第三話 現代SFにしては説明が長すぎないか
説明しよう。ネガリアンとは、5年前に感染が始まった宇宙由来のウイルスである。他の病気同様、感染者は症状の進行度によって段階分けされる。
ステージ1、軽度あるいは無症状。発症すると脳内の伝達物質が阻害され、感情が不安定になったり、注意力が散漫になる。この状態であれば、医学的処置によって回復可能。現在ロックダウン内のほとんどの人間が無症状のステージ1にある。
ステージ2、自我喪失。脳をネガリアンに支配され意識が朦朧とし、肉体の支配権を奪われる。さらに感染は脳から隊内各所に転移し、噛みつきや引っかきなどの攻撃で他者を同じ状態まで感染させる。対処が遅れると、爆発的集団感染、いわゆるオーバーシュートの原因となる。また、ステージ2でゾンビのような言動をする感染者を指してネガリアンと呼ぶこともある。自己判断による処置が不可能なため、ゼツボーグによる対策が必要となる。
ステージ2分化状態、ネガテリウム。体中に転移したウイルスが体外に露出し、感染者の体を覆った状態。凄まじい増殖スピードで巨大化するためこの名が付けられた。感染者の肉体そのものをエネルギー源とするため、感染者をウイルスの外に切除することで対処可能。また、感染者を食い尽くすことでエネルギー不足を起こし自滅するのだが、それまでに感染拡大や大規模な物理的破壊が予想されるため、前者の切除対応が望ましいとされる。
ステージ3、ネガトロン。感染者の肉体が食い尽くされた後、まれに残ったウイルスが自我を持ち肉体を再構成した状態。感染者はすでに死亡しているため、ゼツボーグによる完全消毒でのみ対処可能。感染者の記憶や性質をある程度引き継いでおり、かなり人間的な外見、言動をとる。この状態になると体内にエネルギー源を持たないため、他者、主にステージ1感染者の負の感情を食べることで状態を維持している。
なお、ネガテリウムとネガトロンに関しては極めて強力かつ少数な症例なので、対策や記録のため発見時に外見や能力からそれぞれに個体名が付けられる。
ステージ2以降の感染者は、ロックダウン内各地に設置された感知器によって発見可能。この感知器には過去のゼツボーグから抽出したアンチネガリアンが保存されており、付近のネガリアンに反応して司令部に通報、壁面大型ディスプレイの地図に表示されるシステムになっている。つまり、ゼツボーグが多く現れるほど、正確で迅速な対応が可能になるということである。
ここまでが、那珂畑がゼツボーグとなった翌日、小堀から教わった主な内容である。実践や現場での対応については、加山に聞くようにとのことだった。
話の中で那珂畑が気になったのは、こうしている最中にも地図上には大きな反応、ネガトロンと思わしきものが複数あるということだった。彼は小堀に、なぜすぐ対処しないのかと聞いた。しかし小堀は冷静に、地図すら見ずに答える。
「あれらは、現時点で危険性が少ない、あるいは対処不可能と判断されたネガトロンだ。指定監視ネガトロンと呼んでいる。なにせ今私たちは深刻な人員不足だからね。今後の君の活動次第では、彼らの対応にあたってもらうことになるかもしれない」
小堀の声は終始優しいものだったが、それはつまり対応可能な見込みさえついてしまえば、強力なネガトロンと対峙することになるという予告でもある。いや、むしろ確定事項と言っていいだろう。那珂畑にとって何より決定的だったのが、ネガトロンの反応、その内のひとつが彼の住むシロヤマ地区にあるという点だった。
今まで自分はネガトロンの活動圏内で平和に過ごしていた。その事実に那珂畑は恐怖のあまり言葉を失ったが、それを知ってか知らずか、小堀は最後までその詳細に触れなかった。
話の最後に、小堀は那珂畑に手のひらサイズに折りたたまれたドローンを渡した。これはゼツボーグの変身に反応して自動的に起動し、司令部との連絡や記録に使われるものらしい。さらに、各種センサーでゼツボーグや周囲のネガリアンの身体データ、体温や脈拍などを常にモニタリングできるという代物。さすが宇宙開発局、ハイテクである。
「じゃあ、あとは加山君に任せてあるから行っておいで。彼は4階に待たせているから」
4階、地下4階のことだろうか。部外者除けのために空室になっているとのことだったが、そこにまだ何か隠してあるのだろうか。那珂畑が考えながらエレベーターに向かうと、背後でドサッと小堀が椅子に座り込む音、そして大きなため息が聞こえた。説明中は平気な顔で振舞っていたが、どうやら相当疲れているらしい。
思えば、昨日初めて彼を見た時にも時間の割には眠そうな顔をしていた。羽崎によると彼こそが最初のゼツボーグだったらしいが、あの様子でどのようにネガリアンとの戦いを生き抜いたのだろうか。引退時に何かあったのだろうか。まだここに来て2日目の那珂畑だが、ネガリアンの謎が解けていく一方で、今度は対策本部メンバーの謎が増えていくばかりだった。
地下4階。那珂畑がエレベーターを降りると、やはりそこは空室だった。コンクリートむき出しの床と天井、そしてそれらを支える複数の鉄柱。簡易的に天井にぶら下げられた裸電球だけが、暗い地下室でそれらを照らしていた。しかしその光は部屋の広さに対してあまりにも不足しているらしく、エレベーター側以外の壁が見えない。そのせいか、部屋の広さが目視で推定できず、この無機質な空間がどこまでも続いているように錯覚させられた。
裸電球の下、小倉の言った通り、加山と思わしき男が那珂畑に背を向けて座っていた。彼が那珂畑の到着に気付かないのか、あるいは気付いた上で振り向かないのか。どちらかはわからないが、その理由は広い部屋に響き渡るラジオの音声ではっきりした。
『……ここでしたね。最終コーナーでタワーオブブルーが馬群から抜け出したのですが、大きく外に出すぎてしまいました。それを見てか、同時に抜けたストーリーマニアが間を抜け、最終直線まで乗り切りました』
『さて、ここまでが昨日のレースの振り返りですが、やはりそうなると来週の造花賞、本命はストーリーマニアになりますかね』
そこまで黙って聞いていた加山だったが、競馬の解説だろうか、ラジオの音声を遮るように舌打ちした。
「チッ。どいつもこいつも好き勝手言いやがる」
明らかに不機嫌な声色。競馬に詳しくない那珂畑にはよくわからなかったが、少なくとも加山にとって好ましくない結果だったらしい。そしてそれが、彼の話しかけるタイミングを鈍らせた。
那珂畑は恐る恐る加山に近寄り、少し離れたところから声をかける。
「あの……、加山、さん? 先輩? 大悟さん?」
声をかける直前で那珂畑が思い出したのは、加山を何と呼べばいいのかということだった。これまで加山について話していたのは羽崎だけ。しかし彼女のように気安く「ちゃん」付けするのはどう考えても悪手だ。しかもこの状況。やり方を誤れば彼の怒りの矛先が自分に向きかねない。そこで那珂畑は、念のため様々な呼び方を試みることにした。
結果、加山が反応を示したのは「大悟さん」だった。呼ばれた瞬間彼は勢いよく立ち上がり、那珂畑に詰め寄る。
「ああそうだよ大誤算だよ! 早すぎたんだよ仕掛けるタイミングが!」
「あああすすすすみません!」
なぜ怒られたのが何を怒られたのかさっぱりだが、那珂畑は加山の勢いに流されるようにとにかく謝った。その様子を見て、加山はようやく冷静さを取り戻す。彼はまず足元に置いてあった小型ラジオの電源を切ってから、それをスーツのポケットにしまった。
「ああお前か。悪ぃな急に怒鳴って。……まずはアレだ。ゼツボーグになれたんだな。おめでとさん」
無関係の相手に怒りをぶつけてしまったことを恥じているのか、加山は那珂畑から目を逸らし、頭をぼりぼりとかきながら言った。
そして祝福の言葉。那珂畑には正直に受け止められなかったが、世間的に考えれば、ヒーローが増えるのは望ましいことこの上ない。いきなり怒鳴られたこともあり、那珂畑は反応に困っていた。
「ああ、あと呼び方な。加山でも先輩でも、好きに呼べばいい」
「……じゃあ、加山さん、で」
先ほどのやり取りから、大悟さんを大誤算と聞き間違えたのだと、那珂畑は察しがついた。少なくとも大悟さん呼びはやめておこう。彼はこの時そう決心したのだった。
一方で加山は那珂畑をこれ以上怖がらせないように、積極的に話題を振る。
「よし。じゃあ始めるぞ坊主。ここはまあ見ての通りすっからかんの空き部屋だが、俺たちゼツボーグの訓練場としてちゃっかり使ってる。まずはお前の特徴を見る。まあ羽崎からだいたいのことは聞いてるが、やっぱ大事なことは実際に見てみないとわかんねえ。これから一緒に動くためにも、相手のことはちゃんと知っておかなきゃな。もちろん俺のことも教える。聞きたいことがあったら容赦なく聞け。どうせ後で話すが、俺は活動歴が長いからな」
話しながら、加山は頭上の裸電球をいじる。すると連動するように、室内各所の電球が光りだした。さすがに先ほどまでの暗さでは訓練どころではない。
そして新たに照らされた中には、大きな、と言っても一般的な小規模会議などで使う程度のホワイトボードが立ててあった。最初から用意されていたのか、そこはすでに多くの文字と謎の絵で埋め尽くされていた。おそらく加山が書いたものだろう。加山はそれを数回ノックしてから話し始めた
「まずは自己紹介だ。まあ二度目になるが、俺はゼツボーグ7号、加山大悟。自分で言うのもアレだが活動歴4年の超~ベテランだ。お前みたいな新入りも何十人と見てきた」
7号、そして4年。そんなに初期のゼツボーグが今なお活動していることに、那珂畑はまず驚いた。羽崎が彼のことを特例と言っていたことに関係しているのだろうか。まあ長く同じ絶望を抱えられる人だって中にはいるだろう。彼は勝手にそう解釈し、加山の話を聞く。
「で、大事なのはここから。ゼツボーグってのはそいつの体質とか性格で性能が決まる。つまり皆ばらばらでとりとめがねえって話だ。まあ今は比較対象がいねえから俺のを見せるしかねえんだけどよ」
そう言うと、加山は右手を那珂畑の方にかざす。するとその掌から青白い半透明なナイフのようなものが現れた。那珂畑がそれをじっくり見たのを確認すると加山は手を戻し、話を再開する。
「これが俺のゼツボーグ。全身からナイフとかメスみてえな刃物を作る。今は掌だけで事足りてるが、頑張れば片腕全部棘だらけくらいには出せる。けど、そんな全身凶器が暴れていいのかって思うだろ? そこがミソだ」
確かに。那珂畑が初めて加山に出合った時にもこれが使われていたなら、大量の負傷者が出てもおかしくない。
「こいつはアンチネガリアンを集中させて作ったもの。つまり、よほど硬く作らなければ、紙きれひとつ切れないなまくらだ。いや、もうなまくら通り越して空気みてえなもんだな。だが、これがネガリアンに限ってはよく効く。なんつったって抗体の塊だからな。昨日みてえな相手だったらひと刺しでほぼ完全消毒できる。もちろん体から離して投げ飛ばすことだってできる。まあそうすると威力が落ちるから、逃げる奴の足止め程度にしか使えねえんだがな」
加山の説明内容は、それを要約したものがおおよそホワイトボードにも書かれていた。そして加山は話しながら、謎の絵を次々と指さしていく。なるほどあの謎の絵は加山がナイフを投げている様子だったらしい。この男、自分の絵心のなさに気付いていないのだろうか。
ここまで話し終えたところで、加山はホワイトボードのロックを外し、勢いよく裏返した。
「さて、ここからはお前の番だ坊主。小堀か羽崎あたりに聞いただろうが、一度発現しちまえば次から簡単に再現できる。つっても、全身のアンチネガリアンを一気に動かすわけだから、多少気合を入れる必要があるんだがな。覚えてるか? 昨日俺が戦う前にもひと言言ってたろ」
たしか「やるぜ、ゼツボーグ」。この掛け声が加山の合図だったようだ。彼によると完全に真似する必要はなく、要は気合が入れば何でもいいということらしい。
「まあ何事も初めては難しいもんだ。お試し程度でやってみろ」
加山は那珂畑を観察するように、その場に座った。
那珂畑はこの時、あの電気椅子に座った時の感覚を思い出していた。あの時、自分の体に何が起こっていたのかはわからないが、記録映像を見た限りでは友人の自殺を何度も見せられる中で発現したらしい。アンチネガリアンの発生源は絶望。なれば、それをもう一度意識すればいい。
深く息を吸ってから、那珂畑は静かに、しかし怒りか悲しみか、やりきれない感情を吐き捨てるように叫んだ。
「……ゼツボーグ!」
一瞬、あの駅の光景が脳裏をよぎる。しかしそれは本当に一瞬の出来事で、那珂畑の意識は正常を保っていた、そして記録映像と同じように体中から黒い糸が飛び出し、瞬く間に体表に集束する。気がつけば、記録映像でしか見てなかったゼツボーグ98号の姿に、自分がなっていた。
感覚に特に変化はない。衣服の上からゼツボーグが覆っているためか、外見の割には寒くもない。大きなガスマスクを付けていても、呼吸は自由だった。
加山はその姿を舐め回すように見る。そしてひと通り眺め終えたのか、ホワイトボードの方に戻り、マーカーで大きく黒と書いた。
「羽崎から話は聞いてたが、マジで真っ黒だな。夜道で見えなさそうだ」
最初に気にするところがそこかい。那珂畑は内心そう突っ込んだが、どうやらこの黒さが重要らしい。加山はボードに書いたたった一文字を指さして話を続ける。
「ビデオで見ただろうが、ゼツボーグの合金ってのは基本的に黒だ。誰がやっても、最初はあんな感じで黒いのが体中から飛び出す。だがな、それが安定するとそれぞれ違った色になる。俺のが青かったみてえにな」
話の途中で、加山は再び右手からナイフを出した。今度は先ほどのものより色が濃い。硬く作ったということだろうか。そして彼はそれを、何のためらいもなく那珂畑の腹にひと突きした。
知らない人が見たら明らかに殺人現場だが、ナイフはその先端が那珂畑に触れた所で止まった。それは加山のナイフに物理的な殺傷能力がないこと、そしてそれ以上に、那珂畑のゼツボーグが防御面で優れていることを証明していた。
「この通り、黒はゼツボーグの合金本来の色だ。柔らかくても合金だから、黒に近いほど防御力が上がる。つまりお前は、全身ガッチガチのメタルマンってところだな」
那珂畑はこの発言を受けて、心の底から失望した。それに反応してか、彼を覆うゼツボーグの形状が僅かに乱れる。
「どうした急にがっかりしたような顔して。もしかして俺みたいに武器持って大暴れしたかったか?」
そうではない。むしろ真逆だ。結果からして、那珂畑は自らの目的に最も適さない能力を手に入れてしまった。殺されるために踏み出したヒーローの力が、まさか圧倒的な防御力とは。なんたる皮肉。なんたる悪運。いや、ゼツボーグの姿が本当にその人の絶望を反映したものであるならば、自分は心の底では死にたくないと思っているのだろうか。期待外れの変身だった。たったそれだけのことで、那珂畑は自分が信じられなくなった。
「まあそう気にすんな。誰だってやりたいこととできることは大概ずれてる。お前はその頑丈さを活かせる戦い方を探せばいい」
虚ろな表情の那珂畑に、加山はその肩を軽く叩いて安心させようとする。これが功を奏したのか、那珂畑の思考は再び冷静に動きだした。
先ほど、加山は自分の掌だけでナイフを出していた。頑張れば片腕全部とも言っていた。つまり、ゼツボーグは部分的に変身と解除を切り替えられる。ならば、この漆黒の鎧にも自ら隙を作ることができるのではないか。彼はすぐにその疑問を加山にぶつけた。
「あの、加山さん!」
「おっおう急に元気になったな」
那珂畑の変わりように、加山は驚いて一歩引き下がる。
「ゼツボーグって、体の一部だけ使ったり使わなかったりできるものなんですか!?」
その質問に、加山はしばらく考えるように目を逸らした。そして軽く息をついてから、どこかがっかりした様子で答える。
「急にどうしたと思ったらそんなことか」
そんなこと、と言うからには簡単なことなのだろうか。これからその方法を伝授してもらえるという期待に、那珂畑の胸が膨らんだ。
「そうだな。答えから言えば、できる」
那珂畑は心の中で全力のガッツポーズをとる。
「ただ、それはちと特別なことでな。できるようになるまで時間はかかるし、方法も今は教えられねえ。俺の場合、部分使用が基本スタイルだが、それができるって言うより、それが限界なんだ。やっぱ長くやってるからかね。昔はそれこそ全身凶器のサボテンみたいなやつだったんだけどな」
加山の答えに那珂畑は少し残念な反応をした。しかし彼のような成功例がある以上、不可能と決まったわけではない。時間をかけてでも、その方法を知る価値はあると彼は判断した。
「まあ、お前の場合はその真っ黒ボディで体当たりするだけでけっこうな威力になりそうだけどな。心配すんな。俺のためにも、新人はそうやすやすと死なせねえ」
できれば死なせてほしいのだが。那珂畑の願いはわずかな希望となって加山とすれ違った。
それから後は、接敵時の対応や軽い戦闘訓練を受けただけで、たいして疲れるようなこともなく加山の指導は終了した。
「なんだかんだ言ったが、結局は実践あるのみだ。俺は見ての通り攻撃一辺倒だからな。頼りにしてるぜメタルマン」
その言葉を最後に、加山は先にエレベーターに乗ってどこかへ行ってしまった。那珂畑の残された地下4階はいちおう訓練所として使えるとのことなので、彼はしばらくゼツボーグの変身と解除、多少の素振りを繰り返した。
ここまで発現だ変身だ使用だとゼツボーグになることに表記ゆれがあるが、何せ生理現象の一部のようなものだから、筆者としても表現に困る。いちおう基本的な全身での発現を変身と統一しておこう。
その後、那珂畑は小堀が買ってきたコンビニ弁当で昼食を済ませ、宇宙開発局内を隅々まで案内されてからようやく解放された。
加山に連れてこられてから、ゼツボーグ初変身時の気絶、その後の睡眠を含めておよそ16時間。那珂畑にとって、この日はかつてなく長い時間に感じた。
思い返せば、ヒーローというものはなんだか地味で複雑なものだと彼は感じた。彼が、いや多くの日本男児が幼少期に見るヒーローは、テレビ番組の放送初回で怪人に襲われながら突発的に変身するものだ。しかし現実はどうだろうか。怪人に襲われた時には何もできず、初変身は電気椅子の上。一日かけてやったことと言えば、ほとんどが座学のようなものだった。ヒーローに隠し事はつきものだが、その説明がこうも長ったらしいものだとは、誰も考えなかっただろう。しかもこれから加山のような部分使用について勉強しなければならないのだから、まだやることは多そうだ。そう考えると、やっと家路についた那珂畑の足取りは少し重くなっていた。
ちなみに、送迎などはない。またしても電車を乗り継いで2時間。彼がシロヤマ地区に戻る頃には、すでに日が沈みかけていた。
最寄りのバス停から自宅まで徒歩10分ほど。ようやく見慣れた光景に戻った那珂畑は、道の途中で大きく息を吸う。
しかし、それは一瞬で終わった。
「だーれだ?」
何者かに背後から手で目隠しをされた。とっさの出来事に那珂畑は対応できず、もう片方の手で両腕ごと体を拘束される。相手の体が背中に密着した状態で、いつ足元をとられてもおかしくない体勢になった。
それは中性的な声だった。誰だと言われても那珂畑には心当たりがないし、声だけでは若いこと以外に性別すらも判断できない。
「……知らない」
少し間を置いてから、那珂畑は冷静な声で答える。すると、彼の目を隠していた方の手が離れた。振り向くとそこにはキャップを深く被った上に大きなフードで覆われており、日の向きもあって顔が良く見えない。だがその反応を気にする様子もなく、声の主は一方的に続ける。
「嫌だなあ、せっかくのご近所さんなのに憶えてくれてないなんて。それとも、女の子にハグされて緊張しちゃった? 童貞君」
悔しいことに図星である。話し方から察するに少し年下の女性。しかも足元を見ると背伸びしているあたり少しかわいらしささえ感じてしまった。体が密着しているせいか、どこかいい匂いもする。しかしやはり、那珂畑には心当たりがない。
「じゃあ、これならどうかな」
先ほどまで那珂畑の目元を覆っていた手が、今度は彼の首元に忍び寄る。そしてその手には、折り畳み式の果物ナイフのような物が握られていた。
殺される。那珂畑にとってそれは願ってもないことだが、疲労と急転直下のあまり彼の脳は素直にそれを受け入れられなかった。さらに、次のひと言が彼の警戒心を刺激する決定打となる。
「僕は、ネガトロンだ」
那珂畑と別れた後、加山は自らの定期検査を受けた。
「……やはり、減少傾向に変わりはないね。まだ続けるかい?」
「ああ。頼む」
検査結果の印刷された紙を机に置き、羽崎はため息をつく。
「長生きのためとはいえ、ここまで来ると私も気が引けてくるよ。大悟ちゃん、本当にいいのかい?」
聞きながらも、羽崎はその答えを知っているかのように薬品の入った注射器を加山に渡す。
「もちろんだ。期待されちまったものは、ちゃんとやらねえとな。せめて、あの坊主が立派になるまでは……」
加山は慣れた手つきで注射器を自らの腕に刺し、ためらいなく薬品を注入する。針の痛みか薬品の作用か、その顔がわずかに歪んだ。
「存在しない人間をここまで役立ててくれたんだ。むしろ感謝してるぜ」
空になった注射器を専用の袋に入れ、検査結果の紙も受け取らずに加山は居住スペースの自室へと向かった。
「俺も戦うぜ。タワー」
誰に言うでもなく、ただその一言だけが彼の口から漏れた。




