第九章 十二月二十四日・後半
いま、この一人の少女の生命は、俺の右手に委ねられている。
いや、実質的にはひばりの手中にあると言ってもいいだろう。
それでも、今を逃すわけにはいかない……! 今を逃せば、ひばりは本当に黄泉の国へ行ってしまう!
「……そこまで、死にたいのかよ」
久々に、俺は口を開いた。
「なんで、今日なんだ。みんなが幸せに過ごす夜を狙って、俺を巻き込んでまで今日を選んだのはいったいなぜなんだ?」
まさかそんなこと聞かれるとは思ってなかったのだろう。ひばりは一瞬、ぽかんとした。が、その目にはすぐにまたあの光が宿る。
悲しみの光が。
「……富士ちゃんに、殺してほしかった」
「どうして」
ひばりは、俺を見上げた。
「富士ちゃんの事、大好きだったから。自分じゃ何度やっても上手く死ねなくて。だから、人に頼んで殺してもらえばいいと思った。そしたら、私の周りで信頼できるのは富士ちゃんだけだったから」
包丁にかかる力を、俺は強くする。「……俺がひばりを殺すと、本気で思ってたのか?」
ひばりは無言で、首を振った。代わりに、また額に切っ先を向けた。
俺はまた、繰り返す。
「絶対に、俺はひばりをこの手で殺すことはしない。理由なんかどうだっていいよ。俺はとにかく、お前という人間に死んでほしくないんだ」
俺とひばりは、睨みあった。
ひばりの目は暗くて、輝いている。その雰囲気に負けそうだったが、俺はそれでも決して目を離さない。
ここで踏ん張れるかに、全てがかかっている……。
なあ、ひばり。
もうやめようぜ。こんな、負の連鎖。
頼むよ。俺も、笑ってクリスマスを迎えたいんだよ!!
「その手を離せひばりッ!!」
血が出たかと思うような鋭い声で、俺は叫んだ。
それでも、彼女は離そうとしない。しっかりと握った手に、むしろ加えられる力は大きくなっている。
力ずくで引き剥がすか。
そう思った瞬間だった。
「…………私、だって、」
睨み返すひばりの瞳に、光が滲んだ。
「私だって、生きたかったんだよ! だけど、だけど私には生きる意味も希望ももう残ってなんかないんだよ!」
泣き叫んだ。
「お父さんもお母さんも死んじゃって、私に充てられた新しい親は私に力ばかり奮う! そんな生活の中で、私はいったい何を希望に据えて生きればいいって言うの!? 富士ちゃんには分からないでしょ!」
「それは…………!」
「もう、嫌なの! 誰かの顔色を窺ったり、虚しさの中で生きていくなんて嫌なの!! だからもう、こんな世の中から去ってどこかへ行きたいの! そのくらい、好きにさせてよ! こんな生涯、閉じさせてよッ!!!!」
大粒の涙を流しながら、ひばりは目を閉じた。そして、包丁を握る俺の手に力をかけた!
「させるかよ!」
渾身の力で、俺は包丁をひばりから引き剥がす!
なおも追おうとするひばりの手を掴み、怒鳴る!
「こんなやり方じゃ、お前の命は救われない! 落ち着けよ! 落ち着いたら、よく考え直せ!」
刹那。ひばりは俺の左手に噛みついた!
「っ痛!」
激痛に駈られ、ひばりの手が離れる。完璧なタイミングでひばりは包丁に飛びかかり、俺の手ごと上から強く握り締めた。
「!!」
血走った目で、俺は包丁を睨み付けた。これを取られたら一巻の終わりだ!
「離してよっ!!」
悲痛なひばりの声が、左に流れた。ひばりが俺の手に体重をかけ、もぎ取ろうとしたんだ。俺たちは冷たい地面に倒れ、転がりながら、それでもまだ包丁を取り合う!
──お前には、渡さない! 絶対に、絶対に死なせない!!
瞬間。
視界に、灰色のモノが。
ガツンッ!!
頭の後ろが、熱くなった。
あれ。
力が、入らない。
俺はその場に仰向けになったまま、動けなくなった。
後頭部から、だらだらと何かが流れ出しているのが分かった。辺りに広がる鉄の臭いが、その正体を教えている。
石碑か何かに、ぶつけたんだ。
「…………痛い……」
俺のすぐ隣から、微かな声がする。
同じように仰向けに倒れていた人影。ひばりだった。
後頭部に手をやり、ついたモノを前に持ってきたところだった。
「痛い……痛いよ……痛いよぉお────…………!!!!」
俺にしがみつき、彼女は泣き出した……。
俺だって、泣きたいよ。
泣きたいくらい、痛いよ。
「…………分かったか」
声にならない声を、俺は上げた。
「本物の痛みってのは、これくらい痛い……もんなんだ。しかも死にたけりゃ……、……伴う痛みは……こんなもんじゃないんだぞ。それでもまだ、死にたいなんて軽々しく言えんのか…………?」
言ってる自分の痛みかたが半端じゃなくて、俺の意識は今にも飛びそうだった。
それでも何とか、立ち上がった。ひばりの側に落ちていた包丁は、血に濡れて赤黒く輝いている。拾い上げると、俺はそれを思いっきり遠くへ投げ飛ばした。
カランと金属質な音を立てて、包丁は暗闇へ消えていった。
「…………やめよう、な…………?」
啜り泣くひばりに寄り添って、俺は優しく言った。
ひばりからの抵抗は、なかった。
「…………これ、読んでみろよ」
一枚の紙を、俺はひばりの前に掲げた。
「お前の第二の母さん──楠乃さんの、遺書だ」
そう告げると、ひばりは目を見開いた。「お母さん、の…………?」
「ああ。全部、」
一回切って、続けた。
「ホントの事だ」
その内容は、ひばりには衝撃的だっただろう。
嫌っているとばかり思ってきた自分の母親が、実は嫌いではなかったのだと自ら告白したのだから。
きっと、信じられないに違いない。
だから、俺がいる。
「……真面目だったんだよ、ひばりの第二の両親は」
紙に虚ろな目を向けるひばりに、俺は言った。
「だからお前を娘として迎える事にも、反対しなかった。親戚の中でたった一人残された、新たな未来を担う子供を死なせる訳にはいかないって、責任感があったからなんだ。それでも、望んだ訳ではない事態には違いない。だから毎日イライラは堆積して、ついにそれは力の行使として発現してしまった」
「……お母さん…………」
ひばりが、小さく小さく呟いたのが、はっきりと聞こえた。
「だけどさ、考えてもみろよ。もしお前が死んだふりしたって、本気で嫌ってるなら暴行は止みはしない。そこで寸止めされるのは、きっとまだ慈悲の心が残っていたからなんだ。やり過ぎた、可哀想な事をしてしまったってな。俺の勝手な予想でしかないけど、お前が寝静まった後、両親はきっと悔いていたと思う。誰にだって子供はうざったくて、鬱陶しくて、可愛いんだよ。ひばりだって例外じゃないさ。きっと、心のどこかでは可愛がりたかったんだ……」
それが、両親がひばりを殺したり棄てたりしない理由。
俺は、そうだと思うんだ。ひばり。
「…………私が死んだら、悲しんでくれたの?」
ひばりは、俺を真っ直ぐ見た。
「私がもし自殺に成功してたら、私の両親は悲しんでくれたの?」
……間違いなく、
「くれたさ」
俺は、そう返した。
「被害妄想とは言わない。だけどな、お前の事を大切に思ってる人間は、実はすぐ身の回りにいたんだと思うよ。俺だって…………」
やばい。
涙、出てきた。
「…………お前には、分からなかったんだろうな。大好きな人を喪うって、死ぬより怖い事なんだぜ……?」
ざわざわざわざわ。
頭上の木々が、一斉に揺れた。
「……お母さん、……お父さん…………」
ひばりは、力尽きたように腕を下ろした。
地面に叩きつけられた紙が、ぐしゃっと音を上げた。その上に、白い何かが舞い降りる。
ああ。また、雪か…………。
「分かってくれよ。もう、誰も何も俺は失いたくない。悲しみの連鎖は、断ち切らなきゃいけないんだ。例えひばりが深大寺家一族の歴史を背負わなくたって、いいんだよ。夢が見つからなくたって、いいんだよ。何も考えなくていい。今はただ、がむしゃらに前を向いて生きてく時なんだよ……」
俺はひばりを抱き上げた。
「…………生きて、生きて、生き抜いて、そこで初めてその人が生きた意味は生まれるんだ…………!!」
わっと、ひばりは泣き崩れた。
俺も、泣いた。
雪と木の葉の舞う闇の中で、静寂の中で、俺たちは泣いた。
何の涙だったのかは、分からない。安心感か、気持ちを共有した事への喜びか、後悔か。
ただ、泣きたかっただけなのかもしれない。
「ありがとう」
どのくらい経った頃だろう。
ひばりは、俺にそう言った。
「私、頑張ってみるよ。私の生きた意味を、きっと見つけてみせるよ」
「ああ」
弱々しく微笑むと、俺は頷く。「それが、一番だよ」
やり直しのきかない人生なんて、ないんだからさ。
「…………怪我、大丈夫か?」
言われてひばりは、後頭部に手をやる。
「思ったより、浅いや。血も止まってるし。痛いけど、何とか堪えられるよ」
「俺もだ」
ひばりはちょっと笑った。「えへへ、なんかバカみたい。こんな程度の怪我であんなに騒いでたなんてね」
「全くだよ」
そう言うと、俺は立ち上がった。
「でも、なめない方がいいぜ。施設に帰ったら事情を話して、ちゃんと治療してもらえよ」
「分かってるよ!」
むっとしたように、ひばりは口を尖らせる。ざわざわ、と葉の立てる音が、耳に快かった。
「……じゃあ、帰ろうか」
「うん!」
白い粉雪の舞う中を、俺たちは再び歩き出した。
文字通り、新たな一歩を踏み出した。
ここからの道は、迷わず未来に続いている。
俺は、映画監督へ。
ひばりは、アイドルへ。
決して途切れることはない。諦めなければ。
だよな、道花。
俺は心の中で、そう問いかけた。
……あれ、なんで返事が来ないんだろう。
俺、どこか間違ってたか……?
『ギャギャギャギャギャギャギャギャギャ!!!!』
凄まじいブレーキ音が響いたのは、俺たちが信号を渡っていた時だった。
同時に、強烈なハイビームの光が俺たちを照らす。
真横から高速で迫ってきたのは、大型トレーラー────
ひばりを振り返る間すら、与えられなかった。
全身が炎で焼かれるような熱に襲われたかと思うと、視界と三半規管が宙を舞う。
腕が、足が、全ての関節がバラバラに吹っ飛び、捻れ、絶叫した。
そして落ちた先には、冷たい世界の底が待っていた。
撥ねられたんだ。
「────……──」
呻きながら、俺は必死にひばりの姿を探した。
いた。真横に倒れてる。
「────h、ばr──────」
手を伸ばしても、届かない。
死ぬのかよ。俺たち、こんなところで。
やっと、未来への展望を見出だしたところで。
思えば、道花もそうだった。死にたくなくたって、人は否応なしに運命に転がされていくんだ。
その過程で死ぬことだって、あるんだ。
いやだ…………そんなの…………!
「────死n……tく、ないよ……」
ひばりの声がした。
「……も…………mっと、生きたい…………よ…………!!」
ひばりは、最後の叫びを上げた。俺にしか、聞こえなかったけど。
もう、二度と動きはしなかった。
置いていかないでくれ、
ひばり…………!!
その瞬間。
もがきながら伸ばしていた血だらけの手が、何かに触れた。
誰かの手。
ああ。ひばりも、手を伸ばしていたんだ。
よかった。
これで、一緒だ。
自分の周りいっぱいに広がった赤い液。
今度こそ力尽き、動かない傷だらけのひばりの姿。
狂ったように叫ぶ木々。
舞い踊る粉雪。
それを認識したのを最期に、
俺の意識は沈んでいった。
深い深い、淵の中へ──────────