第三十八話 九頭竜の息吹 クロスボーグ・その三
説明しよう。ハコネの温泉に含まれる火山成分、その代表とも言えるものが硫黄ガスである。
硫黄は基本的に人体に有害な成分だが、少量であればその刺激をもって血行の促進や体調不良の改善補助など、様々な健康的効果をもたらす。また、大量に硫黄が付着した大地は黄色や黄緑色に変色し、草木の生えない地獄のような環境でありながら、その光景はハコネを代表する絶景のひとつに数えられている。
だが、油断してはいけない。前回も話したことだが、昔話によればすべては竜の仕掛けた罠。どのような災いが旅人を待ち構えているか、わかったものではない。
そして、宇宙開発局からやって来た温泉組。彼らもまた、その罠のひとつに足を踏み入れていた。
渋滞である。
まだ正月休みのこの時期、有名な観光スポットであるハコネ町O区域には、全国からおびただしい数の旅人が集まっている。そして、彼らが並ぶのは細長い山道。電車やロープウェーならともかく、車で来ようものなら数時間の行き止まりを考慮しなければならない状況になっている。
目的地まではるか遠く。まだ山道に入るかどうかという地点で、温泉組を乗せた車は立ち往生をくらっていた。
「これ、進みそうにないですねえ……」
ハンドルを握る局員が、しびれを切らしたように口を開く。
何も、この渋滞すべてがO区域を目指しているわけではない。この先の分岐点から、他の観光スポットや宿泊施設にもつながっている。そのため、この渋滞はそれらの分岐点である程度解消される。逆に言えば、そこまでたどり着けなければ終わりということだ。
今なら、まだ近くに登山列車の駅がある。話し合いの結果、一行は近くの駐車場に車を置いて、電車で山を登ることにした。
当然、荷物もほとんど車内に置いて行くのだが、そこはやはり歴戦の局員たち。普段の警戒ムードが振り切れないのか、何人かはネガリアン対策のタブレット端末やドローンを持ち出していた。ちなみに、鳴島もそのひとりである。
出発前にもハコネの安全性は確認済みだし、人の出入りが激しい観光地では、ネガリアンの感染は起こりにくい。旅先から持ち帰ったネガリアンが原因の集団感染はよくある話だが、その場で急にネガテリウムやネガトロンに変貌することはまずない。よって、温泉組にゼツボーグがいないからと言って身構える必要はほとんどない。が、まあ持っていて安心というのならそれに越したことはないだろう。休養のための旅行なのだから、気休めがなければ意味がない。
こうして、一行は登山列車とロープウェーを乗り継いでようやくO区域へとたどり着く。列車はやはり他の観光客で満員だったが、ロープウェーは搭乗人数に制限があるため、少し待てば快適に移動することができた。車を降りるという選択はどうやら正解だったらしい。
そして何より、ロープウェーから見渡せる活火山の絶景に、一同は驚嘆の声を漏らした。広大な斜面の各所からはガスが噴き出し、地面に特有の色を付けている。地球という巨大な活動体の片鱗を覗かせるその光景は、人々を感動させると同時に各自のスケールの小ささを感じさせた。
この景色を見た時、鳴島はふと考えた。もしもこの場所にすべてのネガリアンを放り込んだら、戦いは終わるのだろうかと。
これまでに、ネガリアンを単体で捕獲してそれを無力化させる実験は何度も行われた。しかし、どれにもアンチネガリアン以上の効果は見られず、いまだに消毒の糸口はつかめないままでいる。だが、ネガリアンもひとつの生物。高熱への耐性はなく、ポジトロンがそうしたように、熱や炎を使った攻撃は有効だった。まあ人間も耐えがたいほどの高温でないといけないため、戦闘以外での実用性には欠けるのだが。
それでも、一度考えずにはいられなかった。水上のように、悪魔のような選択が人間の勝利につながるのなら、感染者をすべて焼却してしまうという手もある。感染拡大初期なら、そのような選択も取れたかもしれない。しかし、ロックダウン内ほとんどの人間が無症状で感染してしまった今、彼らをすべて焼却処分するということは、すなわち水上の最終手段と同じである。それだけは、どうしても避けなければならない。ここに来て鳴島は人間の小ささ、弱さ、遅さを再確認させられた。
そして、ロープウェーは終点に到着する。風通しがよく、ガスの濃度が比較的薄い場所。そこには食堂や土産物店、展望台などが集められ、O区域最大の人気スポットとなっている。
ここでしばらくの自由時間。ということで局員たちは一時解散したのだが、解散直後、鳴島の様子が変わり始めた。
移動に疲れたため、他の局員より遅れて動き出した小堀だけが、彼女の変化に気づいた。車酔いか、人の多さに当てられたのだろうか。鳴島はおぼつかない足取りで、目はどこか遠くを見たまま虚ろになっていた。
助けを呼ぼうにも、局員たちはすでに人混みの中に消えてしまい、すぐに連絡がとれそうにない。小堀はとりあえず鳴島の腕をかつぐ形で、付近の建物に駆け込んだ。
火山にある施設なのだから、当然、万が一に備えた避難所や救護設備が整えられている。小堀は現地の職員に状況を話し、そこで鳴島を休ませることにした。救護所の簡易ベッドに降ろされた時には、鳴島は顔から血の気が引いた状態で、意識を失いかけていた。
「彼女は私が診る。すまないが、しばらくふたりにしてくれないかな」
小堀はそう言って、職員を救護所の入り口前まで追い出した。最初はわからなかったが、鳴島のこの症状は、この場の誰よりも小堀がよく知っている。彼は横たわる鳴島の髪をそっとかき分け、その隙間を覗き込む。そこには、彼女のゼツボーグ、その触角がわずかに飛び出ていた。落涙態の反動による症状である。
ゼツボーグの制御を失い、自らの意思とは無関係に発現する。この症状は、突発的には起こらない。必ず何かしらのきっかけがある。
ゼツボーグは、その元となるアンチネガリアンは、ネガリアンの存在に敏感である。そのため、感知器にもアンチネガリアンが利用されている。つまり、アンチネガリアンを多く持つゼツボーグたちは、言ってしまえば服を着た感知器。意識せずとも、ネガリアンに対して磁石のように反応を示してしまう。特に感覚の鋭い鳴島であれば、なおさらのこと。目的のために気配を消すネガトロンなどは例外だが。
要するに、鳴島がこの症状を起こしたということは、付近に重度のネガリアン感染者がいるということ。小堀は自らの油断を後悔した。人の集まる場所にこそ、ネガトロンが潜伏している可能性を見逃していた。
しかし、奇妙だ。局員たちが最後まで警戒し続けたにもかかわらず、何の報告もなし。本部でネガリアンの反応を監視しているはずの羽崎たちからも、何ひとつ連絡がない。そんな状況で、なぜ鳴島だけが発症したのか。ひとりで考え込んでも仕方ない。小堀はとりあえず、局員たちに救護所に集まるよう連絡した。
鳴島が目を覚ますまで、そう時間はかからなかった。温泉組全員がその場に集まるのとほぼ同時だろうか。彼女はまだ苦悶の表情を浮かべながらも、意識を取り戻した。救護所をほぼ占領する形になった局員たちに、一旦の安堵感が流れる。
小堀が体を支えようとするのを手で払い、鳴島は自力で上半身を起こす。
「鳴島君、話せるかい? 何があったんだ?」
「……ネガリアン、です。至急、本部に……」
鳴島は片手で頭を押さえながら言う。小堀が確認するように、タブレット端末を持った局員に目をやるが、何か見つけたような様子はない。やはり、鳴島だけが何かに気づいているようだ。
「司令、本部につながりました」
他の局員が本部に連絡をかけていたようで、持っていた端末を小堀に渡す。画面には、テレビ電話で宇宙開発局の様子が映し出されていた。
「ありがとう。羽崎君、そっちで何か見つけなかったかい?」
しかし、未知の状況に焦る小堀とは逆に、司令本部は平和な様子だった。
『うん。いぜん問題なし。そっちはどう、楽しんでる? あっツクモちゃんそのカードまだ片づけないで』
いちおう警戒のための留守番なのだが、どうやら羽崎たちは遊んでいたらしい。小堀は怒りを抑えながら、話を続ける。
「鳴島君の症状が出たんだ。でも感知器に反応がない。そっちから何か見えるかと思ったんだけど」
『鳴島ちゃんが!? わかった。今のところ出動レベルの反応は出てないけど、詳しく調べてみるよ。えっと、ツクモちゃんもこっちに。カードはそのままでいいから! あと逸ちゃんも呼んできて』
小堀は周囲の局員にも、情報収集を続けるよう目線で指示を送る。しかし、それも途中で入り口の扉が開く音に阻まれた。
現れたのは、先ほど小堀が話をした施設の職員。どうやら、外のガス濃度が基準値を超えたため、来客全員を一旦屋内に避難させるらしい。ガスの影響で体調不良者も出る可能性があるため、救護所を空けてほしいとのことだった。
あまりにも想定外の事態が重なっている。ドローンはあるが、連絡用のタブレットやインカムは人数に対して数が少ない。小堀は鳴島の介抱にあたるため残るとして、他の局員たちには下山するよう指示を出した。車まで戻れば、完全ではないが観測機材などが手に入る。
指示を受けて、局員たちはこれを機に下山する観光客に紛れてO区域を離れた。
そして数分。まだ羽崎からの続報はない。小堀は通話を止めずにいるが、ガスに包まれた山間部のため、通信状況はあまり良くない。いつ通信が途切れるとも知れない状況で、小堀はひたすら考えた。
感知器に見つからないネガリアン。鳴島の症状が完全に回復しないところからも、まだそれは近くにいると考えられる。いったいどこに、どうやって身を潜めているのか。おそらく鳴島だけがその場所だけでも嗅ぎ当てられるのだろうが、今の彼女を動かすわけにはいかない。仮に動けたとして、ゼツボーグ不在のこの状況。下手に相手を刺激すれば、周囲の観光客を巻き込んで重傷を負わされかねない。せめて、ネガリアンの存在さえ確認できれば、本部から那珂畑とツクモを呼び出すことができるのだが……。
「……私、行きます」
小堀の思考を止めたのは、まだ息の乱れた鳴島の声だった。小堀は慌てて彼女の両肩を持って、立ち上がろうとする体を止める。
「駄目だ。君はとても動ける状態じゃない。君自身が誰よりもわかっているだろう? ここは私たちで何とかするから、君は体を休めるんだ」
違う。この状況こそ、鳴島が最も望まない状況だった。こうならないために、彼女はいち早い復帰を望んでいた。そのためならば、多少無理をしなければいけないというのなら、動く。動きたい。彼女はその意志だけを力に変えて、小堀の隣に置かれた自分の荷物に手を伸ばす。
「ポジ、トロン……」
鳴島はその中から、半分だけ持ってきたナノマシンを取り出す。小堀は彼女のひと言で、彼女がこれからやろうとしていることに気がついた。志村の使っていたポジトロンには、パイロット保護機能がある。それを使えば、火山ガスの中でもある程度自由に動ける。つまり、鳴島はこのナノマシンをポジトロンとして起動し、自らネガリアンのもとへ行こうと言うのだ。
同時に、小堀は那珂畑の話を思い出した。鳴島のゼツボーグをポジトロンで補完する。おそらく鳴島は、今まさにそれを実行しようとしている。だが、プログラミングも稼働実験もしていない状態から、ぶっつけ本番でそんな無茶を看過できるはずもない。
「待つんだ鳴島君! 今は待つんだ。私たちに見つかっていないということは、向こうもまだ動いていないということ。この状況で下手に先手を打ったら、敵に弱点を晒すようなものだ。いいかい、今は落ち着いて、連絡を待つんだ」
違う。ネガリアンの存在、その場所、想定される性質に気づいた鳴島は、これが一刻を争う状況であると認識していた。だから、ポジトロンでもゼツボーグでも、使えるものは何でも使って動かなければならない。そのためであれば、たとえこの場で自分が壊れても構わない。
ネガリアン、人間に対してある意味で自然の存在であるそれらに対抗するため、鳴島は自分というより少ない犠牲を選んだ。勝利のためなら、少数の犠牲を意図的に発生させることもいとわない。悪魔の正しい選択を、鳴島は水上から学んでいた。
そして、絶望は、希望は、反転する。




