第三十七話 邪魔者がいなきゃ始まらない クロスボーグ・その二
説明しよう。温泉と言えばハコネ。ハコネと言えば温泉である。古くから都へつながる街道の中継地として、あるいは彼らの宿場町として栄えたこの地は、同時に日本有数の温泉地でもある。そのため、今なお多くの観光客に好まれる名所であり、周囲には公園や美術館、様々なグルメなどで賑わっている。
しかし、そういった歴史ある場所にこそ、暗い逸話もある。温泉地であるということは、すなわち火山地帯であるということ。ハコネ町は地震や火山ガスによる健康被害など様々な災害が多く起こっており、火山の仕組みが解明されていない昔話の時代、人々はそれらを山に潜む竜の仕業と恐れていた。
昔話によると、この竜には首が9本あり、温泉の恵みをもたらす一方で、その魅力におびき寄せられた人々を苦しめて遊んでいたという。そして、その竜はとある超人に敗北し、山の地下深くで長い長い眠りについたというのが物語の結末である。
しかし現在、それらの出来事は作り話であり、すべては単なる火山災害であることが科学的に証明されている。竜も超人も初めから存在せず、昔話はそうとしか言いようのない、理解を超えた出来事を無理やり説明していたに過ぎない。
だが、この物語が何の教訓もない愚か者の妄想かと言われると、そうでもない。
人間は、どうやっても自然にはかなわない。自然に勝つのは、人間すら知らない超自然の存在だと、その物語は証明している。
そしてその昔話に沿って言うならば、竜は今なお山の下で眠り続けている。炎を伴うほどの激しい寝息をたてて。
宇宙開発局、ネガリアン対策チームによる年明け温泉旅行。その行き先は近場ということでハコネに決定した。そして公正なるくじ引きの結果、羽崎、那珂畑、ツクモを含む局員数名が本部に留守番ということになった。まさか言い出しっぺの羽崎が残されるとは。こればかりは運の問題としか言えないが、本人はかなり不満そうにしていた。なお、鳴島が家を空けるということで、ミカンの世話は隣部屋の那珂畑が担当することになっている。
今のところ、目的地周辺に指定監視ネガトロンはいない。感知器からもネガリアンの反応は弱く、旅先で襲われる心配はないということで、小堀や鳴島たちは準備を進めていた。
その中で鳴島は、荷物にナノマシンと研究用のノートパソコンを入れていた。旅行先にまで仕事を持ち込むことはないと止められたが、彼女なりにうまく進んでいる研究を、中断したくないらしい。話し合いの結果、彼女はナノマシンを半分だけ旅先に持って行くことにした。
「念のため、これはふたりに預けて行きます」
鳴島は残った部品をさらに半分に分けて、那珂畑とツクモに渡した。鳴島が提案したジェット噴射機のプログラミングはすでに完了しているが、まだ実用に向けた実験はしていない。そのため、使えるのは一度きり。旅行中に使う機会がないとも言い切れないので、ふたりはそれを快く受け取った。
何よりも万が一の際に備えて、ポジトロンよりも早く現場に急行する移動手段を、ふたりは求めていた。科学衛生局主導でことを進められれば、その場所が再び対特区計画の候補地に利用されかねないからである。
宇宙開発局は本来の仕事において、他の研究施設に局員を輸送するための車両が多く配置されている。これまでは、ヒーローの出自を隠すために利用してこなかったが、旅行となればそのような事情を気にすることなく利用できる。よって、現地までの移動手段は簡単に確保できた。
また、名目上は対特区計画の協力者ということで、局には政府から少なくない報酬金が渡されていた。少々気乗りしない話だが、今回の旅費にもそれがわずかながら使われることになる。対特区計画の報酬を、計画否定のために利用する。こういった意趣返しは羽崎にとって気分が良かったのか、彼女は容赦なく無駄遣いするようにと念を押していた。
ハコネ町温泉街2泊3日。短いながらも有意義になる予定の温泉旅行が、ついに始まる。
初日。最初の出来事は、温泉組が出かけてから数時間後のことだった。
那珂畑のスマホに、一件のメッセージが届いた。志村からである。
『少しだけ、入れてくれないか』
主語も何もない、からっぽなメッセージだったが、那珂畑はその意味におおよそ気がついていた。少なくとも、対特区計画絡みの話だろう。
『いいぜ。地下5階にいる』
水上からの連絡がないあたり、おそらく志村個人の行動。いや、那珂畑の予想が正しければ、すでに志村は科学衛生局での居場所を失っているに違いない。志村に対する良からぬ感情が消え去ったわけではないが、那珂畑としては彼への同情の方が勝っていた。
そして、ほどなくしてエレベーターから志村が現れた。羽崎やツクモにはメッセージの後に那珂畑から話を通しておいたのだが、ツクモはそもそも彼との面識がなく、羽崎は顔も見たくないという理由で、先に別室へと避難していた。結果、志村を出迎えるのは那珂畑ひとりだけという異例の状況になったのである。
「……よお」
その那珂畑も、どんな顔で何を話せばいいのかわからず、気のない挨拶から始まった。
志村の服装は、外の寒さ以上の厚着に、大きなバックパック。やはり科学衛生局に捨てられたと、その見た目と覇気のない表情が物語っていた。
「とりあえず、座りなよ。コーヒー飲むか?」
那珂畑は温泉組のひとりが使っていた席に案内しようとするが、志村は首を横に振った。
「いや、長話しに来たわけじゃないし、飲み物は持ってる」
志村が自らのバックパックを指さす。そのサイドポケットには、小さな水筒が差し込んであった。が、見た目通り重いのか、彼はその場で足元にバックパックを置いた。
「お別れを言いに来たんだ。どうせならみんなに言いたかったけど、やっぱりここじゃボクは嫌われ者みたいだね。キミだけでもいてくれて嬉しいよ」
「そ、そいつはご丁寧にどうも……」
大半の席に人がいない光景を見て、志村は一段と表情を曇らせる。まさかその理由が温泉旅行など口が裂けても言えない那珂畑は、つい彼から目を背けた。
「水上さんから話があったと思うけど、状況が変わったんだ。ボクはもう必要ない」
科学衛生局からすれば、変わったと言うより進んだと言うべきだろうが、その言葉を選ばないことからも、志村が対特区計画に反対の立場だったことが推察できる。
「ああ。アツギの件ならひと通り聞いたし、お前がそうなることは勝手に予想してたよ」
「だろうね。やっぱりキミは嫌なところ勘ぐってくるよ」
少なくとも、この場においてふたりは敵対関係にはない。むしろ志村の立場上、もう無関係とさえ言える。だが、そうなるまでの経緯がゆえに、あまりにも気まずい。宇宙開発局としてはそれなりに志村に近いと自認していた那珂畑だったが、とても一人では背負えない空気の重さを感じていた。
「でも、キミたちが知らないことがまだある」
そう言って、志村はズボンのポケットからスマホを取り出し、その画面を那珂畑に見せる。表示されていたのは、科学衛生局が記者会見と同時に公表した、ボマーとSIMsの戦う映像だった。
もちろん、那珂畑はこの映像を何度も見たし、これが捏造であることは局の誰もが知っている。当然、志村も知っているはずなのだが、スマホを持つ彼の手は震えていた。
「これ、ボクなんだ。ボクの訓練動画を使われたんだ」
志村の声は、涙を堪えるように力が入っていた。
彼の言う通り、フルCGの映像にしては臨場感とリアリティに満ちている。事前に何かまったく同じ動きのものを撮影していなければ、この映像は作れない。那珂畑はそこに違和感を覚えていた。SIMsは志村の命令なしでは複雑な戦闘ができず、またこのような大破壊を志村が命令するとも考えにくい。だが、ポジトロンとほぼ同じ外見のSIMs。志村の映像を流用すれば、同時に複数体が複雑な動きをしている様子も再現できる。
要するに志村は、対特区計画実行以前からその準備に利用されていた。そして志村本人は会見を見るまで自分の立場に気づくことすらなく、現在その悔しさに身を震わせているということである。
「まあ、こんなこと知ったからなんだって話だよね。ごめん、ちょっと八つ当たりしてた」
負の感情を持たないと言われていた志村も、ここまで来ると悪意が出るのだろうか。あるいは、やり場のない感情を八つ当たりという言葉に詰め込むことで、自らの醜悪さを表しているのか。
「……災難、だったな」
志村の伝えたいことがいまいち掴めない那珂畑からは、その言葉しか出せなかった。
が、話がひと区切りついたことで、ようやく那珂畑は次の話題を自分から切り出す。
「それでお前、これからどうするんだ? まさかゼツボーグにでも転職しに来たか?」
この期に及んでジョークを言い出したと取られたのか、志村は暗い表情ながらも、少しだけ吹き出すように笑った。
「いやまさか。さっきも言ったけど、ボクはお別れを言いに来たんだ。もうキミたちと一緒には戦えない。戦いたくない」
志村の目は溢れんばかりの涙を溜めながらも、まっすぐに那珂畑を見据えていた。そしてスマホをズボンに戻し、今度は上着の内ポケットから1枚のメモ用紙を出して見せる。
「せっかくふたりきりだから、キミには伝えておくよ。ボクはこれからここに行く。お別れって言ったけど、ヒーローをやめるわけじゃない。ボクはボクで戦う。いつかSIMsもゼツボーグも飲み込んで、ボクこそが希望のヒーローだって、ちゃんと証明するんだ」
志村の立場からであれば、内部告発という形で対特区計画を公表することもできただろう。科学衛生局としては、それをさせないためにいち早く彼を切り捨てたかったに違いない。しかしそれをせずに、あくまでもヒーローとして戦い続ける。科学衛生局のポジトロンがなくとも、志村は志村のままだった。その明るさが、やはり那珂畑の性に合わなかった。
「なら、さっさと行けよ搾りかす。言っとくけど、あの計画のせいで俺たちも火がついたところだからな」
那珂畑は志村の肩を強く叩き、そのままエレベーターまで押し返した。
性に合わない。そもそも志村の性格が苦手だし、希望のヒーローを名乗る者が涙を見せるなど、気に食わない。だが、それでいい、それがいい。ある意味で共通の敵が増えたことで、那珂畑は志村との摩擦にどこか心地よさを感じ始めていた。
一方その頃、同局地下6階。羽崎とツクモは志村が帰るまでの暇つぶしにと、旅行に持って行く予定だったトランプやカードゲームを広げていた。
「はぁいスキップアンドスキップ、そしてフォードローでウノ!」
「ちょっハザキ大人げないよそんなの終盤まで抱えてー」
案外楽しそうである。
「ふふん、副指令の戦略技術なめんなよ~。あ、色は赤でね」
羽崎の手札は残り1枚。これを消費すれば彼女の勝利なのだが、果たしてそれが指定通りの赤なのか、あるいはそれまで消費されたカード枚数を把握してのブラフか。ツクモは4枚追加した手札からどれを出すか、迷っていた。
「……にしても、向こうは今頃O区域かねー。いいなあ私も行きたかったなあ!」
このゲーム中に少なくとも3回、羽崎は大人げなく同じことをわめいていた。
温泉組初日の目的地、O区域。そこはハコネでも特に火山活動が活発な場所であり、吹き出るガスによって変色した地面は、まさに大自然の絶景と呼ばれている。だが、おそらく羽崎が羨ましがっているのはそれではなく、その景色を眺めながら食べられる温泉卵のことだろう。あの卵はどういう理屈か、あの場所でのみ格別の味を堪能できる。この味覚の変化だけは、宇宙開発局の総力をもってしても解明することはできない。これも大自然の神秘である。
「仕方ない。赤のツードロー!」
さすがにツクモも羽崎の駄々に付き合いきれないようで、彼女を無視してゲームの方に集中していた。
しかし、羽崎は急に静かになったかと思うと、今度は何もない一点を見つめて動かなくなった。
「ちょっと、ハザキ~。ほら2枚、そっちの番だよ~」
ツクモが急かしてから、さらに数秒、ようやく羽崎が動き出した。
「ああっごめん。ちょっと虫が入ってきた気がしてね」
「大丈夫? 温泉行けなかったからってへそ曲げすぎでしょいくらなんでも」
慌てて山札から2枚引く羽崎を、ツクモは不満そうな目で見た。ツクモにとっては、温泉どうこうよりも、こうして羽崎と遊んでいる方が楽しいのかもしれない。
そして、その部屋は地下6階。相当な方向音痴の虫でも侵入できる場所ではない。だがその時、この宇宙に虫のようなものが入り込んでいたことは事実である。それが害虫か益虫か、それとも取るに足らないただの羽虫か。まだ誰も知る者はいない。




