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冽空の刹那  作者: 蒼原悠
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第七章 十二月二十三日





「……………………」


 ボロアパートを見上げながら、俺はマフラーの隙間に息を吹き込んだ。生暖かな空気が、首の周りに行き渡る。

 そうでもしなきゃ、やってられなかった。今朝は異様に冷える。明日なんか、東京都心部でも雪が降る予報だ。

 ホワイトクリスマスか。今年は、喜べる気分じゃないな。


 今、俺はひばりの住んでいたアパートの向かいに立って、ブルーシートの掛けられた部屋を眺めている。

 あそこで、人が死んだ。

 生きてた時の様子を見てた俺には、ブルーシートの存在はよけいに虚無感を募らせる。


 俺はあの時、ひばりに何て言ってやればよかったんだろう。


 ひばりが自殺したがる理由を口にした時、俺は何も声をかけてやることが出来なかった。


 もう、信頼してはもらえないのかもな。

 俺。



 コートのポケットの中で握りしめた拳が、痛かった。

 皮膚にヒビが入るような強い痛みに、それでも俺は抗わない。

 固く固く、握りしめる。


 ひばりの心の痛みは、もっともっと凄まじいに決まってるから。



「…………どなた、ですかな」


「!?」

 声のした方に俺は振り返った。そこにはいつの間にやって来たのか、背広を着た小柄な男が立っている。

「俺、ですか?」

「そうなりますな。あそこを熱心に見上げていらっしゃったものだから」

 ポケットから何かを取り出すと、男はそれを俺に掲げた。

 げ、警察手帳……。

「私、そこの柴崎硫化水素事件の捜査をしておる者です。宜しかったら、なんで見てるのかお話願えます?」

 ……疑われてる、って訳じゃなさそうだな。つーか俺、ニートはしてるけど犯罪は犯した事ないし。

「ああいや……ただちょっと、知り合いが関わってたんで気になって見に来ただけでして……。すいません捜査の邪魔でしたよね」

 失礼します、と一言言い残して俺は立ち去ろうとした。

 その腕を、刑事が掴む。

「えっ……」

「あーちょっと待って、一応名前だけ頼めませんか」

 刑事は手を離す気配がない。しょうがないな、俺はため息混じりに答えた。

「富士見治修です」


「ふじみ……?」

 刑事の目が、見る見る見開かれる。何だ、気色悪い。

「それでは、ふじさんというのは貴方の事か?」

「……何の事ですか?」

 俺が訝しげに尋ねると、刑事は急に改まった。

「いや、失礼しましたな。改めまして、警視庁調布署の飛田と申します。貴方があの「ふじさん」なら、ちょうどいい。少しお時間を頂けませんかな?」

 ちょっと待て、どういう事だ。

 渋々俺は頷いた。

「知り合い、と仰られましたな。付き合いはどのくらいだったんです?」

「……最近、ちょっと仲がよくなったくらいです」

 ふむ、と溢す飛田。「解せんな…………」

「何がですか」

 言いたい事があるなら、はっきり言えばいいのに。


 と、

 飛田はまたポケットを漁り、小さく折り畳まれた紙を取り出したんだ。

 ぱたぱたと広げて、俺に渡す。文字の見える方を上にして。



 絶句した。




[もう、駄目です。

気が抜けてしまいました。

あの子に、寄り付いてくれる人がいる。そう思ったら、もう持ちません。

構わない。もとより、私たちは仕事のように引き受けただけなのですから。


ふじさん、とか言う方。

貴方に、この子を預けます。

無責任でごめんなさい。

けれど、あなた以上の人を私たちは知りません。


ひばりへ。

一つだけ、

一つだけ分かってほしいの。


申平も私も、あなたを決して嫌いなんかじゃなかった。

好きでも、なかったけど。


天国で、あなたのお母さんに叱られてきますね。


楠乃]




「三日前に、あの部屋から発見されたものです。文面から、恐らく遺書だと思われますな」

淡々とした飛田の説明を聞き流しながら、俺は震える手でそれを何度も読んだ。

間違いなく、俺の事だ。

「その“ふじさん”というのが誰かさっぱり分かりませんでな、一昨日も昨日も深大寺ひばりさんに確認を取ろうとしたのですが。あいにく両日とも面会謝絶と追い返されてしまいまして……」

「……多分、俺です」

 やっと口を開くと、飛田はホッとしたように呟く。「そうか、やっぱりそうでしたか…………。では、深大寺さんを引き取る用意は?」

「……ありません。てか俺、まだ未成年です」

「おや。とてもそうは見えなかったが……」

 悪かったな、こんな時間に出歩いてて。

「まあいいでしょう。確認も取らせて頂きましたし、その紙は差し上げます。コピーですから。差し支えなければ電話番号、教えてもらえません?」



「何かあったら連絡しますので」とだけ言って去って行く飛田を、俺は半ば上の空で見送った。

 手の中にのったままの、楠乃の遺書のコピー。俺はまた、手書きの文に目を落とす。


 ……この文を全面的に信じるなら、どういう事になるんだろう。

 ひばりをいやいや押し付けられたのは、間違いない。そりゃ不満だってあっただろう。自分達の自由な生活を束縛する存在でしかないんだから。

 けど、それならなぜ引き受けた? 他に血縁がいなかったからか? だったらその時点で児童養護施設に引き取ってもらうことだって出来たんじゃないか?

 可能性があるとすれば、ただ単に子供が欲しかった。そのくらいだろうか。


 そうだよな。

 でなきゃ、虐待なんかで済ませないよな。殺すとか捨てるとか、どっかの施設に放り込むくらいしたっていいはずだ。

 どこかではやっぱり棄てきれないって気持ちがあるから、虐待程度で収まってるのかもしれないんだ。


 けど、それはこの文を支持した場合の話。

 こいつが信用に値するのか、正直俺には何とも言いようがないよ。それこそ、ひばりじゃなきゃ。


 ……でも。


 ひばりが言うように、気絶したフリをすると暴力は止むんだよな。

 やっちゃった、とか思って力を抜くんだろうか? いやいやそれなら、倒れようが何だろうが手は止まらないだろう。

 そこにはもっと、別の気持ちがあるはず。イライラとかじゃなく、慈悲的な何かが。


 しかも気になるのは、先頭の文章だ。

 これはいったい、どう解釈すればいい……?




 道花、教えてくれ。

 楠乃の遺書に、最期の言葉に、俺は何を読み取ればいい?



 木々は、黙したままだった。

 ざわりとも音を立ててくれなかった。






 ……スマホが、鳴っている。

 画面をタップすると、俺は電話口に出た。相手は、井之だ。

「もしもし」

「あの、急でごめんなさい!」

 開口一番謝られた。なんだ?

「明日の夕方、空いてますか? 養護施設に入る前に、ひばりさんがどうしても富士見さんと出掛けたいと言って聞かないんです。予定を開けておいて頂けませんか?」

「クリスマスイブの夜、って意味ですか……?」

 まぁ、急と言われりゃ急だけど。確かにヒマだな。というか、俺に定休日は存在しない。

「そうです。明日の夕方でこの病院からは退院となるので、そのまま調布市内の養護施設に入居してもらう手はずになっていたんです。なので、帰るときは当院ではなくそちらになるんですが……」

「分かりました」

 俺はわざと、優しく言った。「ひばりは今日、どうでしたか?」

「一日中、おとなしかったです。ほとんどずっと、窓の外をぼんやりと眺めていて……」

 ……引きこもりみたいだな。俺かよ。

 とは言え、「……死のうとはしてなかったんですね。それなら、よかったです。その口調だと、北野先生の説得の方は上手くいかなかったんでしょうけど」

 ギクッとしたのか、一瞬間が開いた。分かりやすい事この上ない。

「……はい。本人に全く聞く気がなかったものですから、先生も正直お手上げだと……。施設の方に頼んで、定期的にここに来てもらうことになりました」

 まあ、それならなぁ。

「分かりました。とにかく、空けておきますね」

 宜しくお願いします、と声の余韻を残し、電話は切れた。



 ――明日が、瀬戸際だな。


 直感で、俺はそう思った。



 ひばりが常人に戻れるかどうかの、瀬戸際だ。






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