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佐伯くんと高槻さん

夕方の未読

作者: くるみ
掲載日:2026/05/25

研究室には、夕方になると増えるものがある。


メールである。


朝には三通だった未読が、昼には七通になり、夕方にはなぜか二十一通になる。

その増え方には、繁殖という言葉を使いたくなる。


「高槻さん」


佐伯くんが、パソコンの画面を見つめたまま言った。


「はい」


「未読メールは、読まないでいるあいだ、重くなっていくと思いませんか」


「物理的には重くなりません」


「でも、明らかに質量を持っています」


「それは罪悪感です」


「罪悪感には質量があるんですね」


「たぶんあります」


佐伯くんは、深くうなずいた。


「では、僕の受信箱はいま、かなり重いです」


「何通ですか」


「未読が四十八通あります」


「それは重いですね」


「しかも、そのうち三通は教授からです」


「それは重いを通り越して危険物です」


佐伯くんは、椅子の上で少し小さくなった。


夕方の研究室は、昼間より少し静かになる。

人が減るからではない。

それぞれが、自分の中に残った仕事と向き合いはじめるからである。


論文の修正。

明日のスライド。

共同研究先への返信。

倫理審査の書類。

そして、朝からずっと見ないふりをしていたメール。


研究室では、未読という言葉は、ただ読んでいないという意味ではない。

まだ返事をしていない、まだ決めていない、まだ責任を引き受けていない、という意味を含んでいる。


「佐伯くん」


「はい」


「まず教授のメールを開きましょう」


「高槻さん」


「はい」


「順番に開くべきではありませんか」


「いいえ。重いものから先です」


「筋トレみたいですね」


「研究は筋トレに似ています」


「そんなに健康的なものですか」


「いいえ。不健康な筋トレです」


佐伯くんは観念したように、教授からのメールを開いた。


一通目は、ゼミの日程変更だった。


「軽いです」


「よかったですね」


二通目は、論文の図の差し替え依頼だった。


「中くらいです」


「今日中に返しましょう」


三通目は、件名がなかった。


佐伯くんは動きを止めた。


「高槻さん」


「はい」


「件名がないメールは、重さを測れません」


「開けるしかありません」


「中身が爆発するかもしれません」


「メールは爆発しません」


「精神的にはします」


それは否定できなかった。

佐伯くんは、ゆっくりとクリックした。

本文は一行だけだった。


『この前の発表、よくなっていました。』


佐伯くんは、しばらく何も言わなかった。

画面を見つめたまま、まばたきをした。


「……軽いですね」


「軽いですか」


「いえ」


佐伯くんは、小さく首を振った。


「これは、別の重さです」


私は画面を見た。

教授のメールは、本当に一行だけだった。

飾りもなく、説明もなく、ただそれだけだった。


けれど、その一行は、佐伯くんの背中を少しだけまっすぐにした。


言葉には、重くするものと、支えるものがある。

同じ一行でも、未読のまま置いておくと重くなり、読んだ瞬間に少しだけ人を軽くすることがある。


「返信しますか」


私が聞くと、佐伯くんは少し考えた。


「はい」


「何と書きますか」


「ありがとうございます、でしょうか」


「よいと思います」


「でも、それだけでは軽すぎませんか」


「軽くていいんです」


「そうなんですか」


「感謝は、重くしすぎると返せなくなります」


佐伯くんは、ゆっくりとうなずいた。

そして、短い返信を書いた。


『ありがとうございます。次回は考察の部分をもう少し整理します。』


送信ボタンを押したあと、佐伯くんは大きく息を吐いた。


「三通減りました」


「はい」


「でも、まだ四十五通あります」


「人生ですね」


「人生は未読が多すぎます」


「既読にしていきましょう」


それから私たちは、しばらく黙ってそれぞれのメールを開いた。


急ぎのもの。

急ぎではないけれど、放っておくと急ぎになるもの。

返事に二分しかかからないのに、三日間心の片隅に居座っていたもの。

丁寧に書こうとしすぎて、かえって何も書けなくなっていたもの。


ひとつずつ開いて、ひとつずつ返す。

ただそれだけのことなのに、夕方の研究室の空気は少しずつ軽くなっていった。


給湯室のポットが、小さく鳴った。

冷蔵庫が、低くうなった。

冷凍庫の奥では、何かがまだ眠っていた。


それでも今日は、眠らせたままにしないものが少しだけあった。


「高槻さん」


佐伯くんが言った。


「はい」


「未読メールは、読まれるのを待っているんでしょうか」


「たぶん、返事を待っている相手がいるだけです」


「相手」


「はい」


「そう考えると、少し怖いですね」


「でも、少し優しいでしょう」


佐伯くんは、受信箱を見た。


未読はまだ三十二通あった。

全部は終わらない。

今日のうちに、すべてを軽くすることはできない。


それでも、四十八通だったものが三十二通になった。

その数字は、世界を変えるほどではないけれど、明日の朝の自分を少しだけ助けるには十分だった。


「高槻さん」


「はい」


「明日の僕は、今日の僕に少し感謝しますかね」


「すると思います」


「では、今日の僕は、明日の僕に少し恩を売ったことになりますね」


「その考え方は少し嫌です」


「研究者は未来の自分との共同研究者です」


「急にいいことを言わないでください」


佐伯くんは、少し得意そうに笑った。


私は最後に、自分の未読メールを一通開いた。

共同研究先からの、短い確認だった。

返事は、たった三行で済んだ。


送信したあと、画面の数字がひとつ減った。

それだけで、胸の奥のどこかが少しだけ軽くなった。


研究室には、夕方になると増えるものがある。

けれど、夕方にしか減らせないものもある。


誰かから届いた言葉を、いつまでも未読のままにしないこと。

自分の中で重くなりすぎる前に、少しだけ開いてみること。

返せるものから、返していくこと。


佐伯くんは、画面を閉じながら言った。


「高槻さん」


「はい」


「未読ゼロの人間になりたいです」


「無理です」


「即答ですね」


「人間は未読を抱えて生きています」


「では、せめて未読に支配されない人間になります」


「それは、かなり立派です」


窓の外は、もう暗くなっていた。

研究室の明かりだけが、夕方の残りを引き止めているように見えた。


帰る前、佐伯くんがもう一度パソコンを開いた。


「どうしました」


「教授から返信が来ました」


「早いですね」


佐伯くんは、画面を見て、少し笑った。

本文は、また一行だけだった。


『期待しています。』


佐伯くんは、しばらくその一行を見ていた。


「高槻さん」


「はい」


「これは重いです」


「はい」


「でも、悪くない重さです」


私はうなずいた。


研究室には、いろいろな重さがある。

責任の重さ。

締切の重さ。

未読の重さ。

期待の重さ。


けれど、全部が人を沈めるわけではない。

ときどき、少しだけ背筋を伸ばしてくれる重さもある。


佐伯くんは、そのメールに返信しなかった。

ただ既読にして、静かにパソコンを閉じた。


それでいいと思った。

返事をしなくても、受け取るだけで十分な言葉もある。


給湯室の主も、冷蔵庫の番人も、冷凍庫の眠り姫も、今日は何も言わなかった。

たぶん、夕方の未読には、夕方の未読なりの作法があるのだろう。


私たちは電気を消して、研究室を出た。

廊下に出ると、佐伯くんがぽつりと言った。


「明日は、未読を二十通台にします」


「現実的でよい目標です」


「その次は十通台です」


「急に野心的ですね」


「最終的にはゼロです」


「それは夢です」


「研究には夢も必要です」


「未読ゼロを研究の夢にしないでください」


佐伯くんは笑った。


その声は、昼間より少し軽かった。

メールはまだ残っている。

仕事もまだ残っている。

明日になれば、また新しい未読が届く。


それでも、今日ひとつ開いた言葉が、明日の自分を少しだけ助けることがある。

研究室のドアが、静かに閉まった。


その音は、送信ボタンを押したときの音に少し似ていた。

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