの仮面も持ち込んだ。
非常事態だからこそ、読み慣れた本を読みたくなるのだ、少女漫画好きは(断言)。
「ああ、NANAって漫画かな」
「なるほど。恋愛ジャンキー音楽系ですね。じゃあ今なら……カノジョは嘘を愛しすぎてるですかね。音楽恋愛少女漫画です。ジレジレ、複数の登場人物、好きだと思います」
「まって、メモする」
朝陽さまがスマホを取り出す。おお、iPhoneじゃなくてXperiaなのね。学校で朝陽さまがスマホを取り出すのを初めて見た。
まあ朝陽さまが日常的にスマホを取り出したら、女の子が殺到して大変だろう。
「あの、メールしましょうか。図書館にもありますし、一度目を通されては?」
気に入らなかったら、悪いし。
「いや、図書館で、僕は借りられないな」
なるほど。少女漫画を読むのは秘密、と。だから私を横に置いた、と。
でも色々納得した。時計を確認すると、もうすぐ六時間目が始まる。
「すいません、お先に失礼します」
私は朝陽さまから離れる。
「ああ、ごめん、ありがとう」
そう言った朝陽さまの顔は、今まで私が知っていた朝陽さまとは、ほんの少し違う顔に見えた。
そうだ、血の通った人間に見える。
チラリと見えたスマホの画面には、本当にカノジョは嘘を愛しすぎてるのAmezon画面が見える。
全巻買うのかな。それを想像すると、少し笑えた。
「また、聞いても良いかな」
朝陽さまは、目だけ上げて私を見た。
だからメールにしてよ、とのど元まで出たが、私の口から出た言葉は
「わかりました」
だった。
ほんの少しだけ、朝陽さまを知った昼下がり。
ほんの少しだけ、別の顔が見えた昼下がり。