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あなたの初恋探します

作者: 蕊 芳森

それはまだ僕らが十歳にも満たなかった頃の話だ。

いつまでも色褪せない輝きを求めて、僕らは永遠の誓いを立てたんだ。

何にも冒されず、支配されることも無い、ふたりだけの場所を探そう、と。

そうして大人になる前に、あての無い旅に出ることを約束した。

その約束を果たせぬまま、彼女は、両親の転勤で、東京の私立の進学校に転校していった。

しかし、僕らの絆は途絶えること無く続いていた。

十五歳まで月二回程度の手紙のやり取り(文通)を続け、携帯を持つことを許された高校生の頃から携帯メールで交信を始めた。

彼女は今時の高校生の流行の波に見事に乗っているらしく、カラーリングした髪を巻き髪にして、休日はカラーコンタクトに、最新の洋服を着て、丈の長い皮のブーツを履いて、友人と街へ繰り出しているとの事だった。

ある日、携帯に写真が送られてきた。

デコレートされたフレームに、友人と二人で映っている姿を見て、最初は誰だかわからなかった。

しかし、どんなに派手なメイクをしても、優しい瞳はあの頃のままだった。

その写真に添えられてきたメッセージは、

「いつか東京に、この街で迷子になっている私を迎えに来て。」

このメールを最後に、彼女との交信は途絶えた。

彼女の事は僕が一番知っている。

都市部の生活に適応するために、あえて派手な女子学生を演じているというのも、賢い彼女ならではのFAKEであることも、僕には容易に想像ができた。

それに苦悩していることも、開き直って諦めてしまっていることも、手に取るようにわかる。

かといって、この距離の中で、彼女を癒し救い出す事は、現実問題として不可能なことであった。

こうして僕らは、受験シーズンを迎えた。

僕は、厳しい家計の中から、奨学金を借りて、アルバイトをすることを前提に、東京の大学を受験する承諾を家族から得た。

東京に行く理由は、彼女のために他ならない。

僕は勉強そのものが嫌いだったが、テストで腕試しをすることが、意外にも嫌いではなかった。

五校受験した結果、三勝二敗だった。

結果僕は、都内の某中堅私大へ進学することになった。

大学では、法律を学ぶことを決めていた。

卒業後は、裁判所の書記官を目指そうと思っていた。

法曹への伏線も張って、ロースクールを受験できる準備も少しずつ進めるつもりだった。

あまりにも法律尽くめではバランスが悪いと思い、中国語でのコミュニケーションサークルにも入った。

享楽的なキャンパスライフの中で、僕は彼女のことを忘れつつあった。

いっそそのままでいたほうが良かったのかもしれない。

彼女のあんな姿を見るまでは。


ある日、僕はサークルの仲間と、浅草の「神谷バー」で、昼間から酒を飲んでいた。

友人「お前は何でこんな街に来たの。」

僕「何でって、普通東京の大学や、その暮らしに、憧れるのが普通でないの?」

友人「普通はそうなんだけど、お前を見てると何か違う気がする。どこか寂しげというか・・・。」

僕「実は俺、人を探しているんだ。この街に住んでるはずの初恋の女性を。」

友人「こんな街で人探しなんか、一学生の力で出来る訳ないだろ。」

僕「だから、何も出来ないでいるんだよ。」

友人「その子、なんていう名前?故郷は石川だったよな。」

僕「うん、文子っていうんだ。」

友人「よし、手を回してみるよ。何か情報あったら伝えるよ。」

僕「ありがとう。」

友人「じゃあ、二次会行くぞ。」

仲間一同「おお!!!」

新歓コンパで、スナックへ行くのが、このサークルの定番であった。

東京ぐらいになると、価格破壊がかなり進んでいて、ちょっと高そうなスナックでも、三時間二〇〇〇円くらいで飲める店があったりする。

僕「石川じゃ、まずあり得ない安さだね。」

友人「毎日でも飲みに来れるだろ?」

僕「さすがにそれは無理だよ。」

友人「お前、バイトとかやる気ないか?」

僕「どこで?」

友人「この店で。」

僕「確かにいい店だけど、働くとなると別だろ。」

友人「この店とうちのサークルとは長い縁があるらしくてさ。新入生紹介してくれって、マスターから頼まれてるんだって。」

僕「そうか。考えとく。」

僕はこの店で働くことにした。

浅草という土地が好きだったことと、何より時給が素晴らしかったことが理由だ。

まずは皿洗いから始め、接客に入っていく仕組みなのだと言う。

安スナックのわりに、VIPみたいな客が、時々来るのは、近所にある高級クラブの同伴入店の待ち合わせ場所になってるからだそうだ。

マスター「新人君はこれを使うように。」

と、薦められたのは、シャネルの定番の香水であった。

僕「同伴の客か、何かいやらしいな。まあ、よくある話か。」

マスター「風俗や援交の同伴もいるけど、あまり深い事は考えないように。東京はこういう街だ。」

僕「そうですね。」

働き始めて一週間後、運命的な再会劇があることを、まだこの時僕は予想だにしなかった。


一週間後、僕は初めての接客に充てられた。

その日最初の客が、なんと見るからに疲れ果てた表情の、僕が探していた彼女であった。

羽振りの良さそうな中年の同伴をしていた。

彼女は、僕の顔を見るなり、無言で店の外へ飛び出していった。

僕「マスター、済みません!!」

マスター「例の彼女か。いいぞ、新人君。今日は帰ってくるなよ。」

僕は会釈して、外に駆け出した。

あっという間に、彼女に追いついた。

僕「やっと見つけた。もう離さない。」

彼女「もう私は貴方の思っているような女じゃないの。」

僕「あの約束は忘れた?」

彼女「・・・、忘れてないわ。」

僕「こんな街は、君のいる場所じゃない。僕は君をここから連れ出すためにやってきたんだ。」

彼女「学校はどうするの?」

僕「あんな学校、もう用は無いさ。今僕はもっと大切なものを見つけたのだから。」

彼女「・・・、ありがとう。でも私・・・。」

もう言葉は必要なかった。

僕が強く抱きしめると、彼女のこわばっていた表情も緩やかになり、身体の力も抜け、僕にそっと委ねてくれたのが、そのぬくもりから感じられた。

たかだか三年の空白の間に何があったのか、多少関心はあるけれども、それはこの際どうでもよくなった。

探し続けた大切な彼女を、やっと見つけ、この手に抱きしめている。

これ以上の至福があるだろうか。

疲れ果てた彼女を救い癒した後は、ふたりきりの場所を探しに出かけるんだ。

何にも冒されず、支配されることも無い、ふたりだけの場所を探しに、ね。

   


あれから1年後。

運命の再会の後、僕たちは再び離れたところで暮らすことになった。

やはり彼女は風俗店で働いていたらしいと、根回しをしてくれていた、サークルの友人から聞いた。

父親の仕事の都合で両親は、文子を東京のおじの家に預け、静岡に住んでいた。

そこで暮らしていた彼女の母親が、若年性のアルツハイマーで植物状態になって、3年の月日が流れていたそうだ。

父親はつきっきりで介護しているため、就労が不可能であった。

そこで彼女は、学費を稼ぐためにと偽って、東京という街で、最も効率の良いとされる労働環境として風俗店を選び働き、家族の生活費を工面していたのだ。

いくらアクセスしても繋がらないはずである。

そんな健気な彼女の姿を見ていると放っておく訳には行かなかった。

僕「やっぱり、風俗はやめて欲しいよ。これまでのことは仕方がないとしても、こうして僕が現われたのだから、少しは頼りにしてくれないか。」

彼女「その言葉に甘えていいのなら、私静岡で暮らしたい。ママの介護がしたいの。」

こうして、僕らはつかの間の再会を終え、東京と静岡で再び離れて暮らすこととなった。

そうして、遠く離れていく彼女の後ろ姿を、溢れる涙をこらえて見送った。


君が東京から去って、三年の歳月が過ぎた。

僕は大学を卒業して、ふるさとの公立中学校で臨任講師として教壇に立っていた。

今日も君を想って、手紙を書いている。

この手紙を未来永劫渡すつもりはない。

そう決して届くはずのないこれらの手紙の執筆作業は、まさしく細々とした徒労というほかないだろう。

よって、この縛られた心から開放されることはきっと生涯あるまい。

大人になった僕らが愛情を明確に共有していた時間は限りなく短い。

それでもまるで夢を見ているかのように、沸々と蘇る記憶。

どれもこれもが、僕の心を捉えて離さない。

記憶のショーケースに飾った君の面影を追いかけている。

そう今も・・・。

そんなある日突然君からメールが届いた。

「まだあなたの心の中に私はいますか。」

三年という歳月を経て届いた、このメールをどう解釈してよいかわからぬまま、二、三日ずっとメールを眺めてた。

しかし、僕なりの愛情表現として、ここは気丈に振舞うことにした。

「今僕には、疲れた心を癒してくれる素敵なひとがいます。」

それから、二、三日して、彼女からの返信が届いた。

「そう、やはりこれでよかったのね。いつまでも元気でね。」

惜別の寂しさを感じるまもなく、僕の頬を一筋の涙が伝った。


再びある日突然、彼女から悲痛なメールが届いた。

『助けて。彼の暴力から逃げられないの。』。

いわゆるデートDVというやつだ。

僕は怒りで腹が煮えくり返ってしまった。

自力では何もできず、警察等あらゆる社会資源に協力を求めた。

彼女は相変わらず静岡にいた。

こんなことは心身ともに疲弊している父親に相談できるはずも無かったのだろう。

僕なりの解釈と彼女のことを考え行動していった結果、彼女を取り巻く不幸が少しずつ薄れていくのを感じた。

「ありがとう、なんとかなりそうだわ。」

こんな形で、再び心が通い合うなんて少し悲しくて寂しかった。

 

こんなことがあったからといって、彼女はもう戻っては来ない。

こんな事実を僕に伝えた以上引き返せないのだろう。

あの時一言、『帰って来い』そう言ってあげられてたら…。

結局昔も今も、きっとこれからも、彼女のために何一つできないことだろう。

こういう想いを、空しさとかブルーとかいうんだろうね、本当にうつろな感じ。

そんなことばかり言っていられない。

彼女が今この瞬間も自責の念に駆られていることは容易に想像がつく。

そう思い、勇気を持って手紙を出してみた。

『帰って来い。もう二度と離さない。僕を信じて欲しい。』

 

彼女は故郷の石川・能登に帰ってきた。

僕のもとに帰ってきてくれたのだ。

これでいい。きっと、これでよかったんだ。

僕『今夜、流星が見えるらしいよ。』

彼女「本当!素敵ね。」

僕『あの丘の上で、七時に待ち合わせよう。』

彼女「了解。」

お約束通り、五本の流星を眺めることができた。

気がつくと、何も言わずに僕の肩に寄り添う彼女の姿があった。


ある日君は決意した。

あの後静岡の短大を卒業して、七尾でOLをしていた、僕と同じ二四歳の君が、国立大学の医学部を目指して受験勉強を始めるのだと。

明日にでも結婚したいと願っていたこの僕にしてみたら、まさに寝耳に水という奴だ。

でも、僕自身はそういう現代女性の力強い生き様みたいなものに好感を持つ方であったから、応援してあげようと素直に受け止めた。

僕の今の経済力の具合なら、ゆくゆくは家族になるだろう彼女の六年間の学生生活を養っていくことぐらいなら何とかなる状態だ。

僕「三〇にもなって六年間養ってた女医にふられたなんて噂にでもなったら、俺末代の恥だぜ。」

君「そうね。じゃあ、籍を入れて、正式に扶養してもらおうかしら?」

僕「いいのか。そんなこと言って?」

君「別にキャンパスライフを謳歌して、あなたの代わりのボーイフレンドを探そうなんてつもりじゃないんだし。生活が安定していた方が勉学にも集中できるでしょ。」

なんと君は翌日に、署名と押印をした婚姻届を僕のアパートに持ってきた。

僕「さすがの俺もここまで心の準備をしてないぞ。君の辞書にはマリッジブルーとかいう言葉は載ってないのかい?」

君「マリッジなんかでブルーになってられないでしょ。それよりブルーなのは私のふるさとの総合病院がドクターとナースが不足していて閉鎖の危機にあるらしいのよ。そういうことに危機感感じてる若者が非常に少ないらしいのね。」

僕「そうか。それで医学部か・・・。」

正直僕は君をなめていた。

偏差値が五五くらいの短大に通ってたくせに国立の医学部受験って・・・、そう思ってた。

でも短大では一生懸命頑張って、英検準一級と簿記の二級、おまけに秘書検定まで取得して、優秀な成績で卒業したことを考えると、あながち無謀な挑戦とはいえないかもしれない。

不安だった心変わりもこの婚姻届によって解消されたことだし、あとは経済的に、また精神的な支えとなれるよう、僕自身も強くあらねばと、心に誓う。

君が自身の思いを遂げるために大きくはばたけるよう、僕がそのつばさになろう。

最近では、君のような英断を下す女性が増えてきているらしい。

それに振り回されていると情けない世の男達が嘆いているとのことだが、決して僕はそうは思わない。

男性が出世できるのも女性が支えてくれているおかげ、女性が様々なトライに挑めるのも男性の理解があってのことだと思うから。

結局、入籍も経済的支援もしない代わりに、困ったことがあったら、いつでも支援協力するという約束で、僕らは、再び遠距離の中で思いを通わせることとなった。

一枚の婚姻届の重みを、僕はいまだ受け止め切れないで、デスクの引き出しの中に留めていた。

青臭い恋愛感情から、ひととき解放されて、僕は夢のひとつであった作家活動を始めることにした。


ある晴れた日の出来事…。

「今日は海を見に行こうかな。」

海が見える公園までは、車で十分ほどで着く。

そこで、村上春樹の新作でも読もうか。

ゲーテの詩集も悪くないな。

海の見える公園、最近では「道の駅」とかいうらしい。

きっちり駐車のラインが引かれて整った感じは、近代公園としてはアリなのかもしれないが、景観との調和という点では???という感じも拭えないが、こんな不景気なご時勢で、なんでも仕事や事業にしなければ、こんな町はすぐに倒れてしまうのだろうと思えば、多少の心苦しさにも閉口するしかない。

とにかく車の出入りが激しい。

トイレと缶ジュース、それだけのために立ち寄るドライバーたち&釣り人、ちょっと自分とは趣の違いを感じる層の人たちの言動に、少し苛立ちを感じながらも、僕はベンチで流れ行く人たちを、眺めて( 眺められて?)いた。

どうせ、心穏やかに過ごせる場所など、この街のどこを探しても見つからないのなら、多少の妥協もやむをえないところだ。

そうそうあったよね。

「静かな場所」が。

君と初めて行ったあの喫茶店が、とうとう店じまいするらしい。

ホットとアイスのコーヒー、二種類のメニューしかない店だった。

マスターが頑固だったわけではなく、そのコーヒーが抜群に美味で、休日などは行列ができるような店だった。

フェアトレードで輸入した豆のみを使っているということで、地元メディアからの取材が殺到した。

が、目立つことを好まぬマスターは、あらゆる取材を丁重にお断りしていた。

君が連れてきてくれたこの店、平日はとても静かな雰囲気で、読書や作文には快適な環境だ。

僕「マスター、文子は、まだここに来ることはあるの?」

マスター「君は知らなかったのか。彼女は今、医療研究の一環で東北へ行ってるんだよ。」

僕「そうだったんですか。知らなかった…。」

マスター「実はね、フミちゃんは私の孫なんだよ。」

僕「そうだったんですか??知らなかったです。それでまたなんで彼女は東北に。」

マスター「君と離れて、金沢大学の医学部に入学したことは知ってるよね。」

「はい。」

マスター「アルツハイマーの進んだ研究が東北大学の公開講座にあると聞いて、半年間の聴講に出かけたんだよ。ママと同じ病の人たちを救い癒すために、人生を捧げたいとね。本当は君のそばにずっといたかったけど、今の自分だと、君に依存ばかりして、自立できないと思ってたみたいだね。」

僕「僕は文子さんがそばにいてくれるだけで、本当にそれだけで幸せでした。この店に足しげく通うのも、いつか会えるいつか会える、そう信じていたから。」

すると、入り口から物音が。

「チャリーン」。

そこに現れたのはなんと、・・・文子だった。

文子「拓郎くん・・・。」

僕「文子・・・。」

マスター「フミちゃん、今日はどうしたんだい?」

文子「学会の発表が、金沢であって、それで寄ったんだけど。」

僕「文子、元気そうだね。」

文子「実習実習研究発表研究発表で、頭錯乱してるけどね。私もジイジからあなたのことは聞いていたわ。作家目指して努力してるって。今の私も同じ。ドクター目指して懸命に生きているの。私たち違うところを見つめて生きているけど、いつもどこかで繋がっている。現実の距離と心の距離、どちらかが繋がっていたら十分だと思う。私ずっとあなたのことを思って日々を過ごしてた。あなたも同じ気持ちでいてくれたら、とそう願っていたのよ。」

僕「ありがとう、文子。こういうことは僕が先に言うべきことなのに。」

マスター「さあ、ふたりに神のご加護がありますように。」

マスターが店に飾ってあるパイプオルガンで、賛美歌のような曲を弾きながら歌い始めた。

僕「マスターってこんな人だっけ(笑)。」

文子「最近はまっているらしいのよ( 笑)。」

僕「仙台にはいつ帰るの?」

文子「今日の夕方には帰るわ。まさかあなたに会えるとは思わなかったから、カツカツの日程組んでたの。ごめんなさい。これ新しい携帯の番号とアドレス。しばらくひとりで学問に専念したくて、通信を絶っていたのよ。東北に行っている間だけのつもりで。おかげでよい学習ができているわ。」

文子は名刺を手渡した。

僕「最後に桜でも見に行こうか。今日ぐらい、小丸山公園あたりは満開だよ。」

文子「いいわね。行きましょう。」

その門出を祝うかのような晴天の空の下、荘厳に咲き誇る桜の木々の間を、満面の笑みを浮かべて歩くふたりの姿があった。


それから6年後君は大学をストレートで卒業し、現在はふるさとの総合病院の小児科で研修医として働いている。

日々苦しみ、悩みながら、天命と自分を律して努力している様子から、患者や保護者からも好感を持たれているようだ。

そうしていよいよ僕たちも、きちんとした形で結婚を意識し始めた頃、彼女の父親が思いもがけぬことを言い出したのである。

宗教上の理由で、僕らの結婚を認める訳にいかないというのだ。

     

彼女の両親は熱心なカトリック教徒で、共に寛容で優しい方だったが、僕の家の仏教の宗派がどうも納得できなかったらしい。

列島無宗教のご時世にそんなことで、愛する二人が引き裂かれるというのは、なんとも時代錯誤もいいとこだ。

文子は三一、確かに世間一般でいわれる結婚適齢期はとうに過ぎていて、父親の焦る気持ちは良くわかる。

しかし、もう少し話ができれば、埋まる溝ではないのか?

夫婦別姓や事実婚、このご時世には様々な結婚の形があるではないか?

そもそも結婚たるもの、本質的には形式めいた書類一枚でくくられるものなんかではないはずだ。

愛する二人がともに暮らし、求め合ったなら子孫を産みおとす、それが結婚というものではないか。

そこに宗教だの、政党などという本人たちの意思とは直接関係のないバックグラウンドによって、引き裂かれるなんてことが、この自由を約束された時代にまかり通っていいものなのか。

でも少し頭を冷やして考えた。

僕がこんなにいろんなことを考えるのは、やはり文子のことを心から愛しているからだ。

この思いをなんとか、父上に、訴え伝えれば、きっと理解してくれるはずだ。

文子に電話をした。

僕「やっぱり君のことを諦められない。君が僕以外の男性と結ばれるなんて。」

文子「私も同じ気持ちよ。パパもどうかしてるわ。宗教上の理由なんかで私たちを引き裂くなんて考えられない。もうこんな家出ていくわ。二人でどこか遠い街で暮らしましょう。それこそ、戸籍にも何も捕われずに。」

僕「文子・・・。でもそれはまずいよ。まだ僕らは、訓告されただけで、絶縁しろと断言されたわけじゃないのだから。」

文子「そうね。あなたも私もパパもそしてあなたも、ろくに話もしないで勝手にヒートアップしているところがあるわね。明日時間取れる?三人でよく話し合いましょう。」

僕「そうだね。」

待てよ。明日話し合うって、文子を嫁に下さいって、そんなこと言っていいのか?


僕らの交際は至ってプラトニックであった。

初めてキスをしたのは、正式に付き合い始めて五年目のこと、ふたりで眺めた流星群があまりに美しくて、思わず文子を抱きしめていた。

そんな僕たちであったから、セックスはもちろん、ふたりで夜を明かすことすらなく、長い日々を過ごしていた。

僕は本当に文子を大切に思っている。

どこの馬の骨ともわからぬ輩に奪われるくらいなら、彼女を殺して、僕も死ぬというのも、決して悪くない選択肢だ。

これだけの思いを抱えて、明日の話し合いに臨むなら、きっとご両親もわかってくれるだろう、そうであると信じたい。


そして運命の日が来た。

僕は、一着しかない背広を着て、片町のカフェに向かった。

文子とその父親がやってきた。

文子の父親「今日はじっくり話を聞こうと思ったが、夕べひと晩じゅう文子に泣き付かれて、覚悟したよ。文子を幸せにしてあげてくれ。なあ拓郎君。」

僕「はい。文子さんを生涯、全力を以って守り抜くことをお約束します。いいよな。文子。」

文子「拓郎・・・。はい。」

こうして僕らは、正式に結婚することとなった。

ふたり合わせて十万円のペアリングを買って、友人を招いた食事会をやる以外に特別なことは何一つしなかった。

結婚式は宗教上の問題で、ここだけは譲ってもらえなかった。

新婚旅行もこれといって希望もなかったので、形式的なものはやめようということになった。

僕にしてみれば、これから毎日文子のそばにいられるということが、なによりの喜びだったし、きっと彼女もそう思ってくれていると思う。

何度も御破産になりかけたふたりだからこそ、お互いの大切さがよくわかる。

文子の父上の真意は意外とこういうところにあったのかもしれないとか思い始めた。

障壁を乗り越えたことで、改めて深まった愛。

いつだって両親の存在は偉大なものである。

それにしても思うのは、僕らは小さな世界で生きている。

些細なことで、傷つけ合って、別れるだのなんだのって。そういうのを超越した世界で愛し合うことができているくせに、それを認めようとしない。

もっと素直に、確かめ合えればいいのに。

今度の体験で僕も勉強したよ。

素直と正直を貫くことを恐れちゃいけないってね。

僕は決めたんだ。

昨日まで僕は自分の為に生きてきた。

今日からは、文子ひとりの為だけに生きていこうと。

決して、こんな思いを伝えることはしないだろうけど。

























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