9 「Magic to Do」
一方、客席の万里はというと邪魔にならないように客席でおとなしくしていた。
オーケストラピットから楽器のチューニングの音が聞こえてくる。
どうやらもうすぐ開演のようだ。
万里は携帯の電源をオフにしながらオーケストラの様子を眺めた。
ミュージカルは基本、オーケストラの生演奏で上演されるのが常だ。
そしてオーケストラは曲の演奏をオーケストラピットでする。
大抵、オーケストラピットは舞台と客席の間にあるものなので、ミュージカルの演技と同時にオーケストラの様子も楽しめるのが、実は密かな楽しみにもなっている。
万里はぼーっとオーケストラピットを眺めていたが、指揮者の顔をみてふと気づく。
(あ、この公演も指揮者は佐東さんなんだ。)
通称、"マエストロ"佐東だ。
彼はなんというか、指揮者だけどファンが多い。
指揮者なんていうから固い人という印象を残しがちだが、彼は指揮をしながらふとした瞬間に客席に拍手を煽ったり、踊ってみたりと舞台の上にいなくても素敵なエンターテイナーの人なのである。
そうこうしていると、ふとチューニングの音が止んだ。
(あ、始まる。)
がらんとした客席には、自分だけ。
いつもはザワザワと小さくざわめく劇場の客席が嘘みたいに静かだ。
そして、佐東さんが高らかに指揮棒を掲げる。
劇場に「ウェディング・ロマンサー」のOverture が響き渡った。
そう、開幕だ。
***************
一幕が始まって暫く経った。
「ロマンサー」はラブコメなので最初からダンサブルなナンバーが多い。
悠紀生は、何度も何度もマリーに告白しようとして、なかなか上手くいかないでいるビリーの姿を、楽しそうに演じていた。
心配していたダンスも何とか上手に踊れている。
悠紀生は元々は只の音大生なので、ダンスを踊るようになったのはミュージカル俳優になってからだ。
下手という訳じゃない。
ただ、今までオペラとかクラシックの世界にいたので、なかなかダンスナンバーの音感やテンポについていけないだけだ。
(あ、また告白に失敗してる。)
アンサンブルのキャストたちが悠紀生を囲んで高らかにダメさ加減を歌い上げる。
その余りの馬鹿馬鹿しさに、万里は思わずお腹を抱えて笑ってしまった。
(あー、なんか、久しぶりに笑ったかも。)
母の命日が先日だったので、ここ最近は当時を思い出してなかなか楽しい気持ちになれなかった。
悠紀生に会いに行こうにも、悠紀生も初日が真近で稽古にラストスパートがかかっていたので、邪魔をしてはいけないと思ってなかなか会いに行けていなかった。今朝は久し振りの再会だったのだ。
舞台上では今はマリーが借金のかたに結婚を言い渡されるシーンだ。
ビリーに涙ながらのさよならを告げて去るマリー。
そうして夜、街灯の下に佇むビリーと、自分の部屋のベットに座るマリーがデュエットを歌う。
一幕ラストの曲、「A wish I never said」だ。
ビリーが夜空を見上げて歌い、それに寄り添うようにマリーも歌う。
切ない歌声に思わず涙が浮かんだ。
(素敵だな…。)
楽しくて、切なくて、夢のようにキラキラと輝いている。
劇場は、ひっくり返った宝石箱のようだ。
そして、その夢の世界の中心には、いつも悠紀生が立っている。
万里は、恋の歌を歌い上げた二人に両手を高く捧げるようにして拍手を送った。
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「はーい!一幕終了!二幕は一時間休憩した後に開始するからねーー!」
演出の加賀美だ。どうやら本番ではないので幕間休憩も少し長めらしい。
劇場の客席にも照明が付き、いきなり明るくなった世界に万里が目をしぱしぱさせていると、舞台から先ほどまで切ない恋人同士を演じていたはずの二人が万里のところまでやって来た。汗ばんだ顔もそのままに悠紀生が万里に話しかけてくる。
「万里ちゃん!一幕どうだった?」
「悠紀ちゃんのダンスにハラハラした。」
それを聞いて悠紀生の笑顔が固まる。頭をかきながら悠紀生は返事をした。
「……そこは、頑張るよ。」
「ふふっ、ウソウソ!スッゴク楽しかった!久し振りに笑ったかも。」
本当に楽しかった。久し振りに伸び伸びと出来た気がする。
悠紀生は万里のその様子を眺め、フッと柔らかく笑いながら万里の頭を撫でた。
「…そっか。」
「うん!」
二人は暫くそうしていたが、何かおかしい事に万里が気付いた。そう、舞台から降りてきたのは二人のはず。確か、悠紀生ともう一人は………。
ふと考え込んでいると、端から注がれる熱い視線に気づいて恐る恐る万里は後ろを向いた。
「へぇー、さすが悠紀生くんのお姫様!可愛いねー♪悠紀生くんもそんな顔出来たんだ。」
「ふぇ?」
いきなりの一言に万里は頭が混乱した。目の前にあの「叶本夕香」がいる。
ミュージカル界に燦然と輝くトップスター女優が。
目を白黒させている万里を余所に、悠紀生は夕香の言葉に不思議そうな顔で返事をした。
「どうかしましたか?そんな変な顔でもしてました?」
「あらやだ、しかもこの子無自覚だわ、手におえない。」
「なんだか失礼なことを言われているのは分かりました。」
「あ、わかったの?いらないとこだけ鋭いね。」
何だか目の前で二人が親しげに会話を繰り広げている。
一瞬、「あれ?この二人、こんなに仲が良かったんだ?」と思ったが、よく考えれば制作発表からこの二か月、ずっと一緒だったのだ。仲が良いのは当たり前である。
(……なんか、間に入れないな。)
楽しそうな雰囲気に、まるで邪魔しているような気がして、ここから逃げ出したくなった。
下を向いてどうしようか考えていると、夕香が慌てた様子で万里に話しかけてきた。
「ああーー!ごめんね!いきなり目の前で会話されて驚いたよね?大丈夫よ?悠紀生君なんかこれっぽっちもカッコいいとか思ってないから!」
それを聞いて悠紀生が思わず苦笑いしながら合いの手を入れた。
「……それはそれで失礼ですけどね。」
「こら!朴念仁は黙りなさい!」
驚いて目を丸くした万里は思わずクスリと笑みを零した。
どうやら、彼女はいい人らしい。
夕香は改めて万里の正面に立って、右手を差し出しながら鮮やかな笑顔を見せ、こう言った。
「初めまして!糠漬けの君!叶本夕香よ。よろしくね!」
「……はい、えーと、よろしくお願いします?」
前言撤回。
もしかして、もしかしなくても変な人、かもしれない。
ミュージカル「PIPPIN」より
サブタイトルにミュージカルナンバーの「Magic to Do」をお借りしました。
繰り返し言いますが、現在の法律では曲名には商標登録されている場合を覗いて、著作権はありません。(一応)
ビビリなので曲名を使うと決めるまですごい悩みましたが歌詞が使えない分、せめて曲名だけでもと思ったので(泣)
この曲はポップで楽しい曲なので大好きです。
このミュージカルについて詳しいことは活動報告に書いてます。
よろしければ是非。