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冽空の刹那  作者: 蒼原悠
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第一章 十二月十七日

 「いまは自分には、幸福も不幸もありません。


 ただ、一さいは過ぎて行きます。


 自分がいままで阿鼻叫喚で生きて来た所謂「人間」の世界に於いて、たった一つ、真理に思えたのは、それだけでした。



 ただ、

 一さいは過ぎて行きます。」



太宰治「人間失格」より








挿絵(By みてみん)







 さらさらと、透き通った音がする。


 耳に心地いいその音を楽しんでいると、ガタンゴトンと力強い振動が迫ってきた。あの綺麗な音は、瞬く間に掻き消されてしまった。

 強い音は、弱い音を圧倒する。そんな当たり前の事に、俺はいま深いため息をついていた。


 眼下を流れる、玉川上水。

 江戸時代、河川が無かったために開発の遅れていた武蔵野台地を改善しようと、玉川という二人の商人が開削した人工河川。なのだと、昔習った気がする。

 まあ、地元民の俺からしてみれば、あの有名な太宰治が入水自殺を図った場所ってイメージの方が強い。


 「俺も、続けたらなぁ……」


 思っていた事が、ひとりでに口をつく。電車の走行音に紛れて、自分にも聞こえなかったが。

 繰り返す代わりに俺はまた、冷たい息を吐いた。


 東京駅から、中央線で四十分。ここJR三鷹駅は、橋上駅舎という構造らしい。文字通り、玉川上水の上に架かった橋の上に立っている駅だ。

 交通の要衝だけに、ひっきりなしに電車が走っている。煩くて、心を鎮める事も出来やしない。

 それでも俺がこうしてここに来るのには、ちゃんと理由があった。


 去年、一月。

 そうか、もう二年近くにもなるのか。

 俺の彼女がここ三鷹駅のプラットホームで人身事故に遭い、二度とその笑顔を振り撒くことが出来なくなった、あの日から。

 早いなぁ……。

 そんな事を日々想いながら、俺は毎日ここに来るのを欠かさなかった。学校にも、店にも行かなくなっても、ここへだけは絶対に来るのを忘れなかった。



 だけど。


 もう、嫌になったんだ。


 こんな自堕落な生活。

 魂の入ってない、日々の俺。


 でも今更、脱する術を俺は知らない。

 せめて専門学校にでも行っとけばな、と今は思うばかりだ。いや、もうそんな事すら思いはしない。


 今の俺の頭の中は、


 「死んで、楽になろう」

 そんな甘い誘惑で満たされていた。


 ──そうだよ、死ねば気楽になれるじゃんか。この煩わしい日常から解放されて、輪廻に従って生まれ変われるかもしれないんだぞ。最高だろうが!

 ……なんて、変なテンションの自分で一杯だった。



 目の前には、寒々しくも穏やかでもある音を立てる玉川上水がある。数十年前、この川は絶好の自殺スポットだった。なら、俺じゃ死ねないなんて理由はないはずだ。

 人目を憚る気なんてなかった。この日暮れの駅前じゃ、黒いコートを羽織る俺の姿なんかきっとろくに見えないだろう。この東京という町では、誰もが自分のことに精一杯だ。他人の事なんてろくに見てはいないんだ。


 「……今、いくぜ。道花(ゆきか)


 きっと寂しがっているであろうあの子に、そう念じた。それだけで、自ら命を絶つ免罪符が出来る。

 川に入るべく柵を乗り越えようと、足を掛けたその時だった────



 「……自殺、するのー?」


 俺は足を大慌てで下ろした。

 気づかれた!? て言うか、誰だ!?

 誰かに見られながら死ねるほど俺は羞恥心を捨てられない。姿勢を整え、俺が振り返ると、


 一人の女の子が立っていた。


 暗い目。

 それとは対照的に、明るい顔。


 てっきり声の高い警官か指導員だろうと思っていた俺の予想は、完璧に打ち破られた。

 「……!」

 言葉に詰まる俺を見ながら、女の子は少しずつ距離を縮めてくる。十二、三才と言った具合か、ちょうど小六とかなのだろう。

 俺の胸くらいまでの身長。かなり背が高い部類に入るんだろうが、それにしてはその身体はあまりに痩せていて、クリスマスのイルミネーションに照らされた顔も心なしか青白かった。

 言い換えれば、薄気味悪い。

 「……ふーん、死ぬ気はあんまり無かったんだねー」

 小バカにしたような笑顔を浮かべる、彼女。

 「ちょっとは期待したのに」

 ──なにをだよ!

 「てか、そもそもお前は誰だよ! なんで俺に話しかけてきた!?」

 混乱する頭で、俺はその子にやっとまともな言葉を返すことが出来た。さっきまで脳波の海に満ち充ちていた自殺の念は、どこかへと漂って行ってしまっている。

 対する少女はと言えば、

 「そんなトコロで自殺しようだなんて、今時変わった事する人がいるんだなー、って思ったから!」

 今や満面笑顔だった。何だか言い様のない不安に襲われる俺を他所に、すたすたと川の袂に寄ってくる。

 「おおかた、あの文豪みたいな死に方がしたかったんでしょ。ムダだよ。あの頃の玉川上水はもっともっと濁流で、しかも太宰治が山崎富栄を伴って自殺した時は増水までしてた。人喰い川って俗称があったけど、強ち間違いでもなかったみたい。だけど今はもう、こんなにチョロチョロ流れるばっかり。溺れ死ぬほどの水嵩もないもん。それでもこの川で死にたかったら、高飛び込みで川底に頭を打ち付けるしかないよ」

 弾かれたように俺は玉川上水を覗きこんだ。

 愕然とした。光が当たらないせいで水深一メートルくらいに見えたはずの玉川上水は、よく見れば川底まで十センチ程度の細やかな流れでしかなかったんだ。

 平然と語り続ける彼女。

 「入水自殺──土左衛門とも言うけど、周囲に迷惑かけるからあれはやめた方がいいよ。すぐに身体中に虫とかが入り込んで、食い荒らしてく。それにお腹に貯まったガスが膨れ上がって、風船みたいになるの。放つニオイはこの世でも最悪の────」

 「分かったもういい!」

 俺はついに叫んだ。喉から沸き上がってくる吐き気を必死に堪えながら、白旗を上げる。

 「分かったよ!俺が自殺をやめればいいんだろ!そうだろ!だからもうこれ以上…………」

 「なに言ってるの?」

 彼女は俺の顔をまっすぐ見て、ちょっと首を傾げた。


 ……その笑顔は、気味の悪さすら既に通り越していた。

 「私、自殺をやめて欲しいなんてこれっぽっちも思ってないよ?」


 え…………?


 「この辺りだと、そうだねー」

 完全に固まった俺の前で、少女はキョロキョロ辺りを見回す。

 「そんなに太宰治を追いたいなら、三鷹車両センターの跨線橋とかどう? あそこ、竣工当時から太宰もよく訪れてたみたいだよ。あんなスピード出してるトコロで飛び降りたら、まず即死できるしね。鉄道自殺なら三鷹駅でも出来るけど、ターミナルだから確実にダイヤに影響出るし、遺族の人たちが賠償を迫られる危険性も高いからねー。あと確実に死にたかったら──」

 「ちょ、ちょっと待てよ!」

 すっかり顔面蒼白になった俺は、問い返す。

 「なんでお前、そんなに自殺に詳しいんだよ! つーかいい加減名前を名乗れ!」

 女の子はまた、首を少し傾けて不思議そうな顔をする。「……そんなに名前知りたいなら、教えてあげる。私、深大寺(じんだいじ)ひばりって言うんだー」

 だからなぜそんなにテンションが高いんだ。

 「で、私が名乗ったんだからもちろんあなたも名乗ってくれるよね?」

 「なんで俺が……」

 「……私には名前言わせて、自分は何もしないの……?」

 一転、今にも泣き出しそうに顔を歪める女の子──いや、深大寺ひばり。泣き落としする気かこの野郎……違う、女郎か。

 「しょうがないな……俺は、富士見(ふじみ)っていうんだよ」

 富士見治修(はるのり)。それが、俺の本名だ。下の名前まで明かしてやる義理も無いだろうと思って、名乗らなかったが。

 パッと輝くひばりの顔。「じゃあ、冨士ちゃんって呼ぶね!」

 ……ああもう、勝手にしてくれ。というか、もうこの子のテンションに俺はついて行けないよ。

 なんでそんなに、


 ……不気味な笑顔を浮かべていられるんだよ。


 「それで、どうするのー?」

 俺の袖を掴みながら、ひばりは嬉しそうに──そう、それはもう嬉しそうに尋ねる。

 「他にも命の灯を吹き消す方法なんてそこら中にあるよ! それが、東京なんだから!私と一緒に逝こうよ!」

 私と(・・)!? お前も自殺願望あるのか!?

 「早くしないと富士ちゃんの死ぬ気(・・・)薄れちゃうよー?」

 ……俺は、何も答えられなかった。口が見えない何かに塞がれているみたいな感じがする。

 むーっと頬を膨らませるひばり。「ねー、どうするのどうするのどうするのどうするのどうするのどうするのどうするの」

 「うるせえ!」

 ああ、やっと言えた。

 怒鳴った瞬間、狂いかけていた頭の歯車が噛み合ったような気がした。

 「ガキのくせに命の灯を吹き消すだなんて物騒な文句ちらつかせやがって! つーか、なんでそんなに自殺したがるんだよお前は!」

 「お前、じゃないよ。ひばりだよ!」

 「小学生レベルの会話させんな──」

 ──って、小学生か……。

 「悪いけど、俺はもう自殺なんかする気ない! 分かったらさっさとどっか行けよ、……ひばり!」


 悲しげに、ひばりは項垂れた。

 「……冨士ちゃんなら、私と仲間になれると思ったのにな……」

 自殺仲間かよ。なってたまるか。

 「…………」

 それでも俺はあくまで、黙っていた。黙って、黒々と空を映す玉川上水の水の流れに目を落としていた。

 暫しの間、ひばりはそこに立ち尽くしたままだった。が、諦めたらしい。一歩下がると、決心したような割りきった足取りで川の下流に向かって歩き出すのが、目の端に消えた。


 何だか、後ろめたい事をしたような気分だった。

 冷たい音を上げる水を眺めるたび、またあの暗い気持ちが穂をもたげてくる。


 水底の見えない、流れ。

 死ってのは、多分こんな風に暗くって、どこまでも深い世界なんだろうな。

 そして死ぬっていう事は、そこに無理矢理引きずり込まれるに等しい体験なんだろう。

 それはどんなにか、無念な事なんだろう。


 「道花…………」


 寂しいに違いない。

 そこはきっと、世界で一番孤独な場所なんだから。


 やっぱり、逝こ────



 「おじさん、そんなトコロで何してるの?」

 ひばりの声がして、俺は不覚にも顔を上げてしまった。力なく何事かを答える声も聞こえたが、響いてきた駅の間抜けな発車メロディのせいでよく聞こえない。

 ひばりの声だけはしっかり聞こえたが。

 「そっかー、じゃあ、私と一緒に逝こ」

 「おいこらあぁぁぁあああ──────っ!!」

 絶叫したのは俺である。

 そのままダッシュで駆け寄ると、ひばりの口を確保!

 耳元で囁く。「バカかお前──ひばり! 見知らぬ人の前で軽々しく逝くなんて言葉吐くな!」

 「えー、でもこれいっつもやってるよ?」

 「毎日通行人に向かってそんな悪趣味な勧誘してんのかおま──ひばりは!」

 こくっと頷くひばり。俺はあまりのショックに、頭を抱えたくなった。

 おじさん、と呼ばれていたのであろう張本人が、恐る恐る声をかけてくる。

 「あのー……私は……」

 「あー、大丈夫ですよ気にしないでくださいこいつの言うことは! 何言ったのか知りませんが!」

 ひばりを押し退けて俺が喚くと、おじさんは首を捻りながら立ち去って行った。



 「……冨士ちゃん、なんでそんなに興奮してるの?」

 俺の背中に、ひばりが尋ねてきた。

 誰のせいだと思ってるんだ、全く。

 「なあ、ひばり。後生だから金輪際あんな事はやめろ。そういうのにいい感情を持ってない人だってきっといるんだぞ。もしそんなのに絡まれたら……」

 「殺してもらえるなら大歓迎だよ!」

 ああ、ダメだこいつ……。

 「とにかく、やめろ!つーかさっきも聞いたけど、どうしてお前はそんなに自殺なんて言葉を軽く使えるんだ!お前、死ってモノが本当に分かってるのかよ!?」


 また頷くひばり。

 ……今度は、向こうの方が上手だった。ひばりは付けていた手袋を、さっと外したんだ。

 「…………!」

 その手首には、何本も何本も切り傷が並んでいた。

 紛れもなく、自傷行為の痕だ。

 手首の動脈を切ったまま放置していると、出欠多量で人は死に至る。その一歩手前まで踏み込む行為が、自傷だ。俺だってそのくらいは知っている。

 「この一番手前のが、三週間前のだねー。んで、その隣が二年前かな? 深いのが半年前のヤツで、成功しかけたけど見つかって病院に連れてかれちゃったんだよねー」


 ……あはは、と時折軽やかに笑いながら何事もないように語るひばりを、俺はその時初めて心から怖いと思った。

 明らかに、おかしい。自分の自殺未遂歴を、楽しげに話すなんて。

 「あ!あとガスの元栓開けっぱなしにしたこともあるよ! 首のこのアザは一週間前の──」

 「──やめてくれっ!!」

 今日一日で何回こんなやり取りがあっただろう。またも俺は、ひばりを遮った。

 「どうしてなんだよ! それこそ太宰治じゃあるまいし、いったいお前は何度自殺を図ったんだ!? どうしてそんなに何度も、死の恐怖をはね除けられるんだよ!?」

 俺の知ってる死の淵は、そんなに何度も覗き込めるようなモノじゃない。生半可な決意で飛び込める場所じゃない。なのに、なのにこいつはなぜこんなに抵抗なく体験を語れるんだ!?

 問い掛けたい事が次々に頭に浮かんでは、それを声帯が言葉に変換していく。

その流れを断ち切ったのは、


 ひばりの可憐とさえ言えるほどの、笑顔だった。

 その口から放たれた、言葉だった。


 「だって、ないじゃん。自ら望んで生きる意味なんて。今までもこれからも、私はただ生かされるだけだもん」


 ぱくぱくと、俺の口は虚しく開閉した。


 「私が自分の意思で決められるのは、自分の生死だけ。だったら、捨てちゃえばいいじゃない。どうせ、この世界に生きてくほどの価値なんてないんだもん。私には大事な人も、好きなモノもないんだもん」


 言葉に出せない恐ろしさで、身体が微かに震える。

 今、俺の前に立っているこの少女は、本当に小学生か? いや、本当に人間なのか……?

 終いにはそんな疑問さえ、抱いてしまう自分がいた。



 「あ、もうこんな時間だ!」

 ふいに脇の広場の時計を見上げ、少し残念そうにひばりは言う。「ごめんね、私帰らなきゃ!うち帰るの遅くなるとお母さんに噛みつかれちゃうから!」

 「────え?あ、ああ」

 やっと凍結が解けて、俺も時計を見た。午後六時。確かに、子供(ガキ)は帰った方がいい時間か。

 「……大丈夫か? 家、近いのか?」

 なんでそんな心配してんだろ俺。

 ううん、とひばりは首を振る。「私の家、調布なの。だからここからバス!」

 ふーん……。

 「それじゃあね、冨士ちゃん! またその気になったら、言ってね!」

 元気よく最後に不吉な言葉の余韻を残し、ひばりはバスロータリーの方へと駆けていった。


 終始、元気な子だった。

 あの笑顔(・・・・)は、最後まで消してくれなかったけれど……。



 かつて幾人もの命を飲み込んだその川の、畔。


 まだ俺は、そこから動けずにいた。







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