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冽空の刹那  作者: 蒼原悠
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第五章 十二月二十一日


 「…………ああ、やっぱ訳わかんねえ」

 文庫本を放り出すと、俺は寝転んだ。上手くパソコンの上に乗っかったその本のタイトルは、

 [人間失格]。

 昨日の帰り、ふと読んでみようと思い立って買ってきたんだ。だがまあ、読み始めてみれば案の定、大変に難解な文章な訳で……。

 「これ読み込んでる奴とか、頭おかしいだろ……」

 天井を見上げ、俺はぼやく。

 改めて、やっぱ狭い部屋だよなあ。


 「………………」


 夢、か。


 俺の夢は、映画監督。

 ひばりの夢は、アイドル。

 俺は夢を放り出した。

 ひばりも、放り出した。


 でも、

 昨日言っていたのが本気だったなら、ひばりはまだ夢への道程を失ってはいない事になるのか。

 俺だけ、逃げたままなのか。

 いやいや、と脇から口を出してくるネガティブな俺。もうお前は動画編集者としてはデビュー出来てんだろ。だったらこれ以上、何を望む? そっから先は、ただの欲じゃないのかよ?

 言い返すポジティブ俺。ふざけんな、映画監督に比べたら動画編集者なんて何だ。前を向いてくのが人生ってもんだろ、欲を持って何が悪い。

 「うるせーな……」

 俺は低い声で呟いた。両脇で騒いでたネガティブ俺とポジティブ俺は、黙りこんだ。

 まあ、ちょっと前までの俺ならこういう時すぐに、「死にたい」とか考えてただろうしな。そういうレベルでなら、進歩なのかもしれないけど。


 でも、夢を放棄したのは事実だよな。


 「──────そうだ……」

 ふいに突き動かされるような衝動がして、俺は立ち上がった。

 立ち上がってからその衝動の中身を思い出して、

 口に出した。

「…………道花の墓参り、行ったことなかったな……」






 家からなら徒歩でも行けるくらいの距離に、道花の墓はある。

 禅林寺。

 元作家が二人も眠っている事で有名な、地域の鎮守の一つだ。この辺り出身で実家もある道花は、この寺の墓苑に埋葬された。

 実は一度も、来たことがない。葬儀にも行かず、ずっと前に道花の両親から教えてもらった墓の場所を探してみた事もない。

 解約した古いケータイのメールを漁りながら、俺は夕方の三鷹の街を歩いていた。


 最期の数ヶ月。

 この街で、病気と必死に闘いながら太宰治は連載小説「人間失格」を執筆した。

 そして。書き上げた原稿を確かに編集者に手渡すと、寄り添っていてくれた女と二人で玉川上水に身を投げた。水死体発見のニュースが流れる間にも「人間失格」の連載は続き、その中身に読者の多くが「人間失格は太宰治の遺言だ」と幻想を抱いたのだという。

 ……のべ三百に上る太宰治の作品の中で、「人間失格」だけは特別だと言われているらしい。読み比べてみた訳じゃないから俺にはよく分からないが、読み手への配慮があまりなされていないんだとか。つまり、自分の書きたいものだけを書きなぐった結果なんだ。

 遺作となった「人間失格」の執筆に、太宰治はどんな気持ちで臨んだんだろう。


 ……と、文庫本の解説に書いてある事をそのまま頭の中で再生したところで、俺の前に禅林寺の白い門が現れた。



 「……えっと、8の6だよな……?」

 地下通路を通って墓苑に入った俺は、背伸びして番号札を探す────って、あるわけないか。

 地図も置いてないし。仕方ない、歩いて探すか。そう思って踏み出した一歩の先に、下に白い札のつけられた墓石が立っていた。

 あれ、あんな所に番号が?

 8の20。さては、こいつが8の列か。俺はその道を入ると、ゆっくりと歩みを進めて行った。


 ここに、たくさんの人が眠っている。

 その雰囲気は、何となく感じ取る事が出来た。流れる冷たい空気は、穏やかながらもどこか寂しい気持ちにさせてくれる。


 あ、あれってまさか。


 一際巨大な墓石を右手に見つけ、俺は歩み寄った。

 [森林太郎]

 と書かれている。ああ、これがあの森鴎外の墓なのか。

 立ち寄った以上は、敬意を払おう。俺は手を合わせ、一礼する。


 その時。

 ざわり、と音がした。

 風で木々が揺れているんだろう。何気なく、俺は振り返って後ろに聳え立つ木を見ようとした。


 そこに、花束のたくさん添えられた墓があった。


[津島家之墓]。


 ……それが、太宰治の墓だった。

 森鷗外のそばで眠りたいという希望で、すぐ近くに埋葬してもらったのだと聞いたことがある。そうか、本当に二人は向かい合って眠っているんだ……。

 番号札を見ると、8の7と書いてある。あれ、って事は…………。

 やっぱりそうだった。右隣の墓石には、[野崎家之墓]と書かれた墓石がある。

 横の墓誌には、道花の名があった。



 「……久しぶりだな」

 小さく、俺は語りかけた。


 また、風に木々が震える。

 ああ、きっとあれは道花が返事をしてるんだ。

 「ごめんな。俺、どうしてもここには来たくなくてさ…………」

 座り込むと、俺はそっと墓石を撫でた。冷たい肌触りが、緊張を溶かしていった。


 野崎道花。

 俺が最初に、好きになった女の子。

 出会いはいつだっただろう。高校二年になった春、だったかな。

 道花はとにかく、フレンドリーな奴だった。誰とでも話すし、誰の話も聞く。まさしくみんなのアイドルみたいな存在だった。


 俺の高校は超進学校で、みんな大学院くらい行くのが当たり前だった。ガリ勉がガリ勉と呼ばれない、勉強が日常と化した奴等の学校だった。そんな中、俺は映画監督になるという夢をなかなか語り出せずにいた。そんな事言ったら、みんなに確実に白い目で見られるからだ。あいつなに夢なんか抱いちゃってんの? みたいな感じで。

 はっきり言おう。俺はあの学校の雰囲気は、一生かかっても好きにはなれない。


 ……そんなある日、独りで弁当を食ってた俺のところにやって来た子がいた。それが、道花だった。

 道花は、いつも寂しそうだね、と俺に語りかけてきた。まあな、とだけ答えると、道花はふふっと笑って言ったんだ。

 悩み事があるなら私に話してみ? って。


 その日、俺は一緒に帰りながら自分の夢の話をした。恥ずかしいけど、一緒に帰るまで家が近いなんて知らなかった。

 道花は本気になって聞いてくれ、すごいと何度も言ってくれた。てっきりバカにされるだろうと思ってた俺はその夜、こっそり泣いたのを覚えている。

 ただ、嬉しくて。

 それ以来、俺と道花はよくお互いの夢の話をするようになった。道花は将来、女優になりたかったんだそうだ。目指す方向が近かったのもあって、俺たち二人は話も気も合った。

 何度も議論して、何度も笑って。


 気がついたら、俺は道花の事を愛するようになっていたんだ。


 もう、あの日の道花は帰って来ない。

 この重たい墓石の下で、悠久の眠りについている。

 俺は撫でていた手を離すと、木を見上げた。

 呼応するように、木はまたざわざわと音を立てた。


 ……そうか。

 俺は、認めたくなかったのか。逃げたかったのか。

 道花が死んだという、事実から。

 道花と共に目指したかった、あの夢から。


 はは…………俺、ひばりに偉そうな事何も言えないじゃん……。





 (…………来て、くれたんだね)


 !?


 俺は辺りを見回した。頭上でざわめく木の枝より他には、誰もいない。


 まさか、


 (私だよ。覚えてる?)


 いや、確かにそれは耳鳴りだった。それも、悪質なまでに道花にそっくりな。


 ああ、覚えてるよ。


 (てっきり、私の事なんて忘れちゃってたかと思ったよ。思い出してくれたんだね。ありがとう)


 忘れる訳なんて、ないだろ。


 (そっか、嬉しいな。じゃあ、

 まだあの夢も忘れてない?)


 ………………!


 ごめん。あれから、進んでないんだ。

 道花が死んじゃったのが、ショックでさ…………。


 (えっ……そんな、諦めちゃったの……?)


 ああ。


 (……勿体ないなあ)


 駄目だったんだよ。お前が、道花がいなきゃ。

 お前が死んで、俺、初めて分かったんだ。心の支えって、ほんとに大事なものだったんだなってさ。



 (…………私のせいだね……)


 違う。道花のせいじゃない。


 俺は、墓の前にそっと座り込んだ。木はまだ、ざわざわと音を響かせている。


 俺にはもう、希望なんてないんだ。

 道花がいなくなって、何もかも失って。

 笑ってくれよ。


 (……笑うわけ、ないでしょ?)


 俺は顔をあげた。


 (…………フジがホントはすっごく優しくて、他人思いだって事、私は知ってる。私が死んじゃった時、フジは私のために泣いてくれた。だけど、そのせいで自分を責めたりしないで。

 それに希望なんて、そこら辺に転がってる訳じゃないんだよ。切欠を自分で探して、続きを創るものなんだよ)


 それは、分かってるよ。

 分かってるけどさ…………。


 (私なんか、気にしないで。私はいつだって、ここで見てる。だからフジは、私の叶えられなかった分も頑張って現実に変えてってよ。そしたら、私も一緒に喜べるよ)


 風が、少し穏やかになった。

 半ば茫然として木を見上げる、俺。木の実が一つ、落ちてきた。


 (夢を諦めちゃったら、生きてく目的が無くなっちゃう。そこに夢があるから、叶えたい未来があるから、人は辛くても悲しくても頑張って生きてくんだよ。だから、諦めないでよ。頑張って頑張って、映画監督になって見せてよ…………)


 「道花………………」


 俺の声は、口に出ていた。


 (誰も、強く生きてなんて願わない。だけど、いつまでも死んだ私の事を引き摺らないで。時には、誰かの夢を手助けしてあげて。きっとそうやって、人は助け合いながら自分の夢も叶えていくんだよ)


 また一つ、落ちてきた。


 (……大丈夫。努力家のフジなら……、ぜったいに大丈夫だよ!)


 笑ってた、あの日の道花の顔が鮮やかに浮かび上がった。

 いま、その顔は泣き笑いに変化する。



 「道花……っ…………!」

 俺は墓石に手をついた。


 その腕を、一滴の涙が這っていった。



 ごめん、道花…………。


 心配かけて…………。


 ざわざわざわ。

 穏やかな木々の音に、俺の目からはまた涙がこぼれ落ちる。


 ………大丈夫。


 俺はもう、迷わない。

 また、頑張ってみるよ。



 ここに、俺は改めて誓う。

 悲しくたって、寂しくたって、もう自殺なんかしない。生きて、俺の夢を掴んでやる。

 ひばりと、二人で。


 (……そのひばりちゃんって子にも、宜しくね!)

 聞こえた道花の空耳には、

 哀しみの響きは混じっていなかった。




 「……ひばりに、感謝しなきゃな…………」

 帰り道、俺はぽつりと溢した。

 ひばりが、心を開いてくれたから。俺もまた、夢を追う勇気が出た。

 ひばりがいなきゃ、きっと俺はいつまでも道花の墓になんて行けなかったに違いない。

 本当、ありがとう。それが無性に言いたくて。

 「…………明日、また病院に行くかな」

 呟く。

 そしたら、スピーカーも持って行ってやろう。マイクも多分、部屋のどこかにはあったはずだ。

 ひばりが喜ぶ顔が見たい。

 心からの感情を顕にしてくれたあの微笑みが、見たい。


 日の落ちたこの街は、ただ疎らに並ぶ街路灯の朧気な光に照らされるばかりだ。吹き抜ける風は、冷たかった。

 それでも、心はこんなに温かいんだ。



 「ピリリリリリリリ」

 突然、スマホから音がし始めた。

 なんだ? 電話か?

 画面をスライドすると、そこには[井之]の名が。とにかく、出ないことには話は始まらない。

 「はい、もしもし」

 「富士見さん!?」

 悲鳴みたいな声だった。

 「ちょっと、どうしたんすか。取り乱さないで下さいよ」

 「よかった……! やっと繋がった……!」

 ああ、そういえば寺に入る前に電源を切っておいたんだったな。そりゃ確かに、着信履歴もつかないか。

 「明日、病院へいらしてください!深大寺さんが、深大寺さんが自殺を図ろうとしたんです!」



 「……えっ………………」






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