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冽空の刹那  作者: 蒼原悠
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第八章 十二月二十四日・前半




 午後、三時。

 俺が病院のホールへ入ると、既に深大寺ひばりは待ち構えていた。

 いつの間に持ってきていたのか、おしゃれまでしている。温かそうな赤いコートに、フリルのついたスカート。長い黒髪を纏めるカチューシャには、赤い葉っぱがあしらわれている。ポインセチア、とか言ったっけ。

「よう」

 声をかけると、手持ち無沙汰に足をぶらぶらさせていたひばりはパッと顔を晴れやかにした。「おー、富士ちゃんちょっとかっこいい!」

「……だろ?」

 照れ臭くて俺は鼻の下を掻いた。うちにある全ての服を漁って俺が選んだ今日の格好は、黒のコート以外はいつもと違う。一応、聖夜の町に繰り出すわけだし、恥ずかしい服なんて着ていられないからな。

「ひばりも、可愛いじゃん。家にあったのか?」

「うん。さっき、話聞きに来た刑事さんに家まで連れて行ってもらったの」

「相変わらずお前は人をこき使うな……」

 飛田の顔を頭に浮かべながら、俺は苦笑いした。その口で、ひばりに言う。

「行こうか」

「うん!」


 その時のひばりの笑顔は、これまで見た中でも最高に可愛かった。



 調布駅。

 調布市の中心都市だ。つい最近地下化された駅舎の周りには大きな商業ビルが立ち並び、イルミネーションや人々の声がクリスマスイブの街を彩っている。

 道花が死んで、もう二度と縁なんてないと思っていたのに。まさかまた、こうして女の子とこの日を過ごすことになるなんてな。駅前まで延びる道を二人で歩きながら、俺は思った。

 まだ小学生で背も俺より小さいとは言え、ひばりは十二分に可愛らしい。ロリコンの気はなくても、魅力的に思えてしまうのだから不思議だ。繰り返すが、俺はロリコンじゃない。


「あ、ねえあれ可愛いよほら!」

 ぼんやり考え事をしていた俺の腕を、ひばりは引っ張った。指差す先には、ショーウィンドゥの中に飾られたマネキンが。

「どれだかわかんねーよ」

「あのバッグ! ほら、ダイヤがきらきらしてるやつ! 可愛くない可愛くない!?」

「値段を気にしなきゃ、超いいな……」

「んー、でもそんなに高いかな? ヘタなブランドモノより安くて可愛いよ! 最高だよ!」

「俺、ブランドモノとか何一つ知らないんだけど」

「そんなんでかのじょと付き合う気だったの?」

「うるせぇ!」

 頭を軽く小突くと、ひばりはまた器用にキュッと首を縮めた。


 虐待のせいで、慣れてるのか。

 ふとそう思ったが、頭を振って俺はその考えを掃き出した。今は、この時を楽しもう。次のクリスマスイブの夜は、一年後になってしまうかもしれないんだから。


 人間、一年後にはどうなるかなんて分かったモノじゃない。俺はそれを、いやと言うほど思い知らされた。

 だから。きっと人間は精一杯、今を生きるんだ。


 それでも。

「うわ、何だあのケーキ。一人分とか書いてあるけど多すぎだろ……」

 とか。

「ね、あのサンタのマネキンの腕なんであんな変な方向に曲がってるの?」

 とか。

「大きなプレゼント専用特大靴下だって。……もはや、これ自体がプレゼントだな」

 とか。

「あそこのお兄さんたち、クラッカー箱ごとまとめ買いしてたねー。何する気なんだろ?」

 とか。


 何だかんだで、俺たちは聖夜の調布を楽しんでいた。

 時々、凍えそうな風が間を漂った。だけど不思議と、寒くなかった。つないだ手から、身体がどんどん温まっていくみたいで。


 ……俺とひばり、こうしているとなんだか、

「…………カップル、みたいだな」


 口にしちまった。

 あわててそっぽを向いた俺の手を、ひばりはギュッと握った。


「私も、そう思うな……」


「……すげえ年の差だけどな」

「年齢なんか関係ないよ。好き嫌いには」

 そう言うとひばりは、俺の前に立った。


「私、富士ちゃん大好きだから!」


「………………俺も、だよ」


 そう、俺は優しく返した。


 その時だった。

 俺の頬に、何か冷たいモノが当たった。ぴとん、と微かな音が骨に響いた。

「あ、雪…………」

 空を見上げ、ひばりが呟いた。

 …………ああ、そういえば今日は雪の予報だったっけな。

「ホワイトクリスマス、だね!」

「そうだな……」


 音を立てずに、しんしんと降ってくる粉雪。いつの間にか辺りの風景は白っぽくなり、見えにくくなる。

 俺とひばりは、まるで他の人々とは別の空間にいるみたいで。

 かえって俺は、なんだか嬉かった。


 二人だけの、特別な時間。

 二人だけの、特別な空間。

 こんなに、暖かいものだったんだな。



 気づけば、時計は六時を回っていた。

「あれ? ひばり、お前何時までに施設に戻ればいいんだ?」

 腕時計を見せると、ひばりは肩に下げたカバンをごそごそさせて一枚の紙を引っ張り出す。「んーと、七時」

──そっか、じゃあもう、二人の時間はほとんどないんだな……。

 見る場所を絞るか。結局何も買わなくて重いままの財布を空に放りながら、俺はそう考えていた。


 ひばりの小さな声が聞こえるまでは。



「…………ま、帰るつもりなんてないけど」



 えっ?



「……おい、そりゃどういう意味だよ」

 俺は訊ねた。が、ひばりは笑ってそれには答えない。

 代わりに、言った。

「そろそろ、帰らなきゃだね。時間も来ちゃうし。布田天神の方まで戻ろう?」

「あ、ああ……」


 その時、ひばりはまたしてもとびっきりの笑顔で笑ったんだ。

 それは俺には、あの最高の笑みにしか見えなかったんだ。


 最初の一瞬を除けば。



◆◆◆



 自殺とは、理由なきもの。


 今朝図書館で読んだ本に、俺はそんな文句を見つけていた。

 自殺の理由は、人によって千差万別だ。うつ病、いじめ、苦悩。最初に自殺を図る時、人はそこに明確な理由付けをする。でなければ、自らの生命を抹消するなどと恐ろしい事をする決心がつかないからだという。

 けれど、自殺は一度目で成功しない例も多い。思ってたより伴う苦痛が大きくて、その辛さに音を上げてしまったり。偶然通りかかった誰かに助けられてしまったり。生涯で五度の自殺を実行した太宰も、四度助かったのはこの二つが主な理由だとされている。

 困ったことに、自殺者の精神は一度失敗したくらいでは潰れてくれない。二回目からは「今度こそ」と、より確実な手段に切り替えたりするのだ。

 それを繰り返すうち、理由付けはいつしか曖昧になってしまう。最終的には、「自殺する」という習慣が形成されてしまったりすることもあったりする。それが、自殺無理由論だ。正確には、常習自殺者無理由論とでも言うのだろうか。


 要は、そういう人の自殺を止めさせるのに理由を問うのはNGということだ。

 そして、今俺の前を楽しげに歩くこの娘に、俺はひたすらに理由を聞くばかりしかしてこなかった。

 そりゃ、上手くいく訳がない。

 だけどつまり俺は、あの時どうすればよかったんだろう。最初に出会った時、初めて入院した日、おととい。理由でないなら、いったい何をどうすればよかったんだ?


 分からないまま、俺は聖夜の街を歩く。常習自殺者と。


 そして俺は同時に、ひしひしと迫り寄る危機感を感じてもいたんだ。

 目の前の少女が発する、生暖かい危機感を。




 甲州街道の信号を渡っても、ひばりは立ち止まらなかった。そこから先は、布田天神社や電機大学の敷地内。商店など、全くないに等しいのに。

 そのまま、甲州街道に沿って右折する。

「おい、どこまで行くんだよ」

 駆け寄って尋ねても、ひばりは答えなかった。ただ、笑うばかりだ。

「もう帰る気なのか?まだちょっと時間はあるぞ?」

 ダメだ、反応する気もないみたい。

 そうこうしてる間に、ひばりはしばらく行った所で突然左折した。正面に、布田天神社の境内の入口がある道だったはずだ。

「…………?」


 急に、寒気がしてきた。


 同時に、そこはかとなく不気味な予感が、脳の隅を埋め始めた。



「ここ………………」



 境内の真ん中で、彼女は立ち止まった。

 ゆっくりと俺を振り返り、ゆっくりとその口を開けた。


「…………私は、ここで初めて、自殺しようとしたんだ」


 立ち尽くす俺を一瞥すると、くるりと向きを変える。

「あの、ちょっと低めの木。あれで首を吊ろうとして、何度やっても上手くいかなくて」


 言いながら、少女はおもむろに何かを取り出した。


 暗闇の中、街灯に照らされて黒光りする何か。

 雰囲気を察して身構えていた俺も、さすがに絶句した。


 セラミックス製の、包丁だ。


「お前、まさか」

 ひばりは笑った。


「私を、突き殺してほしいの」


 どう返せば、正解なんだろう。


「んー、出来たら脳がいいな。そしたら痛みを感じる事なく安らかに逝けるかもだから」

「……本気で、言ってんのかよ…………?」

「当たり前でしょ」

 一言で返すと、ひばりは一歩俺に迫った。包丁を、逆手に持ち変える。

「ほら、そんな重くないでしょ。手が悴んで握れなくても、これなら大丈夫だよ」

 ……そんな心配をしてる訳じゃ、ないんだけどな。ひばりだって分かってるだろう。今の俺なら間違いなく、躊躇するって。

 だけど、何を言えばいいんだ俺は…………!

「やっぱ、ダメ?」

 言うなり、ひばりは包丁を無理矢理俺の手に握らせた。

 そして。投げ捨てようとするその手にしがみつき、動かないようにしてきやがった。


「…………今度こそ」


 ぽつり、こぼす。こぼしながら、ひばりは額を包丁の切っ先に当てた。

 そして、ニッと笑った。

「…………いいよ、富士ちゃん。ほんのちょっとだけ、力を込めてくれるだけでいいから。私ずっと、こうなりたかったんだ」


 鳥肌の立つような笑みが、俺の視界いっぱいに広がった。






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