第四十二話 あくまでも全年齢対象でお願いします 禁断のイヴ・その一
説明しよう。ハコネ町O区域で鳴島が発見したネガテリウムは、発生位置からボルケーノと名付けられた。本体はすでに死亡していたものの、表皮がウイルスの層に守られていたことで、容易に特定が完了した。
本体名、冴草純子、28歳。3年前、通り魔に夫を殺害されている。その悲しみからか、数日後にO区域の硫黄泉に投身自殺を試みる。しかし、この時点でステージ2までネガリアンに感染していた彼女は、自己防衛本能から感染箇所が急拡大。本体を守る層を何重にも形成し、ネガテリウムとなる。そして、夫と同じように誰からも見えない場所に消えたいという強い思いから、ネガテリウムは彼女の下半身を掘削機の形に変え、地中へと潜り込んだ。
当時、まだネガリアン感知器が多く設置されていなかった影響もあり、彼女の存在は鳴島が気づくまで硫黄ガスに阻まれて発見されなかった。
投身から1年後、すなわち冴草が26歳の時、彼女は地中で衰弱死する。この頃には地下5キロメートル付近まで掘り進んでいたのだが、形を保ったまま力を失った体は、湧き上がる地熱とガスの圧力で少しずつ押し上げられる。つまり、鳴島に発見されなかったとしても、彼女はマグマ溜まりを掘り当てることなく、遺体はいずれ地表に姿を現す運命にあった。しかし、鳴島でさえその存在にしか気づけなかった相手。このような詳しい経緯については、もはや宇宙開発局ですら知る術はない。
宇宙開発局は冴草の遺体を回収したが、鳴島と那珂畑の対応を優先したため、「ハコネ山にネガリアンが隠れていた」というニュースが世に知れ渡るのは、もう少し先の話である。
ちなみに、3年前に冴草の夫を殺害した通り魔の正体は、彼に擬態したネガトロン・ジュニアである。結果としてこの事件は未知の犯人が死亡したことで迷宮入りとなるのだが、彼女の遺した傷跡は、今なおこの世界のどこかでうずき続けていた。
その見えない傷のひとつを、志村は探していた。
都心部にある高級住宅街、アオヤマ地区I区域。志村が那珂畑に見せたメモに書いてあった場所である。彼はその付近にあるネットカフェを仮宿として、とある2階建てアパートの一室を見張っていた。
好都合なことに、季節は真冬。マフラーや帽子で顔を隠しても怪しまれることはない。それに、ポジトロンの構造上、人々が志村個人の顔を知ることはない。そのため、彼はあくまでも一般人としてその場所に溶け込むことができた。
見張りを始めてからすでに数日。彼が他に目もくれずその部屋だけを注視していたことには、明確な理由がある。
きっかけは、志村が水上と共に初めて宇宙開発局のネガリアン対策本部へ行った時のことである。彼は施設の説明の中で、ネガリアンの活動を示す壁面の大型モニターを見た。今考えれば、本当に偶然の発見だったと彼は感じている。モニターに表示された地図の中、アオヤマ地区I区域の一角、画面表示にしてほんの1ドットの範囲だけ、反応が消えているのを彼は見つけた。最初は大型モニターだから、この程度の不具合はあるだろうと見逃していた。しかし、その後のシネマ討伐会議で彼は確信を得る。
小堀がアツギ市を拡大するため地図を動かした時、反応のない場所も同じように動いた。つまり、この異常はモニターの不具合ではない。だが、感知器の不具合と考えるにはまだ早い。その狭い範囲を除いて、軽症者を示す反応は正確に動いている。それに、人口密集地である都心で、感知器の見落としや不具合があるなどとは考えにくい。つまり、この表示は宇宙開発局の誰かが意図的に仕掛けたものである可能性が高い。
かつて志村はこの謎の場所について、宇宙開発局の問題だから自分は放置すべきという立場をとっていた。しかし、対特区計画を経て疑り深くなった彼は、こう考えるようになる。宇宙開発局は、この場所に何か重要な存在を隠していると。そしてそれは、おそらくネガトロン。指定監視ネガトロンと違って身内にも明かさない理由はわからないが、とにかく志村はその場所を自分の目で確かめることにした。
そして、数日の監視の結果、志村は該当地に建てられたアパートの一室に異常を感じ始める。
生活感があるのに、住人がまったく出てこない。
監視中、その部屋に入っていく人物は何人かいた。しかし彼らはいずれも1時間と待たず、部屋を出ていく。そして次の訪問者が現れるまでの間も、部屋の明かりは点いたままで、誰かが生活しているような動きもある。つまり、この部屋の住人だけが、一歩も外出していないのである。朝のゴミ出しに行く様子も、食料を買いに出かける様子もない。この時点で、志村はほぼ確信した。
あの部屋には、宇宙開発局が意図的にネガトロンを隠している。人間の食料を必要としないネガトロンであれば、ゴミも発生しないし、買い出しに出る必要もない。出入りする人々が何か荷物を持ち込んだ様子もないが、彼らからエネルギーを補給しているとなれば、この引きこもり状態にも説明がつく。
だが、志村には最後の問題があった。あの部屋にいるネガトロンが、何者なのかという点である。ネガトロンを倒すべき宇宙開発局が、その存在を隠しているネガトロン。考えられる理由は主にふたつ。局にとって有益な存在か、指定監視ネガトロン以上に手の付けようがない存在だから。前者はともかく、もしも後者であれば、自分ひとりでどうにかできる問題ではない。下手に状況を荒立てれば、宇宙開発局だけでなく、科学衛生局も黙ってはいないだろう。それを見極めるために、彼は監視を続けた。
そして、監視を始めてから一週間近く。志村はようやく相手が前者であるという安心要素を手に入れる。
それは、訪問者の数が少ないということ。強力なネガトロンには、相応のエネルギー補給が不可欠である。例えばシネマは町全体を支配することでその量を、ジュニアは相手を恐怖させることで質を確保していた。しかし、訪問者はリピーターの存在を考慮しても1週間で5人程度。いずれも部屋を出る際におかしな様子はなく、むしろ住人に礼を言って出ていくほどだった。
つまり、住人はネガトロンであったとしても、蓄えているエネルギーは多くない。局にとって有益なことが理由で隠されていたなら、友好的な接触も可能かもしれない。志村は念のため、そのアパートについて、ネットでさらに調べてから訪問することにした。
志村ひとりの力では、部屋に誰が住んでいるかまでは特定できなかった。しかし、彼はあるSNSの内通サイトから気になる情報を見つける。
そもそも内通サイトとは、非公開のアカウントや個人間でのメッセージなどを横流しする、かなり悪質なページである。例えばメッセージを閲覧できる誰かが、そのページに対象となるアカウントなどを紐づけることで、そのアカウントの行動は即時にサイトに保存される。紐づけられた後に削除したメッセージ等も保存されるため、有名なところだと芸能人や政治家の粗探しに使われることが多い。
しかし一方で、そういったプライベートな情報が飛び交うサイトだからこそ、見つけることができた。
アオヤマ地区I区域に、ネガリアン感染者専門のカウンセラーがいる。
確かに、I区域は高級住宅街であるため、高度な医療機関やクリニックも多い。しかし、ネガリアン専門の施設は、ネットの情報ではどこにも見当たらなかった。つまり、カウンセラーの情報が事実だとすれば、その正体は十中八九あの部屋のネガトロン。そして、その存在を公表しないのは、多くの人にその存在を知られないため。会員制か紹介制のルールを設けているのだろう。
考えてみれば、効率こそ悪いが、ネガトロンにとっては合理的な立ち回りだ。ネガリアン感染者を呼び込むシステムを作れば、栄養の方から集まってくる。そして患者から感染細胞を吸い取れば、それは医者らしい治療行為と言える。さらに訪問者数を少数に絞ることで、部外者に情報が漏れる確率を減らし、安全な生活を保つことができる。食事に意欲的だったジュニアとは反対に質素な食生活だが、罠を張って獲物を待つスタイルと考えれば、ネガトロンのひとつの生き方として説明がつく。
しかし、志村はこの時まだ気づいていなかった。このトウキョウ都で誰もが当たり前のようにネガリアンに感染する中、彼だけが感染の可能性すら持たない。つまり、患者に扮して部屋の住人に接触することには無理がある。動けない重症患者の代理で来たと誤魔化しても、秘密主義ゆえに信じてもらえるかは五分五分。不運なことに、この場所を調べるにあたって、彼こそが最も不適格な人材だった。
カウンセラーの存在を知ってからおよそ半日。日の沈んだ町で、志村はいよいよ目的の部屋に向かった。203号室、表札に名前は書かれていない。周りの部屋から強いネガリアンの気配もない。そして彼が患者のふりをしてドアホンを押そうとした時、ボタンの下に記されたただし書きを見て手が止まる。
ご予約の方は、ボタンを押してお待ちください。
小さく書かれたただし書きで、志村は確信した。この部屋は、確かに何らかの客商売、おそらくはネットの情報通りカウンセリングに使われている。しかし、予約制であることまでは知らなかった。玄関周辺にはそのただし書きの他には何も変わった点はなく、予約の方法もわからない。
志村が対処に迷って扉の前で立ち往生している時、部屋の中から感じたことのない気配がした。ネガトロンの気配は、ジュニアやシネマとの戦いで憶えている。しかし、これはそのいずれとも共通しない。圧倒的な存在感、まるでこの部屋の中にネガトロンが何十人も詰め込まれているかのような圧迫感。仮に住人がネガトロンだとしても、エネルギー不足の弱い相手と油断していた志村は、その場で一歩だけ後ずさりしたまま動けなくなってしまった。
まるで少年漫画のような展開だが、志村がその圧倒的な気配に押されて、まるで暴風に耐えるように目を閉じようとしている現状は変わらない。
そして、志村の思考が恐怖で止められる寸前、扉の方から住人は現れた。
「おや、こんな時間にどうしたんだい?」
少ししゃがれた男性の声。同時に押しつぶされそうな気配が止まった。志村が目を開けると、目の前の扉は開いていない。声の主は、隣の部屋の住民だった。見た目からして60代後半。片手に杖を持っているが、腰が曲がっているようには見えない。文字通り転ばぬ先の杖というものだろうか。
気配が消えたことで志村はとりあえず落ち着きを取り戻す。そして額から垂れそうになっていた冷や汗を拭ってから笑顔でひと言。
「いえ。ここの部屋の方に用がありまして。お隣さん、ですよね。おじさん、ここにどんな人が住んでるかご存知ですか?」
男性は扉の鍵を閉めながら、ゆっくりと頷いて答える。その隙に志村はこっそりと隣の表札を見る。204号室、広瀬という名前のようだ。
「声しか聞いたことがないけど、お若い女性だよ。たしか、引っ越して来たのは5年くらい前だったかね。今まで会ったことはないけど、まああたしゃ見ての通りの歳だからね、きっと生活時間が違うんでしょうよ」
広瀬はそこまで言うと、志村の前を通って階段へと向かう。
「じゃ、あたしゃ少し散歩に行くからね。寒いけど天気のいい日だ。空もよく見えとる」
志村はその言葉に釣られるように空を見上げる。しかし、広瀬の言葉とは裏腹に一面の曇り空。加えて街の明かりで星などひとつも見当たらない。
「いや、空は……」
志村が言おうとした時には、広瀬はすでに階段に差し掛かっていた。耳が遠いのか、志村の声に振り向く様子はなかった。
結局、志村はそのまま203号室の前に取り残された。今は予約方法などを調べてから、また出直すしかない。そう考えて彼が広瀬と同じ階段に向かおうとした時。
「難しい話よね」
「うわあぁっ!?」
突然の声に、志村は驚いて真上に跳び上がる。そして思わず片手で口を塞ぎながら振り向くと、203号室の扉が開いており、中から背の高い女性が広瀬の去った方を見ていた。
上下黒でパンツスタイルのスーツ。スレンダーながらもその黒さによって引き立つ理想的なボディライン。真っすぐ腰の上まで伸びた金髪は、前髪を斜めに切り揃えてあり右目が半分ほど隠れていた。広瀬の言った通り、若い女性。しかも驚くほどの美人ときた。大きな両目には金にも近い茶色の瞳。その整った顔が志村に向いた時、志村は初恋を奪われかけた。
「広瀬さん、軽い認知症でね。ネガリアンに感染してから症状が悪化してるのよ。きっと今も、昼の散歩だと思い込んでるに違いないわ。でも、私から声をかけることはできないから。助けたい人が近くにいるのに、助けられない。ほんと、もどかしいったらありゃしない」
女性が話している間に、志村は深呼吸をして調子を整える。この女性が住人なのだろうか。そして先ほどの凄まじい気配は何だったのだろうか。
「あ、あの……」
志村は何かを言おうとしたが、何を言えばいいのかわからず、それ以上に先ほどの気配を思い出して言葉に詰まってしまった。
しかし、女性はそんな志村を笑顔で迎え入れる。
「見た感じ、初診さんよね? 予約のメモ見て戸惑っちゃったかな? 別に予約はなくてもいいのよ。何か先に伝えたいこととかあれば別だけど。ほら、寒いでしょ。入って入って」
「あっ、はい……」
志村は促されるまま、203号室に足を踏み入れる。中はいたって普通の部屋だった。短い廊下の横にはトイレと浴室。その反対側には物置と思わしき扉と、隣に応接室のような小部屋。奥には、リビングであろう部屋の扉に「処置室」と看板がぶら下げてある。
「今は他の患者さんがいるから、そこで待っててね」
志村は促されるまま、小部屋に通される。狭い室内にはふたり掛けくらいのソファと、横にウォーターサーバー。さらにその隣にはサーバーと同じ高さの観葉植物が置いてあった。
確かに、個人経営の診療所と言えば通用しそうな内装。不自然な点があるとすれば、ここまで受付のようなものが見当たらなかったところくらいだろうか。もしかしたら処置室の方にあるのかもしれない。
そう言えば、今は他の患者がいることを志村は思い出した。おそらく処置室にいるのだろう。今彼がいる小部屋も、廊下とは扉で区切られている。カウンセリングのために、患者同士を鉢合わせにしない配慮だろうか。
志村は待っている間、処置室の方向に感覚を集中させる。微弱ではあるが、確かにネガリアンの気配はある。しかし、最低でもふたりはいるであろう処置室から感じられる気配にしては、あまりにも微弱。それが、志村にとってはかえって不気味なほどだった。
入り口でのやり取りからして、あの女性がここの住人でカウンセラー。しかし、彼女からネガリアンの気配はしなかった。それに、最初に感じた凄まじい気配の謎が残っている。あの気配は広瀬が現れた時、まるで一瞬でスイッチを切ったかのように感じられなくなった。だとしたら、患者の方がネガトロンなのか。そもそも他の患者がいるのに、なぜあの女性はわざわざ入り口までやって来たのだろうか。想定外の出来事が立て続けに起こったことで、志村の思考は壮絶にかき乱されていた。
そして次の瞬間、志村はさらに困惑することになる。
「あぁんっ!」
処置室から聞こえたのは、また別の女性の声。しかし、普通ではない。妙に艶っぽい。
「やっ、ひゃめ……、んあぁ!」
と言うか、もはや喘ぎ声。明らかに「行為」中の嬌声である。いくら18歳未満の志村と言えど、他の男子がそうであるように、それなりの知識だけは持っている。少なくとも男子高校生が生で聞いていいものではない。しかし、その刺激が、逆に志村の本能を、好奇心をかき立てた。
1分近くは経っただろうか。隣部屋に聞こえないよう堪えながら続いた喘ぎ声はしかし、志村の耳にしっかりと届いた。そして声が止まった直後、水の滴る音がした。水道など、何かを洗っているような音ではない。漏らしている。何とは言えないが、明らかに「漏らして」いる。もしも志村が調査のため強引に処置室に踏み込んでいたら、この作品に年齢制限がかけられただろう。精いっぱいオブラートに包んで表現するなら、あの部屋は間違いなくふたりの女性によってピンク色に染められていた。
もしかすると自分は、そういうジャンルの店に来てしまったのか。宇宙開発局は、わざわざこんなものを隠していたのか。志村はソファに戻って体を縮こませながらも、必死に考えた。
そして、水の音からさらに十分ほど経った頃、廊下を歩く足音がふたり分、小部屋の前を通過した。
「それじゃ、お大事にね。また何かあったら、遠慮なく来ること。いいね?」
先ほどの女性の声。おそらく患者を送り出したのだろう。扉の閉まる音がした後も、しばらく女性は戻ってこなかった。もし志村の想像したことがあの処置室で行われていたのなら、次の「客」を入れるために相応の掃除が不可欠。彼が呼ばれるまでの時間の長さが、心の奥底で渦巻く謎の恐怖と期待を増幅させた。
異様なまでに長く感じられた待ち時間の後、ついに志村は処置室へと案内された。
室内はもともとリビングだったのか、カウンタースタイルのキッチンがある。しかしその他には、簡易なベッドが部屋の中央に広げられているだけ。キッチンも日常的に使われている様子はないが、代わりにベッドの横には小さな椅子に湯沸かし器と紅茶を淹れるようなセットが置かれていた。
志村は案内されるまま、中央のベッドに座る。つい先ほどまで別の患者がここで「行為」をしていたのかと思うと、全身を謎の震えが襲った。
しかし、その震えはまったく別の意味で増すことになる。
志村が座ったのを見てから、女性は扉を閉めて、志村に背を向けながらドアノブの下にある鍵をかけた。この時点で、志村の精神は警戒モードに切り替わる。女性がひとりで暮らす部屋なのだから、防犯のため各部屋の扉に鍵が付けられていても不自然ではない。しかし先ほどの患者が出ていく時、鍵の開閉音はしなかった。あれほどの「行為」があったにもかかわらずである。
「……さて、少年」
女性が扉の前で立ち止まり、そう言った直後、先ほどの凄まじい気配が再び志村を襲った。やはり、この女性がネガトロンだった。ベランダ方面の窓意外に出口のない半密室。まだ謎も多く対策も何もない状態だが、志村は必至にベッドから立ち上がり、身構えた。仮にこれから彼女との戦闘になるとしても、先にポジトロンを起動するわけにはいかない。最初の一撃は確実に不意打ちで決めるため、本性はぎりぎりまで隠すべきと彼は判断した。
「君はここに、何をシに来たのかな?」
女性の目が、怪しく金色に光った。




