第三十二話 戸倉麻耶乃の教訓
どこからが、始まりだったのだろうか。
いや、始まりなどない。と言うか、どこでもいい。
ただひとつ学んだことは、子供が泣く時、大人はよく笑うということである。赤ん坊が大きな産声を叫ぶ時、母親は誕生の喜びに笑う。葬式で親族が悲しみの涙を流す時、添えられた遺影は笑みを浮かべている。そして教え子がいじめられる時、教師は愉悦に笑っていた。
戸倉麻耶乃、中学3年生。彼女はいわゆるいじめられっ子だった。もともと人当たりの強い性格で、次々と更新される学校のコミュニティに馴染めず、あっという間に孤立。校内カースト上位の女子と比べても劣らない美貌もあって、彼女は格好の攻撃対象となった。
同級生はもちろん、大人が助けてくれることもなかった。それどころか、いつしか担任の教師も情報係としていじめに参加していた。
一方で、戸倉は男子生徒からの人気が高かった。ツインテールのクールな美少女という条件だけで、どれほどの男子中学生が一目惚れするだろうか。ゆえに、彼女は何度も恋の告白を受けた。しかし、よく知らない男と恋愛だの友達からだのといった関係に興味はなく、告白した男子たちは次々と玉砕されることになった。
そして、戸倉へのいじめが激化する中、またしても彼女に男子生徒から呼び出しがかかった。放課後の校舎裏。どうせまた同じ告白だろうと興味のない顔で待っていた戸倉の前に現れたのは、校内カーストトップ、多くの女子に狙われる大人気の男子生徒だった。
立場はどうあれ、彼も他と同じ男子。それまでと似たようなやり取りを想定していた戸倉は、彼からの提案に驚かされる。
「俺が、お前を守ってやる」
恋愛ゲームだったらクライマックスのひと言。決定的一撃となる必殺技だろう。しかし、戸倉は彼の顔を見てその真意に気づいてしまった。
彼は、戸倉が欲しいのではない。校内で孤立する彼女を救ったという栄誉、数多の男子を切り捨ててきた彼女を手に入れたという羨望が欲しいのだと。カーストトップの余裕ゆえに生まれた傲慢を、戸倉は見逃さなかった。そして、彼女はまたしてもその男子を切り捨てた。
だが、それこそが彼女にとっての致命的ミスだったのかもしれない。カーストトップの男子ですら手が付けられないという話は瞬く間に校内中に広がり、女子からの逆恨みは激化。彼女たちにそそのかされた男子や、かつて戸倉に告白を断られた男子からも集中砲火が襲いかかるようになった。
戸倉麻耶乃は人間ではない、社会性に欠けた排除すべき異物。燃やして捨てるか、徹底的に叩いて矯正するか。戸倉に対する校内の評価は、もはや集団心理として出来上がっていた。
だが、そんな彼女も完全に孤独だったわけではない。新しいコミュニティに馴染めないということは、逆に古い付き合いには強いということ。彼女には、幼馴染の少年がいた。住んでいた家がたまたま隣同士だったというだけの理由だが、物心ついた頃からふたりはまるで兄弟のように仲良く過ごしていた。
子供が泣く時、大人はよく笑う。共に泣いてくれるのは、そばにいる同じ子供にしかできない。その幼馴染の存在が、たったひとつ戸倉を支えていた。
だが、時として絶望は他のあらゆる感情を押しのけて精神を支配する。
後から冷静に考えれば、衝動的だった。なぜあのようなことをしたのかと聞かれれば、気がついた時にはそうなっていたとしか答えられない。
ある日の体育の授業中。その回は縄跳びの授業だったので、全員がロープを持っていた。そして自由練習の時間、戸倉はクラス内の上位グループに属する女子の首を自らのロープで絞め上げた。
事前に殺気や不自然な行動もなく、各自がばらばらに動いている状況だったので、授業担任の教師も対応が遅れた。絞められた女子はその場で気絶したことでロープから逃れ、一命をとりとめた。
その後、職員室で尋問を受けた際、被害者、学級担任、生徒指導主任ら全員が、戸倉の攻撃的な性格に問題があるという結論で一致した。その時、戸倉は初めて自分が社会性に欠けた異物であることを認識した。自分がこのまま育てば、あの幼馴染にも悪影響をもたらすと考えるようになった。
戸倉の問題とは別に、少し前から町では奇妙な噂が出回り始めていた。なんでも、同じ一日を何度も繰り返している地域があると。そしてその範囲は少しずつ広まっていると。
その奇妙な現象の範囲が彼女の住む地域まで及んだのは、8月後半。夏休みが終わろうとしていた時だった。
その日、戸倉は幼馴染の少年とふたりで近所を遊び歩いていた。学校のことや自分のこと、余計なことを忘れて純粋に楽しめるこの時間が、彼女は好きだった。
「見てろよねーちゃん。僕、大きくなったらヒーローになるから!」
「わかったから、よそ見して走らないの」
そしてそれが、ふたりの最後の会話となった。
知らないうちに繰り返し現象から解放された秋。町や学校が再興に向かう中、戸倉は気がついたら橋の欄干に立っていた。
目が覚めると、そこは想像していたあの世の景色ではなかった。ごく普通の病室。だが、家族の顔を見る前に、戸倉はよくわからない施設に移送され、よくわからない検査をいくつも受けた。
そして、最後にやって来たのがサガミハラ市の宇宙開発局。そこで羽崎なる女性からひと通りの説明を受け、戸倉はヒーローとして生まれ変わる決意を決めた。
「……わかった。君の身柄は私たちで保護しよう。これからよろしくね、麻耶乃ちゃん」
だが、話の最後に握手を求めた羽崎に、戸倉は何も返せなかった。
ゼツボーグ99号の発現には、那珂畑の時と同じように羽崎と鳴島が立ち会った。無事に発現できたとしても、訓練開始は早くて明日から。最近は小規模な感染通報があってもSIMsがすぐに解決してしまうため、それまでの間、那珂畑は特にやることもなく局内を歩き回ったり、時々落涙態の練習をしたりして暇をつぶしていた。
地下4階。那珂畑がドローンに自らを撮影させながら素振りをしていた時。彼は設定していた練習メニューをひと区切りまで終えてから、ふと思った。少女の面接が終わったのは直接見たから、時間からして今頃あの電気椅子でゼツボーグを発現させたところだろうか。そして思い出す。自分がそうであった時のことを。
あの時、那珂畑は加山からすべてを教わった。ゼツボーグの性質、ゼツボーグの戦い、そしてヒーローの心構え。おそらく今までも何人ものゼツボーグがそれを頼りに戦ってきたのだろう。しかし、加山はもういない。彼の教えを少女に伝えるのは、那珂畑の役目になっていた。
実践的なところで、那珂畑は勝手に少女のゼツボーグがどのようなものになるか想像した。自分と同じ自殺願望を持っているなら、防御特化になるだろうか。性質か似ているなら、戦い方も教えやすい。だがそう考えた時、彼は自分と少女の違いに気がついた。自分は死にたいと思っているだけで、何もできなかった。対して少女は、自分にできない自殺を未遂とは言えやってのけた。彼女には、自分にない勇気があったのだ。そんな相手に、自分はいったい何を教えられるのだろうか。何か教えられる権利があるのだろうか。
那珂畑は、余計なことを考えないようにとスマホの画面を点けて時間を確認した。すると、ロック画面には着信履歴が1件。練習に夢中で気づかなかったのだろうか、数分前に羽崎から着信があったらしい。他のアラームやブザーが鳴っていないあたり、おそらくは個人的な呼び出しだろう。ならば電話を返すよりも直接会いに行った方が早い。そう考え、彼はそのスマホだけを持ってエレベーターに駆け込んだ。
「あっ。遅いぞ~逸ちゃん」
司令本部。羽崎は鳴島と共に小堀の席に集まっていた。先ほどまで加山のことを考えていたからだろうか。ポジトロンの件もあって、那珂畑は彼女の飄々とした様子を久しぶりに見たような気がして少し安心した。
「遅れてすみません。新人の件ですか?」
那珂畑は駆け足で向かいながら聞くと、羽崎が頷いて答える。そして彼女は手元に置いてあったタブレット端末を見せた。
画面に表示されているのは、例の電気椅子を囲む監視カメラの映像。羽崎が再生ボタンを押すと、椅子に拘束された少女が苦しみもだえる様子が音声付きで流れ始める。那珂畑にとっては自分以外がこの椅子に座る映像を見るのが初めてだったので一瞬だけ目をすぼめたが、他の3人は慣れているようで、そのまま再生を続ける。
しばらくして少女が気を失ったようにうなだれると、体の変色が始まった。那珂畑は当初、自分と同じ黒を予想していたが、実際は大外れ。少女の体は赤く発光し、次第にそれは激しく放熱するように白へと変わっていった。
「見てほしいのはこの後なんだ」
羽崎は動画のシークバーを操作し、見せたいところまで時間を飛ばす。できれば最初からそうして欲しかった。とは言うまい。
激しい光で画面が埋め尽くされた後、それは少しずつ収まって少女の体に戻っていく。だが、羽崎の言う通りその様子は誰の目にも異常だった。
椅子に拘束されていたはずの少女が、すぐ下の床に全裸で横たわっていたのである。都合のいいことに、それまで着ていた服が覆いかぶさってそこまでセンシティブな絵面にはなっていないが、それにしても異常だった。
むろん、羽崎も女子中学生のサービスショットを見せるために皆を集めたわけではない。この現象は、ゼツボーグ初回発現時にのみ起こる特別な状況につながっている。
例の電気椅子は、座った者にネガリアンと同じ衝撃を与え、体内のアンチネガリアンを活性化、ゼツボーグを引き出させるというものである。ただしその際、活性化が不十分だとゼツボーグが定着しなかったり、中途半端な後遺症をもたらす可能性があるため、基本的に対象者の体が耐えうる限界まで刺激を強める。つまり、無理やり全力でゼツボーグを使わせることになる。
例えば那珂畑の場合、自分の体表にしか現れないゼツボーグが最初だけ部屋中を覆うほど生成されていた。
結論を言うと、この時点で対象者の能力がある程度推察できるということである。となれば、少女が椅子の拘束から逃れたこの状況から考えられることは、普通ひとつ。
「瞬間移動……?」
那珂畑は考えながら言ったが、言いながらも疑問が残っていた。物理を無視した移動であれば、椅子だけでなく部屋そのものから脱出していてもおかしくない。にもかかわらず、少女の着地点は先ほどまで座っていた椅子のすぐ足元。まるで拘束具だけからするりと抜け出したような、手品のような状態である。
「私たちも最初はそう思った。けど、ここを見てほしい」
どうやら羽崎たちも同様の考察を経ていたらしい。しかし、少女の能力が瞬間移動出ない証拠を彼女は拡大して見せた。
電気椅子を囲む透明なガラス。それはゼツボーグの発現に耐えられるよう、かなり分厚く作られている。そのガラスの一部が、火炎放射器でも当てたかのように溶け落ちていた。あらためて映像を縮小すると、似たような痕が各方面に複数。コンクリート製の椅子や床も、焼け焦げたように変色している部分がある。
「まだ予想だけど、おそらく彼女の能力は……」
羽崎はここで言いよどんだが、この時点で4人の意見はおおむね一致していた。
高熱、もしくは発火。そして自己再生。それも外に炎を放つのではなく、おそらく自身の肉体を内側から燃やし、内側から再生するもの。そうでなければ、周囲がこれほどの被害に見舞われながら少女の衣服が燃えていない説明がつかない。彼女は手足や胴体を焼き消すことで拘束や衣服から抜け出し、床で再生したのだ。
「一歩間違えれば、ネガテリウム以上の破壊につながりかねない力だ。こうなった以上、逸ちゃん、この子を止められるのは君しかいない。くれぐれも、頼んだよ」
頼んだ。という言葉にまとめられた多くの重圧に、那珂畑は背筋が凍るのを感じた。超防御ではなく超再生。これが自殺に踏み切った勇気あるゼツボーグの力なのかと。
現状、彼女の訓練に付き添えるゼツボーグは那珂畑のみ。しかし考えてみれば、これまでの戦いで炎に立ち向かうようなことはなかった。彼は自身の鎧が炎や高熱に耐えられるのか、少女の能力とは関係なく検証する必要を感じていた。
ゼツボーグは、本人の絶望を反映して超人的な能力を目覚めさせる。
戸倉の攻撃的な性格は、実在するかどうかにかかわらず彼女自身がそうであると認識していた。そして、その矛を誰にも向けてはいけないと抑え続けていた。
感情の爆弾。端的に説明すればこれに尽きるだろう。膨張していく感情は炎となり、燃え尽きることすら叶わない肉体を伴って表面化した。
だが、同時に彼女にはすでに守りたいものがあったことも事実である。ゆえに、彼女のゼツボーグが誰かを守るものではなく、ただ一方的な破壊に特化したものとして成立してしまったことには、まだ誰も気づいていない。




