夕方の未読
研究室には、夕方になると増えるものがある。
メールである。
朝には三通だった未読が、昼には七通になり、夕方にはなぜか二十一通になる。
その増え方には、繁殖という言葉を使いたくなる。
「高槻さん」
佐伯くんが、パソコンの画面を見つめたまま言った。
「はい」
「未読メールは、読まないでいるあいだ、重くなっていくと思いませんか」
「物理的には重くなりません」
「でも、明らかに質量を持っています」
「それは罪悪感です」
「罪悪感には質量があるんですね」
「たぶんあります」
佐伯くんは、深くうなずいた。
「では、僕の受信箱はいま、かなり重いです」
「何通ですか」
「未読が四十八通あります」
「それは重いですね」
「しかも、そのうち三通は教授からです」
「それは重いを通り越して危険物です」
佐伯くんは、椅子の上で少し小さくなった。
夕方の研究室は、昼間より少し静かになる。
人が減るからではない。
それぞれが、自分の中に残った仕事と向き合いはじめるからである。
論文の修正。
明日のスライド。
共同研究先への返信。
倫理審査の書類。
そして、朝からずっと見ないふりをしていたメール。
研究室では、未読という言葉は、ただ読んでいないという意味ではない。
まだ返事をしていない、まだ決めていない、まだ責任を引き受けていない、という意味を含んでいる。
「佐伯くん」
「はい」
「まず教授のメールを開きましょう」
「高槻さん」
「はい」
「順番に開くべきではありませんか」
「いいえ。重いものから先です」
「筋トレみたいですね」
「研究は筋トレに似ています」
「そんなに健康的なものですか」
「いいえ。不健康な筋トレです」
佐伯くんは観念したように、教授からのメールを開いた。
一通目は、ゼミの日程変更だった。
「軽いです」
「よかったですね」
二通目は、論文の図の差し替え依頼だった。
「中くらいです」
「今日中に返しましょう」
三通目は、件名がなかった。
佐伯くんは動きを止めた。
「高槻さん」
「はい」
「件名がないメールは、重さを測れません」
「開けるしかありません」
「中身が爆発するかもしれません」
「メールは爆発しません」
「精神的にはします」
それは否定できなかった。
佐伯くんは、ゆっくりとクリックした。
本文は一行だけだった。
『この前の発表、よくなっていました。』
佐伯くんは、しばらく何も言わなかった。
画面を見つめたまま、まばたきをした。
「……軽いですね」
「軽いですか」
「いえ」
佐伯くんは、小さく首を振った。
「これは、別の重さです」
私は画面を見た。
教授のメールは、本当に一行だけだった。
飾りもなく、説明もなく、ただそれだけだった。
けれど、その一行は、佐伯くんの背中を少しだけまっすぐにした。
言葉には、重くするものと、支えるものがある。
同じ一行でも、未読のまま置いておくと重くなり、読んだ瞬間に少しだけ人を軽くすることがある。
「返信しますか」
私が聞くと、佐伯くんは少し考えた。
「はい」
「何と書きますか」
「ありがとうございます、でしょうか」
「よいと思います」
「でも、それだけでは軽すぎませんか」
「軽くていいんです」
「そうなんですか」
「感謝は、重くしすぎると返せなくなります」
佐伯くんは、ゆっくりとうなずいた。
そして、短い返信を書いた。
『ありがとうございます。次回は考察の部分をもう少し整理します。』
送信ボタンを押したあと、佐伯くんは大きく息を吐いた。
「三通減りました」
「はい」
「でも、まだ四十五通あります」
「人生ですね」
「人生は未読が多すぎます」
「既読にしていきましょう」
それから私たちは、しばらく黙ってそれぞれのメールを開いた。
急ぎのもの。
急ぎではないけれど、放っておくと急ぎになるもの。
返事に二分しかかからないのに、三日間心の片隅に居座っていたもの。
丁寧に書こうとしすぎて、かえって何も書けなくなっていたもの。
ひとつずつ開いて、ひとつずつ返す。
ただそれだけのことなのに、夕方の研究室の空気は少しずつ軽くなっていった。
給湯室のポットが、小さく鳴った。
冷蔵庫が、低くうなった。
冷凍庫の奥では、何かがまだ眠っていた。
それでも今日は、眠らせたままにしないものが少しだけあった。
「高槻さん」
佐伯くんが言った。
「はい」
「未読メールは、読まれるのを待っているんでしょうか」
「たぶん、返事を待っている相手がいるだけです」
「相手」
「はい」
「そう考えると、少し怖いですね」
「でも、少し優しいでしょう」
佐伯くんは、受信箱を見た。
未読はまだ三十二通あった。
全部は終わらない。
今日のうちに、すべてを軽くすることはできない。
それでも、四十八通だったものが三十二通になった。
その数字は、世界を変えるほどではないけれど、明日の朝の自分を少しだけ助けるには十分だった。
「高槻さん」
「はい」
「明日の僕は、今日の僕に少し感謝しますかね」
「すると思います」
「では、今日の僕は、明日の僕に少し恩を売ったことになりますね」
「その考え方は少し嫌です」
「研究者は未来の自分との共同研究者です」
「急にいいことを言わないでください」
佐伯くんは、少し得意そうに笑った。
私は最後に、自分の未読メールを一通開いた。
共同研究先からの、短い確認だった。
返事は、たった三行で済んだ。
送信したあと、画面の数字がひとつ減った。
それだけで、胸の奥のどこかが少しだけ軽くなった。
研究室には、夕方になると増えるものがある。
けれど、夕方にしか減らせないものもある。
誰かから届いた言葉を、いつまでも未読のままにしないこと。
自分の中で重くなりすぎる前に、少しだけ開いてみること。
返せるものから、返していくこと。
佐伯くんは、画面を閉じながら言った。
「高槻さん」
「はい」
「未読ゼロの人間になりたいです」
「無理です」
「即答ですね」
「人間は未読を抱えて生きています」
「では、せめて未読に支配されない人間になります」
「それは、かなり立派です」
窓の外は、もう暗くなっていた。
研究室の明かりだけが、夕方の残りを引き止めているように見えた。
帰る前、佐伯くんがもう一度パソコンを開いた。
「どうしました」
「教授から返信が来ました」
「早いですね」
佐伯くんは、画面を見て、少し笑った。
本文は、また一行だけだった。
『期待しています。』
佐伯くんは、しばらくその一行を見ていた。
「高槻さん」
「はい」
「これは重いです」
「はい」
「でも、悪くない重さです」
私はうなずいた。
研究室には、いろいろな重さがある。
責任の重さ。
締切の重さ。
未読の重さ。
期待の重さ。
けれど、全部が人を沈めるわけではない。
ときどき、少しだけ背筋を伸ばしてくれる重さもある。
佐伯くんは、そのメールに返信しなかった。
ただ既読にして、静かにパソコンを閉じた。
それでいいと思った。
返事をしなくても、受け取るだけで十分な言葉もある。
給湯室の主も、冷蔵庫の番人も、冷凍庫の眠り姫も、今日は何も言わなかった。
たぶん、夕方の未読には、夕方の未読なりの作法があるのだろう。
私たちは電気を消して、研究室を出た。
廊下に出ると、佐伯くんがぽつりと言った。
「明日は、未読を二十通台にします」
「現実的でよい目標です」
「その次は十通台です」
「急に野心的ですね」
「最終的にはゼロです」
「それは夢です」
「研究には夢も必要です」
「未読ゼロを研究の夢にしないでください」
佐伯くんは笑った。
その声は、昼間より少し軽かった。
メールはまだ残っている。
仕事もまだ残っている。
明日になれば、また新しい未読が届く。
それでも、今日ひとつ開いた言葉が、明日の自分を少しだけ助けることがある。
研究室のドアが、静かに閉まった。
その音は、送信ボタンを押したときの音に少し似ていた。




