第四話 僕はネガトロン
説明しよう。ネガトロンはその成長過程においてエネルギー補給のための手段を習得するが、そのやり方は個体によって様々である。
つまり、方法によってはゼツボーグすら食らうネガトロンも存在するということである。
「僕は、ネガトロンだ」
そのひと言で、空気が変わった。いや、あるいは那珂畑の背筋に密着する彼女がそうさせたのだろうか。ともかく、那珂畑は首元にナイフを突き立てられたまま、相手がネガトロンであること以前に命の危機に瀕していた。
しばらく静寂がふたりを包んだ。車もあまり通らない山道の風が、次第に那珂畑の冷静さを呼び戻す。
確かに、この地域にネガトロンの反応は確認していた。いつか対峙するとは予想していたが、まさか自分がゼツボーグになって初めての相手がそれとは、さすがに考えが至らなかった。しかも、自らネガトロンと名乗るこの女。ネガトロンという呼称は那珂畑が宇宙開発局で初めて聞いた単語であったため、彼女も局、いやゼツボーグとの接触経験があるということだろうか。そして今五体満足でここにいるということは、ゼツボーグに倒されなかった強力な個体だと、ゼツボーグ初心者の那珂畑だが、そこまでは想定できた。
「……俺を、殺すのか」
なかなかナイフを動かさない彼女にしびれを切らしたように、那珂畑は問いかける。
「うーん、そうだね。殺すつもりで近づいたんだけど、君があまりびびってくれなかったから、どうしようかなーって」
殺し慣れているのか初めからそういう性質なのか、ネガトロンは平然と話す。
「まあいいや。死んじゃえ」
その言葉を最後に、彼女は那珂畑の首にナイフを強く押し付ける。そして喉笛を切り開くように、勢いよくそれを引き抜いた。
こうして、ここまでの主人公、那珂畑逸は願いを叶えることができました。めでたしめでたし。
と、そうはうまくいかないのが現実である。確実にナイフが通過したはずの那珂畑の首には傷ひとつ残っておらず、両者とも驚きのあまり言葉を失った。
ネガトロンは後ろ跳びで那珂畑から距離をとる。そして那珂畑が震える顔で彼女を見た時、彼女は彼の首元を見て異変に気付いた。
「……へえ。君みたいなのは初めて会ったよ。まさかこれが通じないゼツボーグなんて」
那珂畑の首元。ナイフが当たっていた周辺だけが真っ黒に変色していた。ゼツボーグの合金である。
本来、ただの免疫細胞であるアンチネガリアンおよびゼツボーグには、物理的な防御力はない。しかしカルシウムが集まって強靭な骨になるように、毛髪から人工ダイヤモンドが生成できるように、ゼツボーグも集めて固めれば、刃物すら通さない鎧となる。那珂畑はこの時、加山の言葉を思い出していた。全身ガッチガチのメタルマン。どうやらその素質は、ゼツボーグ98号本来の能力は、最初のゾンビパニックからすでに発現していたらしい。
物理攻撃すら通さない完全自動防御。ゼツボーグの部分使用を習得していない那珂畑だったが、彼の生存本能が、アンチネガリアンの反射速度が、それを可能にしていた。
いや、那珂畑はすでに予感していた。あのゾンビパニックを無傷で脱出した時、加山にメタルマンと言われた時、ゼツボーグは自分の意思に反した性質を持つのではないかと。ヒーローとは、変身とは、それまでの夢すら否定して別の自分を強制するものだと。
彼の脳はこの現状をすでに想定していたことで、冷静さを保つことができた。
ナイフの一撃でこれらのことを察したのか、ネガトロンは追撃せず、車道の真ん中であぐらをかいた。そして道端まで引き下がる那珂畑を好奇の目で見つめる。
「君さあ、さては死ぬためにゼツボーグになったんだね。だからナイフ見せてもびびらなかったんだ」
その通り。と言おうとしたが、呼吸が乱れてうまく言葉が出なかったので、那珂畑は頷いて答えた。
「困ったなあ。これじゃ君は死ねない。僕も君を殺せない。さてどうしたものか」
ネガトロンは少しうなりながら考えた後、立ち上がって今度は街灯のあたる所まで歩いた。キャップの上をフードで覆うパーカーは彼女の体に比べて大きめのサイズで、ショートパンツの裾が見えるか見えないかのところまで伸びている。おそらくあの中に凶器を隠し持っているのだろう。そしてすらりと伸びた美しい足元には山道に適したスニーカー。街灯に照らされて露わになった顔はこれまた中性的な印象だったが、服装は確かに女子といった趣だった。
「じゃあ話をしよう。せっかく敵同士で会えたのに戦いにならないなら、せめて有益な情報交換とかだけでもやっておきたいもんね」
ネガリアンの利になることなどヒーローが言うものか。そう言いたげに那珂畑がネガトロンを睨むと、彼女は明かりの中でパーカーの袖を振り回しながら答える。
「ああ君から言うことはないと思うよ。むしろ僕の方が君たちについて詳しいかもだし」
こればかりは那珂畑も返す言葉がなかった。確かに自分はゼツボーグになってまだ1日と経っていないど素人。対して相手はゼツボーグとの戦いで生き残り続けた強力なネガトロン。これだけでも情報力の差は明白である。
「じゃあ教えてあげよう」
そして、天敵を目前にしてネガトロンは語り始めた。
「僕はネガトロン。君の先輩たちに付けてもらった名前はジュニアだ。僕が見つかったのは何年も前のことだからね、子供のネガトロンってことでこんなダサい名前つけられちゃった」
那珂畑が初めて聞く、ネガトロンの個体名。ジュニアと言えば基本的に男子を指す英語だが、まあ彼女の中性的な印象が当時からのものであれば無理もない。
「そして、見ての通り僕は人間としても生きている。この体も声も性格も、死ぬ前に僕が感染した子の成長を再現したものだ。元の名前は三森沙紗。虫も殺せないような普通の女の子だったよ。擬態っていうのかな、僕は色んな姿に化けるのが得意でね。ていうかそれしかできないんだけど。こうして沙紗が死ななかったことにして生活してる。今は花の高校2年生。もちろん人間と同じご飯だって食べるよ」
そこまで言うと、彼女は那珂畑の目の前まで顔を近づけて、フードとキャップを外して見せた。その顔は、まさに那珂畑逸と瓜二つ。首から下が変わっていないのが少し気味悪いが、ジュニアはその反応を見て面白がっている様子だった。
「あ、ちなみに服も擬態で作れるけど、今はちゃんと着てるよ。さすがにボディペイントの露出狂みたいで僕も嫌だからね」
殺人未遂の化け物が何を細かいこと気にしているのか。那珂畑は元の顔に戻ったジュニアの様子に不気味さを感じた。
「で、大事なのはここから。さっき僕は人間と同じご飯を食べるって言ったけど、それは沙紗の生活を守るため。いくら口からお米や野菜を流し込んだところで、僕の体はそれらを消化しないし、栄養にもならない。だから僕は僕としてちゃんと食事をとる」
「……それで、さっきのナイフか」
長話のおかげでようやく思考の落ち着いた那珂畑が聞く。しかしジュニアの反応は微妙だった。
「んー。ちょっと違うかな。まあ基本的に殺すんだけど、僕は人間の肉を食べたいわけじゃない。どう言えばわかるかな。……ほら、君たち人間だって美味しいものや栄養たっぷりのものを食べたいでしょ? 僕もそうなんだ」
ネガロトンにとって栄養と言えば、負の感情。ジュニアは死の恐怖という極めて大きな負の感情を食べるため、わざとナイフで、わざと人間の殺人鬼のような殺し方をしていたのだ。そう言われると、那珂畑がびびらなかったと彼女ががっかりしていたことにも説明がつく。
「君たちだって美味しい料理のために牛や豚を立派に育てて、しっかり解体して料理して食べるでしょ? 僕にだって幸せに生きる権利くらいあると思うんだよね」
果たして彼女はそのためにこれまで何人の人間を不必要な死の恐怖に晒し、命を奪ってきたのだろうか。自ら死を望む那珂畑ですら、それは聞くに堪えない主張だった。
「実はね、僕は前から君のことも気にしていたんだ。君はここしばらく、ずっと浮かない顔をしていた。何があったかは知らないけど、美味しくなりそうだと思ってね。時間をかけて待ってたんだ。それがまさかこんな形になるなんてね。まるで焦げたトーストじゃないか」
おそらく友人が自殺したことによる様子の変化に、ジュニアは気づいていたのだろう。しかし死への望みかジュニアへの怒りか、那珂畑は自分が狙われていたことにはあまり驚かなかった。そして、ようやくその体が動きだした。
「お前が俺を殺せないなら、俺がお前を……」
まだ戦闘経験もない。相手は強敵ネガトロン。しかし攻撃が通じないのであれば、自分を殺せる見込みがないのであればやりようはある。那珂畑がゼツボーグに変身しようとしたその時、ジュニアは彼の右手首を掴んで止めた。
「殺すのかい? 家族も友達もたくさんいる三森沙紗を、ヒーローは殺すのかい?」
おそらくこれだ。那珂畑は一瞬で察した。三森沙紗の背後に連なっているであろう無数の人間を人質に取られて、過去のゼツボーグは敗北したのだろう。小堀や羽崎も手を出せないでいるのだろう。
「心配しなくても、沙紗は誰も殺していない。僕は化けるのが得意だって話したよね。人を殺すのはいつも違う顔、違う匂い、違う指紋の存在しない誰かさ。君だって、今目の前にいる僕が沙紗かどうか、わからないだろう?」
ジュニアは那珂畑の手を放し、得意げに話す。おそらくここまで自分のことを明かした相手は彼が初めてだったのだろう。ジュニアは数年抱えてきた秘密を明かした解放感からか、街灯の下でくるくると踊るように回り始めた。
「君はネットで、カナガワ県警は無能って書き込みを見たことない? あれ、たぶん半分くらい僕の仕業なんだよね。無理もないさ。監視カメラも警察犬も科捜研のお姉さんも、絶対に僕を見つけられない」
踊りに満足したのか、ジュニアは急に静止した。そして、今度はうつむきながら睨むように那珂畑を見る。
「でも、いつかその掲示板の見出しは変わる。女の子を殺したヒーローってね! あっはははははは!」
ジュニアの狂気的な笑い声だけが、静かな夜の山道に響き渡る。急に殺したり踊ったり笑ったり。那珂畑は彼女の不気味さに吐き気すら覚えた。彼女は平穏な人間生活をおくる一方で、自分の命すら天秤にかけて快楽を追及しているのだ。彼女と戦う方に向かっていた那珂畑の足は、いつしか一刻も早くこの場を離れようという向きに変わっていた。
ジュニアはしばらく笑い続けた後、腹を抱え笑い涙を拭きながら言った。
「あははーっ、ふぅよく笑った。でもこれでわかってくれたかな。今の僕では君を殺せないし、たぶん君も僕を殺せない。今日は引き分け、ノーゲームだ。でもこれからだよ。僕はいつか君を殺せるくらい強くなってみせる。でもそのために僕はもっとたくさんの人を殺さないといけない。だから、君たちは僕を殺すために頑張ってよ」
少年漫画のような、真っ当なライバル関係。そう言わんばかりに、ジュニアは那珂畑に握手を求めた。しかし、現実は漫画のように美しくはない。相手は人殺しの化け物で、自分は腐ってもヒーロー。那珂畑はジュニアの手を払いながら決心した。彼女の物理攻撃を止められるのが自分だけなら、彼女を殺せるのも自分だけ。ライバル関係なんてまっぴらだ。覚悟を決めて、一方的に殺してやると。
ジュニアはそれでも笑顔で手を振りながらどこかへ、おそらくは三森沙紗の生活へ戻っていった。
こうして、那珂畑の初戦闘は至って静かに、しかもお互い無傷の引き分けという地味な結果で幕を下ろすこととなった。
ネガトロン・ジュニア、三森沙紗。ゼツボーグ98号、那珂畑逸。ふたりの静かな殺し合い、その第二戦はそう遠くない。
結局、那珂畑が自宅アパートに到着する頃には完全に日が沈んでいた。周辺に点在する住宅にも明かりはなく、田舎町はもう寝静まっている。
果てしなく長い一日、果てしなく大きな変化。それらが呼んだ感情の大津波で、彼は無傷の肉体とは裏腹に疲弊しきっていた。これはこれで過労死しそうだ。彼はそんなこも考えながら、泥のように眠った。
翌日、那珂畑が目を覚ましたのは10時半を過ぎた頃だった。その日はもともと休みだったのでもうひと眠りしようか考えたが、昨日の出来事、ジュニアとのやり取りが一瞬で彼の眠気を吹き飛ばした。
これほどに熟睡できてしまった理由。ジュニアの本性、彼女との対峙、そして自らのゼツボーグ。小堀たちはすべて知った上で何も言わなかったのだろうか。最低限の荷物だけを持って宇宙開発局へ向かう2時間は、疑問の重さゆえか異様に長く感じられた。
「小堀さん!」
地下5階、中央司令室。エレベーターの扉が開くと同時に、那珂畑は小堀の存在を確認もせず大声で呼んだ。それに驚いたのか、彼に背を向けていた白衣の人影が軽く跳ねる。
「えほっおほっ。なんだい急に……って那珂畑君じゃないか。こんにちは」
白衣の人影はやはり小堀だった。ちょうど昼飯時なので当然といえば当然だが、彼は新入部下がネガトロンと接触した翌日に、暢気にざる蕎麦を啜っていた。しかし驚いた勢いでむせたのか、彼は数回咳き込んでから口元をぬぐいつつ、気さくに応える。その様子に、那珂畑はもはや怒りすら覚えた。
「ネガトロン・ジュニア。俺の地元にいるの知ってましたよね。何で何も言わなかったんですか、貴重な戦力を初日でつぶすつもりだったんですか!?」
那珂畑は一方的に問いながら小堀に詰め寄る。しかし、帰ってきた反応は至って冷静。小堀は半分ほど残っている蕎麦をもう一口啜ってから、ひと呼吸おいて答える。
「ああ。全部知ってた。知った上で、君の能力を信頼して何も言わなかった。ジュニアは身近な危険に敏感だし、君の防御力なら、ジュニアの攻撃を防ぎきれると踏んでの作戦だ。君が昨晩変身しなかったのは正しい判断だったと評価するよ。ドローンでこちらに様子を見られたら、お互い自由に動けなかっただろうしね。君のゼツボーグを確認して、加山君とのやり取りを終えてなお君が逃げる素振りを見せなかったから、私は君に託すことにしたんだ」
まるですべて自分の手の内といった言い草。そして小堀は再び蕎麦を食べ始める。関係ないことだがこの男、小食なのかひと口あたりの量が少ない。
「……どういうことですか」
ジュニアとのやり取りの中で、ここに来るまでの移動時間で、那珂畑はその答えにおおよその予想がついていた。しかし、とても信じられない。仮にその通りだったとしても、彼には受け入れられる自信がなかった。
「昨日言っただろう、君の活動次第では、彼らの対応にあたってもらうと。今がまさにそれだよ」
そしてさらにひと口啜ってから、まだ汁の残ったカップを置いて小堀は那珂畑を見上げる。
「ゼツボーグ98号、那珂畑逸君。君の最初の任務は、ネガトロン・ジュニアの駆除だ。もちろん、君が直接殺さなくても構わない。被害を抑制できれば時間をかけてもいい。ただ現状、彼女と対等、いや、戦力的に勝っているのは過去の担当者を含めても君だけだ。私たちも全力で君を支える。三森沙紗を殺したのはゼツボーグではないと、警察にも証明してみせる。だから君には、戦うことに集中してほしい」
小堀の目は、真剣そのものだった。そこには目的のために噓をついてヒーローになった那珂畑の持ち得ない、純粋に平和を志す闘志の光があった。最初のヒーロー、小堀誠司令官。那珂畑はここで初めて、彼の強さに叩きのめされた。
そして、小堀は再び蕎麦を食べ始め、ひと言付け足す。
「ちなみに、今回の作戦立案は羽崎君だ」
「羽崎さん!」
那珂畑が羽崎のいるであろう席に向かって叫ぶと、そこにはわかりやすく明後日の方向に顔を逸らす羽崎副司令の姿があった。この女、明るい振る舞いに対してどこまで性格が悪いのやら。
「まあまあ、君の不満も当然のことだ。しかしすべてはジュニアを倒すため。私も羽崎君の案が最善と信じて決行したんだ」
今度は羽崎の方に詰め寄ろうとした那珂畑を、小堀が呼び止める。
「さっきも言ったが、私たちも全力で協力する。期待しているよ、ニューカマー」
小堀はそう言い終えると、握手を求めるように手を差し出す。
しかし、この時那珂畑の脳裏には昨晩の記憶が蘇った。あの時、自分はジュニアの握手を断った。殺したくない相手を、三森沙紗を敵として認めたくなかったからだ。そして今度は、自分の嘘にすべてを賭けた男が同じ握手を求めている。
「……頑張ります」
那珂畑は応えられなかった。あわよくばジュニアに殺されようとしている自分への期待に、彼は嘘でも握手を返せなかった。彼はそれまで怒りと不満で燃え盛っていた心が鎮火したように、暗い面持ちでその場を離れた。
「おっ、坊主」
那珂畑がエレベーターに乗って帰ろうとしたその時、ちょうどその扉から現れた加山と鉢合わせになった。
「……こんにちは」
那珂畑は顔を伏せたままエレベーターに乗ろうとするが、加山の大きい体がなかなか彼を通してくれなかった。
「おいどうした、浮かない顔してんな」
「あーそれ私のせいー。ごめんね逸ちゃ~ん」
羽崎が振り向くことなく、食べかけの棒付きキャンディを頭上で振って答える。謝罪の意思がまったく感じられない。
「おう、だいたいわかった。よっしゃついてこい坊主」
加山も作戦の件を知っていたのだろうか。おおよそ理解したような顔をすると、那珂畑の手を引いて再びエレベーターに乗り込んだ。
行き先は地下6階、居住スペースの一角にある加山の部屋である。




