第四十五話 俺は人間をやめるぞ、徐々に!
説明しよう。ネガテリウム・ボルケーノ及びクロスボーグとの戦いの後、温泉組はツクモと那珂畑を回収して司令本部へと帰還した。
ツクモはゼツボーグの再生能力によって、サガミハラ市に着く頃には全身が完治。鳴島も脳に激しい負担がかかったが、後遺症につながるレベルのものではなかった。
ただ、那珂畑だけが、全身をどうしようもないほどに破壊し尽くされていた。鳴島のクロスボーグを解除した直後、彼は熱とガスによって意識を保てなくなった。それによりゼツボーグは解除、意識を失ったことで自動防御も機能せず、長い転落と無数の衝突により、彼は全身の骨や内臓を修復不可能なまでに損傷した。頭部や四肢がもげていなかったことが、せめてもの救いだろうか。しかしそれらも、粉砕骨折した右腕を中心に大部分が破壊されていた。
ハコネ山から下りた後、温泉組の車に乗せてあった検査機で、那珂畑逸の死亡が確認された。
異変が発見されたのは、那珂畑の遺体が司令本部に持ち帰られてからのことである。遺体は検死のため、さらなる精密検査にかけられた。その時、わずかながら脳波が確認された。それを皮切りに、他の臓器も次々と活動を再開した。
レントゲンやCTの画像には、切断されたり穴の開いた臓器しか写っていない。胴体には向こう側が見えそうなほど大きな傷が開いているが、そこにあるはずの臓器も、別の機器では微弱ながら正常に近い活動が確認されている。
死体の内臓が動き出した。まるでサイコホラーのような現象に、多くの局員が震え上がった。
そして、数日後。那珂畑が意識を取り戻す頃には、すべての現象が仮定でつなげられていた。
那珂畑が目を覚ました場所は、コンクリートむき出しの部屋の中、分厚いガラスで囲まれた空間だった。中は独房くらいの広さで、鍵のかかった扉の他には、那珂畑の横たわる簡易ベッドしかない。彼はこの場所を知っている。宇宙開発局の地下6階、電気椅子の部屋と同じように、ゼツボーグを隔離するための部屋である。中に入ったことはないが、最初に羽崎から紹介されて見たことがあった。
那珂畑は、まるで爽やかな朝に目覚めたように、何事もなく起き上がることができた。そしてその無意識の行動が、彼自身に異変が起こっていることを認識させる。彼はベッドから跳び上がり、周囲に何もないことを確認すると、ガラスの壁に反射する自分の姿を見た。
上下水色の、薄い検査着。まずこの服装を見た時に、彼は意識を失う前の出来事を思い出す。鳴島を助けようとして、【ネガティヴ・スパイラル】で右腕を骨折して、その後は朦朧とする意識の中、全身を引き裂かれるような激痛だけが何度も襲いかかった。
体のことはともかく、右腕が無事ではないことは那珂畑も自覚していた。しかし、スクラップのように折れ曲がったはずの右腕に痛みはなく、そればかりか何もなかったかのように普通に動かせる。ただ気になったのは、その腕が検査着と同じ色の長手袋で覆われていることだった。なぜか左手も同じように、まるで日焼け防止のように二の腕まで手袋が着けられている。よく見ると、検査着から露出しているはずの足元も、長い靴下でしっかりと覆われていた。那珂畑の首から下が、まるで皮膚を見せたくないかのように、一部の隙もなく布で覆われていたのである。
那珂畑はこれまでも、精密検査のために似たような検査着を着たことはあった。しかし、靴下や長手袋をはめた経験はない。と言うか、そうする理由がわからない。彼は何かがおかしいと感じて、恐る恐る右腕の手袋を指先から引っ張る。すると、露わになった二の腕は、黒く変色していた。それを見た時、彼はまだそれがただの打撲痕だと考えた。痛みを感じないのは、感覚が麻痺しているからとも想像した。しかし、その考えは腕が露出されていくにつれて、彼の脳から消えていく。
黒い変色は、二の腕だけではなかった。右腕のいたるところが同じように、何か別の素材でつなぎ合わせたように黒くなっている。最初は湿布か包帯が残っているものかと考えたが、他の皮膚との間に段差や継ぎ目のようなものがない。しかもガラス越しにはただの変色にしか見えなかったが、直接見ると、変色部は黒曜石のような光沢を放っている。
彼は慌てて、左腕の手袋も脱ぎ捨てた。そちらも右腕ほどではないが、各所が黒曜石のように変色している。両腕が解放されたところで、彼は恐る恐るその変色部に触れた。
冷たい。まるで本物の黒曜石や金属のように、変色した部分にだけ体温を感じられない。そして感触も、研磨された宝石のように硬くなめらかだった。彼は状況を理解できないまま、冗談半分でその場所をノックするように叩いた。すると、コンコンと軽い音が静かな室内に響き渡った。
【ネガティヴ・スパイラル】の影響を受けていないはずの左腕までがこの状態。彼はなにかとてつもなく恐ろしい可能性に駆り立てられ、検査着の上半分を脱ぐ。
同じだった。範囲が広い分、変化がより克明に現れていた。その様はまるでゾンビ、または生物と鉱物の中間、あるいはフランケンシュタインの怪物のようだった。彼は自分の見ているものが信じられなくなり、急いでガラスの壁から後ずさりする。その途中で足がもつれたのか、彼は尻もちをつく形で転倒した。
その時も、部屋に響いた音は尻もちとは思えない、ゴツンと重い石をぶつけたような音だった。
どうやら、自分は石になってしまった夢を見ているらしい。そう考えた那珂畑は、次に首から上だけが変色していないことに気づく。彼は変色していない指で自分の頬をなぞると、肌と同じ色のクリームのようなものが指にべったりとはり付いた。彼はあらためてガラスの壁に近づき、自分の顔を見る。すると、指でなぞった部分も腕や胴体と同じように変色していた。彼はそのまま、かきむしるように顔に残ったクリームを剝がしていく。満足するまでクリームを落としてから再びガラスを見ると、頬や目元、額など、顔面の3割ほどが変色していた。もう確認するまでもない。先ほど転んだ時の音といい、下半身も同様に石になっているに違いない。那珂畑はこれが夢であるとしっかり把握した上で、ベッドに戻った。
目が覚めない。
那珂畑がベッドに戻り、目を閉じて数分。全身には妙にリアルな感覚があるだけで、夢が覚める気配もなければ、逆に眠くもならない。彼がそうしてごろごろしていると、ガラス壁の外で扉の開く音がした。
コツコツと近づいてくる足音がひとり分。やがてガラス壁の前に立ち止まったのは、小堀だった。彼は小脇に抱えた折り畳み椅子を広げ、そこに座る。その膝には、妙に分厚い紙束が置かれていた。
「……意識は、戻ったかな?」
いつも通り、スーツの上に白衣姿で元気のない声。現実と何ひとつ変わらないその様子が、那珂畑をさらに不安にさせた。
「いや、なんか石になった夢を見てるみたいなんですよね。変なものでも食べたかも」
那珂畑はベッドに転がりながら小堀の方に振り向く。その言葉と飄々とした態度に、小堀はまずため息で答えた。
「はあ。だったら、頬でも腕でもつねってみるといいよ。できれば、黒くない部分をね」
彼の提案で、那珂畑は底知れない恐怖を感じた。つまり彼は、今の状況が夢ではないと暗に伝えようとしているのだ。
那珂畑は震える手で自らの頬をつまみ、思い切り引っ張る。
痛い。次に彼は、半ば自暴自棄になって同じ手で頬を叩いた。やはり痛い。
「じゃあ、本当に……」
那珂畑は自分の姿に驚いて尻もちをついたあたりで、すでに気づいていた。これは夢ではない、現実に起こっていると。そして小堀が来るまで、同じように確認する時間はいくらでもあった。しかしそれらを一切しなかったのは、彼自身が恐れていたからである。自分が本当に石になってしまうなどという理解不能な状況に直面することを、何よりも恐れたからである。
「私たちにとっても前代未聞のことだったから、こうして君を隔離させてもらった。全部説明すると長くなるから、今は必要な部分だけかいつまんで話そう」
小堀はそう言うと、膝に置いた紙束を一枚ずつめくっていく。那珂畑からはよく見えないが、おそらく自分の体を検査した資料だと、彼は状況から理解した。それにしても量が多い。しかも普段のようなタブレット端末ではなく紙媒体という点も、どこか不気味さを感じさせた。
「那珂畑君、君は以前にも今と似たような経験をしている。ネガテリウム・マンションと戦った後のことだけど、憶えてるかな? 君は右腕を骨折したが、ゼツボーグの合金によって仮修復が早まった」
那珂畑はベッドに座り直し、黙って頷く。
「君も知っているだろうけど、この合金は表皮から少しずつ骨や筋肉に作用し、本来の機能を強める効果がある。度合いは個人差が出るけど、ゼツボーグに共通する基本スペックみたいなものだね」
鳴島の運動能力や感覚の鋭さ、ツクモの超再生は、この基本から成り立っている。那珂畑の場合、体内への影響は少ないが、外敵からの自動防御という形でこれが発現した。
そして彼が骨折した時、骨の破片が合金でつなぎ止められたことで、本来の自然治癒が早まった。これがマンションと戦った後の出来事である。
小堀は紙束を何枚かめくって、話を続ける。
「本来この機能は、本体の意識や身体機能が正常な時にはたらく。正常であれば、睡眠中でもね。ただし、意識が混濁したり死に瀕した時は、本体の制御を離れて暴走したり、逆に停止したりする」
この暴走状態が、いわゆる落涙態。しかしそれも、完全に意識を失えば強制停止させられる。このことも、那珂畑はジュニアとの戦いで落涙態を発現させた時に経験した。
「そしてこの暴走というのは、基本的にそれぞれのゼツボーグが持つ性質を強化したものになる。君の場合は、自動的に本体を守るという性質が飛躍したことで、より防御範囲の広い【スーサイド・バイスタンダ―】になったわけだ」
ここまでの話は、すべて那珂畑自身がその体でもってよく理解していることだった。しかし、さらに紙をめくった時、小堀の目つきが鋭く変わる。まるで何か激しい感情を堪えるように、あるいは得体の知れない何かに直面して、行動の選択肢を見失っているように。
「私も君も、それがゼツボーグ98号の性質だと信じてきた。しかし、例えば君の鎧が体の外側ではなく、内側に現れたらどうなると思う?」
那珂畑には、小堀の言いたいことがよくわからなかった。仮にそれが本当に起こったとして、防御力はそのままに皮膚だけがダメージを受けるのではないかと。ただそれだけ考えた。
しかしここで、すべての現象が重なる。折れた骨が合金でつなぎ止められたこと。瀕死状態では機能が暴走すること、そして、ゼツボーグ98号は、本体の意思とは無関係に本体を守る性質を持つこと。
もしもこの自動防御が、体内にまで及んだら。体内の損傷を修復するために使われたら。
「君の体は、転落と度重なる衝突で修復不可能なダメージを負っていた。一時は脳や心臓も停止していた。しかし、君のゼツボーグが、それらをすべて修復したんだ。傷を覆って、千切れた部分をつなぎ合わせて、本来のものと同じ機能を取り戻したんだ」
マンション戦のように右腕だけであれば、自然治癒の加速という話で説明がつく。しかし、ほとんど死んだに等しい肉体を再生させるほど、ゼツボーグの能力が飛躍したということだろうか。
「君の体が変色したのも、表面の傷を合金がカバーした影響だ。最初はツクモ君のような再生能力だと思ったよ。でも、君はあの時、すでに体中に修復不可能な傷を負ってしまった。それはもう自然治癒の範囲を超えている。つまり、その……」
小堀はここで初めて言いよどみ、視線を落とした。しかし、那珂畑には彼の話の続きが何となく予想できた。夢だと信じて落ち着いて考えた時、もしかしたらそんな改造人間のような展開があるかもしれないと想像したからである。
「どうしようもなくなった部分を、ゼツボーグが肩代わりしてくれたってことですよね」
那珂畑の方から答えが出たことに、小堀は息を飲んだ。そして驚いた表情で彼の目を見る。
「それで、俺の体は半分くらいゼツボーグに置き換わった。自動防御だから、寝てる間も普通に動く。そういうことで、合ってます?」
那珂畑の答えがほとんど正解だったことで、小堀はその後の説明に苦しむことはなかった。しかし、科学者としてとうとうと話す反面、その声は咳き込むように荒れ始めた。
「ああ、だいたい合ってるよ。正確には、君の体は体液を含めて47%がゼツボーグに置き換えられている。ただし、これはあくまでも自動防御であって、さっきも言ったようにツクモ君のような再生ではない。そして、君の体は自然治癒の及ばない範囲まで傷ついた。つまり、これからは傷を負えば負うほど、その部分がゼツボーグになっていく」
小堀は言葉にしなかったが、つまるところ、これ以上戦いを続ければ、那珂畑は本当の意味で全身がゼツボーグになる。食事や睡眠などの機能だけを維持したまま、人間から遠ざかっていくということである。
「……まあ、別に見た目が変わるだけで、俺が俺じゃなくなるわけじゃないんですよね。だったら俺は大丈夫です。全身真っ黒になっても、さっきまでみたいに化粧すれば誤魔化せますし」
那珂畑がすべてを理解した上で軽々しく話したことが、小堀の心をさらに締め付けた。
命にかかわる傷が、ゼツボーグによってつなぎ止められているということ。それはつまり、ゼツボーグが停止すればそれが本体の死に直結するということである。戦いの中でもう一度致命的な傷を負えば、今度は同じように助かる見込みはない。
それだけなら、戦いの中で死ぬだけなら他のゼツボーグも同じことだった。しかし、ゼツボーグは時間の経過でその力が弱まっていく。じゅうぶんな処置をしたところで、長く見積もって5年。それが那珂畑の余命ということである。
そして、ゼツボーグは人間の抗体から生成される。抗体は抗原がなければ次第に生成量を減らしていく。つまり、抗原であるネガリアンがなければ、5年と待たずに那珂畑は体を維持できなくなり死亡する。なんという皮肉だろうか。ネガリアンを撲滅するための力が、ネガリアンによって維持されている。この戦いの勝利が、那珂畑の死に直結することになる。
これまでゼツボーグたちの悲惨な死を数多く見てきた小堀だったが、こればかりは初めての出来事だった。だから、無機質な説明の他に、那珂畑に何と声をかければいいか、わからなくなっていた。
「俺は、大丈夫ですよ」
那珂畑の声は、そんな小堀を慰めるように優しかった。
「過程はどうあれ、初めからこうなる予定で……」
「やめてくれ!」
小堀は、思わず叫んだ。これまでも、那珂畑と同じような絶望で、自殺目的でゼツボーグの道を選んだ者はいた。しかし、彼らの死に人間が手を貸したことは一度もない。
だが、よりによってネガリアン撲滅という最大の目的が、自分たちの存在意義が、那珂畑の死につながること。戦えば戦うほど、確実な死が迫ってくること。それを那珂畑が平然な顔で受け入れていることに、小堀は耐えられなかった。
「……とにかく、動ける状態ならこの後もう一度精密検査を受けてもらう。あと、鳴島君やツクモ君は無事だから、今は自分のことに集中してくれ」
結局、小堀は自分の気持ちを整理できないまま立ち上がり、椅子に紙束を置いてその場を去った。
ゼツボーグ98号、那珂畑逸。彼はハコネ山での戦いで幸か不幸か生き残った。しかしそれによって、より確実な死が、彼を待ち受けることになった。
夢に向かって突き進む。少年漫画なら王道のテーマだが、その夢が自分の死だったなら、そこへの道筋がはっきりと示されたなら、人は何を思うだろうか。
那珂畑逸の物語。その第三章はこうして始まった。




