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冽空の刹那  作者: 蒼原悠
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第二章 十二月十八日




 今朝も俺は、布団の中に潜ったままテレビの音をぼんやり聞いていた。

 このだらしない服装も、すっかり崩壊した生活も、今や完全に定着してしまっている。情けない話だけど、それが俺の現実だった。

「……昨日の入金、いくらぐらいだったんだろーな」

 呟きながら、伸ばした手でパソコンの電源を入れる。

 お馴染みの起動音が狭い部屋に響き渡った。

「昨日は……一万五千くらいか」


 ここ一年間、俺は働いていない。

 高校生の学生証が使えなくなってしまったからだ。真っ当な人生を送ってさえいれば、今ここにいる俺は大学一年に進学していた。だけど現実を見れば、俺はただのニートに成り下がっている。

 なぜこんな事になった? って、何度も自問した。答えなくても自分が一番分かっていたはずなのに、問わざるにはいられなくて。


 そうだ、全部分かってるんだ。


 二年前の、今頃。

 俺は都内の進学校に通う、ごく普通の高校二年生だった。その学校を選んだのは、俺だ。当時映像の技術に憧れていた俺は、何とか映画監督になりたくて猛勉強の真っ最中で、わざわざ長野の自宅からは通えない東京の高校を選んだのも東大を視野に入れるためだった。

 そんな俺には、同学年の彼女がいた。そう、いたんだ。

 野崎道花。小柄で、頭がよくて、でも性格も容姿も可愛らしい奴だった。映像制作に携わりたいっていう俺の夢を、本気になって聞いてくれた。同じ三鷹市内の家に住んでいて、毎日俺と一緒に通学してたんだ。


 なのに。大切なモノであればあるほど、強く握りしめるとそれはダイラタンシーのように崩れてしまう。


 あの日、俺は風邪を引いていて休んでいた。道花は一人で駅まで歩き、駅から普通に電車に乗っていくはずだった。

 道花は、死んだ。人で溢れかえる狭いホームから突き落とされ、進入してきた快速列車に轢かれて。

 呆気ない、最期だった。

 一週間、俺は学校にも行かずに部屋に独り隠って泣き続けた。自分を責め続けた。俺は何もしてなかったけれど、それでも自分には責任があると思い続けていた。

 最後の日、俺は人生初の自殺を試みた。まあ結果は火を見るより明らかだよな、俺は今こうして生きているんだもの。

 だから、昨日の夜に自殺しようとしたのは実は二度目の事だった。


 どうしても、死への恐怖は乗り越えられなくて。

 だけど、死んだ道花への想いと責任感は募るばかりで。


 二律背反のなか、俺は大学受験にも失敗した。そこからはもうまさしく転がり落ちるような“転落人生”で、学校もバイトも何もかもやめた俺は瞬く間に「ニート」になった。一年前には考えもしなかった、末路だった。

 俺は今、動画サイトの広告収入だけで生きている。自分で作ってアップした動画に有料で企業の広告を載せて、再生数に応じて金をもらう。映像で食べていきたいっていう夢は、皮肉にも現実のモノとなった。


 人間失格。

 読んだこともないその本のタイトルだけが、何度俺の頭を過っただろう。



 昨日の女の子──いや、ひばりはどうしてるんだろう。

 テレビの画面ではしゃぐ子供の映像を目の端に入れながら、俺は何となく昨日の出来事を思い出した。

 深大寺ひばり。彼女は最後まで、不気味な雰囲気を纏ったままだった。あんなの小学生が作れる雰囲気じゃない。あんなに“死”を落ち着いて受け止めている小学生を、俺は誰ひとり知らない。


「私と一緒に、逝こうよ!」


 無邪気すぎるあの声が、聞こえた気がした。

 ――腹が立つ。

 確かに昨日見たあの腕は、異常なまでに傷だらけだった。だけど、ひばりの痩せた身体や点在するアザを考えれば、他にも推理する事は出来るじゃないか。何もぜんぶ自分でやったなんて限らない。そんなこと、ちょっと考えれば分かる事なのに、昨日の俺はあっさりと騙された。そうだ、きっと口先だけなんだ。だって実際ひばりはあの日、死のうとは一度もしてなかったじゃないか。ただ、俺の気を引き付けたかっただけだったんだ。


 ……だとしたら、なぜ?

 なぜ、俺なんだ?

 なぜ、あんな傷があるんだ?


 分からない。気になる。イライラする。そうか、だから俺はこんなに嫌な気分なのか。

 子供(ガキ)は、嫌いだ。軽い夢ばっかり見て、苦労ばかりかけて。だけどここまで来ると、もうひばりが子供には見えなくなってくる。

「…………本人に、聞いてみるしかないか」

 無意識に、俺は呟いていた。



 買い物とか銀行、それに駅前以外の用事で家を出るのは、久しぶりだ。

 住んでるボロアパートを出ると、俺は近くのバス停まで歩いた。

 ここ三鷹市と、その南に隣接する調布市にはバス路線が異様に多い。と言うのも、ここは東京の綿密な鉄道網が唯一大きな穴を空けている場所だからだ。地下鉄を通す話もあるらしいが、どうせ出来はしないだろうと言われている。

 むしろ、俺としてはバスが充実してる方が嬉しい。一度の乗り換えで、この町のどこへでも行けるのだから。

「柴崎二丁目か……」

 どこで降りればいいんだろう。

 地図を眺める俺の前に、白地に赤線の入った小田急のバスが停車した。



 というわけで、何とか柴崎までは来た。

 来たはいいが、よく考えたら家の場所を俺は知らない。どうしよう。

 ま、歩き回って探すしかないだろうな。或いはそこまでして探してやる義理もないか。いや、ある。

 ごちゃごちゃ考えている間に俺の足はバス通りからそれ、脇の細い道へと踏み込んでいく。

 年の暮れの空は清々しく遥か彼方まで澄みわたり、吹く風もなぜだかあまり冷たくはなかった。

 たまには、こうして家から離れてみるのも悪くない。自分で言うのもなんだけど、あの濁った部屋の空気は嫌いだ。時々、窓を思いっきり開放してみたくなる。

くる日もくる日も、同じことばかりを繰り返す俺の日常。そこに、メスを入れられたら。実は心のどこかでそれを望んでいた自分がいたのかもしれない。


 パンッ!

 甲高い音が、どこかで響いた。あ、また聞こえた。

 四、五回はあったような気がする。

 俺は眉をひそめる。今の、ビンタか……?

 気のせいだろうな。そう思いながら角を曲がった俺の先に、


 ひばりが立っていた。


 俺の知らない誰かと、二人で。

 成人女性っぽい身長と髪。さては、母親か。

 ……母親がいる前でまさか「自殺」がどうのこうのなんて言わないよな、普通。

 昨日の話は聞けないか、とちょっとがっかりしたが、まだチャンスは無いではない。俺はわざとらしくスマホをいじる振りをしながら、二人にゆっくり近づいて行った。

「あ…………」

 先に、ひばりが気づいたみたいだ。声につられ、母親らしい人も俺を振り返った。顔を上げた俺と、ちょうど目があった。

 ──あれ……?顔、ぜんぜん似てない……?

「誰? ひばり、知ってる人?」

 彼女はひばりに尋ねる。

「うん、知ってる人! だよね冨士ちゃん?」

 ってまだその名前で呼ぶのかよ! てか、お前が言った途端に母親俺を睨んできたじゃねーか!

「あ、富士見と言います……」

 頭を掻きながら俺が自己紹介すると、母親は冷たい目で俺の全身を舐めるように見回した。身体検査でも受けている気分だった。

 それが終わると、母親は自分の自己紹介もなしに尋ねてきた。

「失礼ですが、うちのひばりとはどういったご関係で?」

「いえ、ただ名前を知っている程度で────」

「この人昨日ね、玉川上水の手すり乗り越えて」

「やめろぉおおっ!!」

 口を塞ごうとして、思い止まる。待て待て、親のいる前でそんな事したらいったいどんな誤解をされるか分からないぞ。

 俺の怒鳴り声で黙ってしまったひばりを一睨みすると、俺はまた母親に向き直ろうとした。

 しかけた。

 出来なくなった。


 近くで見たひばりの頬に、紅葉型の打撲痕──横っ面を張った痕を見つけてしまったからだった。

 それも、一ヶ所だけではない。内出血の痕すら、視認出来る。昨日会った時は日が落ちていて、見えなかっただけなのか?


 さっきの甲高い音が、脳内で再生される。

 さては、あれだったのか。俺は視線を滑らせ、母親の掌を確認した。見るからに赤くなった右手が、目に入った。

 なにか嫌な予感が、的中したような気がする。


「あの、せっかくなんですけど私たち急いでいますので。ほら、行くよひばり」

 ひばりの手を取り、母親は俺の横を通って行こうとした。

 まずい、話聞く前に行かれる…………!

「……あ、あのちょっと!」

 俺は立ち上がって、二人──特に母親を振り返った。

「ひばりさんの顔、どうしたんですか? 赤く腫れてるように見えたんですけど……」

 ハッとしたようにマフラーで顔を隠すひばり。対する母親はと言えば、何食わぬ顔で切り返してくる。

「いえ、この子が毎日顔が痒いと言って掻き毟るものですから」

 …………低レベルな言い訳だと一言で分かった。俺は昨日今日と、ひばりがどこかを痒そうにしているトコロを見ていない。

「いや、手形みたいのが残っていましたし……。あなたがどなたか俺は知りませんけど、もしかしてさっき何かひばりさんにしませんでしたか?」

「言い掛かりは止めてもらえます?」

「……じゃあ、その手を出してみてください」

 たまにしか風呂に入らない分、髪はガサガサだし出で立ちも綺麗ではないんだろう。尋ねる俺を前に──俺は普通に訊いたつもりだったんだけど──、明らかに母親が一歩後ずさるのが分かった。漂う妙な雰囲気を知ってか知らずか、ひばりはマフラーの先を指で弄りながら下を向いていた。

「出せないんですか?」

 質問を重ねると、

 母親はくるりと踵を返した。ひばりの手を掴んだまま。

「行くわよ」

「え、でも」

「いいから!」

 当たり前だけど、母親は振り返らなかった。


 …………おかしい。

 ぜったいに、様子が変だ。

 一つ向こうの角に消えた瞬間、俺は動き出した。

 足音をなるべく消して壁に寄ると、角からちょっとだけ顔を出す。だいぶ先の角に、今まさに入ろうとしている二人が見えた。

 また、走る。壁に寄る。顔を出す。そのサイクルを三回繰り返した所で、二人は安っぽい二階建てアパートの敷地内へ入ると二階テラスへの階段を上り始めた。

 あれが、家なのか。

 ちょっと話を聞くくらい、ストーカーには当たらないだろう。俺はアパートの裏手へと回り込んだ。草むらに隠れ、耳を欹てる。




 ガシャーンッ!!

 まず聞こえたのは、大きな破砕音だった。音からして、陶器かガラス辺りだろうか。

 続いて、

「っざけんな!!」

 ヒステリックな叫びとともに響く、クラップ音。

「あんたのせいで、あんたのせいで私が恥をかいたでしょうがッ!! っていうか、あれは誰よ! あんた知ってんでしょッ!?」

 鋭い声とビンタの音が、辺りに響き渡る。そのうち、声はエスカレートし始めた。

「おらっ!! (激しい破壊音)何か言ったらどうよ! 反論も何もないわけ!? だんまりが通用すると思ったら、大間違いよ!!」

 ドン。ゴン。と重いものが落ちる音が住宅街に響く。

 いつしか、俺は拳を握り締めていた。

「どうせあんたなんかに、生きてく意味なんて持てないんだよ!! ほら、死にな!! あんたいっつもそれで手首切ろうとしてるだろっ!!」

「……ごめんなさい、ごめんなさいぃっっ……!」

「謝って済むと思うなぁっ!!」

 膝が、がくがくと震える。

 小さな影がカーテンに映った。あれが、ひばりなのか。


 間違いない。ひばりは、児童虐待を受けているんだ。


 直接の原因になっているのかは分からないが、ひばりの自殺願望はあそこから来ているのだろう。

 無意識に組んだ手で、俺は祈った。頼む、頼むからその辺で止めてやれ。

が、そんな思いも虚しくエスカレートする虐待。

「何をもたもたしてるのよ!! あんたの望んだ道具はここにあるじゃない!! ほら、死ねぇっ!!」

 ドカッ!

「げほっ!」

「何よ、その反抗的な目は!! そういうのが腹立つって、言、っ、て、ん、の、よっ!!」

 ドンッ!

(もう、止めろ! 止めてくれ!)

 心の叫びが、爆発した。



 音が、止んだ。

 突然だった。


 草むらを掻き分け、俺は部屋を見上げた。カーテンには誰のシルエットも映っていなくて、不気味なほどに静まり返っている。

 何があったんだ……?

 まだ震えの収まらない膝を叱咤して、俺は立ち上がった。その足で、向かいの家の戸を──いや、チャイムを鳴らす。

 じいさんが出てきた。「誰だね、見ない顔だが」

「あの部屋」俺はその問いには答えず、後ろを指差した。「よく、大声とか物音とかするんですか」

 じいさんは暫しポカンとした後、頷いた。

「ああ、かなり頻繁にね。何してるのか知らんが、せめてもうちょっと早い時間にやってもらいたいもんだね。おちおちゆっくり寝られやしないよ」

「そんなに煩いんですか」

「そうだよ」

 じいさんは鼻の頭を掻きながら、沈黙に包まれたアパートを仰ぎ見た。「ただまあ、いつも割と短時間で済ませてくれとるみたいだし。ゲームか何かなんじゃないのかね」



 ……ひばり、だからあんな事を言ってたのか。

 生きる意味がないとか、なんとか。

 虐待の最中、言われ続けてたのか。

 とぼとぼと歩きながら、俺は考える。

 児童虐待があんなに凄まじいモノだなんて、知らなかった。そりゃあほとんど毎日あんな事されてたら、俺だって気が滅入るだろう。生きる意欲を失うだろう。

 ひばりは、俺なんかよりももっともっと深い、心の闇を抱えているのかもしれない。

 俺なんか、まだましなのかもしれないな……。






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