第四十九話 普通の男の子に戻ります アオヤマ包囲網・その三
説明しよう。ポジトロンパイロット、志村正規は、ネガリアンに感染しない。ゼツボーグのように獲得免疫を持つわけではなく、初めからネガリアンに好かれないという特異体質の持ち主である。
その主な理由は、ネガリアンの食料である負の感情エネルギーが限りなくゼロに近いこと。そして、その潔白な精神こそが、ポジトロンを動かす者として最適の条件だった。
ネガリアンに家族を奪われ、自分の代わりとなるものを量産され、信じていた科学衛生局に裏切られた。それでもなお彼がポジトロンを維持できたのは、彼の精神力が起こした奇跡とも言える。しかし、奇跡とは一瞬の煌めき。不信、恐怖、悲しみ、怒り。それらの感情は、確実に志村の精神を侵食していた。
そして今、すべてが瓦解する。
イヴが戻ってきた志村をあらためて見た時、最初に感じた彼の気配とは違うものを感じた。いや、最初に感じた特別感が薄れていると言った方が正しいだろうか。すなわち、志村はこの戦いの中でネガリアンに感染した可能性が高いということである。
ポジトロンは損傷し、もう全力で戦える状態ではない。ポジトロンの性質について、小堀からひと通り聞いているイヴは考えた。今ここで志村の感染細胞を捕食すれば、ポジトロンを全力稼働状態に戻し、この戦いは乗り越えられるかもしれない。しかし、その後はどうなる。一度感染が始まった人間を、完全に回復させる方法は彼女すら知らない。つまり、志村にポジトロンを維持させることは絶望的と考えていい。
そうこうしている間にもイヴは、志村の飛んできた方向からもうひとつの強い気配が近づいてくるのを感じた。それは、5年前の小堀とよく似た感覚。ゼツボーグである。走攻守において特殊部隊を圧倒的に上回る志村をここまで追い詰めた相手となれば、このゼツボーグしか考えられない。
特殊部隊は食い止められているが、この場でポジトロンを上回ったゼツボーグに、志村を守りつつ対処することができるだろうか。いくら無数の能力を持つイヴでも、それを制御する脳は人並みのものがひとつだけ。複合的な思考や行動には限度がある。
「もしかしてだけど、君、感染した……?」
その言葉を発した時、彼女の心は決まっていた。
志村は彼女の発言が理解できないように目を白黒させるが、もう手段を選んでいられる余裕はない。もしもゼツボーグと対立する日が来たら、その時は敵同士。全力で戦うこと。小堀との約束を、イヴはこの場で実行する。
「……はっはっは! ならちょうどいいわ。今ここで、ヒーローとしての君を終わらせてあげる!」
イヴは特殊部隊を抑えるエアーの能力を弱め、自己再生に力を回した。一瞬で頭部を再生して立ち上がると、ゆっくりと志村のいる処置室へ近づいて行く。
「なんだ、どうしたんだよ急に!」
志村はイヴの様子が変わったことに恐怖し、急いでノートを服の中に戻し剣を構える。しかし、損傷と精神の乱れで機能の大半を失ったポジトロンは、すでに剣の振動や加熱も満足にできない状態になっていた。
逃げ道はひとつ、ベランダ側の窓。しかしその先には那珂畑が迫っている。完全なる八方塞がりとなった志村にイヴは飛びかかり、その頭を鷲掴みにする。
「私はネガトロン、人類の敵。だったら、私を守ろうとした君も人類の敵! だったら敵らしく、最後まで抵抗させてあげるのよ!」
イヴが志村に使ったのは、ネガテリウム・仮個体名ジャックの能力、強制感染。触れた相手の体質に関わらず、一定の段階まで感染させることができる。ただし、つい先ほどまで感染すらしていなかった志村に対しては、通常よりも少し時間がかかる。そのため、即時にポジトロンを完全停止させるほどの力ではなかった。
気圧操作の攻撃を警戒していた志村は、自分の体にあまり変化がなかったことにまず驚く。
「……何をしたんだ?」
「君を他の人間と同じ、感染者にしてあげる。これでもう、君を探すのは簡単じゃなくなる。私のためを思うなら、ネガリアンのためにそのノートを持って逃げなさい」
志村はかつてないほどに迷った。ここまで多くの人々を敵に回しておいて、彼は自分自身が人類の敵になっているという自覚に欠けていたのかもしれない。いや、あるいはその事実から目を逸らしていたのだろう。希望のヒーローがネガトロンに同情して人類を裏切るなど、最もあってはならない事態。ポジトロンの出力が少しずつ落ちていく中で、彼はそれが本当に正しい判断だったのか、決めあぐねていた。
しかし、考える猶予はそう長くはなかった。ベランダの下、非常はしごを登ってくる足音がひとつ。那珂畑がすぐそこまで迫っている。
「行って、早く!!」
那珂畑の上半身がはしごの上に見えた瞬間、イヴは両腕を大きく広げ、玄関と窓の両方にエアーの能力で突風を起こした。部屋の内壁を削り落とすほどの風に、那珂畑と特殊部隊はもちろん、至近距離にいた志村も窓の外へ吹き飛ばされる。
「イヴ!」
志村は飛ばされる間、ジェット噴射で少しだけ踏みとどまり、イヴの方に手を伸ばした。彼女と別れたくない。彼女を戦わせたくない。彼女を失いたくない。彼は必死だった。彼女が外に出れば、ネガトロンの巨大な反応でまたすぐに居場所を特定されてしまう。そんなことを考える余裕はなかった。彼はただ、自分を鏡に映したような相手を、失いたくなかった。
「嫌だよ! ボクはもう何も失いたくない! キミを守りたい! 逃げるなら一緒だ、キミとならどこまでだって行ける!!」
しかし、イヴはその手を取らなかった。代わりに、笑顔でその激情に答えた。その顔は、まるで友人との約束を果たした子供のような、あるいは患者の治療を終えて満足した医者のような、優しい笑みをたたえていた。
「……ごめんね。もう少しお話したかったけど、今日はお別れね」
イヴは突風の中に、もうひとつネガトロンの能力をかけ合わせた。仮個体名パルス、その能力は電波介入。最初にポジトロンの動きを止めた能力である。イヴはそれを使い、ポジトロンの駆動系に侵入。ジェット噴射を強制的に作動させ、突風に上乗せして志村を部屋の外へ飛ばした。
「……まったく、ヒーローが地味に非常はしご登ったりするかね」
イヴに吹き飛ばされる前、那珂畑は文句を言いながら、一段ずつゆっくりとはしごをよじ登っていた。【スーサイド・ダブルショック】でベランダまで跳躍することも考えたが、その力はイヴや志村との再戦に温存しておきたい。いくら慣れたとは言え、やはり落涙態の制御にはそれなりの消耗が伴う。
ゼツボーグを通常状態に維持したまま、ようやく室内が見えるほどにはしごを登りきった時、窓枠とベランダを破壊するほどの激しい突風が彼を襲った。はしごを握っていた手はその風圧に耐えきれず、崩落するベランダと共に地面に落ちていく。その間、彼は突風に飛ばされる志村の姿と、ポジトロンの損傷部からわずかに覗くノートを見逃さなかった。
「っ、逃がすか!」
那珂畑は地面に衝突すると同時に、【スーサイド・ダブルショック】の垂直跳びで志村を追う。ポジトロンのように空中での姿勢制御はできないが、跳躍の勢いが突風に乗ったことで、どうにか志村の体にしがみつくことができた。
しかし、それも一瞬の出来事。志村はパルスによって最大出力になったジェット噴射で体を回転させ、遠心力で那珂畑を振り落とす。
那珂畑はそのまま地面に叩きつけられるが、振り回される勢いで志村の上着を破り、中にあったノートを共に落下させることには成功した。彼が地面から回収できたノートは3冊。それぞれ表紙に1年目、2年目、5年目と書かれている。毎年1冊ずつのノートだとしたら、3と4年目は志村に持ち逃げされたことになる。最新版を手に入れただけでもよしとしたいところだが、那珂畑はすかさずインカムに指示を飛ばす。
「ポジトロン逃走! ベランダ側の隊員は空中を見張れ!」
しかし、隊員からの返事はない。代わりにインカムからは、砂嵐のような音が断続的に聞こえてくるのみ。
パルスの電波介入は突風とかけ合わせることで広範囲に広がり、周辺の通信機能をほぼすべて破壊していた。これにより現地にいた隊員たちは、完全に志村を失うことになる。そして志村はジャックの強制感染を受けたことで、ポジトロンを失う代わりに、ヒーローの戦いから解放されることになった。
「仕方ない、こうなったらあとはサブミッションだな」
那珂畑はアパートの下を通り抜けるようにして、部屋の玄関側、特殊部隊の集中している方に向かった。
アパートから1区画ほど離れた雑居ビルの4階。現在空室となっているその一室に、今回の作戦指揮所は設置されている。
「電波障害により、口頭でお伝えします。ゼツボーグより追加の作戦指示あり」
伝令のために、ひとりの隊員が駆け込んできた。
「読み上げろ」
窓から戦場を睨む指揮官はすでに電波障害を把握し、インカムから拡声器に持ち替えている。しかし、周囲の一般人に聞かれる形でのパニックを引き起こしかねないため、まだその電源は入れられずにいた。
「はっ」
連絡員が、隊服のポケットから速記のメモ用紙を取り出して読み上げる。
「ポジトロンが戦場を離脱。電波障害により短時間での再特定は困難と判断。よって、本作戦の対象を新ネガトロンに集中せよ。ただし、戦闘範囲拡大を避けるため戦力はゼツボーグを主軸とし、特殊部隊を補給にあてる少数精鋭とする」
「……現場はどうなっている?」
「はっ。先の突風攻撃により、前線部隊に深刻な損害あり。すでに新作戦の陣形に変更しているものと考えられます」
その時、指揮官は拡声器を机に置いた。広域指示が出せない以上、あとは現場の判断に任せるしかない。ただし、状況を安定させるにはどうしても指揮官の声が必要となる。そこで指揮官は連絡員に現作戦のまま続行、各所に口頭で拡散させるよう指示した。
特殊部隊は一部が対特区計画に参加していたため、多くの隊員が計画の内容を知っている。しかし、彼らも本心では人々の生活を破壊することに後ろめたさを感じていた。できることなら、計画は続行させたくない。それが裏の総意だった。
今回の新ネガトロンの戦力から見て、これ以上破壊範囲を広げられると、I区域が次の計画対象に選ばれる可能性が高い。アツギ市よりもはるかに経済機能の高いアオヤマ地区で計画を進められれば、いくら人類全体の勝利のためとは言え、損失が大きすぎる。
しかし、一度上層部で決定してしまえば、特殊部隊は動かざるを得ない。今彼らにできる最善手は、その決定を出させないことだった。
「結局、普通の人間には荷物運びが精いっぱいということか」
指揮官は水筒から水をひと口だけ飲んだ後、残りを頭からかぶった。空調のはたらいていない室内、年が明けて間もないこの時期に、首元から入り込む冷水は、戦いによってこもった熱を冷ますのにじゅうぶんすぎるほどだった。
作戦受理の連絡が最前線に届く頃には、すでに部屋の玄関側でイヴと那珂畑が対峙していた。特殊部隊は階段下まで後退、残りの戦闘要員はベランダ側に距離をとって待機という陣形となった。先ほどまでの突入を食い止められたように、狭い玄関に大人数をけしかけるのは無理がある。また、広いベランダ側も突風によってはしごごと破壊されているため、進入は難しい。イヴが部屋から出ようとしない以上、ここは最大戦力であるゼツボーグとタイマンの形に持ち込むのが最善と判断された。
那珂畑には、小堀からイヴとの接触をなるべく避け、ノートの回収を最優先にするよう指示があった。その指示に従うなら、ここは戦闘を中断して特殊部隊ごと撤退するべきだろう。しかし、彼がサブミッションとつぶやいたのは、この状況。イヴを直接攻撃できるこの状況が目的だった。
小堀によれば、那珂畑ひとりでは勝ち目のない相手。だが、それこそが那珂畑にとって最も都合の良い相手だった。ここで勝てば、人類の脅威を打ち消し、ノートは無事回収。さらにツクモを元気づけることもできるかもしれない。もし負けても、戦死という彼の最終目標が達成される。
それに、イヴを殺すという決定に小堀がまだ迷いを感じていることを、那珂畑は見逃さなかった。彼がまだ迷っているなら、この戦いで、現場の判断で決着をつけるしかない。那珂畑はそう考えた。
シネマのような人を殺さないという誓約は、とうに取り払われている。この千載一遇のチャンスを、逃す手はない。
「……初めまして、ネガトロン」
イヴの繰り出す気圧の壁を、那珂畑は【ネガティヴ・スパイラル】の回転で相殺し、ゆっくりと彼女に近づいていく。そして、互いの拳が届かないぎりぎりの距離で立ち止まった。
「やあ。その真っ黒な鎧、君が那珂畑君ね。小堀君から君のことはよく聞いていたわ。なんでもネガトロンに同情するほど優しい子って話だったけど、思ったより怖い目をするのね」
「ああ、その話なら志村にも言ったけど、状況が変わったんだ。お前らに細かく教えてやる義理もないけど、とにかくネガリアンは殺す」
「……いいわね、それ」
イヴの言葉を最後に、ふたりの殺気が衝突した。それと同時にイヴは突風で、那珂畑はドリルで攻撃を始める。
小堀からイヴに情報が流れているなら、ゼツボーグ98号の超防御も知られているだろう。那珂畑は予想した。多くのネガリアンを知り尽くした彼女が、ただむやみに敵を押し返すだけの攻撃を繰り返すはずがない。
そして、その予想通り、イヴは突風に他の能力をかけ合わせていた。
ネガテリウム・仮個体名スプレッド。そしてネガトロン・仮個体名ラクス。能力はそれぞれ、細分化と筋弛緩。スプレッドは自身の体を細かく切り分け、また元に戻すことができる。ただし、あまりに多く小さく分けた部分は戻せず、ネガテリウムの巨体ゆえの威力であるため、普通の人間サイズのイヴではその真価を発揮できない。
だが、イヴは元に戻せないほど微細な肉片を飛ばせればそれでじゅうぶんだった。那珂畑に向けて飛ばした肉片には、ラクスの筋弛緩能力が上乗せされている。これは、触れた相手の筋肉を一定時間無力化するもの。最初にポジトロンを止めたのはエアーとパルスだが、中の志村まで止められたのは、この能力が作用したためである。
那珂畑のゼツボーグは、触れたネガリアンを瞬時に消毒する。しかし、鎧の隙間を縫うようにして中身に接触できれば、触れた部分から動きを封じることは可能。接触する肉片の小ささゆえに効果は弱いが、そこは数でカバーできる。複数個所に命中させ、主要な関節を動かせない状態まで追い詰めれば、那珂畑は触れてはいけないだけの置物と化す。
イヴの計画通り、那珂畑の鎧には少しずつ彼女の肉片が侵入し、本体に筋弛緩能力をかけていく。しかし、その効果は彼女の予想よりもさらに弱かった。彼女は那珂畑の鎧が二重構造になっていることまで想定し、慎重かつ正確に肉片を飛ばした。そして、ゼツボーグではなく人体に触れた感触がスプレッドの能力を通じて確認できた。しかし、那珂畑の動きはなかなか鈍くならない。
一方で那珂畑は、自分が何かしら本体に作用する攻撃を受けていることをわずかに感じていた。しかし、彼もまたイヴの攻撃に体ひとつで突撃したわけではない。彼はイヴがわずかに動揺し始めたのを見ると、種明かしと言わんばかりに、防御体勢のまま鎧をずらして本体を晒した。
結論から言えば、この時那珂畑の防御は3段にまで重ねられていた。まずは、ゼツボーグ98号本来の自動防御。それを突破された場合、本体を攻撃された場所から、彼の命をつないだ合金がすぐさま消毒と回復に取りかかる。そしてさらに、彼はこの場でもうひとつの防御法を手に入れた。それは、本体を晒したことで変色した腕と共に露わになる。
「……ここに来る途中、何本かくすねてきたんだ」
特殊部隊が持っていた、対ネガリアン用の振動警棒。彼はそれを両手で逆手持ちすることで、鎧の中に隠していた。警棒は那珂畑の体に触れることで威力を弱めるが、その振動はわずかながら彼の全身に伝播。第3の防御策として、彼の身を守っていた。つまり、彼は今やネガリアンの接触攻撃に対してほぼ無敵の完全防御を成立させていた。今の状態なら、たとえシネマの時間停止を受けても瞬時に脱出できる。それほどの自信が、彼にはあった。
イヴはその完全防御形態を見て、ついに諦めの表情を見せた。しかし、この短いやり取りで、彼女は同時に那珂畑の弱点も見切っていた。
ネガリアンの能力を使った搦め手は通じない。ならば、力押しで倒すしかない。イヴはエアーの突風を少しずつ横向きに曲げ、自分の周囲に竜巻のような気流を作り始めた。
「そう言えば、自己紹介がまだだったわね」
何かの準備が整った。その変化が、イヴの言葉には込められていた。
「憶えておきなさい。私はネガトロン。名前は、ハリケーンよ!!」
直後、竜巻がその範囲を増して那珂畑を襲う。同時に部屋の壁はイヴを中心に削られるようにして崩壊。竜巻はアパート全体を破壊し、周囲の特殊部隊もろとも宙に吹き飛ばした。
竜巻はものの10秒程度で収まった。アパートは全壊したが、周辺に目立った被害はなし。那珂畑や特殊部隊も巻き上げられただけで、空中衝突した数名の隊員を除いてほぼ無傷に終わった。
異変は、その中心にいたはずのイヴがいないことだった。この竜巻に乗じてどこかに逃げたと考えるのが妥当なところだが、那珂畑は地面に付着した複数の肉片を見て、少し考えた。
イヴは、最後にイヴでも黒金林檎でもなく、ハリケーンと名乗って消えた。それはおそらく、彼女があくまでも竜巻の能力を持つネガトロンだと印象付けるため。小堀とのつながりを否定するためのものだろう。
彼女が自らの肉片を飛ばす攻撃をすることは、先ほどの突風で理解している。となれば、これほど高威力の竜巻に、彼女が同様の攻撃を織り交ぜたらどうなるだろうか。おそらく彼女の体は、四方八方に千切れ飛んでいく。後で再集合できると見込んでの分散か、あるいは周囲を巻き込んでの自爆か。那珂畑は足元の肉片が動かないのを見て、結果が後者であると判断した。仮に前者だったとしても、細かく分かれて特殊部隊の包囲から抜けられたら、その時点でこの討伐作戦自体が機能しなくなる。彼は無線通信が回復したのを確認してから、作戦指揮所に状況終了を報告。動ける隊員は現場の収拾と肉片の回収に努めるよう指示した。
こうして、新ネガトロン討伐作戦あらためハリケーン討伐作戦は勝敗不明のまま終了した。
回収されたハリケーンの肉片は、その一部が検体として宇宙開発局に送られることとなる。本来これを持ち帰るのも那珂畑の役目なのだが、彼は「少し寄り道して帰る」とだけ伝えたまま、検体の運送を特殊部隊に任せ、現場を後にした。
夜中に始まった、短いようで少し長い戦い。もう数十分待てば、最寄り駅に始発電車が到着する。那珂畑はゼツボーグらしく歩いて駅へと向かい、各駅停車に乗り込んだ。
アオヤマ地区は、高級住宅街と呼ばれるだけあって交通の便も良い。那珂畑は少し遠い寄り道を想定していたが、その実乗り換えは2回、合計1時間程度の移動時間で目的地に着いた。
O電鉄、ロマン砲に使ったものとは別の路線の終着駅。那珂畑が電車を降りる頃には、駅のホームから見える海岸線の向こうに朝日が昇り始めていた。
駅から歩いて10分ほどの場所。彼はそこに用があった。
エノシマ水族館の裏側、長い砂浜。そこはかつて、彼が沙紗と共に来た場所。彼が加山の真実を知った場所。そして、沙紗が最後に宣戦布告した場所。
沙紗の戦意に正面から向き合えなかったこと、彼女でも殺せないであろう体になってしまったことに、那珂畑は負い目にも似た感情を抱えていた。その感情にけりをつけるため、彼はこの思い出の場所に、たったひとつの思い出を持ち込んだ。
ピンクと水色、ひと組のイルカのメタルチャーム。沙紗が人間の幸せを求めた結果、たったひとつ残った那珂畑との思い出である。あの日勝手に撮られたツーショットは、彼女の家に置いてきた。今の今までこのチャームを持ち続けていたのは、那珂畑が彼女を忘れられなかったから。正確には、自分の中でどう処理すればいいかわからなかったからである。心の通じた人間、三森沙紗か、凶悪なネガトロン、ジュニアか。
那珂畑は自分の体の変化をもって、そしてイヴとの戦いを通じて、ようやく決心がついた。どう繕っても、どれだけ愛し愛されても、沙紗はネガトロン。自分の夢と人類の勝利のために殺さなければならない敵。那珂畑は彼女の中に残る三森沙紗への執着を断ち切るため、ふたつのチャームをつなげて海へと放り投げた。海に思い出を捨てるのはやめましょう。
水族館のオープンまで残り数時間。朝日の照り返す海岸には、地元の早朝ランナーくらいしかいない。那珂畑は付近の自販機で缶コーヒーを買い、砂浜に降りる階段に腰かけてそれをひと口飲んだ。彼は無意識に同じコーヒーをもうひとつ買ってしまったが、それは沙紗を弔うお供え物ということで、隣に置くことにした。
海とはあまり縁のない場所で育った那珂畑だが、こうして静かに波の音を聞いていると、どこか心地よい気分になる。まるで人類の生命をかけた戦いなど最初からなかったかのように、いや、実際にこの海の向こうではそんなこと知る由もないのだろうが、一瞬だけ、その向こう側とつながったような気がした。
だが、人間がひとりでいられる時間というのはそう長くない。波打ち際を駆ける早朝ランナーとは明らかに違う足音が、駅の方から那珂畑に近づいていた。
足音が止まって那珂畑が振り向くと、階段の上にいたのは鳴島だった。いつも通り、黒いセーラー服の上に白衣を羽織っている。宇宙開発局まで連れ帰りに来たのだろうか。
「……どうして、ここがわかった?」
「那珂畑さんのドローンです。待機中でも信号は出ていますから」
やはり、仕事絡みのようだ。しかし那珂畑は男性が苦手な鳴島がひとりで来たことに違和感を覚え、周囲を見回す。他の局員の姿は見当たらない。本当に彼女だけで来たらしい。そこで、彼は再び仕掛けを試みた。
「お前、ふたりの時は敬語禁止って約束、もう忘れたのか?」
その直後、鳴島は息を飲んで顔を赤くした。自分のミスを恥じたのか、それともあの夜のことを思い出したのか。那珂畑にはどちらでも構わなかった。しかし鳴島はそのまま数回浅い呼吸を繰り返した後、大きく息を吸ってから離し始める。
「私は鳴島ニコ。高校3年生で宇宙開発局ネガリアン対策本部の元ゼツボーグ91号、今は解析官やってる」
「……知ってる」
突然早口でまくし立てる鳴島に、那珂畑は困惑した。しかしそれを気に留めないように、鳴島は肩で息をしながら続けた。
「好きな動物はネコ全般。家でもミカンって名前のを飼ってる。好きな食べ物はティラミス、嫌いな食べ物はナス。小学生の頃、ヨーヨーにはまった時期があった」
「……そうか。後半は、知らなかった」
鳴島が何を言いたいのかわからないまま、彼女の話は急に止まった。そして数秒の沈黙を挟んで那珂畑が何も理解していない顔を崩さないのを見て、鳴島は再び口を開く。
「その、私のこと何も知らないって言ってたから、とりあえず自己紹介を……」
そう言われて、那珂畑は思い出した。ハコネ山で彼女の名前を呼んだ理由がそうだった。おそらく鳴島はそのことを気にして、ふたりきりになれるこの機会に自己紹介をしに来たのだろう。それが、あの夜の那珂畑に対する彼女なりの返礼なのだと、彼はようやく理解した。
「わかった。そういうことなら、俺も答えないとな」
那珂畑は飲み干した空き缶を持って立ち上がり、鳴島と向き合う。
「俺は那珂畑逸、大学2年生でゼツボーグ98号。落涙態も自在に操るエリートだ。そんで悪いけど俺は犬派。好きな食べ物はラーメン、嫌いな食べ物は海外の変なグミ。中学の体力測定で、反復横跳びだけ最速だった」
鳴島と同じ内容の話だが、やはり彼女も反応に困っている様子だった。
そして再びの沈黙、およそ10秒。緊張の糸が切れたように、ふたりは同時に謎の笑いに襲われた。ほとんど誰も通らない水族館の出口付近で、彼らの妙な笑い声だけがこだました。
「まあそういうことだから逸、要するにこれからもよろしくってことで」
鳴島は笑い涙を指で拭き取りながら言う。
「ああ。こっちこそよろしくな、ニコ」
さりげなく言った彼女の名前に、鳴島は悪い反応を示さなかった。




