第三章 十二月十九日
朝から、陰鬱な気分だった。
昨日見たあの光景が、忘れられない。鈍い音が、カーテンに反射する影が、頭から離れなかった。
今日のうちに仕事──動画制作をするつもりだったのに。パソコンを起動したトコロでいつも、ふと手が止まってしまうんだ。
やっぱ俺、気になってんのか。ひばりの事。
そりゃそうだろ、と一人の自分が真顔で言った。ひばりのお陰でお前は今ここで生きてるんだろ。感謝こそすれ、嫌うなんて言語道断だろうが、と。
そしたら、もう一方の自分が反論する。生かされたって言うけど、それこそひばりの言うように俺に生きる意味なんてあったのかよ。こんな下らない動画、作れるやつなんかその辺にゴロゴロ転がってるだろ。お前に何か独自性があるわけでもなし、学業を修めてるでもなし。
そうだよなぁ。
しかし、マジで制作が進まない。
困る。これが今の唯一の俺の外貨獲得手段なんだから。
決心しなきゃ、いけないな。
ひばりの事を、
忘れるって。
確かに不安は残るよ、そりゃあ。虐待も、繰り返す自傷も。だけど、俺はあくまで第三者だ。人には何かしら、踏み込んじゃいけないボーダーラインってもんがある。虐待や自傷がひばりのボーダーラインに当たるなら、俺はどのみち外から見守ることしか出来ないんだ。
いざとなりゃ、虐待されてるって通報する事も出来るさ。そうだ、何とでもなるさ。
頭をぶんぶん振ると、俺は立ち上がってカーテンと窓を勢いよく開け放った。冷たい外の空気が流れ込んできて、身体中が寒さに冴えてゆくのが感じられた。
よし、気分入れ替え完了!
伸びをした、その時。
背後のテレビのアナウンサーが吐いた言葉に、俺は固まった。
「次のニュースです。今朝八時頃、東京都調布市柴崎二丁目のアパート二階から異臭がすると警察に通報がありました。警察と消防が出動したところ、アパート二階の深大寺さん宅から硫化水素とみられるガスが流出しているのが確認されたということです」
え?
今、どこって言った?
誰って言った?
「現在、硫化水素の発生は収まっており、室内から成人女性と成人男性とみられる二人が遺体で発見されています。また、十代前半の女性も救出されており、病院で手当てを受けているということです。この部屋に住む深大寺申平さん一家と連絡が取れないということで、警察では亡くなった二人は申平さんと妻の楠乃さんと見て調べています。遺書らしきものは発見されていませんが、硫化水素が使用されていることから自殺ではないかという見方が有力とのことです」
映像は大きな病院から、現場を空撮しているものに切り替わった。それを見て、俺の予感も確信に変わった。
昨日のあのアパートだ。
つまり、このニュースで言っている「深大寺」ってのは、ひばりの家族の事だ……。
「なお、現場付近では立ち入りが制限されていましたが、硫化水素の危険性は低くなったとして先ほど解除になったという事です。現場は京王線柴崎駅から徒歩──」
テレビを切った時、俺はもうコートを羽織っていた。
出かける気、満々だった。
クリスマスも間近に迫った、十二月十九日。
奇しくもそれは、太宰治の水死体が発見された日──桜桃忌の、ちょうど半年後に当たる日だった。
銀杏大学医学部附属病院。
この地域でも赤十字と並んで有数の、巨大病院だ。テレビに一瞬だけ映ったその映像を頼りに、俺はその正面にあるバス停に降り立った。間違いない、さっき見えてたのはあの大きな外来棟だ。
ロビーに駆け込む。面談受付で「柴崎の硫化水素の被害者と面談したいんですが!」と叫ぶと、スタッフの看護師はすぐに対応してくれた。八階、803号室。
エレベーターの鈍さに辟易しながら、八階の廊下へ飛び出す。どこだ、803。
並ぶ番号札を見ながら進んで行くと、803はあっさり見つかった。躊躇する事もなく、俺はスライドドアを引き開け…………、
「冨士ちゃん!?」
開けた途端、大層元気な声が飛んできた。顔を上げると、ベッドにちょこんと端座してこっちを見ている懐かしい姿が。
「ひばり、無事だったのか!?」
うん、とひばりは頷いた。「死ねなかったよー、私二段ベッドの上の段に寝てるから……」
ああ、やっぱり通常営業だ。力が抜けそうになるのを握った拳で必死に耐えながら、
「……つーか、寝てろよ」
歩み寄ると、俺は顎でベッドをしゃくった。「一応、硫化水素を浴びてるんだろ。それに…………身体、ボロボロだろ」
ひばりは首を傾げた。「なんで?」
だから今言っただろうが。
「…………ひばりさ、昨日俺と会った後、何があった」
「何って────」
「見てたんだよ」
俺は告白した。「その、気になったんだ。ひばりの頬には傷があったし、あの母親の手は赤くなってたし。それで付けて行ったら、
…………ひばりが……虐待を受けてるのを見ちまったんだ」
「…………そっか、見つかっちゃったんだ」
ひばりはちょっと悲しげな顔をした。立ち上がるとベッドの布団を持ち上げて、空いたスペースを指差す。「そこ、座っていいよ」
言われるがまま、俺はそこに座った。つまり、ひばりの隣だ。
こうして並んでみると、やっぱりひばりは外身は小さくて、幼かった。だけどその目は、何歳の光を宿しているのだろう。
「冨士ちゃんが見た通りなんだ。私、いっつもお母さんやお父さんに殴られてた。物も投げつけられた事あるなー」
足をぶらぶらさせながらひばりは話す。口調が軽いのは──いつもの事か。
「……昨日、俺が声をかけてなかったら、殴られなかったんだよな」
居た堪れない気持ちで、俺は一杯になっていた。けれどひばりは、笑顔で返す。
「冨士ちゃんのせいじゃないよ! 私が色々されるのって、大抵理由なんかないもん」
「……それはそれで怖いな」
また少し虐待の実態を覗けたような気がして、俺は下を向きながらそう言った。 言ってから、付け加えた。
「てか、死んじまったんだろ……両親……。ひばりだって悲しくないのかよ。暴力を振るわれてたって、一応は肉親なんだろ……?」
そう言った時。ひばりの目は一瞬、変化した。
ほんの一瞬、だけだったけれど。
また、笑顔に戻る。
「別に、どうでもいいなー。私、死にたいとはいつでも思ってるけど殺されたいとはあんまり思わないし。今の私には、お母さんもお父さんも私のしたいことをジャマする存在でしかないもん。だから、ちょうどよかった」
ものすごく怖いセリフを平然と口にするのがひばりの凄さだと分かってはいても、それは俺には強烈な返事だった。親が死んだのに、ちょうどよかったなどと口走るなんて。
「でも、殺されるのも死ぬのもそんなに変わらないんじゃねーのか? この前は殺されるの大歓迎とか言ってたし」
尋ねると、ひばりは頭の後ろで手を組んで横たわった。「全然違うよー。殺されるのには私の気持ちとか関係ないけど、死ぬのとかわざと殺されるのは自分で決めるもん。私は、自分の意思で死にたいから!」
……一応、考えてるんだな。
チュンチュン。
窓枠の外で、二羽のスズメが空を舞いながら遊んでいた。
すごく、楽しそうに見える。本当に一生懸命生きている生命って、みんなそうなのかもしれない。
きっと、苦しいけど楽しい事なんだ。雀にとっての、“生きる”って事は。
「…………なあ。ひばりが死にたいと思ったきっかけって、やっぱ虐待だったのか」
ふと、聞いてみた。ベッドの上で転がりながら、ひばりは俺を見る。
「そりゃあ、今は色々理由が混ざってんだろうさ。だけど最初の最初から、そんなにたくさん思ってた訳じゃないんだろ?」
「忘れた!」
……ひばりの笑顔は相変わらず眩しい。
「じゃあ…………逆に、生きたいって思った事はなかったのかよ。あるいは、楽しいとか」
「楽しいと生きたいは違うよ」
「一緒だよ」まだスズメを眺めながら、俺はひばりの頭に手を乗せる。きゅっとひばりが首を竦めて、ちょっと可愛かった。
「…………俺もな、」
呟いた。
「昔、なりたいものがあったんだよ。夢って言ってもいいくらいに」
手を退けると、ひばりは俺を見上げてきた。
「何に?」
「映画監督」
照れ臭くて、ひばりから目を背ける。それはそのうち、後悔の念に侵食されていった。
「けっこう、真面目に勉強もしてたんだ。このまま行けば、何が来ても大丈夫だと思ってた。だけどな、俺の彼女が鉄道事故で死んだ時……俺の夢なんてそんなモンなんだって思ったよ。悲しみに暮れて、何も出来なくなっちまった。その挙げ句、二度も自殺を図ろうとした」
「いたんだ、かのじょ……」
「ああ」
ため息を吐きながら俺は言った。
「本当は…………夢を追いたかったんだと思うんだよ、当時の俺。でも人って、そんな単純には生きて行けないからさ」
あ、とひばりが言った。
少女の目は、窓の外に向けられている。つられて俺も、外を見た。
昼間の白い光に照らされて、何かが舞っているのが見えた。
綿毛のように舞い踊る、その白い塊。
「…………雪……?」
「……じゃないか?」
俺たちは二人して、バカのように口を開けて舞姫を見つめた。
日の光は差し込むのに、雪が降る。その日、ここ東京が滅多にあり得ない天気雪を観測したことを、俺は家に帰ってから知る事になった。
雪。
凡そアスファルトとコンクリートが敷き詰められたこの大都会では、雪の一生はあまりにも短い。
せっかく地表近くまで舞い降りてきても、人の営みの中へ消えるように蒸発してしまう。けれど誰も、その事には気づかないんだ。
「…………キレイだよな…………」
目を細めた俺の口から、こぼれ落ちた言葉。
「……だけど、儚いんだよな…………」
なぜ、道花の事を思い出してしまうんだろう。
…………気がついたら、三十分も時間が経っていた。
いつの間にか眠りこけていたらしく、はっと俺が顔を上げると時計の針はもう昼過ぎを示している。そろそろ帰って仕事に取りかからなきゃ、ヤバい。
隣を見ると、ひばりは俺に寄りかかってぼうっとして──いや、爆睡していた。
起こした方がいいだろうか。
いや、止めとこう。俺はそっと立ち上がって、ひばりの身体をそっとベッドに横たえた。
……ったく、これが日頃死にたい死にたい言ってるヤツの寝顔だなんて笑っちまうよ。
そう言いたくなるくらい、ひばりの顔は安らかだった。俺にはロリコンの気は全くないと自負してるけど、何かこう──小動物でも見てる気分だ。
さて。俺は行くか。
「あっ……」
……俺の後ろから声がかかったのは、コートを羽織りなおした俺がカバンを手にした時だった。
スライドドアを引き開けかけた状態で半身を見せている、白衣の女がいた。
女、慌てたように扉を閉めようとする。「ちょちょっと待ってください!」と俺は反射的に怒鳴った。
「俺なら大丈夫です! もう帰りますから!」
てっきり面会時間オーバーを伝えに来たのかと思ったんだ。何せ、俺眠っちまってたからな。
足早に女の横を通り越そうとすると────
「あ、いえ違うんです……関係者の方かと思いまして…………」
女は控え目な声で言い訳のようにそう言いながら、俺を引き留めてきた。
関係者?
「いえ、俺はただこいつの知り合いなだけで──」
「知り合い、ですか?」
女の目が心なしか輝いたように見えた。「どういった知り合いなんですか?」
なんで……?
「あの、どうしてそんな事まで詮索されるんです? 俺、別にそんないかがわしい者じゃないですよ」
答える代わりに、俺はそう尋ね返した。
すると女は、言ったのだ。
「……もし、縁戚の方でしたら、彼女を引き取って貰えないかと思いまして、みなさんにお声かけしているんです……」
えっ…………。
「ちょっと待ってください。こいつには両親以外に、血の繋がってる人はいなかったんですか!?」
背にしたベッドで寝息を立てるひばりを指差しながら訊ねた俺に、女は頷く。「はい。と言いますか、このたび亡くなった深大寺ひばりさんのご両親がそもそも、肉親ではなかったそうで……」
!?
「里親って事ですか?」
「いえ、ひばりさんの実のお母様の妹夫婦だそうです」
ゆっくりと、女はベッドに近づいて行く。俺もなんとなく、それについて行った。すうすうと寝息が聞こえる所まで来ると、彼女は振り返った。
「……申し遅れました。私、深大寺ひばりさんの専属となりました、看護師の井之と申します……」
「あ、どうも……」
俺も慌てて礼をする。ちょっとおどおどした様子の井之は、ひばりを見下ろしながら小さな声で語りだした。
「本題に戻るとですね、彼女──深大寺ひばりさんは幼少期に両親を失っています。彼女には母の妹だった深大寺楠乃さんしか血の繋がりのある人がいなくなってしまったため、楠乃さんが養子として親になることになったそうなんです。ですが、今回の事件で楠乃さんは亡くなられてしまい、血縁関係のある人はいなくなられてしまいまして……」
「じゃあ、児童養護施設行きって事でいいじゃないですか」
井之は、目を伏せた。「…………私は、児童養護施設にあずかって頂くのはあまり良いことだとは思わないんです。運び込まれたのは今朝の六時でしたが、最初に会話した際の感触は正直言いますとあまりいいものには感じられなくて……児童養護施設に入れたら、上手く行かないのではないかと……」
それも、一理あるな。
「あの、こいつの口から聞いたかは分かりませんけど、こいつよく死にたいとか自殺を仄めかすんです。俺もよくは知らないんですが、こういうのってやっぱり精神的なカウンセリングとか必要なんですよね」
井之は驚いたように目を丸くした。「それは、もちろんです。担当医に掛け合って、カウンセリングを依頼してみます」
「頼みます」
頭を軽く下げた。下げたと同時に、俺の心の錘は一つ外れたような気がした。
医者が見てくれるなら、確実なんだろう。あの異常な自殺願望も人生悲観も、きっとどうにかしてくれる。俺の出る幕は、そこにはもうきっとないはずだ。
「ですが────」
井之の声に、俺は我に帰る。
「その……深大寺ひばりさんの引き取りの件、考えて頂けませんか?」
性格が改善されるなら、別に児童養護施設でもよくないか?
それに俺、まだ未成年だし……。
「……まあ、一応考えておきます」
そう言った。立ち所に明るくなる井之の顔ときたら。
「ありがとうございます! すみませんが、連絡先を教えて頂けませんか?」
……てな訳で。
俺は連絡先を教えてしまった。
電話の番号じゃない。教えたのはネットの無料メールのアドレスに、無料通話アプリの番号だ。親とか昔の友達とは連絡がつかないように、ケータイも何もかも解約したからだ。
俺ってつくづく、世間と断絶してるよな。
自分の境涯は嫌いじゃないけど、時々ふっと寂しくなる事がある。そういう時が、俺は一番嫌いだ。
その時だ。
手元のスマホが、鳴動を始めたのは。
電話?
底知れない“嫌な予感”を感じるのは気のせいか?
とにかく俺はスマホを手に取り、耳に当てた。画面を起動した段階で相手の名前は分かっていたんだけど、第一声を待った。
果たして、現実は期待を裏切らなかった。
「あの、こちら富士見治修さんで間違いないですか?」
ほらやっぱり。
「はい、あってます」俺はぶっきら棒に答えながら、水のコップに手を伸ばす。「何かあったんですか?」
「あの、ですね。先ほど午後六時くらいに、深大寺ひばりさんが起きられまして。富士見さんが帰られたとお伝えしたら、大変機嫌を損ねられまして……」
それをわざわざ俺に伝えなくても……。
とは言え俺の気持ちは伝わるはずもなく、井之の声は続ける。
「実は、深大寺さんから伝言を預かってるんです」
「伝言?」
「はい。読み上げますね。『冨士ちゃんへ。ヒマだったら、明日もまた来てください。出来たらスマホにGreenPeaceの「MOMENT」入れてきてくれるといいなー(笑)』」
…………。
「だそうです」
相変わらず、振り回してくれやがって。