第六章 十二月二十二日
スライドドアを引き開けると、そこには既に井之がいた。それと、俺の知らない白衣のおっさんが。
「ひばりは────」
しーっ、と指を立てる井之。「今はまだ、眠っています。起きる前にお話させて頂きたいと思いまして、こんな時間になってしまいました」
別の部屋じゃダメなのかよ。午前六時を指したばかりの時計を見上げ、俺は口には出さずにぼやいた。
それはそうと、
「……あの、そこの人は誰なんですか?」
井之は白衣の男を振り返った。さっきからじっと俺を見ていたその男は、はっとしたように頭を掻いた。
「おお、自己紹介しておりませんでしたな。銀杏大学病院精神科の北野と申します」
「先生に精神カウンセリングを依頼しているんです」
井之の補足で、ようやく俺は理解した。そう言えば、精神科医を呼ぶって前に言ってたな。てか、俺が頼んだんだ。
「さて、何から話しましょうかな…………」
小さな声で言いながら、北野はクリアファイルをごそごそ漁った。出てきた一冊の紙の束を、俺に手渡す。
「心理テスト、ですか…………」
「昨日、深大寺ひばりさんに行ったものです」
井之が言い足した。「まずは鑑定を、と考えたものですから。ご覧になってみて下さい」
パラパラと捲ってみる。目が痛くなるような質問の羅列。
あれ、
「…………意外と、普通………………?」
生への希望は全く見えないが、考えている事は至極まとものようだった。そんな感じがした。
あ、これ…………、
[あなたの夢を聞かせてください]
その一文に、目が止まる。ひばりの答えは、
[ない。無意味]
頭の奥が、ズキンと痛んだような気がした。
二日前、あの屋上での事があってから、てっきりひばりは自分の夢を再認識したと思っていたのに。
また、諦めたのか……?
そうなのか……?
「そのアンケートを実施しまして、それをもとに戦略を考えた僕がこの部屋に来る直前でした。ひばりさんはシーツを使い、自らの首を絞めて縊血死を図ろうとしたのです」
ひばりに目を向け、北野は言う。「慌ててスタッフが駆けつけまして、大事には至りませんでした。ですがすっかり気を失ってしまいまして、今まで眠ったままです」
北野の話が、半分も耳に入らない。
どうして。
どうして。
どうして。
どうして。
「………その、今日来て頂いたのは、」
遠慮がちな井之の声が、部屋に響いた。
「富士見さんに、深大寺ひばりさんの相手をして頂きたいんです。相手と言いますか、然り気無く聞いて頂けませんか。彼女が、自殺を繰り返す理由を……」
……そんなの、言われないでも俺が一番聞きたいよ。
「分かりました。自信はないですけど、やってみますよ」
そう、答えてやった。
「折を見て、我々も中に入ろうと思います。それまで、ひばりさんの話を聞いてあげて下さい」
というわけで。
井之と北野は部屋から出ていき、俺だけがそこに残された。
音を立てないようにベッドに寄ると、俺はひばりの顔を覗き込む。首もとに鬱血したような赤黒い痕が帯を作っていた。これがきっと、ひばりが首を絞めた痕跡なんだろうな。
それにしても、ちっとも起きる気配がない。
当たり前か、まだ六時だもんな。いや、ひばりは気絶したんだから寝たのとは違うか……?
何にせよ、する事がない。
窓際に一つ置かれた椅子に腰掛けると、窓辺に肘をついて俺は空を眺めた。冬晴れの空は高みが少し曇ったように白くって、少し寒々しかった。
ひばりはどうして、こんなに自殺したがるのだろう。
肉親はおろか、身寄りは妹夫婦以外には誰もいなかった。ひばりにしてみれば、妹夫婦の娘の役は苦痛だったんだろうか。
まあ、自然に考えりゃ当然ではあるよな。誰だって、里親よりも本物の親がいいに決まってる。しかも、ひばりは虐待を受けていた。
虐待の理由なんてない、ってひばりは言ってたな。だとしたらあの家の娘としての生活が始まってから、ずっとひばりは家で暴行を繰り返されてきたのか?
そりゃ、死にたくもなるよな。あんな言葉を叩きつけられながら、絶望的な毎日を送っていたんなら。
だとしても、理解できない。
ひばりの親──楠乃、って言ってたっけ──は、どうして虐待に走ったんだろう。自分の子供じゃないから、とかか? サスペンスドラマじゃあるまいし。
それに、もしそんなに嫌ってるなら殺すなり棄てるなりしてたっておかしくない。どこか遠くの遊園地にでも連れていってパッと手を離せば、それだけでもうひばりとは会うことが無くなるだろう。そんな簡単な事が思いつかないほどのバカには、見えなかったんだけどな。
結局、楠乃はひばりをどう思ってたんだ?
「…………ぅう……」
!!
振り返ると、目を擦りながら意識を回復させつつある少女の姿が目に入った。
「起きたか?」
笑うと、ひばりは途端に目を見開く。すぐに、
「……あれ、ここどこ?」
「病院のベッドだよ」
言いながら俺はベッドの横に寄った。「首を絞めて気絶したお前を、病院の人たちが救ってくれたんだ。感謝しろよ」
……まあ、感謝なんかするはずないとは思うけど。
「…………なんで、救ってくれちゃったの? なんで?」
「期待通りの事言ってんじゃねーよ」
呆れた声で俺は答える。「ひばり。お前、もう諦めるのかよ。アイドルになるって いう、夢を。早すぎんだろ…………」
「なんで? 私の勝手だよ? て言うか、なんでその事知ってるの?」
お前の勝手じゃねえ!!
「昨日お前にやったっていうアンケートを見たんだよ。みんな、心配してるんだ。ひばりが本当に、死んじまうんじゃないかって」
「なにバカな事言ってるの? 自殺なんて本当に死ぬ気じゃなきゃ出来ないよ?」
小バカにしたように、ひばりは口を引き攣らせる。深い色をしたその瞳の奥に、俺はいつかのあの暗い笑みを見出だした。
全身を駆け巡る血液が、全て氷水に換えられたような気分だった。
そんな俺の心境を察したように、
「そうだ、今からでもやり直そうかな」
ひばりは綺麗に掛けられていたシーツを手にしたのだ。
「バカか! やめろ!!」
咄嗟に飛び掛かる俺。が、“暗い笑み”を宿したひばりは、そんな言葉には聞く耳を持たない。
「あ、そう言えば富士ちゃんも死にたいって言ってたよねー」
そう言いながら、シーツを俺の首にもかけてくる。
駄目だ。こいつ、マジで正気じゃない……!
「やめろっつってんだろっ!! いいからその手に持ってるモノを離せっ!!」
ベッドから半身を起こしていたひばりを、俺はまたベッドに突き倒した。
呆気ないくらい簡単に、ひばりは後ろにひっくり返る。その顔は今や恐怖のような感情で歪んでいるように見えるが、
…………目だけは、決して変わらない。
「富士ちゃん……?」
「ひばり」
俺は押し倒したひばりの顔を、込められる限りの力を眼差しに込めて睨み付けた。
「…………もう、死のうとするのはやめようぜ」
精一杯、口調は落ち着かせながら。
「今のお前、ぜったいにおかしい。自殺するのに、他人を巻き込んだりしたらいけないんだ。巻き込んだら、それは殺人罪なんだよ」
ひばりは、黙って聞いている。
「俺は、ひばりに死んでほしくない。現実にもっと、希望を持ってほしい。だからさ、教えてくれよ。お前が抱えてる、自殺とか自傷の理由を…………」
「…………分かんない」
は?
「私、自殺するのに理由なんて考えた事ないから」
ひばりは俺を見上げて、言った。その目からは、もはやおよそ感情というものすら感じられない。
「だって、富士ちゃん以上に好きになれた人になんか、私出会った事ないもん。歌以上に好きになれた事なんて、なかったもん。私の生きてる意味なんか、どこにもないもん」
前にも聞いたな、それ。
「それでも、考えるんだよ。火のない所に煙は立たないんだ。心の中にはきっと、思ってる事が山積みになってるんだよ。それを解決しなきゃ、負の連鎖は断ち切れないんだよ」
ひばりは無表情のまま、首を傾げた。「……私が死んで、負の要因なんか生まれるの?」
………………!!!
「俺が────」
言い終わる前に、平手がひばりの頬に飛んでいた。
起き上がったひばりは俺の一打で吹っ飛ばされ、ベッドに倒れる。一連を目で追いながら、俺は怒鳴った。
「俺が悲しむに決まってんだろっ!! ふざけてんのか!? お前が心配だから、お前の夢を叶えるところが見たいから、俺は今ここにいるんだ!! 勝手に死のうとすんじゃねえよっ!!」
そうか、今分かった。
俺も、仲間だと思ってたんだ。ひばりの事が。
希望を棄てて死という楽な道を選ぼうとした、けれど心のどこかでは諦めきれない気持ちを抱えていた、仲間だと。
「あの日、俺に出会ったのが失敗だったな。俺はもうぜったいに、自殺なんて道は選ばない。お前にも教えてやる。自分を殺したって、何も解決なんかしないって。苦しい時、どこかに頼れる人間は必ずいるって。自殺しようったって、許さないからな」
言い終わった途端。
仰向けのまま俺を見上げていたひばりの目に、感情が宿った気がした。
よく分からない。はっきりと確認する前に、ひばりは身体を起こすと顔を下に向けてしまったんだ。
「……………………私の、本当のお父さんとお母さんは…………、自殺したの」
か細い、けれど芯のある声。
「…………私、まだちっちゃかった。そんな事、まだ分かんなかった……。ただ、私を育ててくれる人が代わったんだと思ったんだ。…………なんで死んじゃったのか、誰も教えてくれなかった。みんな、知らなくていい……って言った。だから私、自殺ってそういうものなんだって思った」
「…………」
「……そのうちに、今のお母さんが私に力を振るうようになったんだ。…………毎日毎日、夜遅くまで……。だけど気絶したフリをすると、殴られなくなる事に気がついたんだ……」
この前、自宅前に行った時を思い出す。そう言えば、唐突に声が止んでいたな。
「………で、耐えきれなくなって?」
ううん、と首を振るひばり。
「力だけじゃなかったの。毎日、色んな事も言われ続けた。お前は生きる価値ない、とか……」
俯くひばりの横に、俺は座る。
「……だから、考えてみたんだ。そしたら、ホントに私って生きる価値ないなあって思って。生きる価値がないなら、死んじゃっていなくなっても誰も悲しまないかなー…………って」
何と、声をかけたらいいのか分からない。
十数年のひばりの人生には、人の心の温かみを知る機会はなかったのか? なぜ、両親は与えてやらなかったんだ? 与えないまま、死んでしまったんだ?
「…………富士ちゃん、」
ひばりの声に、俺は我に返る。
「………………今日はもう、出てってほしいな……」
「えっ…………」
「ごめんなさい」
下を向いたまま、ひばりは最後にそう呟くように言った。
何だか分からないけど、望むなら出ていくしかないか…………。
無言でコートを掴むと、俺はひばりを振り返らずに声だけをかけた。
「…………死ぬなよ」
何の返事もなかった。
部屋を出た所に、井之と北野が待っていた。
「…………すみません」
俺は、頭を下げる。
「止められはしたんですけど、肝心な部分は何も…………」
まあまあ、と北野が言う。「……あの様子なら、仕方ありませんな。むしろ無理なお願いをして、申し訳なかった」
言われた途端、悔しさが滲み出てきた。結局俺はひばりにとって、あの程度の存在だったって事なんだ。
「……後は、プロの我々が何とかするしかありませんから」
そう言って、北野は笑った。