大山鷹一郎の不思議捜査シリーズ第5作~その3
この回のラストです。
このラストから6作目までが転生ゆえのあれこれになってきます。
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白水かおるはずっと天界にいて英気を養ってきていたのだが、やっとエネルギーがフルになった。
天界には実体はなく、魂の束縛もない。だがいつまでもそれだと、魂の役割がなくなってしまう。魂とは、肉体という器に入ることで現実世界での活動が可能になるものなのだ。
エネルギーが満たされると、普通は転生する。しかし修行を積んだ裏衆は現実に生きていながら天界に行くことができる。そして、元の肉体に戻ることができる。光として認識していた世界から、かおるの魂は肉体に戻る過程で人間が認識できる魂の姿になって表れる。
かおるの魂は毘沙門天の姿になり、そして眠っている肉体に戻ってきた。ぼんやりとした風景が目の前にあった。いつからその風景があるのか、かおるにはわからなかった。
しかしやがて、その風景が徐々にリアルな感触として体感できるようになってきていた。
「あたしの部屋・・・か。」
かおるはゆっくりと起き上がり、大きく背伸びをした。豊かな胸が、汗で濡れた下着に透けて見えていた。
「嫌だ、汗びっしょりだ。」
かおるは新しい下着を出し、シャワーを浴びた。スッキリしたところで着替え、腹が減っていたのでトーストを焼いてレタスと紅茶を添えてバクバクと食べた。
「あー、落ち着いた。」
かおるは再び背伸びをして、スマホを見た。
「2日寝ていたのか・・・。」
あれだけの無念を増殖させられた魂と接してきたのだ。芯から疲れていた。そしてもう一杯の紅茶を入れ、飲みながらこれまでのことを思い出していた。
(彼らの合体と対決か・・・いや、そうじゃない。やはりあの方が先よね。)
裏衆とは、こういう通常人の目には入らないものと戦う定めを持っている。戦国時代において鞍馬で開眼した若い僧侶によって創設され、天海僧正によって完成された天台裏衆は、基本的には代々受け継がれていくことで力を蓄えていく。
しかし毘沙門天の場合は不定期でその都度現れる。現世においては、かおるに憑依していた。かおるは北条家の娘政子の転生であり、生まれながらにして毘沙門天の能力を持っていた。天台裏衆の修行は当然行ってはいたのだが、その能力はすでに開眼もしていた。
しかし、今回相手に立ち向かえるのはかおるではない。この相手と相対する定めにあるのは、夫である頼朝の転生でしかない。
それが、大山鷹一郎だ。
先に認識できていたかおるは、ずっと頼朝の転生を探してきていた。そしてようやく会えていたのだが、頼朝の魂は強力であるがゆえに、堅固な心の壁を作ってその中にいた。だがいつかは目覚めなければならない。
頼朝が復活していくためには、九尾の狐、良橋亀子、大黒天、カグツチらが復活して頼朝の魂を接していかねばならなかった。だが、彼らを蘇らせてきたのは、かおるではない。
「後白河院・・・稀代の天狗、か。」
彼らとて、後白河院の手駒にすぎない。さらに言えば、そうさせようと意図したわけでもなかった。後白河院と頼朝の因果がそうさせたのだ。
頼朝の目覚め役として現れたのが、金剛力士の性を持つ裏衆山高梅良だった。大山はそろそろ目覚めているはずだ。かおるが目覚めるときは、そうなっているはずだったからだ。
かおるはそのときを静かに待った。やがて、部屋のチャイムが鳴った。と同時に、頼朝の声がかおるの中に響いてきた。
わかってはいたのだが、かおるの心は激しく動いた。マンションのロックを解除に、かおるは玄関の前で立って待った。だがチャイムは鳴らなかった。
そして言葉にならない意思が伝わってきた。それを察したかおるは、ゆっくりと玄関の鍵を開けた。そこには明らかに目の色がこれまでとは違っている大山と、静かに笑みを浮かべている山高が立っていた。
「政子・・・待たせたな。」
「殿!」
大山とかおるは、山高がいるにも関わらず抱擁した。
35
「・・・懐かしいな。ここ。」
羽間が訪れたのは、県の北東部に位置する境界地の中園村だった。もう夕方であり、カラスが鳴いていた。ここにかつてあった中園中学校のグラウンドに来ていた。
すでに廃校になっており、聞くところによるともうすでに高校生以下の若者はいないらしい。年々過疎化が進んでいて、ここを出ていった羽間にとっては少々罪意識さえあるくらいだった。
ここでは何でも行われていた。中学のイベントなのに、なぜか体育祭も文化祭も、成人式でさえも、ほとんど村民総動員だった。村の誰がどこで遊んでいるか、出ていったところはどこなのか、どことどこの家が姻戚関係にあるのかなど、全て知っていた。
ありがちな話だが、同性が多かった。なので、どこの集落の何々の分家か本家か、と言う認識で会話するのが当たり前だった。野菜や果物など買った覚えがないくらい物々交換やお裾分けなどが常識だし、村のほとんどが農家だった。
しかし現代においては、農家よりも都会での仕事を優先しがちだ。羽間の一家は父親がいなくなって間もなく土地ごと売却して、川北のアパートに越してきていた。羽間が警察学校の途中のことだったので、ここに来るのは10年ぶりだった。
目を閉じると、あの頃のことがすぐに瞼の裏に浮かんできた。あの当時でさえ、学年は1クラスしかなかった。全員が親戚のような付き合いだった。羽間は自然と校歌を口ずさんでいた。
「晴れた空 浮かぶ雲が 空蝉山の 頂に・・・。」
久しぶりでも、こういうものは忘れないものだ。羽間が続きを歌おうとしたとき、あの声が聞こえてきた。
「我らの集い 高らかに 若人の力 いざゆかん。」
「祥子!」
その声で、羽間はすぐに誰だか理解した。羽間は校舎から出てきた女性の影を見て叫んだ。金髪にサングラスをかけ、ノースリープのシャツを着ていた。遠目からもわかる、この場所にふさわしくない派手な姿だった。
だが、胡蝶蘭マキの頃ほどの濃いメイクではなく、ほぼスッピンだった。それでも美しい顔立ちだった。手にはバッグを持っていた。
小宮山祥子は羽間の5m近くまで来て歩を止め、サングラスを外した。
「久しぶり。相変わらずね。」
顔を見るのは、ミステリーファイアーの件以来だった。
「・・・ああ。」
「やっぱりここだって思った?」
「ああ。俺とお前が会うのって、ここしかないだろう。」
「ふふふ・・・どうしてあたしがここに来るって思ったのかしら?」
「刑事の勘、だろうな。」
「そうよね。ケンちゃんは警察の人だしね。ケンちゃんさ、あの時にはあたしが小宮山祥子だって気づいてたでしょ。」
「ああ。」
「あたしも気がついてたけど。じゃあ、お互いそういうことだったのよね。でも名乗らなかったのは・・・違うでしょ?」
「俺は・・・知人だと捜査から外されるからな。」
「それだけ?」
「え?」
「あたしはわかっとった。あたしを見るときのケンちゃんの目の奥には、すごく優しい光が見えてた。チーフのときとは全然違ったもんねえ。あの時のケンちゃん、デートした時の目が見えたから。そういうことでしょ?」
羽間は内心、喜んでいた。まず、あの頃の言葉で祥子が話してくれたことだ。そして、祥子が言ったことがその通りだったからだ。捜査という仕事ではあったが、自分にとっての初恋の人の足を洗わせたかったのだ。
だが、今はそんなことを認めているわけにはいかない。
「馬鹿。なんば知った風なことを言っとるとや?じゃあお前の方はどげんや。」
つい方言が出てしまう。祥子の顔が曇った。そして無表情になった。
「あたしは・・・逮捕してほしかった。」
「な・・・なんだって?」
「さっきも言ったけどさ、あたしは腹違いの兄貴を巻き込みたくなかった。そして行真会を潰してほしかった。」
「じゃあ、あの時協力すりゃ良かっただろ。」
「できたと思うの?行真会は全員、麻薬でプラーナ・ペイチャックの奴隷だって思われてた。警察には一切の情報を漏らさないこと、漏らしたら自分で自分の始末をつけること・・・そういう暗示だった。あたしは担当刑事がケンちゃんと知ったときに、洗いざらい話したかった。でも、ちょっとでもそう思うと、あたしはいつも舌を歯の間に滑り込ませてた。意味はわかるよね。」
羽間は、すぐに思い出した。肝心なことになると、対象者全員が妙な口ごもり方としていたことを。ありとあらゆるネタや手法を駆使して吐かせようとはしたが、その最中に何人も気分が悪くなっていた。
「そうか。それで吐けなかったんだな。」
「そういうこと。あたしを逮捕して、自由にしてほしかった。行真会も潰してほしかった。あんなの、地球上から消えてしまえばよかった。」
「じゃあどうして今になって喋れるんだ?麻薬から離れられたのか?」
祥子は軽く笑った。
「違うよ。あたしと弟で、大芝居を打ったのよ。あたしが殺されたってことにしてね。いや、実際に死んだけどね。」
「は?お前、何言うとっとや?」
「あたしたちにかけられた暗示は、日常で意識がなくならないと解けないようになってた。だから、あたしは弟のいる京都に行って、医者に暗示をかけて、フグ毒で仮死状態にさせてもらったの。だからあたしは死んでいたの。あの脅迫状は嘘でもないわけ。もっとも、ちゃんと生活できるようになるまで半年近くかかったけどね。」
フグ毒は致死量でなければ、時として仮死状態になる。しかしそれを試すとは相当の覚悟がなければできない。
「それで京都にいたのか・・・。」
「一度帰ってきて、あの脅迫状を『秘抄商会』の燃田に作らせたの。そしてあの大進って刑事に暗示麻薬をこっそり飲ませてね。おばんサンドがケンちゃんの目に止まるようにさせたのよ。」
「なに!お前たち、そんなことやってやがったのか!」
さなえを追い、どこかで飲ませて昏睡させ、暗示をかけたと言うのか。これが行真会、そしてプラーナ・ペイチャックのやり方なのだ。
「そうよ。そうすれば絶対に京都に行かされる。あたしたちは京都であの人が夕食をとる時にまた飲ませたの。後はこちらの暗示通りに動いてくれていたってわけ。三十三間堂の路地にある、たまたま新規オープンの『茶房道尊』になんかに入る?偶然にタクシーの運転手がネタ持ってるハモ料理屋に連れていく?そしてあたしたちをたまたま撮影する?まともに捜査したこともない女に、ここまで成果があると思って?全部あたしたちの掌で踊らされてたのよ。」
羽間は祥子が語る生々しい証言を黙って聴いていた。このまま逮捕して然るべきなのだが、まだその気にはなれなかった。
「じゃあ、そうやって何を伝えたかったんだ?」
祥子は両手をポケットに入れ、少しだけ歩いた。
「すべてよ。」
「すべて?あれがか?後白河天皇だとか、末裔が行真を名乗っただとか、そういうことがか?」
「そう言ったでしょ。」
「ふざけるな!そんなことですべてだと?」
「ふざけてるのはケンちゃん、あんたよ!」
祥子は羽間に近づいてきた。
「あの脅迫状を書いたのも、それを知ってほしかったからなのよ。なんで気が付かないの?さんざん手掛かりを見てきたはずよね。それで気が付かない?ちょっとは頭を使いなさいよ!」
祥子は羽間のすぐ前まで来て止まった。
「でも、もうすぐ信じざるを得なくなる。今から始まるからね。」
「始まる?何がだ?」
祥子は静かに笑っていた。
36
大進さなえは、京都を後にして、大阪伊丹空港から川北行の便に登場した。さすがにもう戻るしかないと判断したからだった。羽間や山内に報告したことではかなり評価もされ、満足のいくものだった。
(あたしにもかなり才能があるんじゃないの?)
などと悦に入りながら、売店で買ったサンドイッチを目の前の背もたれテーブルに置いた。ミックス、卵、野菜、トンカツの4種類全部2個ずつを目の前に置き、コーヒーを注文した。
隣のビジネスマンはそんなに大量のサンドイッチを食べられるのかと思いながら見ていたが、みるみるうちに胃袋に収まっていく様を見て気分が悪くなった。しかしさなえにしてみれば、これでも軽めだった。本当は伊丹空港でガッツリ食べたかったのだが、帰ってから『ラ・クア・クチーナ』で『さなえスペシャル』が待っているのだ。
このくらいで勘弁しておいてやるしかなかった。
(あー、美味しかった。空港のとは言え、『おばんサンド』は美味いわねえ。美味しいもんね。特にこのカツサンドが。)
さなえはコーヒーを飲みながら、カツサンドのパッケージを見て、そして眉間に皺を寄せた。
「あれ?これ、『おばんサンド』じゃなかったわ。朝食の後で、ぼーっとしてたかしら?まあいい。美味しかったしね。でも、なんであたし、間違えちゃったんだろ。」
食べ終えると、帰ってからの報告が待っているので、山内への報告内容をノートにまとめようと、メモを見ながらチェックし始めた。
「ええと・・・今回は羽間の父親の里が京都であると判明したことにより、私、大進は京都に捜査に向かった・・・京都では三十三間堂でたまたま入った『茶房道尊』にて、和歌宮敬子から行真家が明治維新で安井家と行真家に分裂し、別れた行真二朗が『おばんサンド』を創業したことを確認した・・・その写真を見た羽間が、かつて会ったことがある行真宗次郎とそっくりだったことを思い出したからだ・・・さらには、たまたま乗ったタクシーの運転手に紹介された『ハモ料理やましろ』の領収証に『小宮山商会』の名を発見した・・・そして、冷やし天ぷらうどん店で、たまたま後ろの席で聴こえた声の主を羽間に送信したところ、間違いなく殺害されたはずの小宮山祥子と鈷力健だと判明した・・・おそらく小宮山祥子は羽間の初恋の相手である・・・これはいらないな。」
ある程度できあがったところで、さなえは報告レポートを読み返してみた。
すると、妙な違和感があった。
(あ、そうか、『たまたま』が多いんだ、そっかそっか・・・って、ちょっと待ってよ!これじゃ報告書になんないじゃん。根拠がない調査ばっかじゃないの。あたしに才能があったからって報告しなくちゃなんないの?んなことあのオヤジが怒鳴らないはずがないじゃない。え?ダメダメ、整理しなくちゃ。)
さなえはノートにその時の状況を詳細に記述し始めた。何らかのきっちりとした報告が必要になるので、ディテールをもっと明確にする必要がある。
さなえは報告書を整理しながら、ふと妙なことに気がついた。茶房道尊に入って出るまでの時間が妙に長いのだ。同じことが最初のファミレスでも、ハモ料理店でも起こっていた。さなえの感覚では1時間ほどいたはずなのだが、1時間30分ほどいたことになる。
単なる時間感覚の問題なのかもしれないが、さなえはこう見えても几帳面な一面もあった。ここまでルーズになることはない。しかしメモには詳細に時間経過が書かれていた。
間違いなく、これは現実にあったことだ。
「おかしいわねえ・・・どうも気になる・・・おや?」
さなえの手が止まった。
(なんかおかしいって思ったら、全部食事してるとこじゃないの。わかった、寝てたんだ。全部仮眠してる。ええと、寝てないのは、あの小宮山兄弟が近くにきた時くらいじゃない。あたし、こんなに食後寝ることは・・・いや、ない。なんでなの?)
さなえは目を閉じて、その時の状況を思い出そうと集中した。何か違和感があるはずだ。ずっと思い出していく中で、ひとつだけ奇妙なことに気がついた。
(あれだ・・・最初のファミレスで・・・誰かが寝ていたあたしを揺らして起こそうとした・・・って思い込んでた。店員さんも、誰か連れがいたようだって言ってた・・・あそこだ。でも・・・なんで・・・。)
さなえは疑問解決しようと必死で考えた。そもそもプラーナ・ペイチャックと行真会のことだった。ということは・・・さなえの中で閃光が走った。さなえは思わず機内にも関わらず大声を出して立ち上がった。
「わー!」
周囲の客が一斉にさなえを見て、CAが飛んで来た。
「お客様、いかがされました?ご気分が悪いですか?」
しかしさなえはどうでもよかった。自分がここ3日間動いてきたこと全てが、報告書とは全く別の意味で真実が見えてきたからだ。
しかしそれは極めて不愉快であり、なおかつ驚愕のことだった。
「そうか・・・これが・・・これが・・・行真会のやり方・・・じゃあ・・・ひょっとして署長も?・・・お昼を食べてから急に京都に行けだって・・・『おばんサンド』だと思い込んでいたら・・・そういうことだったの?・・・なんてこと!」
さなえは立ち上がったまま、半泣きしていた。
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大山とかおる、そして山高の3人は、木根栖山の麓に来ていた。
ちょうど、午後3時だった。日差しは少し弱まり、涼しい風が吹いていた。無論、目的は長命寺である。
「久しぶりね、ここ。」
かおるはここで、良橋亀子と対決していた。
「そうだったな。まあその・・・俺の浮気が原因だったからなあ。悪かったな。」
大山は少々バツ悪そうに言った。
「いいえ。殿の力がなければ、私は亀にやられていたわ。」
「もうこの時代だ。殿はもうやめてくれ。1000年以上前のことでバツが悪くなるのも気持ち悪い。」
「・・・それもそうね。転生前のことで話しても意味ないわ。でも・・・亀は強かった。法皇様が陰陽師を使って呪をかけた女だったにしてはね。」
「あ奴、転生の時に蛇骨の力を使ったのだろうな。」
「蛇骨・・・。」
近年、明治初期において一度復活したが、八神らによって封じられたとされている、悪の明王である。肉体を有するにあたっては長い年月を要したが、それは戦うためだった。
普段の蛇骨は邪悪さを他の生物に植え付けることしかしない。
「法皇様は、蛇骨の力を有しておられましたからな。」
山高がつぶやいた。かおるも頷いた。
「蛇骨の血を引く真如さんの血統はいつしか日本に戻ってきていて、後白河法皇の血統に紛れ込んだ。でも鳥を守護とする日本では、鳥の化身迦楼羅を宿敵とする蛇骨はなかなか復活できず、長い時間と大量の血を必要としたの。だからそれが唯一可能だったのが・・・。」
「田原坂、か。」
過去の日本における戦争において、織田信長による大虐殺や天草島原の乱のような悲惨な結果になったものはあった。だが、両者ともに多大なる戦死者を出し、なおかつ武家社会が決定的に終焉を迎えたあの時以外にはありえなかった。
「後白河院の中に潜む蛇骨の念は、九郎義経様、十郎行家様、藤原泰衡様を操り、逝去なされた後にも彼らを縛り続けた。彼らの想いを、わたしはしっかりと受け止めてきた。なぜ縛り続けてきたのか・・・それは、蛇骨復活のためよ。」
長命寺の周囲には民家がなく、水田と森があるだけだったのだが、それまで吹いていなかった風が吹き始め、水面が波打ち、木々は揺れ始めていた。
「蛇骨が肉体化するには大量の血を必要とする。まずそれが必要なのね。そのための・・・。」
「プラーナ・ペイチャック独立戦争ということですな。」
山高は周囲の変化に目を泳がせていた。少しずつではあるが、風が強くなってきていた。そして木々の影の中に、何かが動いていた。
「そういうことね。真如さんの血統が残る東南アジアと、彼ら3人の念を合体させて一体とする。そして実体化しようとしている。」
「つまりそれが・・・キング・アスラであり、阿修羅というわけか。」
「そう。日本では困難だった復活でも他国でならできる。あの明治の復活では封じきることはできなかったの。蛇骨の本体たる瘴気と反物質は日本以外で復活の機会を伺っていた。そして、日本で復活できなかった念が、日本での足がかりとして作ったのが行真会ということになるのね。」
「だから、行真の血を引く羽間を引き寄せたわけだ。麻薬と催眠によって信者を操り、日本でもミャンマーでも大量の血を流させることが目的だったんだな。」
「それだけではなさそうだけど・・・もう、こんな話している場合じゃなくなってきたわね。」
長命寺の周囲の風はますます強さを増していた。すでに山高は独鈷を両手に持って構えていた。
「確かに、もう語っている場合ではなくなってまいりました。わたしは結界を張ります。ご準備を!」
山高の声に反応するように、大山は拳銃を持ち、かおるは数珠を右手に持った。風は徐々に黒くなっていき、長命寺はやがて黒い風に囲まれた。
「南無八幡台菩薩!」
大山が守護の呪を唱えると、本堂から光が差し始めた。そして同時に大山の背後に古の武将の姿が現れ始めた。
「叔父上、お力を貸し給え!」
長命寺にはアマビコたる鎮西八郎為朝の魂が宿っていた。そして為朝は、頼朝の声にのみ反応する。長命寺はこの時のために、頼朝が改修していたからだ。もちろん、この風が見え、感じているのは長命寺の中にいる3人だけだ。周囲の人間には何も見えないし、感じない。
さらには、山高の結界によって誰も近づくことはなくなっていた。
「そろそろ、姿を現します!」
山高の声が聞こえて間もなく、上空にあった風が動き初め、彼らの真上にぽっかりと穴が開いているようになった。上空を見上げる3人の目の前には、その穴へ外部から色のついた風が吹いているように見えた。はっきりと着色しているわけではなく、例えて表現するならば、透明度抜群のレースカーテンのような感じだった。
ゆっくりとゆるやかに風は穴の中へと入ってゆき、やがてスピードを上げてなだれ込み、激しく地面を揺らしながらそれは固形化していった。そしてはっきりと認識できる形態と動きに変化していった。
「・・・3体の怨念が・・・重なりあっていく・・・。」
かおるはその3体が何なのか、すでに体験していた。
「九郎に十郎・・・そして泰衡殿・・・か。」
大山にとっては苦い記憶が蘇ることだった。
「退かれるのであれば、今ですぞ。」
山高が声を掛けた。大山の答えは決まっていた。
「退くものですか。退いたところであ奴らは地の果てまでも私を追ってくることでしょう。私とかおるが転生してきたのも、すべてはこの時のため。そしてもう一人も。」
「左兵衛尉殿・・・ですな。」
「どこまでも忠義な男です。」
「見て!」
かおるが折り重なったものを指差した。それは徐々に盛り上がってゆき、どこか人間ぽくなってきていた。
「・・・小さな・・・奴ですね。」
「しかし間違いなく、あれが・・・阿修羅だ。」
盛り上がったものは灰色に変化してきており、少しずつ頭ができ、身体ができつつあった。山高が指摘したように、それはまるで子供のサイズだった。
かおるはその姿を見て、思い出した。
「あれ・・・あれは・・・康安寺で最終形となった阿修羅の始祖・・・兵太?」
まほろば堂の春道が阿修羅のイメージを伝えていた。初めて人間として迦楼羅と相対し、裏衆としての地固めを行った僧侶光求が指名した阿修羅の始祖は、忍と密教を合体させた存在、つまり天台裏衆の創始者でもある、真道の姿だった。
伊賀で下忍として育てられ、後に光求と出会って生きることを見出し、阿修羅の継承者として多大なる功績をあげた男、兵太の出家した姿に変化していた。
しかしその顔は、下人の頃以上に醜悪な顔になっていた。顔中に血管が浮き上がり、目は鋭い光に満ち、一見爬虫類のような顔だった。頭の周囲には3体の光の球がぐるぐると回っていた。
そしてその姿が完全に実体化したとき、兵太は顔を上げて大山をまっすぐに見据えた。
ニヤリと笑うと、地の底から沸き起こるような声で、大山に言った。
「そこにおわすは・・・鎌倉殿でござるかのう。」
兵太からは黒い気体が染み出してきており、スッと浮き上がった。
「行真入道の命により、地獄より蘇り申した。鎌倉殿、そのお命・・・地獄の炎の油となっていただきましょう。」
38
突然、中園中学校のグラウンドが揺れた。
「おわ!」
羽間はやっとのことで倒れなかった。
「な・・・?」
「ほら、始まったでしょ?」
「なに?どういうことだ?」
「ケンちゃん・・・もうわかっているでしょ?ケンちゃんは後白河院の血を引いているってことを。」
「行真家のことか。」
「そうよ。そしてあたしは、代理出産で同じ血を持ってる。そして、弟もね。」
祥子が指座した先には、ブランコの柱に寄りかかっている、全身黒づくめの男がいた。タバコを吸い、じっと2人の方を見ていた。
「鈷力健?」
「そう。あたしと同じ代理出産。そして、あたしたちは後白河の影なの。」
「影だって?」
「そう。代理出産では、本当の血は引き継がれない。たとえ生物学上は同じ遺伝子を持っていたとしてもね。性行為の間でお互いの意識がスパークするときだけ、その隙間に本当の後白河の魂が入ってくるの。あたしたちは、行ってみれば魂がない人形と同じよ。」
「それとこのことと、どう関係あるんだ!」
祥子は小さく笑うと、行真会のマークが印字された箱を、背負っていたリュックから取り出して、足元に置いた。
「これはあなたたちも気がついていたことよね。プラーナ・ペイチャックと同じマークを行真会も使ってるってことを。」
確かに、そこからこの捜査が始まったのだ。
「たぶんだけど、あなたたちの浅知恵だと、プラーナ・ペイチャックの日本支部が行真会だってこと・・・それしかわからなかったでしょ。」
「なに?」
「プラーナ・ペイチャックの信者が麻薬の売人だったり、その他色々な行動に出たけど一切記憶がないってこともご存じよね?」
「だから、それがどうしたってんだ!」
「そういう理由だけで、誰にでもわかる理由で同じマークだと思って?そんなことじゃないのよ。逆なのよ。」
「なに?なにを言ってるんだ?」
「ほらね、そこまでは調べてないのよね。行真会の設立時期は、プラーナ・ペイチャックのよりも早いのよ。」
羽間は祥子が行っている意味がわからなかった。しかしその意味が示すことを理解したとき、羽間は思わず後ろに下がった。
「まさか、行真会の下部組織が・・・プラーナ・ペイチャック・・・?」
「そういうことになるわよね。」
「し、しかし、さっきお前は後白河の血がどうのこうの・・・。」
そこまで言って、羽間の脳裏にひらめきがあった。
「つまり・・・俺の血を必要としたってのか?行真の血を・・・そして後白河の血を!」
「後白河の血はね、裏切りと人たらしの血。逆のことを信じさせておいて、実は裏の本音を行使する。あたしはね、本当にケンちゃんを巻き込みたくなかった。あたしを逮捕して、何もかも潰してほしかった。だけどね・・・そうはならないの。2つに分かれた後白河の血は、薄い方がより濃い血を求めるのよ。」
「だ、だけど、お前確か一回仮死して逃れたんじゃなかったのか?」
祥子は寂しそうに首を振って笑った。
「ふふふ・・・そうよ。あたしと健で作った行真会は、実は後白河の血を求める組織だった。あたしたちは力が欲しかったの。ケンちゃんはそこまで知らないと思うけど、あたしも健も、悲惨な人生だった。何回も死のうと思ったわ。でも、いざとなると死ねなかった。力が欲しくなっても当然でしょ?あたしたちは、自分の中に後白河法皇さんの血が流れているって聴かされてきていたの。人間、そう聴くと無性に欲しくなった。あたしたちの中に流れている口伝の力がそうさせたんだろうね。だけどね、いつの間にか、あたしたちは後白河に操られていたの。行真会を作り、会員に命じてあたしたちを操りだしたのが、東南アジアに流れる蛇骨の血。後白河にも同じ血が流れていたからね。」
「なんだ?そのジャコツってのは。」
「阿修羅をたらし込んだ真の親玉のこと。あたしたちは行真会から離れることで、蛇骨に操られるようになった。あたしたちが本気で行真会を潰したかったのを逆手に取られて、気がついたらプラーナ・ペイチャックに操られるようになってた。だから・・・。」
祥子は先ほど取り出した箱を手に持った。そしてその箱を開けた。箱からはゆるやかに、色がない炎がたちのぼっているように羽間には感じられた。
空気だけがゆらゆらと動いていた。
「なんだ、それは?」
「最初に言ったでしょ。あたしは行真会を潰して、逮捕して欲しかった、ケンちゃんを巻き込みたくなかったって。あれは本当の気持ち。だけどね、あたしの意思はもう自分のものじゃないの。気持ちはそうでも、身体は思う通りにならない。だから・・・ごめんね。」
その炎は急に大きくなり、高さ3ⅿほどまでの高さとなった。そしてそれにはすでに色がついていた。まるで奥が見えない、漆黒だった。
もしブラックホールを見ることができたなら、このような感じではなかっただろうか。
「わわわ!」
羽間は後退しようとしたが、足がすくんでしまって動けなかった。
「無駄よ。これは蛇骨が操る、この世では形を保てない生き物。こいつはさっきからケンちゃんに自分の息を吸わせていたの。もう動けないよ。」
羽間は屈強な体力を全開して動こうと抗ったが無駄だった。
「く、くそー!」
漆黒の炎が羽間の眼前にまでやってきた。
(このままじゃいけない。何とかしなければ・・・でも、この状況でどうすれば!)
羽間は心身共にもがいた。そして漆黒の炎から触手のような影が出てきて、羽間の心臓めがけれ突き刺そうとした。
(いかん!)
羽間は死を覚悟し、母親に謝り、同時に大山のことも脳裏に浮かんだ。
(先輩、すみません!)
そして目を閉じた。羽間の意識は消えていった。
「え?」
祥子の声がした。
「な、なんだ?」
鈷力健も祥子のすぐ横に来ていて、サングラスを外した。
彼らの目の前には、炎に吸収された羽間の姿があるはずだった。しかし現実に羽間はいた。そして羽間の全身から輝く光がにじみ出してきており、それはまるで炎の触手を掴んでいるように見えた。
「姉貴、あれは一体何だ!」
「・・・わからない・・・あ!」
羽間の姿が徐々に変化していっていた。ワイシャツが膨らみ、着物のようになってきており、さらにはスポーツ刈りの頭には烏帽子のようなものが見えてきていた。
そしてゆっくりと羽間は目を開いた。その顔には髭が生えて眼光鋭く、明らかに武家とわかる顔になっていた。羽間から発する光はますます輝き、漆黒の炎を弾き飛ばした。
「うわあ!」
祥子と鈷力健は、羽間の光に当たって後方に飛ばされた。
「これは・・・なに?」
祥子が起き上がったとき、グラウンドにはすでに漆黒の炎はなく、羽間のみ立っていた。
「だ・・・誰?何者なの?」
羽間はゆっくりと2人を見て、そして口を開いた。
「誰だ・・・俺を目覚めさせたのは・・・。」
羽間だったものは、大きくため息をついた。
「お前たちか・・・ほう?・・・法皇様が見える・・・なるほど、そういうことか。」
「誰よ!」
そこに立っていたのは、白い髭を生やした壮年の武将の姿だった。羽間が変化した武者は、ゆっくりと口を開いた。
「我が名は・・・左兵衛尉佐々木三郎盛綱である。」
39
小さな悪鬼として蘇った兵太の周囲には、黒々とした瘴気がまるで土星の環のようにゆっくりと周っていた。頭部の周囲には3体の光体があり、その光は光り輝くものではなく、ただ単に強さのみを感じさせる光だった。
「兵太・・・と言うのか?」
大山はかおるに訊ねた。
「ええ。転生してきたときに気づかせてくれた、まほろば堂の春道という人が教えてくれました。仏を守護する八神の中で最も扱いが難しい神だと。兵太から続く代々の阿修羅継承者は、それぞれにおいて過酷な性を背負うことによって、明神として姿を現した時には蛇骨をも打倒できる神になっていると。最後の継承者は・・・巨大な猪に食われることによって、その熊の子供に継承されたそうです。そして迦楼羅のサポートを成して、蛇骨を封印したのだと。」
山高は眉を顰めた。
「あの蛇骨との戦いの後、阿修羅は天界に戻ったとばかり思っておりました。ですが、蛇骨の血は手放さなかったようですな。行真の名を聴いたとき、私はすぐに関連を想像しました。そしてお話を聴くうちに、これは間違いなく阿修羅だとわかりました。頼朝様、政子様・・・お2人が転生なさった理由のひとつが、まさにこれです。」
「なるほど・・・稀代の大天狗め、死してなお災いを振りまくのか。安住の地で安らかに眠っていたはずの阿修羅を目覚めさせるとは・・・。」
頼朝をして稀代の大天狗と言わしめた後白河は、一度だけ頼朝と対面したことがあった。頼朝が鎌倉に武家政権を樹立したのは、そもそも後白河の裏切りと画策による混乱を治めようとして動いたことによって、各地から陳情が殺到したからであった。
頼朝は後白河によって踊らされていた義経、行家を追討せねばならなくなり、坂東武者を率いて京に上り、貴族の倉庫などを襲わせて圧力を加え、ようやく後白河と対面した。そのときの後白河との対面が、頼朝には鮮明に残っていた。
「俺は長い時を使って法皇と対面したが、あ奴め、まるで暖簾に腕押しだった。そのくせ、いつでも俺を討てるように北面を隠しておった。俺がそれに気がつかぬとでも思ったのか。俺は奴らを根こそぎ葬るよう指令し、戻って来た時には態度がコロっと変わっていた。しかも九郎と叔父上に騙されたとまで抜かしおったわ。」
大山の顔には怒りがこみ上げていた。
「あの大天狗めは、奥州にまで鎌倉を討つ準備をさせておった。許せる所業ではない。」
「しかも・・・とうとう存命の間は将軍職をお与えにならず、後鳥羽の君がようやく・・本当に食わせ者でございました。」
かおるも嫌悪を隠そうともせず、付け加えた。
「見ろ。あそこにある光には、九郎、叔父上、奥州殿の魂がある。卑怯にも、俺に怨みを持ったまま忌んでいった者たちで守っている。彼らを阿修羅の顔にしている。どうすればいいのか。」
大山は憎々しげに指さした。兵太は不気味に黙ったまま、じっと彼らを見ていた。
「まだ阿修羅の出方がわかりません。このままでは・・・。」
「動いた!」
かおるを遮って山高が叫んだ。兵太がゆっくりと歩き始めたのだ。じっくりと大山たちに近づいてきた。
「結界を!」
山高は瞬時に、自分の結界だけではいけないと判断した。大山とかおるは同時に心壁を拡大して結界を張った。
と同時に、それぞれの姿が変化した。大山は髭を生やした武者の姿に、かおるは髪の長い平安女人の姿になった。山高は急速に若くなっていった。
兵太の姿をした阿修羅は、その結界を確認して醜く笑った。
「ひゃひゃひゃひゃ。可愛いものですなあ。しかしのう、頼朝公。三位一体となりしこの阿修羅が、その程度で怯むとお想いか?そなた憎しで蘇りし怨霊の力を甘く見てはなりませぬぞ。」
兵太は取り巻いていた光体を瞬時に自分から離し、それぞれに念を送った。するとそれぞれの光体が変化し、人の形になっていった。それを見たかおるは、首を振って呟いた。
「ひどい・・・安息から無理矢理起こされ、しかも忘れていた憎しみまで復活させるなんて・・・。」
光体はすでに色もついており、それぞれが異なった武者、公家風の姿になっていった。
「兄上・・・お怨み申し上げまする・・・。」
大山はそれが誰だか、すぐにわかった。
「九郎!死してなお、天狗の傀儡となるか!」
立派な武者の姿ではあったが、そこから滲み出ている念は醜く、正視できないほどであった。
「ほほう・・・九郎・・・九郎・・・笹竜胆の旗印を背負い、わしは平家を滅ぼした。じゃが、源氏であるがゆえに、わしは兄上に死を賜った!もはやその名は不要!わしは小天狗義経じゃ!」
義経の怒りは凄まじく、裏衆2人に頼朝の力が合わさった強力な結界に易々と触れ、そして侵入していった。義経の全身は紅蓮の炎が包んでいて、翼が生えているような姿にも見えた。
「いかん!」
山高は独鈷を頭の上に掲げ、真言を唱えた。
「おん、あびらうんけん!」
山高の本質は金剛力士であり、鉄壁の防御を旨とする。本来ならば破られるものではなかった。
「むむむ!九郎殿は、邪ではない!防げん!」
仏の守護は破邪である。しかし義経の魂にあるのは、純粋な怒りのみ。
「わたしが!」
かおるは数珠を両手に持ち、胸の前でクロスさせた。
「九郎殿!お怒りをおさめ給え!」
少しの間しか会っていなかったが、かおるの本体である政子の愛情あふれる念は義経に届き、結界から後退した。
「ほお・・・天下無双の義経にも弱みがあったか。ならば左様な無用のものは取り払わねばな。」
兵太は義経の魂に念を送った。
「ぐわあ!」
義経は激しく苦しみ、一旦その姿を消したがすぐにまた元に戻った。正確には元の姿に戻ったのではない。背中から矢の形をした突起物が十本ほど飛び出し、背は曲がり、兜が顔と一体化した妖怪の姿になっていたのだ。
「しょせん人間よのう。せっかく復讐する機会を与えてやったと申すに。よし、では残りも同じくするか。」
こうして兵太は行家と泰衡の姿も変形させた。人の姿ではなくなった魂たちは、憎しみを越えて単純に獲物を狩る獣の目になっていた。
「おのれ阿修羅!殺めるようにならざるを得なかったが、我が弟に叔父。それに奥州殿まで・・・。」
大山の目からは赤い涙が溢れ出してきていた。
「阿修羅あ!今度はお前だ!」
大山の周囲には眩い光が発せられ鎌倉時代の武者になっていた。かおるも尼僧の姿に変貌していた。
大山は完全に頼朝に、かおるは政子になろうとしていた。
40
「佐々木三郎盛綱?誰だ?」
鈷力健はサングラスを飛ばされており、素顔で立ち上がった。羽間だったものは、一段と顔つきが逞しく変化し、全身から赤い気を発散していた。
「お前は・・・誰なの?ケンちゃんは本当に行真の血を引いているの?」
祥子はまだ立ち上がれないでいた。羽間、いや佐々木盛綱はゆっくりと背伸びをした。
「行真・・・法皇様の御名であるな。そうか、俺が転生したのは法皇様の血を引いている者が相手だからか。それは傑作じゃ!」
武者はカラカラと豪快に笑った。ひとしきり笑うと、盛綱は祥子と鈷力健を強く見た。
「お前たち・・・いや、お前だ!」
盛綱が指さしたのは祥子ではなく、健の方だった。
「お前・・・すでに人ではないな?そうか・・・お前が法皇様か。」
「え?」
祥子は驚いて健を見た。
「ど、どういうこと?」
「なるほどな。そうやってこの女を操っておったのか。相変わらずですのう、天狗様。」
「だから!どういうことだって・・・。」
「さすが鎌倉殿の懐刀。よくぞ見抜いた。」
健はゆらりと立ち上がった。そしてすでに全身から黒い瘴気を漂わせ始めていた。
「健!・・・ど、どういうことなの?」
祥子は立つこともできず、腰を抜かしたままズリズリと健から離れていった。健は祥子を一瞥すると、右の人差し指と中指を立てて、額の前に持ってきた。
「ぬん!」
健の気が全身に広がり、さきほどまでの黒ずくめの服が白い法衣に変わり、顔は老人のものになった。背後には巨大な蛇の影が見えている。
「健!」
「そなた、まだ気がつかぬのか?哀れなものよのう。面倒じゃ。黙っておれ。」
健が祥子を指差すと、祥子はそのまま気を失って倒れた。そしてすでに後白河院の姿となった健は、盛綱をおかしそうに見た。
「そなた、どこまで鎌倉の腰巾着なのだ?」
「これは滅法な。あなた様がくだらぬ浅知恵をなさらなければ、殿も武家の世を作ろうなどとは思わなんだ。わしは生涯殿をお守り申すと誓った武士じゃ。あなた様が悪鬼となり、再び悪さをしようとなされるがために、我が主従は転生してきたのであろうよ。しかもどうやら・・・。」
盛綱は眉をしかめた。
「九郎様、十郎様・・・そして奥州様まで蘇らせたのですか。何という所業。どこまで愚かなことをなさるのか。」
「愚か?このわしを愚かと罵倒するか!わしは朝廷を守ろうとしただけじゃ。」
「清盛入道、九郎様、十郎様、奥州様・・・多くの方が非業の死を遂げられました。無駄死にでござろう。それも全てあなた様の所業。わしはあなた様がまた悪さをせぬよう、主が戦う間に、お相手いたす。」
「できるかな?」
後白河院は再び指を額の前に立てた。すると、後白河院の周囲に多くの鬼火が現れ、同じ数だけ具足甲冑を纏った武者たちが姿を現した。
「こ奴らはわしを守ると誓った北面たちよ。こ奴らもお主ら鎌倉方には怨み骨髄じゃ。」
盛綱は背中に負った弓をはずし、弓を番えて構えた。
「愚かな・・・法皇様、あなた様には何やら・・・邪悪なものが見えまする。さては悪鬼に魂を売り飛ばしなさったのか?」
「愚か、のう。そもそもわしには、高岳親王の血が流れておる。親王はお前たちが悪鬼と呼ぶ神に触れた御仁。わしとかの地の同族たちが志を同じゅうして立ち上がったのよ。この世の世直しをせねばとな。かように腐りきった世の中は、一度滅びればよいのだ。考えてみよ。もはや人間は、終末を予想しているではないか。それが空蝉というものよ。」
世界終末時計というものがある。世界のリスクが高まれば進み、薄まれば戻すということを「原子力科学会報委員会」が行っている。
かの地とはもちろん、プラーナ・ペイチャックが独立戦争を起こしているミャンマーだ。蛇骨の血を引く者たちが、この世に仇成すために復活してきたのが、この事件の真相だったのだ。
「なるほど。それであなた様の血を引くこの男に憑依されたと。」
「憑依だと?ははは、そうかもしれぬのう。この女はそうとも知らず、わしを弟として見ておったわ。片腹痛きことであったぞ。」
精子提供による人工授精においては、真の魂が入らない。小宮山健として生まれた瞬間から、すでにその魂は後白河院のものになっていたのだ。
「それでわかり申した。なぜわしら主従に政子様まで、そしてもうお一人も転生してきたのかを。法皇様、それはあなた様を再び黄泉の国にお連れいたすためにございます。」
盛綱は構えた強弓を、キリキリと引き絞った。
「いつでもよろしゅうございます。かかっておいでませ!」
41
兵太の姿をした阿修羅は、徐々にその姿を別のものに変化させ始めていた。身長が伸び、頭には3つの顔があった。
ひとつは憤怒の形相をした行家、ひとつは怨みぬいた般若のような泰衡、そしてもうひとつは切なく悲し気な義経の顔がついていた。その上に醜く変形した髪があり、全身は黒い瘴気で覆われていた。背中に生えた突起物の先端はギラギラと光る球体が発生してきていて、ゆらゆらと阿修羅の周囲を漂っていた。
「ふしゅぅぅぅぅ・・・源氏の棟梁にして、全国に御家人を置いた鎌倉殿。なぜこの阿修羅がここにおるのか、おわかりかのう?」
それは泰衡の顔が、呼気が漏れるほどに変形した口から発せられていた。
「天狗の仕業であろうよ。」
大山が冷たく言い放つと、今度は憤怒の形相の行家が叫んだ。
「愚かな!恩義ある法皇様に命じられれば、わしらはいつでも馳せ参じると誓ったのよ!お前はわしがおらねば棟梁にもなれず、将軍にもなれなかったのだぞ!それをお前は逆恨みしおって!わし、九郎、奥州殿の恨みを法皇様がお認めになられ、三位一体となったゆえに阿修羅がついてきたまでのことよ。わしは愉快でならぬ。お前をついに、この手で滅することができるのだからなあ!」
言うより早く、突起物の先端から一斉に強烈なエネルギーが頼朝たちを襲った。だがしかし、3人が作った結界を破ることはできなかった。
「政子!耐えれるか!」
山高の金剛力士は屈強ではあったが、いかんせんすでに本来の力ではなくなっていた。となると政子の結界が頼みではあったのだが、かなり辛そうだった。
「殿・・・邪悪が過ぎます!行家様も泰衡様も、すでに己を失っておられます!」
「九郎は?」
「九郎殿は・・・悲しみ、泣いておられます。私にはそちらの方が辛うございます・・・。」
「九郎・・・。」
大山の身体も変化し始めていた。すっきりとしたシルエットだが、強い力を発散していた。そしてその姿を現した。
「殿!」
そこにはもう大山の姿はなく、中世鎌倉時代の具足をつけた姿が現れた。頼朝の復活だった。頼朝は九郎の姿を見て、軽くうなずいた。だが、激しい怒りも発散していた。
激しい怒りの元は後白河による操作によって捻じ曲げられ、増幅されたものとわかっていたので、対処はできていた。しかし義経の持つ本質的な純粋さは、どうしようもなく彼らの結界に食い込んできていた。
行家は己に酔い、泰衡は親と伝統の上に胡坐をかくタイプだったのだが、義経は後白河に騙されるわけではなく、ただ純粋に親同然と思っていた。義経にとっては、親同然の後白河院と兄頼朝の不和が何よりも辛かった。母親こそ違えど、兄のために、源氏のために戦ってきたのだ。だから誰の前でも頼朝を兄と慕うことを言い、同様の感覚で後白河院を親と仰ぎ、育ててくれた奥州の力を借りただけなのだ。
ただ、義経はあまりにも素直すぎた。武家である以上、誰かの側にいなければならない定めだったのだ。
常に監視され、いつ殺されてもおかしくなかった頼朝に追討院宣を出した後白河を、頼朝は断じて許せるものではなかった。さらに、頼朝とは別に義経にカネと馬と武器を提供した奥州も、義経と袂を分った後にはある意味同罪だった。
義経の悲しみは、こうした板挟みによるものだった。そしてその気持ちが理解できない頼朝ではなかった。頼朝は結界に打ち付ける義経の念に向かって叫んだ。
「九郎!今さらだが、俺はお前を責めたくはなかったのだ!」
頼朝の叫びを政子は涙して聴いていた。それは、あの頃の頼朝の立場を誰よりも理解していたからだ。頼朝は源氏の棟梁としての名声はあったものの、鎌倉を実質的に支配していたのは北条、千葉らの坂東武者たちだった。頼朝は彼らを敵に回すことだけはできなかった。そうしたが最後、いつ寝首を描かれるとも限らなかった。だからこそ、非情にならざるを得なかった。
梶原景時から、平家追討中の義経の専横や東国武士達の反感を讒言させられたときも、普段より後白河院の立場でモノ言う義経を苦々しく思っていた坂東武者たちの日常を知っていただけに、それが間違いであることくらいはすぐに見抜いていた。だが、兄弟の縁よりも恐怖だったのが彼らの離反だった。坂東武者たちにとって平家追討が問題ではなく、その後の恩賞が全てだった。
今さらカビの生えた院よりも、実益のある頼朝が大切だった。その彼らの異に反することは断じてできなかった。
さらに頼朝には、身内であっても容赦しないというカリスマも必要だった。頼朝の脳裏には、あの頃のドロドロとした鎌倉内での闘争が蘇ってきていた。
「九郎殿!お恨になられるのであれば、この北条をお怨みなされ!兄上にはなんら非がございませぬ!」
政子の叫びは、阿修羅の力にかき消されてしまった。
「無駄よ。この阿修羅は蛇骨様の気によって呼び戻された。元々悪鬼だったわしだ。何の迷いもなかったわ。蛇骨様の気、後白河院の執念でできたこの身体には、お前たち程度の力では到底何も利かぬわ。」
阿修羅は瘴気を周囲に拡散させ、3人による結界をスッポリとカバーした。
「いかん!」
山高が叫んだ。結界の最外殻を形成している金剛力士の力は凄まじかったのだが、蛇骨の瘴気はさらに凄まじかった。結界はみるみるうちに瘴気に侵され、結界の源である山高の全身に赤黒く変色した血管が浮かび上がった。
と同時に、山高の姿は徐々に薄れ始め、次第に頼朝がよく知る人物の姿になっていった。
「盛長!」
流人時代から頼朝に仕え、生涯を通して頼朝を支えた一人、安達盛長の姿がそこにあった。まだ若く、流人時代に酒を酌み交わした時の姿だった。
「そうか・・・山高先生は、お主の転生であったか・・・助ける!」
頼朝の中に、別のエネルギーが沸き起こった。そのエネルギーは盛長に向かい、瘴気による汚染は止まった。だがいまだに結界は危うい状況だった。
42
後白河は黒い結界を一気に拡大した。それは後白河を囲み、強力な壁となった。後白河を囲んでいた白い光たちは、黒い壁の前面に浮き、次第に武者の姿になっていった。
「大江公朝、平知康・・・わしに仕えし北面どもよ。かかれ!」
院御所警護という役目を持っていた北面の武士たちは、あくまで朝廷に忠義を誓った武士たちである。朝廷を差し置いて日本を統べる基礎を築いた頼朝一派など認めるはずもない。加えて、蛇骨の気で暗黒の力を得た武士たちは、醜く変形した甲冑の姿で襲い掛かってきた。
「むん!」
佐々木盛綱は矢に念を送り、そして放った。盛綱の念がこもった矢は光り輝きながら北面の武士たちに向かっていった。
盛綱の矢は、次々に北面の武士たちを貫いて、そして消滅させていった。貫通しなくても、横をかすめるだけでダメージを与えることができていた。武者たちの数は多く、次々に盛綱に襲い掛かってきたが、盛綱は一切の手を止めることなく撃退していった。
しかし埒が明かないことも明白だった。後白河はすぐさま武者たち復活させることができていたからだ。
「法王様、死してなお奴隷のごとく武者を扱われるのか!」
盛綱は一喝し、左腕を突き出し、掌を後白河に向けた。
「南無八幡大菩薩!」
すると盛綱の掌から白い光が発せられ、それはすぐに巨大な仏像の姿になった。仏像からは光が発せられており、盛綱に襲い掛かってきた武者たちはゆっくりと仏像に向かって近づいて行った。
「八幡菩薩よ、武者たちをお救いされよ!」
盛綱の言葉に反応するように、仏像は武者たちを次々に体内に吸収し始めた。そして最後の武者を受け入れると、巨大な八幡菩薩像は眩く光ると、その光と共に消えていった。
後白河は今までの余裕が嘘のように同様していた。
「な、なんと!腰巾着のお前がなぜこれができるのだ!」
盛綱は菩薩像がいたあたりに合掌し、そして鋭く言い放った。
「法皇様、まだおわかりになりませぬか!」
盛綱は右手で空間を横に撫でるように動かした。するとそこには、各時代ごとの人間たちが流れる絵のように動いていた。古代から現代までの、各人種がそれぞれに流れていった。そして様々な動物たちも、古代魚から恐竜、ほ乳類までが流れていった。
「これは?」
「これが空蝉でござる。」
盛綱はまるで川面に映るもののような流れを、目を細めてみた。
「ここには実体はござらぬ。すべて、影。空蝉はかようなもの。影は雲のように姿が代り申します。森羅万象に浮かぶ我々は、この川の力に流されております。法皇様、この力によって、武家は誕生したにすぎませぬ。」
そして盛綱は後白河を憐れむように見た。
「法皇様、あなたは空蝉に悪鬼の力を得て今ここにおられます。だがわしは、毘沙門天政子様の力によって、空蝉から自由になれ申した。法皇様、あなたの力など、わしには通用しませぬ。それにこの北面たちを御覧なされ。」
後白河は周囲にいるはずの武者たちが一人もいないことに気がついていた。だがそれを認めることなどできない相談だった。
「黙れ黙れ!武者は我らに従うべき者らよ。侍うておればよいのだ!」
この侍うという呼び方が、いつしか侍へと変化していった。盛綱は首を振った。
「致し方ございませぬ。我が主君にこそ侍うことこそ、わしが最上の喜びとするところ哉。それでは・・・ごめん!」
盛綱は再び矢を引き絞った。
「くだらぬ!武者などおらずとも、お前の敵ではないことを知れ!」
後白河は両手を広げた。その姿が徐々に変形していった。目は真っ赤に染まり、身体は伸びていって鱗が全身に現れてきていた。両手からは漆黒の瘴気が漏れ出してきており、もはや人間の姿ではなくなってきていた。
「ほう・・・それが悪鬼の姿にございますか。有難や、これで心苦しゅうならずに済み申す。」
盛綱が強弓をきりきりと引き絞る間にも、後白河は攻撃をかけてきた。
「シャー!」
まさに蛇のような声を発しながら、すでに人間の姿ではなくなっていた後白河の両手から黒い針のようなものが生え、一斉に盛綱めがけて放たれた。それらの無数の針は盛綱めがけて飛んでいったが、盛綱の前方で消滅していった。
「無駄でござる。人が絵を描き、そして消すように、今の拙者は空蝉のものを瞬時に消すことができ申す。お覚悟めされ。」
極限にまで引き絞られた弓から、まるで光でできているかのように光りながら、巨大な矢が放たれた。蛇骨の姿となった後白河は、瘴気の結界を張った。この世のあらゆるものをも破壊分解できる瘴気の壁だった。
しかし盛綱の矢は、この次元以上のものだった。矢はやすやすと瘴気の壁を突破し、後白河の眉間に突き刺さった。後白河は一瞬固まり、そして眉間に矢が突き刺さったまま人間の姿に戻っていった。そして矢が落ち、同時に後白河の姿は徐々に薄くなっていった。肉体を構成している素粒子レベルで崩壊していったのだ。
それでもかろうじて人間の形を保っていたが、ついに崩れおちていった。後には鈷力健が来ていた服と、サングラスが残った。盛綱は合掌し、そして祥子に目をやり、抱きかかえた。
「哀れよ・・・汚れし血よ、消え失せよ!」
盛綱の念によって、祥子の全身から黒いものがわき出し、そして地面に落ちて消滅していった。
「さてこれで、俺の役目も終わったな。殿はいかがかのう。いつかまたお会いしましょうぞ。」
盛綱の姿は一瞬で羽間の姿になった。羽間はいきなり祥子を抱きかかえたまま、正気に戻った。
「うわあ!」
あやうく落とすところだった。
「祥子ぉ?ど、どうなってんだ?あれ・・・鈷力健が・・・服しかない?おおいおいおい!どうなってんだよお!」
誰もいない中園中学校のグラウンドに、羽間の声だけが響いていた。
43
頼朝は、鎌倉においては孤独だった。源氏の棟梁として政権を担う立場にあったのだが、その実は坂東武者たちによる抗争のさ中にあって、その朝廷に奔走する日々だった。京で生まれ育った頼朝にとって、坂東武者たちの粗暴さは目に余るものがあった。
彼らの中には、かつて新皇を名乗った平将門を目指すという風潮は常にあった。だが、すでに世は平家の清盛が武家の世を謳歌していて、しかも貴族化してきていた。打倒平家の機運が高まる中において、頼朝は坂東武者たちにとって都合のいい御旗でしかなかったのだ。妻の政子でさえ、父親はあの難しい時政である。
気が休まる時はなかった。
そんな中において、流人時代から支えてくれたのが佐々木盛綱と安達盛長だった。盛綱とは兄弟のような付き合い方であったし、盛長は頼朝乳母の娘婿であった。頼朝はよく喧嘩もした盛綱とはよきライバルのような感覚もあったが、盛長とは親友と思っていた。よく家にも遊びに行って、心から腹を割って話し合ったものだ。
本当に心の支えだった。その盛長が、転生した今でも自分を支えていてくれる。頼朝は改めて感動した。
阿修羅による瘴気を防ぎながら、頼朝の中でその思いが強烈に湧き上がってきた。すでに異次元の住人となった頼朝には、佐々木盛綱が悪鬼となった後白河と対決している様もわかった。
「盛綱!そちらは任せた!」
頼朝は目を閉じて、あの頃の鎌倉を心に描いた。短い時間ではあったが、頼朝を含めて坂東のあらゆる者たちが打倒平家、新しい世を作るという気風に溢れていた時期があった。
奥州の秀衡からの書状と馬を連れてやってきた義経と会った時の感動は今でも忘れない。横では政子が家事を取り仕切り、叔父の行家があちこちの情報を運んできてくれていた。北条時政、千葉常胤らが互いに競いながらも協力してくれていた。全てが熱く、温かい時間と空間が確かにあった。
何もかも懐かしい。
しかし、時代はそれを長くは続けさせなかった。後白河の陰謀により、義経と行家が頼朝から離れ、奥州の巨人藤原秀衡も鎌倉と敵対する気配を見せていた。そして身内を殺害せざるを得なくなり、後白河はとうとう死ぬまで頼朝に将軍職を与えなかった。
懐かしさと悔しさと切なさが、頼朝の中に充満していった。
(後白河の方は、盛綱が相手をしてくれよう。)
頼朝は政子と盛長を見た。阿修羅の三位一体と戦うには、この3人の力を合わせなければ対抗できない。そのためには、あの懐かしい映像と信条の共有でしかない。頼朝は全身に力を漲らせ、その思いを政子と盛長に伝えた。
頼朝の想いが瞬時に2人に伝わり、同時に3人の合わさった力が増した。一般的には頼朝のイメージは弟殺しの冷酷と言ったものだが、確かに幼い頃には源平の朝廷内争いを生で見てきて、しかも敗れて流人になったという運のなさではあったものの、荒々しい坂東武者たちを従えるほどの器量の持主でもあった。やはり大将であると思わせる華も政治力もあった。
この戦いにおいても、頼朝の心は微塵も揺れなかった。それまで攻撃一辺倒だった阿修羅の勢いが、陰りを見せ始めた。
「むう・・・さすがは鎌倉殿のお身内ですなあ。この結束はお見事。じゃが、これはいかがか?」
阿修羅の顔がくるりと回転し、義経の顔が前面に出てきた。切なく、悲しい顔でじっと頼朝たちを見つめていた。
「兄上・・・。」
義経の口からこぼれ出した言葉には、兄のために、源氏のために戦った武将の想いが籠っていた。
「兄上・・・辛うございましたぞ・・・わしは兄上のために戦い申した。されど・・・北陸の寒風吹きすさぶ中を奥州まで落ちたあの日々・・・なぜゆえにわしらは兄上に逆らう者となったのでございまするか・・・。」
頼朝は義経の言葉を黙って聴いていた。この戦いにおいては、怨みを蘇らせた後白河と、その力によって悪鬼となった阿修羅が相手である。本質は、眠っていた怨みを消すことだ。ならば、聴かねばならない。
義経の顔はいよいよ悲しくなり、切なく涙し始めた。
「兄上・・・なぜにこの九郎をお討ちになられたのでございますか・・・兄上・・・兄上・・・。」
ここで頼朝は、後白河は義経のこの部分のみを掘り出したことに気がついた。しょせん、その程度だったのだ。ならば、これを削ぐのはここでしかない。
頼朝は力を弱めることなく、政子と盛長に支えられながら、鋭い念を送った。
「九郎!ならば問う!なぜゆえにお前は天狗の口車に乗って、京の守護たらんとしたのか!わしが知らぬとでも思うておったか!」
頼朝の耳には、後白河がいずれ義経を北面の棟梁たらんとすると命じた言葉が、内通していた公家から届いていたのだ。同時に、頼朝の念が義経にそのビジョンごと送られてきた。
院御所において、たしかに後白河は義経の手を握り、まずは清盛に替わってわしを守れ、そのための職を与えると言っていた。それが検非違使であり、通称判官と呼ばれる役職だった。つまりそれは、この権力が強くなれば、頼朝に対抗しうるくらいにまで登ることができるし、後白河は義経の耳元でいずれ守護にと囁いていた。
義経の顔はみるみるうちに驚きの表情となり、そして険しくなった。阿修羅からの瘴気攻撃はまた強くなった。3人の結界はギシギシという音が聞こえるかのように激しく動かされた。
「ならばなぜゆえに兄上は、梶原如きの戯言に騙されたのですか!あのような小者ゆえに、兄上亡き後に奴はすぐに討たれ、子の頼家も実朝も討たれた!これで河内源氏は絶えた!これ全て兄上と姉上の仕業故!いかがか!」
頼朝が急逝した後、侍所別当として御家人たちの監視を担当していた梶原景時は御家人に討たれ、頼家も実朝も暗殺された。これはもちろん、御家人争いに巻き込まれたのである。
その梶原景時こそ、義経に謀反の疑いありと頼朝に讒言した張本人であった。
「九郎殿!我が子を諦めざるを得なかった母の辛さがわかりますか!あなたにはおわかりになりますまい!子もおらず、政もないあなたに、なにが最も大切なのかがわかりますか!」
政子は北条の家の者として、また頼朝の妻としての板挟みに苦しんできた。源氏の血統か、御家人の結束か。この世で最も苦しい選択をせねばならなかった女が選んだのは、頼朝が築き上げた鎌倉の屋台だった。いつ暴走してもおかしくない坂東武者たちをやっと統べてきたのだ。
政子の悲痛な念は、再び阿修羅の瘴気を後退させた。
「義経殿!あなた様は源氏と言われるが、それならばなぜに北面となられ、検非違使の職をお受けになられたのですか!平家が強大であったのは、その結束!あなたは源氏が大事であったのではない!あなたしか見ていなかったのだ!それで殿を責められるとは、片腹痛いわ!」
安達盛長は、頼朝から何よりも鎌倉を守れと言われていた。源氏の血統よりも、これからは武士が公家にとって代わらねばならぬのだと。盛長は13人衆として幕政に参加していたが、一貫して頼家よりも幕政を重んじた。
この忠臣の激しさは、再び阿修羅を後退させた。義経の顔からはすでに表情は消え、能面のようになっていた。後白河が掘り出した義経の恨念が消えていったのだ。
「ぐう・・・おのれ盛長!下がれ義経!」
阿修羅の顔がまた回転し、憤怒の表情の行家に変わった。頼朝の顔も変わった。阿修羅3人の中で、頼朝が最も怒りを覚えていたのが、この十郎行家だったからだ。
「叔父上・・・。」
45
源十郎行家は五代当主為義の10男として生まれ、平治の乱で敗れた後に熊野新宮に潜伏し、以仁王による平家追討を全国の源氏に通達したとされている。この男にあったものは、源氏の復興と共に自分が後白河の北面となることだった。武家の棟梁になるという思いは決してなかった。
ゆえに、頼朝とは決定的に合わなかった。剛と柔を合わせ持った頼朝とは違い、軍才もなく政治力もなかった。それなのにプライドだけは高く、弁舌達者なので後白河のような老獪にとっては実に扱いやすい人物だった。
平家を打倒した暁にはお前を棟梁にさせてやる、とも言われた。後白河に対する忠誠心と、対する頼朝への憎しみは逆に増していた。
頼朝もこのような小者は大嫌いだった。2人の対決と結末は、なるようになったものだったのだが、十郎行家はそう思わなかった。
「なんだ、九郎!情けない。三郎のような恩知らずには、かようにするのだ!」
言うより早く、行家の顔をした阿修羅からは槍のような形をした瘴気が頼朝目がけて飛び出していった。義経のようなスピードではなく、怨みに満ちた太い槍だった。頼朝は自分の刀を抜くと、額の前に立てた。そして怒りの籠った念を刀にこめた。
行家の槍は頼朝にぶつかり、刀によって真っ二つに割られ、そして結界によって消滅していった。
「叔父上!」
頼朝は刀を下げ、怒りを前面に押し出した。
「あなたは平家相手に負け、我が元に逃げてまいられました。しかも所領を望まれた・・・坂東武者らの手前、それができるとお思いか!しかもそれを逆恨みされ、こともあろうに木曽殿に身を寄せるという非道!あなたがいかに保身であり、源氏のためと言いながら我が身のことのみをお考えになっておられた証ではないか!」
「黙れええええええ!」
行家の怒りもまた凄まじかった。行家の形相は凄まじく、阿修羅の姿さえ行家の怒りと共に変形していった。腹の部分が突き出し、大砲のような形となった。
「以仁王の令旨を、平家の目をかいくぐってお前らにお伝えしたわしを、お前はまるで相手にしなかった!これを恩知らずと言わずして何とする!己など甥でも何でもないわ!滅せよ!」
行家の腹に周囲から瘴気が集中し凝縮したかと思えば、激しい音と共に砲弾のようになった瘴気が頼朝めがけて撃ちだされてきた。打ち出された瘴気の弾はさまざまな武器の形を発生させて突進してきた。
その一部が当たった周囲の木は、その瞬間に眩い光と共に消滅した。瘴気は反物質に近いエネルギーも持ち合わせており、触れたこの世の物質は全て消滅してしまう。
頼朝は瘴気弾が打ち出される直前に、上空に刀を突き出していた。打ち出されると同時に、頼朝の刀に稲光が落ち、頼朝の姿は変形して大柄な武家の姿となった。武者は刀を突き出し、縦横無尽に薙いで瘴気弾をズタズタにした。
行家はその姿を見てひるんだ。
「お・・・叔父上・・・。」
その姿は巨体であり、筋骨隆々。強弓を手に持ち、眼光鋭かった。長命寺には鎮西八郎為朝が祀られている。
頼朝がこの地においてアマビコと称えられていた為朝を、新たな鎮守として祀ったのだ。為朝となった頼朝からは、重く響く重厚な声が発せられた。
「十郎よ。恥を知れ!」
その声は結界の中全てに響き渡った。
「お前は源氏の名を泥に捨ておって!こそこそとドブネズミの如く這いまわって画策するとはなんぞや!院に仕えるまでは良し。だがその後のいくさぶりはなんじゃ!この寺は頼朝が再建したものと知っておったのかあ!よくぞのこのこと出てきおったな!せめてわが手で引導を渡してくれる!そこ動くな!」
為朝は言うと、強弓に矢を番え、行家に的を絞った。
「叔父上!お許しを!」
だがそれより早く、為朝の矢は音をたてて行家の額に突き刺さった。ぐおおおお、と、声にならない声を発して、行家の顔は能面の様に固まった。
為朝は政子と盛長を一瞥し、軽く頷いた。
「わしはもう消える。この姿を二度と表すことはあるまい。後は頼朝を頼むぞ。」
そして為朝の姿は消えた。転生ではない以上、この姿を構築させるだけでも大変なことだった。頼朝の力あってのことだった。
「鎌倉ああああああ!顔を見せえええええいいいいいいい!」
頼朝の姿が鮮明になる前に、阿修羅の顔が再び変わった。憤怒の表情の、藤原泰衡だった。
「己らは四代奥州鎮台を潰しおって!我らが義経を匿うたゆえにこの仕打ちい!断じて許すべからず!」
「いい加減になさいませ!」
政子の声が空気を切り裂いた。
「横に九郎殿の首を置きながら、ようも左様なことが言えますな!奥州様、あなたのお父上秀衡様がお亡くなりになった後、あなた様はどれだけお身内を殺められたか!秀衡様は大層なお方でありましたぞ。九郎殿に軍資金をお出しになられ、我が子のように可愛がられました。奥州を滅ぼしたは、あなた様でございます!」
秀衡は自分の祖母、末弟頼衡、弟忠衡、異母弟通衡を抹殺したとも言われている。
「キエエエエエエエエエエエエエエエエ!!!!!!!!」
泰衡の口から、黒い炎が飛び出して結界を襲った。
「だからこそじゃ!わしが太郎!正妻の子!そのわしが、なにゆえ九郎如きを大将にして鎌倉と戦わねばならんのだ!父上の名を出すな!わしは・・・わしは・・・。」
「おふざけも大概になさいませ!」
盛長の念が鋭い槍となって、阿修羅めがけて発せられた。槍は途中で阿修羅の結界によって消滅したが、あれだけ憤怒の表情だった泰衡の顔には明らかに怯えが見えていた。
「我ら鎌倉が奥州殿に仕掛けたは、一時のことではない!後白河院とどれだけ繋がっておられたか、我らが知らぬとお思いか!義経殿を検非違使にした後、奥州と京とで鎌倉を挟撃する手筈であったこと、とっくの昔に知れておったわ!我ら鎌倉には、平家にまつわること全てが入ってきておったのだ!そもそも清盛入道を攻める手筈だったのが、今度は我らへと変わったのみ!」
泰衡の顔には様々な表情が浮かんでは消えていった。元来が気性の弱い、お坊ちゃま体質だった泰衡は、強烈な意思に対しては決定的に弱かった。
義経追討の宣旨を受けた時点で、すでに勝負はついていた。彼らにしてみれば驚天動地のことだったのだ。院宣として義経追討など出されるはずがないと思い込んでいたのだ。
それまでも再三、鎌倉から義経を差し出せと言われていたのだが、院絶対だったので軽く見ていた。院宣が下ったと言うことは、すでに鎌倉は院を凌駕していたと言うことになる。それまでも泰衡は身内を次々に殺害して奥州での自分の地位を固めようとしていたさなかのことだった。このような弱い大将の元では、軍を統率はできない。
結局泰衡が選んだのは鎌倉への追従と、それに伴う義経襲撃だった。
「やかましぃぃぃぃぃ!おのれらのことなど知ったことではないわ!我らは奥州に四代続いた名門ぞ!坂東の田舎侍などに我らのことがわかるものか!」
頼朝の顔が、明らかに怒りで満ちた。
「奥州四代と申されたな!では!」
頼朝は左腕を突き上げた。その拳からは赤い光が放たれていた。
「そのことを、語っていただきましょう!」
頼朝の腕から激しい光が天に向かって突き刺さり、同時に上空から鋭い光が地上に落ちてきた。その光は地上に着く寸前に実体化し、徐々にその姿が明確になってきた。それは甲冑を身につけ、強い弓を持った一人の武者だった。
「・・・ここはいずこぞ?」
頼朝らは武者に近づき、片膝ついて頭を垂れた。
「お会いしとうございました。八幡太郎義家様。」
46
羽間は救急車の中で、小宮山祥子の手を握っていた。正確には、通報して同乗した後に、横にいた羽間の手を祥子が握ってきたのだ。祥子は酸素マスクをつけ、血圧測定しながら、目は羽間をずっと見ていた。
横に救急隊員がいたのでさすがに話すことはしなかったが、それだけで十分だった。
「血圧78の45・・・低すぎますね。取り調べしている最中に倒れたんでしたよね?」
若い救急隊員が羽間に確認してきた。
「ああ・・・急にな。」
救急隊員はちょっと納得できない表情をしていたが、相手が刑事なので肩をすくめて終わった。羽間は心の中で舌打ちしたが、祥子の顔を見ると不思議に落ち着いた。
やがて救急車は川北中央病院に着いた。祥子が運ばれていく間、羽間は山内に連絡した。
「小宮山祥子を?たった今汐さんからも連絡があったが、小さな箱と男の服だけ残っていたそうじゃないか。一体何がどうなったんだ?」
「署長、詳しいことは後ほどお話しします。それはあの鈷力健の服です。そして俺が今言えることは、俺にも全くわかってないってことだけです。途中記憶がないんですよ。」
「なに?」
山内も、羽間の返事だけでほとんど全てを悟った。これまでの不可解すぎる事件の延長上にあることなのだろう。それを前提にして、羽間への聞き取りもしなければなるまい。
羽間は山内との連絡が終わると、待合のソファに腰かけて大きくため息をついた。記憶を整理してみたが、中学のグラウンドで、小宮山祥子と鈷力健がいて、羽間と会っていた。
しかしそれも妙な話だ。
(いくら小宮山祥子と同級生だからって、なぜあのグラウンドに同時に来たのだろう?)
あの時、羽間は真実に接近し、祥子に合わずにはおれなかった。だから川北署を飛び出したのだが、なぜあそこに行ったのか・・・そして彼らもほぼ同時にあそこにいた。
どう考えてもわからない。何かが背中を押したような気もするが、全く定かではない。そしてあの祥子が持っていた小さな箱から黒い炎のようなものが出てきて、それからの記憶がない。気がついたら祥子を抱いてグラウンドに立っていたのだ。
そしてそこに、鈷力健の姿はなかった。
「その前に・・・思い出した。行真会とプラーナ・ペイチャックの関係を祥子が言っていたな。」
羽間はメモを取り出し、整理してみた。まずは行真会が先にあった。それは、複雑な系譜によって後白河の血統だと気がついた行真家がそもそもだった。そこから行真家は、安井家と行真家に分かれた。
羽間は行真家から羽間家に養子に出された父親の子だ。そして小宮山祥子と鈷力健は精子提供によって誕生した二卵性双生児だ。彼らは力を欲していて、後白河院の力を欲しいという理由で行真会を作った。
当初は宗教色の強い組織だったのだが、後発の東南アジアにできた新興宗教団体プラーナ・ペイチャックに飲み込まれてしまい、次第に麻薬で人を無意識操作してしまう犯罪組織へと変貌していった。羽間の先祖がミャンマー人であったことは、羽間の肉体的強度に役立った程度だろう。
ここまで書いて、羽間は再びため息をついた。羽間の脳裏にあったものは、これらの結果ではなく、小宮山祥子が搬送中に羽間の手を握ってきたことだった。
羽間と祥子は腹違い以上の兄妹にあたる。だが、これは羽間も理解していたのだが、祥子との相思相愛は変わらない。同じ精子から誕生したということは、決して結ばれてはならないことを意味する。
本当に切なかった。涙が羽間の頬を伝わり落ちた。羽間は涙を拭ったが、こんな状況ではあるがアクビが出てしまった。考えたら、ここしばらくは熟睡していなかった。寝落ちしたことはあったものの、熟睡ではない。
医者からの説明はまだのようだ。そう思うと、徐々に睡魔に負け始めていた。羽間はソファに身を預け、すぐにイビキをかいた。寝ると同時に夢を見ていた。それは初めて羽間が『ミステリーファイアー』で祥子と出会った時のことだった。
派手な店内には、多くの客がいた。奥にはかなり金を積まないと入れない部屋が幾つかあり、あるものはラリるために、またある者はコンパニオンと寝るために入っていった。羽間はそういうことには興味ない普通の客として潜入し、ネクタイに仕込んだ隠しカメラで店内を撮影していた。
「あら、いらっしゃい。お客さん、初めて?」
横にいた女が下がり、代わりに入ってきたのが祥子だった。
(・・・こいつ。どこかで・・・まさか!小宮山祥子!)
羽間はすぐに初恋の相手だとわかったが、祥子は気づいていないようだ。
「お名前はどう及びすればよろしいの?」
「あ、ああ。ケンでいい。」
「ケンさんね。わかったわ。お飲み物のおかわりは?」
「ああ、頼む。」
祥子はウィスキー水割りを作り始めたが、その豊かな胸の谷間をわざと見せつけるような位置に座って作っていた。
羽間の胸の鼓動は激しくなっていった。羽間の中には初めてデートした日のことが浮かんできていた。清楚な女の子だったのにという思いが強くあった。
「ケンさん、はい、どうぞ。」
祥子は羽間の隣に座った。いい匂いが羽間の鼻をくすぐる。
「ねえ?一杯いただいてもよろしい?」
祥子は上目でねだってきた。ねだりながら、左手は羽間の膝に置かれて、ゆっくりと動かしていた。
「ああ・・・いいよ。」
この一杯がいくらになるのだろうか。それを探るのも仕事なのだが、もうどうでもよくなってきていた。やがてボーイがカクテルグラスを持ってきて、祥子に渡した。
「はい、じゃあ・・・よろしくね。」
グラスを合わせて、2人はグラスに口をつけた。
「ん?」
特に変わった味がするわけではなかったのだが、羽間の刑事としての勘が動いた。これには何か入ってると確信した。
「おいこれ・・・。」
羽間が言った瞬間に、祥子の容姿が変化した。白装束の女性に変化し、その肌の色は透き通るようだった。
「よくわかったねえ・・・さあ、お飲み!」
「うわ!」
羽間はあやうくソファから落ちるところだった。
「夢、か。」
汗をぬぐったとき、治療室から激しい音が聞こえた。そして悲鳴。羽間はすぐに治療室のドアを開いた。
「うっ!」
治療室の中は血まみれだった。横にはナースとドクターが血を流して倒れていた。
「こ、こりゃあ・・・。」
「遅かったのう。」
聞こえたのは老人の声だった。声の方を見た羽間は目を疑った。祥子が寝ているベッドの背後に、年配の僧侶の姿が見えていたのだ。
「祥子!どうしたんだ!」
「むふふふ・・・わしを覚えてはおらぬか。」
祥子は目を閉じていたが、その口から洩れていたのは老人の声だった。
「誰だ!」
「ほう・・・盛綱の記憶はないのか。鈷力健に宿りしは、わしの影よ。魂が入るには、しっかりと交わらぬといかぬ。」
「い、意味がわからん!どういうことなんだ?お前は一体誰なんだ!」
「ならばしっかりと覚えておけ!わしがまことの行真じゃ。お前はこの女とまぐわって子を作る定め。わしはこれでようやく、転生ができるのよ。」
47
「そなたは?」
義家は無骨な顔を頼朝に向けた。
「あなた様の五代後子孫、頼朝にございます。そしてこちらは、清衡様の4代子孫、泰衡様にございます。」
「なに?」
義家の顔色が変わった。
「清原の小倅か!お前の曽祖父のおかげで、わしは私財を失った。・・・ほう、しかも、その方、随分と羽振りが良かったようじゃのう。すると・・・そなたがわしが呼び出したは、こ奴のためか?」
義家が干渉したのは、歴史上後三年の役と呼ばれる戦いであった。土着豪族の安倍家と清原家の家督争いだった前九年の役から30年後、再び争乱となり、清原真衡の養子成衡義兄であった義家が、陸奥守として口を挟んだことから始まった。結果として清原清衡は実父の姓である藤原を名乗り、これが奥州藤原の祖である。
一方の義家は戦費を朝廷が私戦であるとみなされたために貰えず、私財で武士に支払った。奥州藤原は桓武平氏の血統も継いでおり、源氏とは微妙な関係にあった。その関係を一気に源氏へと向かわせたのが義経だった。
しかし八幡太郎義家は後に昇殿を許され、肩書とは関係なしに院の警護を行ったほどの血統と政治力を持っており、後の河内源氏の事実上の祖となったほどの人物である。当時俘囚とさえ呼ばれた奥州の怒号など、相手するだけのものではなかった。
ましてや煮え湯を飲まされた相手である。その怒りは泰衡に向けられた。
「ぐおおおおおお・・・おのれ義家!散々奥州をかき乱した極悪人!お前など無用!消え去れ!」
泰衡は義家を消そうと瘴気をぶつけてきたが、義家は正面から受け止め、動かなかった。
「ふうむ・・・随分と弱いのう。清衡は俘囚ながら強かった。しかし己はまるで、公家の御曹司のようじゃ。奥州はそれほどに弱くなり果てたのか?わしが極悪人?さすれば奥州どもは地獄の閻魔かのう。」
「ふしゅるるるる・・・消えよ!」
泰衡の二回目の瘴気攻撃は、義家に届くこともなかった。はるか手前で焼失してしまった。義家の顔が、怒りで満ちた。
「まだわからぬか!消えるのはお前だ!」
義家の目が光り、泰衡めがけて一直線に光が突き刺さった。光は泰衡の根幹をなす恐怖の心を直撃し、泰衡には奥州の栄華を背負えない恐怖、殺害した身内の顔、そして自分よりも義経を大事にした父秀衡の顔で満ちた。
「ぐぎゃああああ!」
泰衡の顔からは表情が次第に消え去り、やがて無表情の顔となった。
「ガ・・・ガアアアアアアア・・・お、の、れ・・・。」
阿修羅はみるみるうちに小さくなっていき、元の姿である、小柄な兵太の姿になっていった。義家は全ての顔が仮面のようになった阿修羅を見て、頼朝らに言った。
「こいつはわしの獲物ではない。お主たちで始末せよ。わしはもう現れぬ。」
「言葉もございませぬ。あ奴めを二度とこの世に出さぬためにお呼びたてまつった次第にございます。安らかになさいますよう・・・。」
頼朝が最後まで言う前に、義家は消えた。きちんとした転生でない状態で生前の姿を保つことは容易ではない。政子や盛長の力あってのことだった。
頼朝は阿修羅に顔を向けた。すでに2つの顔と4本の腕が消えた阿修羅からは、先ほどまでの破壊的な力はまるで感じられなかった。身長も小さくなり、無表情な兵太の姿があるだけだ。
「阿修羅よ、もうこれでお前の用はなくなったのであろう。消えよ。」
「殿・・・あれはすで阿修羅ではございませぬ。」
盛長が頼朝にささやいた。
「あれは、おそらくは後白河院の依代にすぎぬと察します。」
「となると・・・あの向こうにおいでになるのでしょうか?」
政子が緊張した声で言った。政子にとっても後白河院は恐怖の天狗だった。朝廷の力をこうまで使いこなした上皇はいない。
戦力は事実上なくても、知恵と策略で武家も公家も翻弄した稀代の策士である。力を以て為す武家にとっては何とも扱いにくい存在である。
「しばし待て。」
頼朝は阿修羅に意識を集中させた。少しの間があり、頼朝の顔には驚きがあった。
「何と・・・羽間の姿が見える。奴は・・・羽間を使って転生する気だ!しかも羽間は、盛綱ではないか!」
頼朝に見えていたのは、盛綱の魂を宿した羽間が、宙に浮いた小宮山祥子と相対しているシーンだった。しかも祥子の上には、忘れようにも忘れられない法衣姿の老人が見えた。
「何と!三郎も転生しておったのか!」
安達盛長と佐々木盛綱は、共に鎌倉13人衆として実朝亡き後政権を支えた1人である。中でもこの2人は頼朝寄りであり、絆は強かった。
「殿、わたしにお任せください。」
政子は毘沙門天の化身でもあり、3人の中で突出して力を持っていた。頼朝も盛長も子に任せることに異論はなかった。
政子は後白河によって捻じ曲げられ、三位一体を崩壊させられて力を失った阿修羅、いや兵太の元に近づいた。小柄であばた面の兵太の目は白く濁っており、忍と法衣が合わさったような姿だった。これこそ天台裏衆の筆頭にして、阿修羅の道を歩むことになった兵太の、本来の姿だった。
政子は兵太の前に座り、兵太の右手を取った。兵太の手はカサカサに乾き、血の気を失っていた。
「お可哀そうに・・・阿修羅様・・・しかしそのお姿・・・いましばらくわたくし供にお貸しくださいませ・・・。」
政子は修羅の敷く濁った眼をじっと見て、右手を眉間の前に立てて、目を閉じた。兵太の眠っている力の鍵を探る。阿修羅の性を背負っているとは言え、兵太そのものはコンプレックスの塊のような下忍だ。
そこにフォーカスし、鍵を心眼で探ってゆく。少しの間政子は探り、そしてゆっくりと目を開いた。そして言葉を発した。
「生きよ!」
かつて死ぬために生きていた下人としての過去に、鍵が見えたのだ。そしてその鍵を最初に開いたのが、裏衆創設者光求だった。生きたいのであろう、という言葉によって兵太は仏の道を歩み、そして阿修羅の性を背負うことになったのだ。
政子の言葉は、連鎖反応的に兵太の眠っていた宇宙意識に到達し、光求の言葉と合体した。兵太の顔に生気が満ち、目の濁りはなくなり、皮膚には潤いが出てきた。穏やかな顔になると同時に、後白河に操られたという後悔と怒りの表情が浮かんで消えた。
「まだ未熟者と・・・口惜しい・・・。」
そしてゆっくりと口が開いた。
「すまぬ・・・この身、存分にお使いなされ・・・。」
兵太の目がカッと見開かれ、強烈な光が3人を包み込んだ。そして3人は兵太の目から発せられた光の中に吸い込まれていった。3人が消えた後、兵太は嬉しそうに笑みを浮かべ、そして天を見上げてつぶやいた。
「皆の衆・・・今、参りますぞ・・・。」
兵太の姿は瞬時に消え、長命寺には静寂が訪れた。
48
羽間は後白河の名を聴いて、背筋に悪寒が走った。そして、先ほどの祥子の言葉を思い出した。
『代理出産では、本当の血は引き継がれない。たとえ生物学上は同じ遺伝子を持っていたとしてもね。性行為の間でお互いの意識がスパークするときだけ、その隙間に本当の後白河の魂が入ってくるの。あたしたちは、行ってみれば魂がない人形と同じよ。』
羽間はようやく、その意味がわかった。
「お前!そのために、同じ血を引く俺たちを引き合わせたんだな!俺たちをずっと操っていたのか!」
祥子が初恋であること、行真会の捜査に熱が入ったこと、血統などが羽間の脳裏に渦巻いた。あの想いですら操作されたものだったのかと思うと、羽間の心はグラグラに揺れ、後悔と怒りが交互に湧き起こってきた。
「お前の恋心も満たされたであろうよ。わしに感謝こそすれ、怒る理由はなかろう。だが、わしにも間違いはある。本来であれば、お前の父親がなるはずであったのだがのう。」
「・・・どういうことだ!」
後白河はニヤリと笑った。
「安井の女と婚約までさせたのじゃがのう・・・お前の父親が、どういう訳か気がつきよってのう。」
「茶房道尊」の和歌宮敬子のイメージが羽間にも伝わってきた。大進さなえが見たあの婚約者が、羽間の父親だったのだ。しかし羽間にとっては単なる怒りの元にしかならなかった。
「き、さ、まああああああ!どこまで俺たちを馬鹿にすりゃ気が済むんだ!逮捕なんかじゃおさまらん!」
羽間は拳銃を抜こうとしたが、ショルダーホルスターの中にある拳銃がどうしても抜けない。胸に入れた手がぴくりとも動かないのだ。
「ぐううう!こ、この野郎!」
「ほう、もはや佐々木盛綱は出てこぬようじゃな。わしの影と無意味に戦い、消耗しつくしたと見える。」
「だ、誰だ、そいつは!」
「脳味噌が空っぽのお前にわかるものか!さて、お前の精もさきほどの夢で十分に蓄えたであろう。そろそろ・・・。」
後白河は手に持った払子をさっと振った。祥子の服が次々に脱がされてゆき、羽間の服も抗えない力で脱がされていった。人間の生理現象で、先ほどの夢で羽間の精子は完璧にできあがっていた。しかも後白河に操作さえていたとわかっていても、やはり祥子は魅力的だった。
羽間の身体は後白河本体の強烈な力によって浮き上がり、そして祥子に向かって進んでいった。祥子の目はまだ閉じたままだが、その口からは後白河の声が響いていた。
「どうじゃ、いいながめであろう。ほれ、これでどうじゃ。」
祥子はゆっくりと回転し、羽間に尻を向けた。
「や、やめろおおお!」
羽間は自慢の力でふりほどこうと抗ったが、身体の自由はなかった。
「ほれ、ここにお前の精を思う存分押し込むがよいぞ。」
ゆっくりと祥子の下着が動いた。羽間は、さっき後白河が言った、全く知らない誰かが自分の中にいるのなら、すぐに出てきてくれと願った。
祥子は好きだ。それは認める。だが、こんなことで悪魔を復活させることは絶対にダメだ。理性はそう思いながらも、羽間の一物は最高状態になっていた。これではすぐに射精してしまう。
助けてくれ、と羽間は思ったが、すでに言葉も発することができなくなっていた。徐々に羽間と祥子の距離は縮まっていった。2人が接しようとしたその瞬間だった。
「うわああ!」
羽間と祥子は、浮いていた状態から床に落ちていった。
「痛!・・・ど、どうしたんだ?あ、祥子!」
羽間は床に倒れ、ぐったりとしている祥子に駆け寄り、そこにあった自分のジャケットを着せた。
「あいつは・・・どこだ!」
羽間は後白河がいたあたりを見上げた。そこには確かに法衣の老人の姿が見えた。老人は一点を見つめていた。
「おのれ・・・阿修羅め、役に立たぬか!」
後白河の声は、羽間の脳に直接響いていた。羽間はあたりを見渡したが、何も見えなかった。だが、羽間の脳に直接語りかけてくる声があった。
『待っていろ!ケン!』
「先輩!」
それは羽間にとって最も心強い大山の声だった。なぜこういう状態で聞こえてきたのかなどと考える暇はなかった。
「むん!」
後白河が払子を振り、結界を作った。それと同時に、空間の一点が明るくなり、その光は急速に眩くなっていき、そして羽間の視力を完全に奪うような光が閃いた。
「うわあああ!」
羽間は目を押さえて倒れ込んだ。羽間が倒れるのと同時に、診察室の空間にできた光の中から頼朝、盛長、政子が飛び出してきた。政子はかおるの姿に、盛長は山高の姿になっていた。
「ぬうううう!鎌倉の小童めが!」
後白河は3人に向かって払子を払い、そこから発せられた黒い瘴気による矢が彼らに向かって突進していった。しかしそれは、彼らの強烈な結界によってすぐに消えた。
「天狗様!お久しゅう!」
頼朝もお返しとばかりに小刀を投げつけたが、これもすぐに消えた。
「ケンちゃん!」
政子が羽間にかけより、山高は祥子の介抱に向かった。2人の無事を確認した頼朝は、ふわりと浮いて後白河と相対した。
「かように語ることは、あの時以来でございますな。」
「左様である・・・鎌倉よ。」
2人が初めて相対し、語り合ったのは義経と泰衡が討たれた奥州合戦の翌年のことだった。
「上皇様、あの時も我ら、あなた様の策に振り回され申した。死してなお、天下をお乱れなされるのか。」
「何をぬかす!我こそが治天なり!そなたは侍にすぎぬ!」
「まだかように・・・死してなおお考えが変わりませぬか。ならば、お役目御免くださりませ。」
「黙れええええええ!」
後白河の怒りの声は凄まじかった。
「うぬを将軍にしなかったは、わしの意地じゃ!うぬこそ野盗の頭風情めが、帝に向かって何を申すか!天下は武家のものじゃと?認めぬ!」
頼朝はため息をついた。
「致し方ございませぬ。二度と降臨なさらぬよう、黄泉へご案内させていただきます。」
49
人類の歴史上、為政者となった者には大別して二通りある。ひとつはなりたくてなった場合と、もうひとつは望まなくしてなってしまった場合。頼朝の場合は、後者であった。
平家打倒を旗頭にして動いてはいたが、それ以上に悩ませたのが朝廷や院、坂東武者、河内源氏の身内らであった。いつ何時寝首を掻かれるかもしれない世の中だった。日本の文盲率は低く、知性ある者、運を味方につけた者だけが生き残れた。
頼朝は味方であるはずの坂東武者たちがいつでも平気で平家方に寝返るかもしれないという恐怖と常に隣り合わせだった。彼らを統べるには、常に敵を外に持っていて、しかも勝ち続けなければならない。平家を打倒して平穏な暮らしを当初は求めていたのだが、そういう甘い考えでは生き残れないと気づくにはそう時間は必要としなかった。
敵は平家だけではなかった。そしてその元凶が外ならぬ後白河院であった。相国清盛と時に共闘し、時に反目しあい、義経や行家、奥州藤原、義仲らを操り、互いに仲たがいさせることで院の力を保ってきた。後白河とて生き残るためではあったが、公家と武家とでは考え方も環境もまるで異なる。
この2人が敵対するのは必然ではあった。しかし、後白河復活の際に悪鬼たる蛇骨がいた以上、頼朝は徹底的にやらねばならなかった。先ほどの阿修羅との戦いにおいて、頼朝は常に涙していた。本来であれば身内同士、平家を打倒した後に源氏筆頭の世の中を作っていくはずだった。だがそもそも、以仁王を扇動し、行家ら源氏に命じて平家打倒を呼び掛けたのは後白河だった以上、それは叶わないことだった。
頼朝は源氏代々の刀を抜いた。そして切っ先を後白河に向けた。
「参る!」
一方の後白河は、払子を顔の前に立て、前身から黒い瘴気を滲みだしていた。盛綱が戦ったのは、蛇骨と後白河の影が合体した仮の姿であり、本体はこちらである。瘴気の質が違った。
執念を持つ後白河の瘴気は、蛇骨よりさらに脅威だった。
「参れ。」
頼朝の刀からは、鋭い光の刃が飛び出して後白河に向かって行った。しかしそれは、後白河の瘴気とぶつかり、激しくスパークした。瘴気と生命力のつばぜりあいが始まった。現実に刃を交わす訳ではなく、お互いの魂の対決だった。
となると武家や公家の差はない。お互いの執念とプライドと存在力の対決となった。川北中央病院の上空は暗雲たちこめ、周囲には激しい雷雨となった。周囲の住人はただ激しい雨だと驚くだけだったのだが、ここではこのような戦いが行われていたのだ。
頼朝の刃のような気が突き刺さり薙ぎ倒そうとするも、後白河の執念瘴気はありとあらゆる方向で防御し、かつ攻め立てた。一方で、グラウンドでは羽間と祥子の意識が回復していた。
「あ、あれ・・・かおるさん?」
羽間は白水かおるの姿に驚いた。
「ケンちゃん、大丈夫?」
「どうしてここに・・・あ、祥子!」
山高に介抱され、横になっている祥子に羽間は駆け寄った。
「祥子、祥子!」
山高は祥子の服を被せており、祥子は山高の腕の中でぐったりしていた。
「おい!祥子!」
羽間の声に、祥子はゆっくりと目を開けた。
「ケン・・・ちゃん・・・。」
「おい、しっかりしろ!」
祥子は起き上がろうとしたが、身体は動かせなかった。
「ケンちゃん・・・あたしが・・・馬鹿だった・・・弱くて苦しかったから、力が欲しかったの・・・でも・・・ずうっと操られていたみたいね・・・ごめんなさい・・・あたし・・・あたし・・・。」
「もういい!もう、いい・・・。お前はもう、誰よりも苦しんだんだろ!もういいって!」
山高は祥子を羽間に預け、羽間は祥子を抱きしめた。こんな形ではなく、もっと自然にこうなりたかったという思いが、2人の間にあった。羽間も祥子も涙していた。
「いやあああああ!」
「むうううううん!」
上空で激しく戦っている後白河と頼朝の音と声に、羽間は気がついた。
「あれ・・・誰だ?」
それはまるで映画やテレビで見たような風景だった。侍と僧侶が上空で戦っているというのは、まるで信じられない光景だった。かおるが静かに呟いた
「あれは源頼朝と、後白河法皇・・・。」
「後白河はわかるけど・・・なんで侍が?」
横に立っていた山高が、上空を見上げながら言った。
「あの武士は、大山刑事さんですよ。」
「え?・・・先輩?だってあれは違う・・・。」
羽間は途中で気がついた。羽間の中にいたあれが再び動き出したのだ。
「わかった・・・思い出した!そうだ・・・俺は・・・佐々木盛綱だった!」
羽間の腕の中にいた祥子が、羽間の頬に手を置いた。
「ケンちゃん・・・。」
「・・・どうした?」
「お願いが・・・あるの・・・。」
「なんだ!」
「戦って・・・あいつと。あたしたち・・・いや、あたしを操ってボロボロにして、たくさんの人を不幸にしたあいつを・・・やっつけてほしいの。」
羽間はそのつもりだったので、大きく頷いた。
「ああ、そのつもりだ。」
「でもね・・・今のままじゃ、勝てない・・・。」
「え?」
「ケンちゃん・・・あなたの中のあいつの血・・・あたしが・・・受け止めるからね・・・。」 羽間の頬にあてた祥子の手が光り、羽間の全身を包んだ。
「おい!お前これ・・・。」
「さっきわかったの・・・あたしがあいつに操られたのはこの血が原因・・・そしてね・・・あたしの役目も・・・やっとわかった・・・このために生まれてきたんだって・・・。」
「祥子ぉ!やめろ!」
羽間には何か危険なことを祥子がしようとしていることとわかった。
「いいの・・・ケンちゃん・・・愛してる・・・これで本当に・・・兄妹じゃなくなるから・・・心から言える・・・愛してるよ・・・。」
羽間の全身から黒い霧のような瘴気が抜け出し、祥子の口に入っていった。
祥子はガクガクと痙攣を始めた
「ダメだ!やめろ!」
祥子はピンとのけぞり、そして体から力が一気に抜けていった。
「祥子?・・・ダメだ・・・ダメだ・・・ダメだああああああ!」
羽間は祥子の身体を激しく揺さぶり、声をかけ続けた。
しかしすでに祥子の顔からは血の気が失せていた。
「ケンちゃん・・・もう・・・。」
かおるが羽間の肩に手を置いた。そしてビクッとして手を離した。
「すごい・・・この力・・・。」
「かおるさん!危ない!」
山高がかおるを羽間から引き離した。羽間の全身から激しく光りが発せられていた。そして徐々にその姿を変えていった。
身体には甲冑を纏ってはいたのだが、その顔は佐々木盛綱のものではなくなっていた。
2本の角が生え、眉間には激しく皺が寄り、その眼光は鋭かった。
背中には二本の腕が生え、それぞれに刀と槍を持っていた。
「ケンちゃん!・・・そうか・・・小宮山祥子の念を吸収して・・・。」
「夜叉が・・・降臨いたしましたな・・・。」
八部衆の一人、夜叉が佐々木盛綱に降りてきたのだ。
夜叉は後白河をギロリと睨みつけ、そしてふわりと宙に浮いた。
そして頼朝の背後まで来て止まった。
「始まる・・・。」
かおると山高も、それぞれ政子と盛長の姿になっていた。
50
夜叉と化した羽間の意識は、今は完全に羽間と同化していた。羽間の怒りはそのまま盛綱の怒りとなり、後白河を凄まじい形相で見ていた。そして戦っている頼朝の横に並んだ。
「殿・・・拙者にお任せくだされ・・・。」
「盛綱?・・・その姿・・・!夜叉になったのか!」
「猪口才な!」
後白河が猛烈な瘴気槍を盛綱目がけて突いてきた。しかし、盛綱はそれをよけることも消すこともせず、胸で受け止めた。瘴気は盛綱の胸を黒く変色させていた。
「ケン!どうした!」
盛綱、いや、羽間賢信の意識は静かに頼朝を見て、そして思いのたけを伝えてきた。
「殿・・・いや、先輩。この羽間、これほどまでの怒りを覚えたことはありません。祥子の痛みを少しでも我が身に焼き付けておかなければ、気が済まんのです。あいつの血を継いでいたがために、祥子は・・・。俺の中からあいつの血を吸い出して、そして自分に入れて俺があいつと戦えるようにしてくれました。俺にやらせてください。」
「なりませぬ!」
浮かんで来たのは安達盛長だった。
「お気持ちはお察しいたします。ですが、これは殿でしか終われませぬ。我ら、精一杯殿お支えいたしましょうぞ。」
「盛長殿の仰る通りです。」
政子は地上から声をかけてきた。
「此度のいくさ、夫でしか上皇様を抑えられぬ定め。盛綱殿、なにとぞご理解くださりませ。」
夜叉は頷いた。
「わかりました。精一杯の・・・来ます!」
後白河から黒い瘴気の矢が一斉に彼らめがけて放たれてきた。彼らの結界は防いだが、今までにないほどの強さだった。
「ゴチャゴチャとやかましいわ!鎌倉の野盗どもが何をぬかすのかと思うておったが、しょせんは下賤の輩よ。この殿上人に逆らおうなど太々しいことじゃ!思い知れ!」
「吠えるなああああ!」
夜叉と化した羽間の咆哮が響き渡った。
「己の欲望のままに我らを騙した奴に言われる筋合いはないわ!」
羽間は黄金の槍を発生させ、そこから強烈な気を後白河めがけて叩き込んだ。この一撃で後白河の結界は激しく揺れた。
「お前はわしの子孫であろうが!許されぬことじゃ!」
「まだわからんのか!もはや俺の身体にはお前の血は一滴も流れておらんわ!お前に弄ばれし我らの怒りを思い知れ!」
羽間の激しい怒りの気は、後白河の結界の最表層を破壊した。
「盛長!援護せよ!」
「おう!」
「殿!我らの背後へ!」
安達盛長と佐々木盛綱という頼朝が最も信頼する盟友2人が、頼朝の前に立った。そして地上では、政子が笛を吹き始めた。その音色は後白河の奥底にある公家の原風景を思い出させるものだった。これにより、後白河の尖った瘴気が和らいだ。
「小癪なことを・・・それしきのことで、ワシの怒りはおさまらぬ!お前は下がっておれ!」
後白河は瘴気を地上に降ろし、政子の結界をすっぽりと包み込んだ。瘴気は政子の結界を徐々に侵食していった。
「ほれ、間もなくこの女子はわしに侵される。いつまでもつかのう。」
盛長、盛綱の2人は、素早く意思を通わせ、頼朝に伝えた。そして政子と心を通わせ、ひとつのイメージを頼朝に送った。そのイメージを受け取った頼朝は、それが何かすぐに理解した。
蛇骨の力を得た後白河に打ち勝つにはこれしかない。頼朝は頷き、源氏の宝刀を掲げた。
「神の鳥、迦楼羅よ!この刀に宿り給え!」
頼朝は上空を見上げ、目を閉じた。周囲からは何も見えなかったが、結界で守られたこの空間においては、眩い光に包まれた光の玉が現れていた。それは徐々に大きくなり、そして一直線に頼朝の宝刀に飛び込んだ。
「うお!」
頼朝は衝撃に激しく揺れたが、動じることはなかった。頼朝の持つ宝剣は激しく光り、翼のような形となって広がっていった。
「蛇を喰らう鳥神よ、力を我に与え給え!」
頼朝の声に反応し、宝刀からの光は益々増していった。その光に、後白河の結界は崩壊し始めた。後白河の結界は蛇骨の力によるものであるので、宿敵迦楼羅の力によって喰われていった。
「お、おのれ!わが内なる鬼神の血よ、力を出せ!あ奴を倒せ!」
「させぬ!」
夜叉となった羽間が吠えた。盛綱は後白河の上空に登り、そこから強烈な重力場を発生させた。怒りを込めた重力場は、後白河の中心一点に集中するように発生していたので、後白河は反撃しようにもできなくなった。
「ええええいいいいい!たかが坂東武者の分際でえええええ!」
後白河の怒りはそれまでの冷酷冷静なイメージを一変させた。ずっと座した状態で浮いていたのだが、四方から圧迫されるような力でその姿が変形していった。まるで強い拳で握られたように変形していた。
「まだまだよ!祥子の恨み、ミャンマーで命を落とした多くの人たちの怨、それにこれは、俺の分だ!」
羽間の声が響き渡った。夜叉は重力場の力を、怒りを交えて増強していった。後白河の姿は棒の様に細長くなったり、椎茸のように横広くなったりしていた。もはや後白河からは言葉も聴こえなくなっていた。
だがその姿はあくまで仮のもの。本体である蛇骨の力はいまだ生きていた。そして夜叉は後白河の後方に移動し、金剛力士の強さで移動を阻止していた。
下方では政子に寄り添うように一人の老人の姿があった。かおるが政子としての自覚を持った時からずっと、相談役として見守ってきた春道が政子を守る結界を張っていた。こうして前後上下で囲まれた後白河は、いつしか自分の周囲に仏の眷属たちがいることに気がついた。
天界二十八部衆ら千手観音眷属が春道の呼びかけに応じて参戦していたのだ。
「大天狗の公よ・・・最後じゃ。往生なされよ!」
頼朝の宝刀から凄まじい光が飛び出し、二十八部衆と盛綱、盛長、政子と二jj八部衆によって弱体化した結界を破り、後白河の胸を直撃した。
「ぐわあああああぁぁぁぁぁぁ・・・。」
後白河は胸を見た。そこにはぽっかりと穴が開いていた。そしてそこから黒い瘴気が飛び出そうとしたのだが、強い重力場によって抑え込まれ、やがて瘴気は見えなくなり、胸の中心に周囲からあらゆる物質が吸い込まれていくように見えた。その勢いはすぐに早くなり、後白河を含めた重力場の中にあるもの全てがそこに吸い込まれていった。
「ぐげげげがががぼおおおおおおおおお!」
言葉にならない声を発しながら、後白河は自分の胸の穴に吸い込まれていった。その途中、一瞬だけ抗うような動きを見せ、前身に鱗が発生したように見えたが、それもすぐに終わり、やがて後白河がいた空間にある全ての素粒子が消失した。盛綱の重力場に加えて、頼朝の迦楼羅力によって後白河の姿を成していた蛇骨の魂ごと、ミニブラックホールによって吸収されていった。
「よう頑張ったな。後はわしらに任せよ。」
春道はそう言うとミニブラックホールに近づき、八部衆の力で囲み、一瞬で消えた。ミニブラックホールは、銀河系の中央にある超巨大ブラックホールの近くに出現し、そして吸収されていった。
51
大進さなえは、久しぶりに川北空港に降りた。こちらは内陸性気候なので、関東よりずっと蒸し暑い。
「暑いわあ・・・帰ってきたって感じはするんだけど、暑いわあ・・・。」
さなえは傷心だった。自主的な捜査のはずが、プラーナ・ペイチャックに操られていたとわかったからだ。到着口を降りて、まずは山内に連絡しておかねばならないので、近くにあるベンチに座ってスマホを取り出した。山内にかけようとした時、流れていたニュースにふとスマホを打つ手が止まった。
『終戦です!ミャンマー内戦は、プラーナ・ペイチャックの降伏により終結しました!いやあ、良かったですねえ・・・。』
「え?終わったの?」
さなえは内戦終結が良かったのかどうかさえ疑わしかった。このニュースだって連中に操られているかもしれない。そう思わざるを得なかった。これまでの調査が全て嘘で固められていたわけなので、無理もない。
さなえはため息をついてスマホを打とうとした。
「ああ、ここにいたの!探したんだから!」
さなえの目の前にいたのは小野道子だった。全てが疑心暗鬼になっていたさなえにとって、唯一信じられる存在の道子が現れたことは、心の救いだった。
「ママ!ど、どうしてここに?」
「あんたが昨日メッセくれたんじゃないの!帰るのは一日延ばすって。だから迎えに来たんじゃないの。」
さなえは確かに夕べ道子にメッセしていた。山内にも報告して、そのときに道子の顔が浮かんできたのだ。すっかり忘れていた。
安心すると同時に、涙が溢れ出してきた。
「ママー!」
さなえは道子に抱きつき、声を上げて泣いた。ロビーの人が怪訝そうに見ていても止まらなかった。
「ちょ・・・ちょっとちょっと!さなえ、どうしたのよ。」
それでも泣き止まなかったので、空港職員が飛んできて尋ねてきたのだが、道子はやんわりと断り、2階にある食堂エリアにさなえを連れていった。
こういうとき、とりあえず食べさせれば大丈夫だとわかっていた。2人は、空港内で唯一個室のある和食の店に入った。まだ泣いているさなえを部屋に連れていき、座らせてから日替わり定食をオーダーした。
「さなえ、どうしたの?もう話せるでしょ?」
「うん・・・ママ、あたしのこと、信用してくれる?」
「当たり前じゃない!なんでも話してごらんよ。」
さなえはまだ泣きながら、京都での出来事と、それがプラーナ・ペイチャックに操られていたことだと話した。話終わった時、食事が運ばれて来たので、道子は食べるよう促した。最初は少しずつ食べていたさなえだったが、故郷の調味料の味で一気に食欲がわき、あっという間に食べてしまった。道子は慌ててカツ丼を追加注文した。
何日も食べていないように見える食べ方でカツ丼を食べ終えたさなえは、やっと落ち着いた。
「あー!お腹いっぱい!落ち着いた!」
「まあ・・・そりゃそうだろうねえ・・・で、続きは?」
さなえは、やっと出た笑顔を道子に見せた。
「ママ、ごめんね。さっき話したことが全部よ。」
「うーん・・・あたしはあんたを信用してるし、間違いなくそうだったんだろうなあって思ってるよ。だけど、本当かいそれって気持ちも当然あるよ。」
「そうだと思うよ。あたしだって、あたしが経験したことは全部本当だったって思いたいわよ。だけどね、プラーナ・ペイチャックが麻薬で人を操っていたってことは明らかなのよ。それはもうここで調査済み。たぶん人をぼーっとさせる程度の麻薬があって、それを飲んでいる人に言葉で、ああ行けこうしろって指示してきたと思うのね。だからあたしが何らかの行動するとき、決まって食事の後で寝ているの。そしてそこには必ず誰かがいる。現にあたし、行真会の小宮山祥子と弟を見てるんだもん。あれはわざとだけどね、きっと。」
「なるほどねー・・・あ、あたしは本物だよ。」
「わかってるって!だから安心したんじゃない。」
ひと通り話し終えて、さなえはようやく普通に思考できるようになった。無理もない。何日かかけてドッキリを仕掛けられたようなものだったのだ。帰ってきたはいいものの、出署するのをためらうほどだった。
だが道子のおかげで、やっとその気になれた。
「あ、そうそう。ヤマちゃんが、署に連れてきてくれって。だから行こうか。」
「署長が?」
これも、さなえを落ち着かせてくれた。こういうことをさりげなくやってくれるのが山内だったからだ。
「じゃあママ、よろしく。」
さなえは道子の車で川北署に移動した。いつも通りの川北署を見て、やっとさなえは仕事モードになれた。
「よー、さなえちゃん!近ごろ顔見なかったやん。あんたの顔見らんと、おっちゃんたち寂しかよー。」
川北署横にある園芸店の店主が声をかけてきた。さなえは自分が近所のおじさん方のマドンナだったことを思い出し、いつものさなえに戻れた。
「あらあ、ごめんねえ。あたし、ジェームス・ボンドしてたのよお。」
「かあああ、可愛いねえ。」
ご機嫌になったさなえを見て、道子は肩をすくめた。わかりやすい女ではあった。さなえは道子と別れ、数日ぶりに署長室をノックした。
「おお、お帰り。お疲れだったね。まあ座れ。」
さなえは記録した資料を山内の前に置いて、軽くため息をついた。
「大体のことは昨日聴いたな。で、どうだ?自分は麻薬中毒になっているって感じてるのか?」
「いいえ、それはありません。あの麻薬って、合成でしょ?」
「ああ、どうやら安定剤系のものらしい。無意識化に作用するよう、短時間トランスになるよう調合されているそうだ。君が飲まされたものは、粉になっていていつでも飲ませれるような無味無臭の奴だ。」
「どうもそのようです。あたし、何も欲してないです。で、詳細がここにあります。」
さなえは簡潔に整理した資料を山内に見せた。そこには、さなえが疑問に感じたタイムロスについても書かれていた。
「よく頑張ったな。わかりやすい。いい資料だ。だが・・・俺も、複雑な気分だ。おそらくだが、俺もやられていたと思う。君を京都に行かせるように仕組まれていたんだろうな。」
さなえもそう思っていた。あまりにも筋書きが出来すぎていく。今回の事件の恐ろしさが、この資料に書かれていた。
「で、ミャンマーでは内戦が終結したんですって?」
「ああ、いきなりプラーナ・ペイチャックの指導者たちが消えてしまい、戦闘員も記憶がなくなっていたそうだ。それは発表されていないがな。」
「記憶が・・・なくなってる?・・・ってことはやっぱり・・・。」
「ああ、そういうことだな。」
行真会とプラーナ・ペイチャックのさらなる真実は羽間だけが知っていた。
「あ、ケンちゃん・・・羽間くんはどこに?」
山内は眉間に皺を寄せて首を振った。
「それが・・・昨日から行方がわからんのだ。」
「え?どういうことです?」
「連絡がつかんのだ。川北中から小宮山祥子を病院まで運んだところまではわかっている。しかし、病院から姿が消えてしまっているんだ。小宮山祥子は心肺停止で発見されたが、鈷力健は服が中学に残されていた。スマホも病院に残されていて、我々もどうしようもない状態なんだ。大山とは連絡がついたが、あいつにはわからんはずだ。」
さなえは羽間の動向が気になった。いや、気になるというレベルではなかった。胸に痛みを感じるほどの強い衝動だった。つい数日前まで共に資料を調査していたこともあってか、気にならざるをえない。この時まではまだ気がついていなかった感情も、さなえを後押しした。
さなえは決心した。
「署長、あたしも探してみます。」
「ケンを?君は疲れているだろう。無理するな。」
「いえ、色々話していたので、ひょっとしたら思いつくことがあるかもしれないでしょう?」
「・・・わかった。無理はするなよ。」
「わかりました。」
さなえは署長室を出て、資料室に向かった。あそこに行けば、何かわかるかもしれないと思った。さなえは自分でも気がつかないでいたが、自分はあの資料室に行かねばならないと、ごく自然に思っていた。
52
存在は夢を見ていた・・・と思った。存在、としか自覚できなかった。
奇妙な夢だった。華やかなところから野蛮なところに行って、兄のような男の世話をして、共に武芸や遊びに励んだ。と思ったら、厳しいトレーニングをやっていたり、敬礼なども。
そして段々と、古風な侍になったり、現代の若者になったりしていたことがわかった。中には日本ではない地域の風景が見えたりした。奇妙だったが、夢の中ではすべて自然に受け入れていた。
存在はぼんやりと、自分は誰でどこにいるのだろうと考えていた。目覚める少し前に、半分現実で半分夢の中にいるような、そんな感覚だった。そのそも、自分が誰なのかすらはっきりしなかったし、かと言って、そんなことはどうでも良くなってもいた。
自分は自分であるのだからという感情があった。そしてこの、記憶の海の中を漂うという感覚が実に気持ち良かった。クローゼットの中にある服を見ている時の感覚にも似ていた。そうか、生まれると言うことは、こういう感覚なのかもな、と漠然と感じていたりもした。
今日は何を着ていこうと思うように、人は、あらゆる生物は生まれていくのだろう。そして疲れたら、ここに戻ってくる。それが死というものなのだろう。
(はて、ということは・・・自分は今死んでいるのだろうか?)
しかしそのような感覚は全くなかった。明確ではないが、意識もある。
(漂うことでエネルギーを得ている?)
そうかもしれないなと思った。そう思ったと同時に、存在の周囲に光の塊が発生した。それに触れると、力が伝わってきた。
(そうか、こうして意識が明確になろうとすればするだけ、エネルギーが与えられるようになっているのか。)
そしてどんどん力が蓄えられれば、どこかに生まれ変わっていくのかもしれない。
(では今の自分はどこに行きたいのだろうか。)
そう思うと、存在の目の前に光の渦が発生していた。そうか、あそこに行きたいのか。存在は少しずつそこに引き寄せられていった。
いや、自分で行っているのかもしれない。どちらでもいいのだが、近づいていることだけは事実だった(そしてもうひとつわかったことがあった。
(自分は生まれ変わろうとしているのではない。)
そこには終焉までの余白があった。ということは、自分はまだ生きなければならないのだろう。この人生のどこかで、やり残したことがあるようだ。
(では、どの人生の、どこに行こうとしているのか?・・・警察だって?)
(そうか、自分は警察官なのか。)
(九州の、どこだろう・・・川北市?)
(そうか、自分は、いや、俺は羽間堅信と名乗っていたのだ。)
(なるほど、そこでやらねばならないことがあるのか。)
すると羽間の目の前に、様々な映像が浮かんで来た。山内署長、汐田監察官、白水かおる、小野道子、大山鷹一郎・・・そうか、彼らに囲まれて生活していたっけ。彼らの横には、吉橋亀子や緑川小百合、山田ヘンリー隆一、増岡勝蔵らの顔も見えた。
彼らとの間には違和感しか感じなかった。
(そうか、俺は彼らを逮捕してきたのか。)
いや・・・何か足りない。何かのパーツが足りないのだ。何かすごく大切な存在を忘れているような気がした。
「ケンちゃん。」
羽間の横から、今一番必要としている声が聴こえてきた。
「祥子・・・か?」
羽間は祥子の顔を見た。若々しく、綺麗で初々しかった小宮山祥子がそこにいた。
「祥子・・・綺麗だ。」
「ありがとう。ケンちゃんのおかげで、あたしはやっと解放されたの。今度は何の縛りもなく生きたいよ。」
「そうか・・・苦労したもんなあ。」
「もういいの。ここに来て、全てに意味があって、全てがうまくおさまるって気がついた。あたしの人生、無駄じゃなかったの。ケンちゃんとのことも、無駄じゃなかった。」
「祥子・・・もう、会うことはないのか?」
永遠の別れのような気がした。
「ううん、そうじゃない。ずーっと一緒。だけど、小宮山祥子としてはもう会えない。別の人になる。だけどね、ケンちゃんをずっと愛してるよ。それは変わらない。」
離しながら、羽間は光の渦に急速に近づいていった。
(もうちょっと話したい!)
「もういいの。だけどケンちゃん・・・。」
祥子が羽間の手を握ってきた。
「これだけは許される。あたし、忘れない。ずっと好き。」
そう言うと、祥子は羽間にキスをしてきた。接触感はあまりなかったが、至上の幸福感で羽間は満たされた。そして羽間から小宮山祥子のイメージが徐々に消えていった。羽間は光の渦に飲み込まれる前、別のイメージが浮かんできた。そのイメージを確かめる間もなく、羽間は吸い込まれていった。
53
大山は目を開けた。夢から覚めたような感覚だった。あたりを見回すと、石畳と田園風景が見え、社もあった。
「そうか、長明寺か、ここは。」
そして石畳には白水かおるが座っており、横には山高梅生が立っていた。皆、同じように寝起きのような表情だった。
「終わり、ましたな。」
山高がため息をつきながら言った。大山はかおるに手を貸して立たせた。かおるは自分の時計を見た。
「4時・・・1時間ちょうどね。」
「もっと長かったような気がするな。」
「タカちゃん、もう間違いなく覚えてるね。」
「ああ。完全にね。」
頼朝としての意識も知識も、完全に大山は持っていた。もちろんかおるも山高も、北条政子と安達盛長としての記憶を持っていた。
「だが、これはいつまでも意識に上げてはいかんな。」
大山は少し困惑したような表情を見せた。
「記憶は一生分のもの。これをそのまま持っているとメモリーオーバーになっちまう。」
「その通りですよ、殿・・・ではなく、刑事さん。」
山高はニコニコしながら懐から手帳を取り出した。
「わたしはこうして、メモに残しておくようにしています。滅多には見ませんが、見れば思い出す・・・それでいいんですよ。」
「あたしは平気だけどなあ。」
かおるは少し不満そうに言った。
「だって面白いのよ。引き出しが増えるし。」
「そりゃあ、魔女政子だしね。」
「ひどーい。」
3人はけらけらと笑い合った。後白河、義経、行家、泰衡、兵太・・・これらの人生を熟知しなければならなかった戦いだった。このまま記憶の残しておけば、人間の脳では対処できない。
山高が言うように、記憶しておくのは年表のように具体的にイメージしておくだけでいい。だから今、3人は現代の事件を解決したような感覚で笑っていた。
そこへ、大山に電話がかかってきた。山内からだった。
「あ、署長。」
「おいおいおい!お前今まで何やってたんだ?ケンがいなくなったんだよ!お前、居所知らんか?」
「ケンが?俺は今まで行真会の件で捜査してましたからわかりません。」
「ああ、そうだったか。小宮山祥子は死んだよ。」
「え?」
「搬送された病院で、心肺停止で発見された。で、そこにいるはずのケンがおらんのだ。」
「死因は?」
「おそらく心臓発作だろう。血圧が異常に亢進していた形跡があるそうだ。」
大山にはすべてわかっていたが、山内に合わせた対応をした。
「わかりました。探してみます。」
大山は2人を見た。
「さて、どこに来るのかな?」
かおるは大山のスマホ指差した。
「そこよね。」
大山と山高はそろって頷いた。
「さて・・・では適当に時間つぶしながら帰りますか。」
54
さなえは雑然とした資料室に入り、照明のスイッチを入れた。あれから部屋は全く整理も何もされていなかった。期待はしていなかったが、逆にたった数日の間いなかっただけなのに、妙に懐かしくもあった。踊らされていた京都の非現実感が川北で和らいだとは言え、ここに来ると圧倒的な現実感があったからだ。
ここで羽間と当てもなく資料と取り組んでいたのが、遠い昔のようにも思える。そして京都旅行の間、さなえの心の中にはずっと筋肉馬鹿の姿があった。それは全く意外なことだった。何度も消そうとしたのだが、逆にその比重は増えていった。
だが、さなえはまだその気持ちを整理できないでいた。
「全く・・・あたしがいなけりゃどうしようもないんだから!」
さなえの机と羽間の机は、明らかの度を超えて整理度が違っていた。さなえはすぐに資料を閲覧できるように、ノートにキーワードその他を書いて付箋をつけていて、机の上も下もきれいになっていたが、羽間の方はよくこれで資料が見つかるなと思えるほどに雑だった。
しかしさなえは、羽間がなにか尋ねたらすぐに資料を取り出したりプリントアウトしたりしていたことも知っていた。記憶力が段違いに優れていたのだ。
「そこだけは敵わないのよねえ・・・よっこらしょっと。」
さなえはとりあえず資料とは思えない箱を片付けに入った。証拠物が入ったものくらいは整理棚に入れておいていいだろうと思ったのだ。だが、これが重かった。
「げえええ!なにこれえ!よくこんなの抱えてきたものよねえ。さすが筋肉馬鹿だわ。」
さなえは腰を叩きながら背を伸ばした。そういえば羽間はこれを軽々と持ち、時には両肩に2つ乗せて運んできていたりした。もし自分が暴漢に襲われたりしたら、その時羽間がいてくれていたらどれだけ心強いことだろう・・・と考えたりしたさなえは、気がついてブルブルと首を振った。
「あー嫌だ!何考えてんの、あたしったら。」
さなえはこの箱を片付けるのは後回しにして、あたりをできるだけ片付け始めた。明らかにゴミとわかるものを捨てていると、腰が痛くなってきて椅子に座った。
「あ・・・。」
そこはずっと羽間が座っていたところで、座ると羽間の体臭が感じられた。汗臭くはなく、青竹に近い爽やかな匂いだった。さなえはこの匂いで、また数日前までの喧騒を思い出していた。
一方的にさなえが羽間を怒鳴っても、羽間はケロッとして受け止めてくれていた。天然なのかなと思えるほどの対応だった。最初はいちいち腹が立っていたのだが、いつしかこの男のスポンジのような吸収度と真逆の逞しさが、本当に頼りになってきていた。
経験したことのない感覚だった。
さなえは京都出張の時にも、それまでとは違ったストレスをずっと抱えていたが、そのイライラは羽間に受け止めてもらっていたはけ口がなかったことだったと、たった今気がついた。
「そっか・・・あたし・・・。」
さなえは呟いたが、何かに気がついた。
「あ、あれ?あたし・・・泣いてる・・・?」
涙が頬を伝ってきていた。さなえはハンカチで涙を拭ったのだが、後から後から出てくる。ここに羽間がいないことがこれほど悲しくて辛いことだとは思ってもいなかった。
あんな体育会系の筋肉馬鹿に好意を抱くなど、ありえなかった。だが現実にそう感じていたことは紛れもない事実だ。こぼれ落ちる涙に触れていると、感情の爆発が抑えられなくなってきた。さなえは両手で顔を覆い、声を殺しながら泣き出した。
「えっ・・・えくっ・・・い、嫌ぁ・・・帰ってきてよお・・・どこにいんのよお・・・ケンちゃん・・・。」
なんで今ここにいないのよって怒鳴りたかった。あんたはあたしの横にいればそれでいいのよって言いたかった。しかしそれを言うべき対象がここにいない。
泣きながら、さなえは自分が羽間に恋をしていることに改めて気がついた。
「どこに・・・どこにいんのよ!」
さなえは大声を出してしまい、焦って署長室を見たが幸い山内はいなかった。ホッとしたのだが、スマホが鳴った。メッセである。
「え・・・誰?」
非通知からだった。
「こんな時に・・・もうっ!」
さなえはスマホを投げつけようとしたが、メッセの文章に目が止まった。
『うしろにさがって』
「え?なに?どういうこと?」
さなえはこの変なメッセに恐怖した。
「嫌ぁ!なによ、これえ!」
さなえは意図する間もなくごく自然に立ち上がり、スマホをテーブルに置いたまま後ずさりした。そしてドアに向かって走り、部屋を出ようとした。ドアノブに手をかけたときに、後方でガタン、と音がした。
「な・・・なに・・・。」
さなえは恐る恐る振り向いた。
「え・・・えええええええ・・・ええええええええええええええええええええええええええええ!」
さっきまでさなえが座っていた羽間の椅子に、机に突っ伏して寝ている姿の、羽間堅信がいた。両腕を机に置き、その間に頭を乗せて大いびきをかいていた。
「ど、どどどどどどど、どゆこと?ケン・・・ちゃん・・・ケンちゃん?・・・ケンちゃん!しょ、署長ぉ!しょちょぉー!」
さなえは山内を探して部屋を飛び出した。羽間は相変わらず眠っていた。
「腹・・・へって・・・もにゃ。」
55
山内は何冊かの資料を手にし、眼鏡ごしに睨んだ。
「つまり、そのー、なんだ。病院で小宮山祥子の最後を看取った後、ここに戻ってきて、なおかつ資料棚で寝ていたところ、大進が部屋に入ってきて、それで夢見ているつもりでふらふらと歩いて座ったと・・・そういうことなのか?」
羽間、さなえ、大山と山内の4人は、署長室にいた。
「はあ・・・自分が覚えているのは、そのー、小宮山祥子が死んで少なからずショックを受けていて、そこからどうやってここまで来たのかはよく覚えていませんが、夢でどこか光が見えて気がついたらあそこに座っていたってことです。」
大山の説明を聴きながら、さなえも山内も釈然としない表情をした。
「じゃあ、川北中学になんで鈷力健の服だけがあったんだ?」
「ああ、それは・・・えーと、あくまで自分の勘ですが、小宮山祥子はあそこに来ているかもしれないと思ったんです。自分と小宮山は同級生でしたから。で、自分は煮詰まっていたこともあって母校にでかけたところそこに奴もいて、自分と祥子が・・・よく覚えてはいないんですが・・・気を失ったと思うんです。気がついたら祥子が倒れていて、鈷力健はいなくなっていました。」
「まあ、汐さんの話だと、どうやらお前と小宮山祥子の2人の足跡があって、そこにもう一人の足跡が近づいてきた形跡があったと聞いている。お前が覚えておらんのは、おそらく健に襲われたとしか考えられん。物的証拠もあるので、これはそういうことだろう。鈷力健の行方はこれから捜査せなならんな。まあしかし・・・。」
山内は手元の資料を置き、横にあった新聞を手に取った。
「プラーナ・ペイチャック独立戦争は不可解な収束。出先機関だった行真会の、実態は全くない2人だけの組で、構成員は全て麻薬と暗示で動かされていた・・・か。ここんとこずっと妙なヤマばっかだな、うちは。お前らの誰かが妖怪か何かじゃないのか?ああ?」
大山と羽間は一瞬目を合わせた。
「あ、あたしじゃありませんよ、ええ。」
さなえが慌てて手を振って否定した。
「お前じゃないことくらいわかっとるよ。お・ま・え・ら・だ。」
山内は大山と羽間を交互に指さした。
「署長、勘弁してくださいよ。俺も参ってるんですから。」
大山も、さなえほどではないが手を振って否定した。
「こんな地方都市、大都会のような吹き溜まりがあるわけでもなし。でもなぜか・・・。」
「まあいい、忘れろ。思わず俺も変な考えになっちまう。前はこんなじゃなかったんだがなあ。ケン、ちゃんと調書と報告書、書いとけ。明日までだ。」
「え?明日ですか?」
「何だ、無理なのか?」
「あ、あたしも手伝います。あたしも書かなきゃいけないし。」
さなえが食い気味に名乗り出てきた。
「お前は誘導されてたんだろ?」
「で、でも、書きたいんです!」
山内は少しばかり変な顔をしたが、どのみち必要ではあるので許可した。
「まあいいだろう。お前たちはずっと取り組んできたからな。よし、もう行け。明日まで在宅勤務だ。資料室を使ってもいいぞ。」
3人は署長室を出て、『ラ・クア・クチーナ』に向かった。幸い、今は誰もいなかった。道子は退屈そうにしていて、3人が入ってきて嬉しそうに叫んだ。
「やったー!今日は暇だったんよ。たーくさん食べてって!」
「えーと、ケーキセット3つね。」
「・・・そんだけ?・・・。」
道子はがっくりと肩を落とした。先に出されたチーズケーキを食べながら、3人は今回の件について話し合った。プラーナ・ペイチャックに関しては外務省と防衛庁の管轄であるので、警視庁で動くのは川北署だけだった。
「まあ、要はさほど影響がないレベルで書くしかないな。」
「でも先輩、実際プラーナ・ペイチャックの出先が行真会で合成麻薬と催眠で人を操作していたこと以外、現実的にはさほどないですよ。」
「でも、それでいいんじゃないですか?詳細は必要だけど。大体、あたしの報告書なんて、みっともないだけじゃないですか。せっかくの京都が、ぜーんぶ操られてたんですよ?何を書けっての。あー嫌だ嫌だ。」
何気ない会話ではあったが、その裏では大山と羽間はすでに別の次元で会話できるようになっていた。
『ここは面倒ですね。』
『俺はこういうのは向かん。だがやらねば。ところで、さなえはお前に気が向いているようだが?お前はどうなんだ。』
『いやあ、先輩は無理です。それに祥子のことが忘れられなくて。』
『そりゃまあそうだな。あまり邪険には扱うなよ。俺は無理だが。』
『俺だってそうですよ!』
頼朝と盛綱の魂を持つ2人には、こういうことも可能だった。さらには遠隔で、かおるや山高らと会話することもできた。
『仕方ないだろ。じゃあお前たち2人で書いとけ。俺は山高先生と話しておく。』
大山は羽間とさなえを残して、かおるの仕事場に向かった。そこには山高の姿はもうなかった。すでに山高が去ったことは知ってはいたのだが、彼らにとっては距離など問題ではなくなっていた。
精神感応状態というものは、常に誰かが横にいて、日常を見られているようなものだ。彼らは必要な時にいつでも精神的にノックできるようなシステムを作り上げていたので、ここでは通常の会話で済んだ。
「今回は大変だったなあ。」
「でもこれでやっと、あなたは自由になれたわけだから良かったじゃない。あたしはまだ課題が残ってるのよ。」
「そうだな・・・しかも厄介すぎる。」
山高がここにいない理由も、この厄介な問題のためだった。後白河の因果はまだまだ終わってはいなかったのだ。
「そう、厄介・・・でも、これもやらなくちゃいけないこと。」
かおるはローズヒップティーを大山の前に置いた。
「・・・うまいな。今思い返してみると、目覚める前に飲んだ味とは全然違うもんだな。」
「経験値が違うしね。」
事実上、彼らは2つの人生を背負っているようなものだ。経験値が違うのは、記憶量の違いだった。あの闘いが終わったのに彼らが安心できないのは、この厄介な問題と、うんざりさせられるような記憶があったからだ。
「あの方は、まだ動いてはいないようだな。」
「まだね・・・でももうすぐよ。それも定め。法皇様の因果は次でやっと断ち切られる。でもねタカちゃん・・・あたし、怖いの。」
大山はティーカップを置いて、軽くため息をついた。
「そうだな・・・次は、俺はまともに戦うわけにはいかない。だけど、ケンも先生もいる。俺は彼らの後方支援ってことになる。」
「いきなりじゃあないから、少しずつ、力をつけていかなくちゃね。」
次の問題はかおる自身の、そして盛綱や盛長らにとっての正念場でもあった。その前に、幾つか片付けなければならないこともあるだろう。大山は精神感応状態をオンにして、山高とも交流状態に入った。
「次、お願いしますよ。」
『もちろんです。それまでは私も力を最大にまで上げておきます。』
鎌倉13人衆としての正念場は、いずれやってくることになる。
56
「ケンちゃん、これも!」
「あ、はい。」
さなえと羽間は、さなえが指示して羽間が片付けるという流れで資料室の整理をしていた。プラーナ・ペイチャック関連のものは国の資料として提供し、行真会は警視庁関連と分けなければならない。まず重い資料を羽間が運び、さなえが整理してさらに運ぶということを繰り返していた。
「あー疲れた。少し休もうか。」
さなえは片付けの前にコンビニで買っておいたシュークリーム、かりんとう、羊羹、チョコレートを机の上に並べ、缶コーヒーを出した。
「ほい、これケンちゃんの。」
「あ・・・あざす・・・。」
だが缶コーヒーは非情に甘いタイプで、並べられたお菓子も甘味系のみ。普段から塩味系しか食べない羽間には、まるで拷問だった。こんなんばっか食べてんのかな、先輩は・・・と思っていると、さなえがすかさず突っ込んできた。
「なによ、こんなん食べてるから小デブってるって思ってるんでしょ?」
「と、とんでもないです。美味いっす。」
「本当?」
いつものように羽間をチクチクしながらではあったが、さなえは内心喜んでいた。どう接していいかわからないというのが本音ではあったが、とりあえずこうやって羽間を独占できることの方が大きかった。以前は全く意識していなかったのだが、この事件以来、さなえの中での羽間は大きくなっていた。何はなくても、同じ空間で2人だけでいられるだけで心地よかった。
さなえは、元々妄想癖があった。
(これが結婚生活の感覚なのかしらねえ、これで朝にあたしが起こしに行って中々起きないでいて、あたしが布団を剥がしたら寝言言いながらあたしを中に引っ張り込んで、キャー!)
「あの・・・先輩?」
「へ、へ?」
「あの・・・ティッシュです。」
「は?なんで?」
「くしゃみ、したいんでしょ?」
妄想して気持ち悪い笑みを浮かべた顔が、まるでくしゃみする寸前の表情だったからだ。
「ちょ、ちょっと!邪魔しないでよ!」
「へ?俺、何か邪魔しましたっけ?」
「もういい!」
羽間にとっては今まで通りに先輩の一人なので無理ないことだが、さなえは羽間の鈍感ぶりが腹立たしいやら、母性を抑えきれないやらで複雑な感情が渦巻いていた。
「あの・・・病院に行かれた方が・・・。」
コロコロ表情が変わるさなえを心配して羽間が声をかけようとした時、さなえはもはや自分の感情を抑えきれなくなっていた。
「ケンちゃん!」
「あ、は、はい。」
「今日から!」
「・・・え?」
「あたしと暮らしなさい!」
「は、はい・・・え、ええええええ?」
うっかり義務返事した羽間だった。
「セ、先輩、どうしちゃったんすか?やっぱり病院に行かれた方がよかですよ。きっと麻薬の後遺症で・・・。」
羽間の言葉は続かなかった。さなえが羽間に飛びついてきてキスをしてきたからだ。
「ム・・・ムムムム!」
さなえは自分より20センチも身長差がある羽間に驚異的なジャンプで飛びつきてきた。しかし腕力が続かなく、さなえはズルズルとずり下がろうとした。羽間はこれも反射的にさなえを抱えて助けようとしたのだが、結果的にさなえの欲求を認めるような行動となってしまった。すっかりその気になってしまったさなえはいよいよ強くキスをしてきた。
羽間の意識は軽く飛ぼうとしていた。精神感応状態にあった大山とかおるは、内心で笑いながら黙って見ていた。
57
県北にある康安寺横にあるまほろば堂は、今にも崩れ落ちそうな古い堂だった。康安寺に来る人たちも、そのあまりのボロボロぶりに見向きもしなかった。普段は扉が開いたままだのだが、羽間が戻ってきたこの日、扉は静かに閉じていた。
そしてたまたま強い風が吹いていたので、誰もこの辺りを歩こうとはしなかった。六畳ほどの狭い堂であり、かつては仏像があったはずだったが中にはもう何もなかった。
だが、人間界とは異なる世界がこの中には展開していた。この次元の住人には、果てしなく広がる別世界があり、姿が確定していなかった。時間すら外界とは関係ない世界でもあった。
その中に、8つの光の玉が集まってきた。我々には感知できないことではあったが、この世界の住人の感覚で言えば、車座になって話し合いをしているようなものだった。光の玉はそれぞれが何か発言をしていたが、どのような内容かは我々には理解すらできないもののようだった。
そして次第に彼らの周囲にはさらに多くの光球が集まりだし、その数は20になった。その中のひとつがより強く輝きだし、激しく動き出した。残りの光は静かにしていたが、やがて動きている光の周囲に集まり始め、そしてそれをすっぽりと包むように囲んだ。
ひとつとなった光たちは眩く輝き、そして一体化した光は激しく回転しはじめ、銀河系のような円盤形となった。しばらく輝いた円盤はゆっくりと暗くなっていき、やがてパッと消えた。まほろば堂の扉はゆっくりと開き、再び静寂が訪れた。
通りすがりの住人がボロボロの堂を覗いて呟いた。
「ここも狭いなあ。でもまあ取り壊しも何だしなあ・・・。」
一方で京都府東山区にある法住寺陵は、いつもと変わらない雰囲気のままだった。多少ライトアップされてはいるが、静寂そのもの。遅い時間帯ということもあったが人通りも少なく、風もない夜だった。
廟の庭は整備されており、暑い夏の余韻が感じられた。すると誰もいない廟の庭に、ポツン、と炎が庭に灯った。正確には炎のような形をした光、と表現すべきだったのかもしれない。全く揺れていなかったのだ。
その光は少しずつ上昇し、徐々に大きくなっていった。そして高さ2メートル程度の大きさまでなると、それはもうはっきりと形がわかるようになった。それは観音像のようにも見える姿だった。静かに目を閉じ、穏やかな気が全身から溢れていた。
しばらく庭に佇んでいた観音だったが、やがてゆっくりと目を開けていった。そして我々の耳には聞こえない高次元振動で、何かを語りかけはじめた。観音の声に反応するように、廟の前に白い姿の座した法衣姿が現れた。
どこか疲れたようにも見えるその顔は、滅したはずの後白河だった。その姿からは、頼朝たちと戦ったあの荒々しい尖った気は感じられず、ただの老いた老人の姿だった。観音の声は止み、その目で静かに後白河を見るのみとなった。
観音と後白河の、聞こえない会話はしばらく続いた。我々の感覚で5分ほど続いた声なき会話はやがて終わりとなった。後白河の身体が震えはじめ、泣き始めた。元来、第4皇子であった雅仁は、生涯のんびりと遊んで暮らすはずだった。だが運命のいたずらで、兄の近衛天皇が崩御したため中継ぎとして即位せざるを得なかった。
その後二条に禅譲したのだが、類稀なる人心掌握術を心得ていたため、朝廷では後白河派と二条天皇派に分かれてしまった。雅仁が凡人であったならばそれから発生する平治の乱も起こらなかったであろう。あの清盛を手玉に取るほどの力量の持主であったがゆえに、その後も影響力を持たざるを得なかった。
誰よりも辛かったのが、実は雅仁であったのだ。雅仁の基本姿勢は全く何も変わっていなかった。ただのんびりと歌を楽しみ、遊び、仏の道に通じていたかっただけなのだ。
だが、時代がそうはさせなかった。武家の台頭により、否が応でも荒々しい武家を手懐けねばならなかった。そのために自分にすりよってくる武家を手懐けようと言葉がけをするたびに、武家は離れていった。朝廷と院による政治を維持しようとは露にも思わなかったのだが、結果的にそうなってしまった。
その苦しみは誰にも理解できなかった。悔しくて悲しくて、しかし傍女にでも言えはしなかった。孤独のうちに政権を担うことになった頼朝ら坂東武者たちからは必然的に悪にされてしまい、失意のうちに他界してしまった。
そしてその無念さを蛇骨につけもまれてしまった。その悔しさ、悲しさが観音との会話によって溢れ出してきたのだ。
しばし号泣すると、後白河の姿は若々しい雅仁に変わっていた。傍らには、雅仁が愛した女たちが並んだ。雅仁は空間に手を伸ばして、筆と札を手に取り、歌を書いた。
書き終わると、雅仁は札を観音に差し出した。観音は手を伸ばして札を受け取り、歌を読んでにっこりと笑った。そして手を振ると、女たちの姿は消え、雅仁の姿も小さな光の玉となった。観音は右手を差し出し、光の玉はその掌に吸い込まれていった。
雅仁の魂を取り込んだ観音は、再び目を閉じた。
して静かに少しずつその姿は消えていき、まもなく法住寺陵は何もなかったように元に戻った。
静寂が、訪れた。
いかがでしたでしょうか。
長くなりましたが、それなりには読み応えあると思います。




