第四十三話 無免許名医の荒療治 禁断のイヴ・その二
説明しよう。初代ゼツボーグ、小堀誠。小惑星探査機ミュゼス3のカプセル解析班唯一の生き残り。他の班員はすべてネガリアンの感染になす術なく死亡した。
その後、小堀はヒーローとして、羽崎と出会うまでひとりでの戦いに身を投じることになる。しかし、彼は決して孤独ではなかった。
小堀には、信頼できる同僚がいた。同じカプセル解析班に所属する女性研究員、その名は黒金林檎。彼女はネガリアンと戦う力を持たない代わりに、裏方として小堀の戦いを支えていた。
さて、ここにひとつの矛盾がある。カプセル解析班は小堀を除く全員の死亡が確定している。しかし、その一員だった黒金は、ネガリアン騒動中も活動している。彼女はいったい何者なのか。
答えはひとつ。ネガリアン騒動が始まってからの黒金は、黒金ではない。黒金を食い尽くし、黒金になり替わったネガトロンである。
この地球で誕生した、最初のネガトロン。後に彼女はネガトロンという新生物の定義となり、ネガリアン研究の進展に大きく影響することとなる。当然、小堀もその存在にすぐに気づいた。しかし、同僚のよしみか黒金の性質ゆえか、ふたりが対立することはなかった。
最初のネガトロン、始まりの女。その意味で個体名イヴと定められた彼女は、現在アオヤマ地区にひっそりと暮らしている。そしてあろうことか、小堀以外どのヒーローとも接触することのなかった彼女は今、ポジトロンパイロット、志村正規と対峙していた。
何をしに来た。と女性は聞いた。その威圧感も理由のひとつだが、志村には返す言葉がなかった。彼はただ、この場所に何があるのかを知りたかっただけなのだから。仮にそれがネガトロンだったとして、この狭い部屋ではポジトロンを展開しても戦いにくい。
「ちなみに、私は君が何者か、だいたい見当がついている。何せ感染者ばかり相手にしてきたからね。感染してない人はすぐにわかるのよ」
素性が割れているのなら仕方がない。志村は上着のポケットからプレートを取り出し、胸に当てた。
「ポジトロン、起動」
プレートからナノマシンが展開され、瞬時に志村の全身を包む。さらに両手からは戦闘用の剣も展開され、定着と同時に加熱を始めた。
「だったら話は早い。悪いけどボクの質問から答えてもらうよ。キミは何者だ。さっきの人に何をした?」
答えを聞く前に、志村は剣を振り上げる。目的や経緯がどうあれ、目の前にいるのはネガトロン。見つけ次第対処しなければ、多くの人間に害をなす。
しかし、志村の剣は空中で止められる。剣を持つ腕に、暴風のような圧力がかけられたからである。同様に、剣の方も見えない手で掴まれたように微動だにしなくなっていた。
「喧嘩っ早いのは、あまり好きじゃないわね」
女性がゆっくりと、志村に歩み寄っていく。そして右腕を中心に完全に停止させられた志村の胸元を、彼女の細くしなやかな指が首元までなぞった。彼女が触れた場所から、力が抜けていく。志村の全身に力が入らなくなる頃には、ポジトロンは強制解除され、プレートの形に戻って床に落ちた。
「なん、なんだ。キミは……」
体が動かなくなった時、志村は相手の能力がシネマのような時間操作か、気圧操作のようなものだと考えた。しかし、力が抜けていくことや、脳がはたらいているのにポジトロンの制御を奪われたことは、その能力では説明がつかない。筋肉に働きかけたり、電子機器に入り込む何かを持っていなければ、この現状はあり得ない。最初の気配と言い、元となった人間の思いから固有の能力を作り出すネガトロンに、このような複合的な能力が備わるものなのか。不可解な状況が、志村の思考をさらに混乱させた。
「ことを急いじゃだめよ。ちゃんと教えてあげるから」
床に横たわる志村の体を、女性は優しく抱え上げ、先ほどまで彼が座っていたベッドに寝かせる。同時にプレートも枕元に添えて、彼女はベッドの横に丸椅子を置いてそこに座った。
「私は黒金林檎。ここでネガリアン感染者のカウンセリングと、ちょっとした治療もやってるわ。君はもしかして、ポジトロンの志村正規君かな?」
「……っ!」
志村は驚きの表情を隠しきれず、それが黒金にも見られたようで彼女は少し笑って答えた。先ほどのやり取りでポジトロンという名前は知られているが、その詳細やパイロットの個人情報については、科学衛生局によって固く守られている。少なくとも、個人経営の医者が手に入れられる情報ではない。
「どうして、それを……」
黒金は自らの顎に指をあて、少し考える様子を見せてから答える。
「私、宇宙開発局にお友達がいてね。小堀誠君って知ってる?」
その瞬間、志村の疑問がすべて確信に変わった。この黒金という女、まだ名乗ってはいないが間違いなくネガトロンではある。そして、宇宙開発局の、それもおそらく小堀個人と何らかのつながりを持っている。そうなれば、体の動かない今、情報戦を仕掛けようにもこちらが圧倒的に不利。志村は隠すことを諦めた
「……ああ、知ってるよ。ネガリアン対策チームで司令官やってる」
「そう。彼とはここのところあまり連絡とってなかったから、元気そうでよかったわ」
黒金は安心している様子だったが、元気かと言われると志村にとっても心配なところである。
「さて。そういうわけで、君たちのことは小堀君から色々聞いてるの。ゼツボーグとかポジトロンとかね。だから、私から君に聞くことはたぶんないし、君はここに治療を受けに来たわけでもない。でもせっかくここを見つけて来てくれたんだから、今日はもう予約もないし、ゆっくりお話しましょ?」
今のところ、黒金の方から何か攻撃を仕掛けてくるような様子はない。志村の体も、指先から元に戻っていく。彼は少しずつ手を動かして状況を確かめながら、考えた。
この部屋の住人、黒金がネガトロンだとして、宇宙開発局が彼女の存在を隠している理由。志村は局にとって有益な存在か、どうしようもないほどの強敵かのふたつから考えていた。最初に凄まじい気配を感じた時は後者でほぼ確信したが、小堀とつながっている点から考えるに、どうやらその両方らしい。
だが、いくら有益でも相手は強力なネガトロン。できれば何か状況が変わる前に駆除しておきたいというのが、ヒーローとしての真っ当な思考である。しかし、志村の目の前で笑顔を崩さない黒金の毒気なさが、不気味なほどに彼から戦意を奪っていった。
「黒金、キミはネガトロンだろ?」
体が動かないながらも、志村は反抗的な表情で聞く。先ほどの接触で、何らかの精神干渉も受けた可能性がある。気を強く保つためにも、彼は奥歯を噛みしめていた。
一方で黒金は想定通りの質問だったからか、眉ひとつ動かさずに答える。
「そう。じゃああらためて自己紹介ね。私の名前はイヴ、黒金林檎から生まれたネガトロン。ちなみに林檎ちゃんは小堀君と同じ研究班の科学者だった。最初の感染拡大で林檎ちゃんが死んで、生まれ変わったのが私ってわけ」
黒金あらため、イヴの説明に矛盾は感じられない。志村は小堀の周辺情報に詳しくないが、ネガトロンとして元の人間の身分を引き継いでいるなら、死亡扱いでありながらこうして存在していることにも納得できる。ジュニアと同じ手口だ。そして、ネガリアン対策本部設立前の出来事であれば、彼女の存在を小堀個人で秘匿することも不可能ではない。
ならば、やはり残る疑問はひとつ。なぜ、小堀は身内にすらイヴの存在を隠していたのか。その答えは、志村が聞くまでもなく彼女本人の口から出ることとなる。
「ネガトロンにしては、ずいぶんひっそりと生活してるなって思ったでしょ? 私はね、小堀君に守ってもらってるの。代わりに、私は私の能力を人間のために使うことにした」
イヴの能力。その言葉から志村は最初の気配を思い出して固唾を飲んだ。
「ちょっと長話になっちゃうけど、君の体が動くようになるまで聞いてちょうだいね。私の前の人、林檎ちゃんは、知りたがり屋さんだったの。それでカプセルの中のウイルスに興味を持って、うっかり外に逃がしちゃった。決して林檎ちゃんだけのせいではなかったのだから、チームのみんなが同じくらい責任を感じてたわ。その中で、小堀君だけが強い絶望でウイルスに勝って、ゼツボーグになった。他の人たちは検査入院中に死んじゃったけど、私は林檎ちゃんの責任感に引っ張られて、ネガトロンになってからも人を殺したくないと考えるようになったわ。そのおかげか、私の能力は、人助けにぴったりなものになってくれた」
イヴがそこまで話す頃には志村の体はもう半分ほど元の力を取り戻していたが、彼は動こうとせず話を聞き続けた。
「私の能力は、捕食。他の感染者から、感染細胞を吸い取って食べることができるの」
イヴは淡々と話すが、捕食という能力に志村は疑問を感じた。そもそもその能力は、すべてのネガトロンが当たり前に持つ本能的な力。初期に誕生したネガトロンだから、そんなシンプルな能力になったのだろうか。彼に考える時間を与えるように、イヴは少し間を置いてから話を続ける。
「食べるだけなんて普通じゃないかって思った? でも私のは少し特別なの。他のネガトロンが食べるのは、感染者が放つ負の感情エネルギー。でも私は、感染者の感染細胞そのものを食べることができる。言いたいこと、わかるかな? まあ、ドクターフィッシュみたいなものだと思ってくれていいわ。私の能力は、自分の食事と相手の治療を同時にすることができる。どう、便利でしょ?」
イヴが何か嘘をついているようには見えない。この説明で、ようやく志村は納得した。確かに、彼女は人類にとって有益なネガトロン。もし彼女の反応を地図に表示させていたら、科学衛生局や手柄を急ぐヒーローに倒されかねない。現に、彼もつい先ほどまではイヴを倒すことで頭がいっぱいだった。
それを避けるため、小堀は彼女の住処であるこの場所だけ反応を消した。反応を消す範囲を広げれば明らかに不自然だし、他のネガリアンを見逃す可能性がある。だが、それは同時に、イヴの行動制限を表していた。小堀はイヴのために最低限の反応を消したが、彼女がその範囲を出れば、途端に感知器に気づかれてしまう。イヴがこの部屋からまったく出てこない理由、それは彼女が自身の立場を理解し、身を守るためだった。そして少しずつ患者を呼び込むことで、できる限りの治療と生命維持を続けていたのである。
志村と最初に会った時、イヴは広瀬の背中を見て言った。自分から声をかけることはできない。助けたい人が近くにいるのに、助けられないと。それはまさに、彼女の能力と行動制限を表していた。おそらくネガリアン対策本部が設置されてからの5年近く、彼女は一度も外に出ていない。志村はそんな彼女の現状と小堀の思惑に、わずかながら心を動かされていた。
「じゃあ、もしかしてさっきの人は……」
ここで志村は、自分が来た時にいた先客のことを思い出す。
「そう。あの子も私の患者さん。びっくりしたでしょ? 私もあそこまでイっちゃうとは思わなくてね」
その時、一瞬で志村の顔が燃えるように紅潮した。先ほどの喘ぎ声と水の音。いったいどのような治療が行われていたのか。知りたいような知りたくないような。つい目を逸らそうとした彼をよそに、イヴは続ける。
「感染細胞を食べられるってことは、嫌な気持ちになる原因が抜けていくってこと。つまり、治療中は気持ちよくなっちゃうみたいなのよ。私としては、依存させないためにも感染が進まないうちに短いスパンで来てほしいんだけど。あの子、けっこう深刻でね」
患者の個人的な事情まで話そうとするのは、イヴが志村をヒーローとして信頼しているからだろうか。志村はどこか申し訳なさを感じると同時に、かつてない恐怖も覚えていた。いくら情報を漏らしても、いざとなったら食い殺せる。その余裕が、イヴにはあるのではないかと。最初の気配が脳裏にこびりついた彼は、襲われない現状に安心しながらも、見えない死神の気配に怯え始めていた。
「あの子、2か月ほど前にネガトロンに彼氏を殺されたのよ。わざわざ死体まで残されて。そのおかげで死因もわかったし、ちゃんと葬儀もできたみたいなんだけど、それが余計にあの子を追い詰めちゃったみたいでね」
2か月前、食べた相手の死体を残すネガトロン。志村はその特徴に心当たりがあった。
「……ジュニアか」
イヴは静かにうなずいて答える。その顔は、まるでその患者が自分の家族であるかのように悲哀に満ちていた。
「ひと通りの出来事は小堀君から聞いたわ。だからあの子がここに来た時は、私ちょっと泣きそうになっちゃって。他の患者さんも、大変な思いをした人ばかりだったわ」
ジュニアはすでに死んでいる。志村が殺したのだから、そのことは彼自身誰よりも知っている。ジュニアがいたからこそ、このような悲劇が起こった。しかしジュニアが生きていようが死んでいようが、残された者の悲しみが消えるわけではない。逆にジュニアが消えたことで、その患者は喪失の悲しみをどこへ向ければいいのかわからなくなっているのかもしれない。那珂畑のように、ジュニアに悪くない感情を抱いている人もいた。志村は自分のしたことが正しいことだと今でも信じている。しかし、この時ばかりはほんの少しだけ後悔の念が芽生えかけた。
もともとが素直な性格の志村だからこそ、イヴの言葉が嘘ではないと、患者への思いが本物だと信用できた。ジュニアを問答無用に切り殺し、那珂畑にネガトロンと言葉を交わさないよう忠告した彼が、恐怖で平常心を維持しながらも、無意識にネガトロンに心を許していた。
「ネガトロンの私が言うのもなんだけど、ネガリアンに感染するのは、ネガトロンになるのも、とても悲しいこと。ネガトロンとして幸せに生きようとすればするほど、皆に嫌われる。私だって、本当はこの部屋を出てもっとたくさんの人を治したい。それまでは、せめてこの戦いが終わるまでは死ねない。死にたくない。だからお願い、私のことは見逃して。誰にも言わないで」
この処置室に入った時からずっと優位を保っていたはずのイヴが、いつの間にか涙を流しながら、すでに全身が回復した志村に頭を下げて懇願していた。
ネガリアンは倒すべき人類の敵、ネガトロンは決して見逃してはいけない災厄。それらを倒すのが、ヒーローの役目。志村はそう信じていた。しかし、現実はそう単純ではなかった。人類の敵は人類の中にもいて、ネガトロンの中にも人類に味方する者がいた。ゆえに、彼はこの上なく混乱した。今まで信じていた真理が、対特区計画によって、イヴによって壊されていく。その時、負の感情が極限まで少なかった彼の心には、確実に何者かへの憎悪が発生していた。しかし、それがどこに向いているのか、誰に向けるべきものなのか。まだ彼にはわからない。
だが、志村にそれを考える時間は与えられていなかった。
ピンポーン。
ドアホンの軽やかな音。イヴはもう予約はないと言っていたが、飛び入りの患者だろうか。
「……今日はお客が多いわね。私は玄関に行くから、君はここでもう少し休んでて。あ、よかったらそこの紅茶セット使ってもいいから」
イヴは涙を拭きながら言うと、見苦しいほどの作り笑顔で処置室を出て行った。
そして、事態は動き出す。
「きゃあっ!」
イヴが処置室を出た数秒後、玄関の扉を開ける音の直後に聞こえたのは、彼女の悲鳴。そして何かが床に倒れる音だった。
ほんの一瞬、最初の気配が通り過ぎるように志村の脳を直撃する。本来は患者同士のプライバシーもあって、独断で処置室から出るべきではないのだろうが、とてもそうしていられる状況には感じられなかった。志村は枕元のプレートを手に取り、ベッドから跳び上がるような勢いで処置室の扉を開ける。
すると、志村の目の前、短い廊下には彼の予想だにしない光景が広がっていた。
イヴが、床に横たわっていた。彼女は脇腹と頭の一部がえぐり取られたように欠け、その破片と思わしき肉片が壁に付着している。そして玄関からは、靴も脱がずに上がり込んでくる3人の男。いずれも全身紺色の服に防弾チョッキのような装備を羽織り、頭は通信機付きのヘルメットで守られている。そして右手には折り畳み式の警棒。明らかに患者ではない。いや、このネガリアン騒動において、誰もが知っているはずの外見。ヒーローの登場により、その活動範囲を奪われた組織だった。
「特殊部隊……?」
志村は思わずその名を口にする。彼らの活躍があったのは、騒動初期のわずかな時期。暴徒化する感染者に対処するため、国の警察組織が編成した、言わばヒーローの前身である。
「志村正規、お前を拘束する」
男のひとりが床に転がるイヴの体を踏み越え、志村に詰め寄った。




