第四十話 たのしいね、焼けるぞ溶けるぞ クロスボーグ・その五
どうしても言えないことがあって、でもそれは、ひとりでしまい込むにはあまりにも重いものだった。だから、誰かに気づいてほしかった。道端の枯れ葉を拾うように、誰かに見つけてほしかった。
幸せなことに、気づいてくれる人がいた。理解して、支えてくれる人もいた。
いつしか、私は強くなっていた。たくさんの人に認められて、もう暗い過去なんて忘れてしまうくらいに満たされていた。
でも、全部気のせいだった。理解してくれる人も、支えてくれる人も、私じゃない。私と同じ思いをしたわけじゃない。それに、強くもなっていなかった。ちょっとしたきっかけで過去に戻される、弱い私のまま。調子に乗って見失っていたんだ。
次は、共感してほしくなった。でも、私に共感してくれる人は、私と同じ思いをした人。それは、とてもかわいそうなことで、とても弱くて、共感なんてする余裕はない。
調子に乗ったままの方がよかったのかもしれない。広い世界を見ない方が幸せだったのかもしれない。好奇心が猫を殺したんだ。
だから、今は閉じている。目を背けている。でも、きっと長くはもたない。
だから、私は心のどこかで共感してもらうことを諦めていなかった。
かわいそうな人がいないなら、かわいそうな人を作ればいいんだ。
時は、那珂畑たちが出動する前まで遡る。O区域にある土産物店、その救護室から、鳴島はおぼつかない足取りで外に出た。
背後からは小堀の声がするが、周囲の観光客の声に混ざってよく聞き取れない。おそらく鳴島を呼び止めようとしているのだろう。それでも、屋外に出るまで彼女が脚を止めることはなかった。
店の入り口近くでは、店員が屋外から避難してくる人々を中へ案内している。当然、外へ出ようとする者を止めるのも彼らの役目なのだが、鳴島は店員を肩で押しのけて外へ出た。
せめて、人の密集していない場所であれば、何が起こっても被害は少なく済む。鳴島は、志村の見よう見まねでナノマシンのプレートを胸に当てた。そして、ガスで咳き込む寸前まで大きく息を吸ってから、自分に言い聞かせるように、静かに言った。
「ゼツボーグ、ポジトロン、起動」
鳴島は考えた。希望と絶望は両立などしない。だが、希望は絶望に、絶望は希望に変えられる。例えば、今自分が絶望的な無理をすれば、ここにいる人々に希望を与えることができる。自分の希望である保身に走れば、きっと後になってその選択に絶望する。そして、この絶望的な状況は、同時にチャンスでもある。誰もが不可能と考えたことを打破すれば、ネガリアンとの戦いは、科学衛生局との対立状況は大きく好転する。
絶望を希望に変えて、その希望をさらに絶望で上書きする。この切り替えを瞬時に何度も繰り返せば、ゼツボーグとポジトロンは同時に操れる。那珂畑の提案した絶望的な難題が、今この体を動かす希望になったように。
これまでゼツボーグ発動のために苦しめられてきた絶望のフラッシュバックも、別の希望で上書きすれば軽減できる。その次に、もう一度その苦痛を思い出す。少しくらい時間がかかってもいい。鳴島は自分にそう言い聞かせた。
「鳴島君!」
客と店員を振り払い、小堀が彼女の背中に追いついた。その時、ガスの向こうでは少しずつ、しかし確実に、ゼツボーグとポジトロンの両方が鳴島の体に広がり始めていた。
頭部から伸びる2本の触角。それを構成していたコードの一部が本来の赤から水色に。目隠しのようなバイザーも、黒から半透明に。そして体には、左脇腹から背中や胸元にかけて、ポジトロンに似たハニカム構造の線が複雑に伸びて光を放っていた。
「ぐぅっ! はぁ、んがぁあっ!」
変身が完了したように見えてもなお、鳴島は両腕で体を押さえて苦しみ、悲痛の叫びをあげていた。呼吸は激しく乱れ、震える膝は何度も力を失っては取り戻しを繰り返している。しかし、スクリーム戦以来初めて、彼女は全身を使っての変身に成功した。すでに奇跡とも言える結果だ。
小堀は口元を押さえながら外に出て、鳴島を引き戻そうとした。が、鳴島はさらにガスの向こうへ、硫黄泉の密集する斜面へと移動し始めた。その足はまだ歩ける状態ではない。しかし彼女は2本の触角を支えにして、4足歩行で動いていた。
小堀が鳴島を追跡するためにドローンを飛ばし、司令本部との通信が回復したのはこの後のことである。
鳴島は、どうにか目標の真上まで到着した。時間はかかったが、苦痛にはもう慣れた。これまでのような突発的なものではない、自分で呼び起こした絶望の苦痛だから、少し軽かった。それに、ポジトロンのパイロット保護機能は、わずかながら脳にも影響している。
だが、完全な両立ではない。負担軽減のためどちらも半分ずつ使っている中途半端な状態。だが、2分の1を2個用意すれば、それは1になる。今はこのバランスを維持することが彼女の課題だった。ポジトロンの出力がゼツボーグを上回れば、ゼツボーグは解除され、まともに動かせないナノマシンだけが残る。逆にゼツボーグが勝っても、ポジトロンで補完した部分を覆い尽くして制御不能の苦痛に襲われる。とにかく慎重に。手足を動かすにも、頭上から糸を垂らしてひとつひとつ操作するように慎重に、硫黄泉に身を投じた。
周辺の穴よりも大きい、人が2、3人ほど入れそうな太さの縦穴。その最奥部から、確実にネガリアンの気配がする。吹き出すガスに乗って、余計に強く感じる。反応の大きさからして、敵はネガテリウム。本体や発生原因、その環境でなぜ生きているのか謎だらけだが、今はそれを考えている場合ではない。
鳴島が最初に感じた危機感。それは、ネガテリウムが地下のガス溜まりを掘り当てたという可能性である。現在地表を覆っている異常なまでのガスも、それが原因で噴出したものと考えていいだろう。それだけなら、この敵を確実に取り除いてから専門家に噴出を制御する設備を付けてもらえばいい。しかし、ガスが溜まっているということは、その原因となる地熱、それを起こすマグマがその下にはあるということ。ハコネ山は活火山。硫黄泉をさらに深く掘り進めれば、地盤に穴を開けてマグマを解き放ってしまう可能性はじゅうぶんにある。そうなれば、もうネガリアンどころではない。甚大な火山災害となる。そして災害は人々の不安を加速させ、ネガリアンの勢力拡大にもつながる。よりによってこのロックダウン地域の西端で起こったら、その代償は人類全体の敗北に等しい。
敵がどれほどの速さで地下を掘り進んでいるのか。今どの深さで、マグマ溜まりまで残りどれほどなのかわからない。しかし、一刻も早くその進行を食い止めなければ。
今食い止められれば、すべてが解決する。できなければ、すべてが終わる。表裏一体の希望と絶望が鳴島のクロスボーグを成立させ、また同時に彼女の焦りが少しずつその制御を乱しつつあった。
地表からまっすぐ落下すること、およそ200メートル。ネガテリウム本体と思わしき人影がガスの中に見えた。その上半身は意識を失ったようにうなだれているが、下半身だけが大きく変形、わかりやすく掘削機の形をしていた。
鳴島は触角の片方を壁に突き刺し、体を固定。その後、反対側の触角を太ももに刺し、脚力を強化。掘削機部分を蹴り砕いた。敵はよほど掘削と生命維持に力を使っていたのだろう。鳴島が近づいても掘削機を攻撃されても、反撃の素振りひとつ見せなかった。
掘削機が壊れて本体が地面から離れると、その隙間からさらにガスが噴き出してくる。どうやら最大の危機は免れたようだと、鳴島はひと安心した。あとは、この本体を地上まで連れ出して、安全な状況に持ち込むだけ。万が一、今から直接戦闘になったら、まともに動けるかわからない鳴島には、それが最善の行動だとすぐに判断できた。
鳴島は壁に刺していた触角を離し、敵の真横に着地。敵本体を運びつつ穴を登るため、両方の触角で相手を拘束してから、先端だけ自分の両肩に突き刺した。
そして、壁の凹凸に手をかけた時、鳴島は自分の考えの甘さに気づかされる。
縦穴が崩れ始めた。ガス噴出の勢いで形を保っていた穴の内壁には、鳴島が触角を壁に刺したことで、わずかに亀裂が入っていた。そして底面に蓋をするように佇んでいたネガテリウムの掘削機部分が壊れたことで、形を保てなくなった。噴き出すガスの圧は瞬く間に亀裂に入り込み、亀裂を広げて壁を崩したのである。
ネガテリウムだけなら、全身が埋もれても掘り進む向きを変えて地表に出られるかもしれない。しかし、その力を失った今、この崩落から生き延びる術はない。
壁の崩落と同時に、鳴島の心を絶望が包み込んだ。
しかし、少し遠いところに、光が見えた。だから、鳴島はそこに全力で手を伸ばし、つかみ取った。
O区域に到着した那珂畑が見たもの。それは、無数の顔なし人間と、巨大な両手を持つひとりの異形の姿だった。少なくとも、顔なし軍団は普通の人間ではない。ネガトロンか何かの能力で作られたものと考えるのが妥当だろう。だが、巨大な手の持ち主は、自らの声でその正体を明かした。
「やっと、捕まえた……!」
鳴島の声。しかし、普段とは違う、激しく高揚した様子がその声色からは感じ取れる。
なぜツクモが狙われたのかはわからない。先ほどまでツクモだけが偶然起き上がっていたから、掴みやすかっただけかもしれない。だが、今はツクモの再生能力を信じて防御に徹するしかない。那珂畑はもう片方の手と顔なし軍団に警戒して、その場に留まった。
「99号……。てことは、一緒に来てるんでしょ? 98号さん!」
ツクモを捕まえたまま、鳴島の声はじわりじわりと那珂畑に近づいてくる。ガスの中から現れたその姿は、確かに鳴島、ゼツボーグ91号によく似ていた。しかし、体の各所にポジトロンのような意匠が追加されている。やはり、彼女はクロスボーグの実現に成功したらしい。が、問題は驚異的なまでに巨大な両腕だった。鳴島自身の腕ではない。彼女が触角を刺した両肩から、新しく生えたように見える。もしもこれがクロスボーグの力なのだとしたら、それはおそらく複製ナノマシンで作られたもの。しかし、どう見ても制御を失っている。
那珂畑が対応に迷っている間も、顔なし軍団はゆっくりと鳴島の背後を包囲するように迫ってくる。だが、鳴島は空いている方の腕を大きく振り、まとめて薙ぎ払うように彼らの上半身を殴り飛ばした。その場に残された下半身たちは、次々と倒れては形を崩していく。
「これからガールズトークしようってのに、邪魔するんじゃないよ!」
先ほどまでの高揚から一転、今度は激しい怒りの声が辺りに響いた。
「あ、そうだ。これはあんたにあげるよ。今回のメインターゲット。生きてるか死んでるかわかんないけど、お土産にしときな」
そう言って、鳴島は那珂畑の方に何か大きなものを蹴り飛ばす。思わず飛びのいた那珂畑の足元に落ちてきたそれは、全身が白く変色した人間の体。この変色には見覚えがある。マンションと同じ、ネガテリウムの本体。鳴島はこの敵を無力化した上で、今に至るのだろう。
那珂畑はその体を拾う前に、ガスマスクの許容範囲ぎりぎりまで息を吸って、大声で呼びかけた。
「鳴島! 敵を片付けたならここを離れよう! て言うかまずどうなってんだよお前!」
その声で鳴島は那珂畑の位置を特定したのか、先ほど顔なし軍団を消し飛ばした巨大な腕で、今度は那珂畑を薙ぎ払った。
「言ったでしょ、これからガールズトークの時間なんだよ。野郎はさっさと消えな」
薙ぎ払いの風圧で、少しだけガスが晴れた。そこから見えた鳴島の視線は、狂ったように冷たく、しかし一方で顔は興奮しきったように紅潮していた。
那珂畑は一瞬、鳴島の言う通りに足元の敵を抱えて安全な場所へ避難することを考えた。鎧やガスマスクの耐久力にも限度がある。しかし、避難したとして、その後どうなるかも考えた。ネガテリウムが再び動き出すかもしれない。安全な場所と言うことは、その周辺には少なからず人がいる。かと言って、鳴島とツクモを放置して、敵の監視に集中するのも不安が残る。今。ネガテリウム本体を確保しつつ、鳴島に声をかけられる距離。すべての重要人物が一点に揃っているこの状況が最善だと、那珂畑は判断した。
とにかく今は、これ以上鳴島を刺激しないこと。そう考え、那珂畑は彼女の姿が見えるぎりぎりの距離まで敵を抱えて離れた。
「……さて、ツクモちゃん」
鳴島は、一度だけツクモの体を真上に放り投げた。そして、彼女の顔が自分の方向に向くようにして空中で再びキャッチする。
「ぐああぁっ!!」
肋骨を折り、肺の空気をすべて吐き出させるほどの握力。ツクモは反撃を考える余裕すらなく、苦痛の悲鳴を上げる。その声が、鳴島をさらに興奮させた。
「ははっ、良い声出すじゃん。対特区計画の時からちょっと思ってたけど、あんたやっぱいいモノ持ってるよ」
鳴島はツクモの顔を目の前まで近づける。歯を食いしばって抵抗の意思を示すツクモに対し、鳴島の表情は歪みきった笑みに満ちていた。
「こんなこと聞いてもしょうがないんだろうけど、興味があるから聞かせてよ。ねえ、人に刺されたことってある? 人を刺したことは? 自分の血で汚れたものを舐めて掃除したことは? あははっ。ねえ教えてよ」
脈絡も目的もわからない質問攻めに、ツクモは返答を考えるまでもなかった。
「放せよ、誰なのよあんた……」
それが癪に障ったのか、鳴島の表情は一瞬で冷たいものに切り替わり、巨大な腕でツクモを掴んだまま、その頭を何度も地面に叩きつけた。そして再び顔を近づけ、彼女に付着した石や砂を優しく手で払う。
「おい、せっかくのガールズトークなんだから、ちゃんと可愛く答えろよな」
まるで拷問。力の差と今の状況をようやく理解したツクモは、一瞬で全身から血の気が引くのを感じた。
「あっごめん、まだ質問の途中だったね。まあでも、これでひとつ答えてくれたね。意識が飛びかけた状態で、壁や床に何度も叩きつけられて目を覚ました体験。やっと一緒になれた。私たち、ちょっと近づけたよふふふっ」
話しながら、鳴島の顔には先ほどの歪んだ笑みが戻っていく。ツクモはこの理解できない不気味さと圧倒的な握力に、もはや声すら出せなくなっていた。
「じゃあ次の質問。今度も一緒だと嬉しいなあ。何も見えない場所で、ちょっとした物音に怯える夜を延々と過ごしたことはある? 名前を呼ばれただけで体が反応するよう教育されたことは? 「生まれたのが女の子でよかった」って言われてぞっとしたことは? いや、別に私がとち狂ったとか、そういうことじゃないんだよ。全部、共感してくれたらいいなと思って。まあ逆にあったらそれはそれでやばいんだけどさ」
質問はまだ続きそうだが、鳴島はここで急に止まった。そしてその顔はまた豹変。今度は何かに耐えかねたように、大粒の涙を次々と流し始めた。
「……私ね、もう慣れちゃったの」




