8 「愛しの、糠漬けの君」
そして、あれから六年がたって、現在。
「何の因果か、万里ちゃん以外の人にまで『プリンス様』なんていわれてるんだからね。」
人生とは本当に不思議なものだ。
ミュージカルデビューしたのは大学を卒業する直前だ。
デビューしたての頃は、知らない人から言われる「プリンス」の言葉がむず痒かったし、何より申し訳なかった。
何の経験もないこんな自分には、答えられないほどの期待を感じたのだ。
それでも、ファンの人たちに応援して貰って、様々な舞台に立たせて貰って、今、自分がここにいる。
あれから経験も積んで、ようやくファンの人たちに何かを返せるようになってきたんじゃないかと思えるようになった。
ただ、自分にとっての一番の観客は、今も昔もただひとり、あの子なのは変わらない。
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そうして、悠紀生は舞台袖に立った。
稽古は間もなくだ。
「おーぅ、悠紀!頭のセット終わったのか?早かったじゃん。」
「ああ、久我さん………って、どうしたんですか?!フルメイクじゃないですか?!」
本気も本気。
カツラも被っていつでもGOの状態だ。
いや、それは久我が普通の役なら当たり前のことだ。
ただ、今回の久我の役どころは普通じゃない。
「アラーん、つれないじゃないの。ね、ビリーィ♪」
そういって、久我は優雅に体をしならせて、悠紀生の肩にしなだりかかる。
悪い予感がして悠紀生は頬を手でガードすると、すんでの所で久我のキスが手のひらに飛んできた。
手のひらに残ったのは、真っ赤なルージュのキスマーク。
そう、今回の久我の役どころとはつまり
………オカマだ。
「アハハハハ!!どうしたんですか?ゲネプロは明日なのにもう完璧にスタンバってる人がいる!」
後ろから威勢良く飛んできた笑い声に悠紀生が振り返ると、ヒロインのマリー役である叶本夕香がいた。
「アラン、マリーちゃんじゃない。もー準備はできたのかしら?」
「久我さんに言われたから、ちゃんと髪もメイクもセットしてきましたよー。もう、いきなり言うんだから!」
その言葉に、ふと気がついて悠紀生は夕香の姿を見る。そういえば、夕香の姿も(ほぼ)完璧に仕上がっていた。
「もともと、今日はカツラもつける予定でしたしね。それにしても、ほんとにどうしたんですか?いきなり。」
「いやー、ワガママ聞いてくれてThank You!愛してるぜ、夕香ちゃん。」
「あ、通常運転に戻った。」
「アラン、オカマなアタシがお好みかしら?」
目の前でポンポンと弾む会話に、端から眺める悠紀生は思わず苦笑した。いつも通りの二人の会話だ。
いい加減話が脱線し出した事に気付いた久我は、改めて夕香に向かって最初の質問の答えを返した。
「今日はさ、なんと悠紀生のお姫様がご観劇なんだよ。」
それを聞いた瞬間、夕香は端正な顔についた瞳を丸くして、見えない客席を振り返り叫んだ。
「えっ!あの糠漬けの君?!」
それを聞いた久我が腹を抱えて爆笑した。
「……ッ!!ハハッウケる!誰が言ったの、その呼び名。」
「え、あたし発祥。」
「夕香さん……それはちょっとあんまり。」
「いやぁーー、あの糠漬けは美味しかった。稽古場で興味本位にちょっと摘むだけのつもりがいつの間にか無くなってるんだもん。」
「最後まで食べつくしたのは夕香さんだったんですかっ!」
「食いしん坊の性にはあらがえなかった……。」
悠紀生はやれやれと肩をおとし、夕香を眺めた。すると、彼女は楽しそうに微笑みながら客席を仰いだ。
「ふーん、悠紀生くんのお姫様がいるんだ。じゃ、今日の稽古は本気でやらないとね。」
それを聞いた久我も悪乗りして、夕香の背後から両手を彼女の肩に乗せて言った。
「ええ、全力を尽くして楽しませちゃうわよん♪」
「………。」
悠紀生は思わず出そうになったため息を気づかれないように飲み込んだ。
幸か不幸か、この二人がとんでもなくヤル気になっている。
喜んで良いはずなのに、どうしたものか。
…………悪い予感しかしない。
サブタイトルを最後まで真面目なものにするか悩みました(笑)