第二十九話 友情なし、努力なし、勝利 シネマトグラフ・その五
説明しよう。ゼツボーグ及びポジトロンは、ステージ1感染者や無感染者への攻撃が認められていない。理由は、無意味かつ目的と反した行動であるというのもあるが、一般人に危害を加えた場合、ヒーローの危険性が世に知られてしまう可能性を危惧してのものである。
今でこそヒーローという輝かしい肩書きで人々に認められてはいるが、その実態は国際法上の生物兵器にも匹敵する禁忌の存在。宇宙から来た未知の敵に対抗するためとは言え、彼らは自ら設定したルールを逸脱してまで戦っているのである。
当然のことだが、これによりヒーロー同士の内輪もめはご法度。一般人に対しても、それが攻撃対象と認められなければ、たとえ犯罪者でも見逃さなければならない。
これまでネガリアンとの戦闘中に一般人への巻き添え攻撃はあったが、それらはすべてネガリアン側の無差別攻撃としてもみ消されてきた。そう、悪いところは何事もよくわからない奴のせいにすればいい。まさにいじめっ子の発想である。
ネガトロン・シネマとの戦いは、1時間と経たずヒーロー側の勝利で幕を下ろした。志村はヒーローらしく宙に浮いたまま空のどこかへと消えていったが、【スーサイド・バイスタンダー】によって装備をすべて脱ぎ捨てた那珂畑は、一般人に紛れたまま徒歩で駅に戻ることにした。
念のため、ドローンは那珂畑とは別ルートで帰還させるよう司令本部が操作してくれている。こういった細かい気配りが、これまでゼツボーグの立場を守り続けてきた。
しかし、ポジトロン、科学衛生局の立場は違うらしい。ゼツボーグに対して持続性と唯一性に優れたポジトロンの存在を誇示し、あらためてヒーローの存在感を高める目的があるように感じた。先ほど群衆の中で志村が堂々と名乗りを上げたのも、事前にそういったことをするよう指示されていたのだろう。
一般人には、ポジトロンもゼツボーグも同じヒーロー。結果として、ヒーローそのものに対する信頼回復には繋がったかもしれないが、映像記録や人々の印象に残ったのは、ほとんどポジトロンの方。那珂畑はそれなりにシネマ討伐に貢献しておきながらと、どこか腑に落ちない気分でいた。ヒーローが手柄を奪い合うなど醜いことこの上ないが、そもそも志村に対して良からぬ感情を持つ彼には、どうにもこの現状が気に入らなかった。
ポジトロンが飛び去った方向を眺めていた人々は、次に足元に転がるシネマの体に注目した。すでに再起不能なダメージを負っており、ろくに手足を動かす力も残っていない。しかし、呻き声をあげる程度の意識はまだあるようだ。
その様子を見てか、ある男がシネマの上半身側の傷口を勢いよく蹴りつけた。
「どうだっこの野郎! 俺たちをさんざん振り回しやがって! くたばりやがれくそウイルス!」
男は何度もシネマの体を蹴り続ける。一般人の攻撃がネガトロンに傷を与えることはほとんどないが、それでも弱りきったシネマの傷口からは、ウイルスの死骸らしき液体が流れ出ていた。
突然の行動に他の人々は驚いたり引いたりしていたが、しばらくしてシネマが抵抗しない様子を見ると、さらに何人かが便乗するように他の部分を蹴り始めた。
そしていつの間にか状況はヒートアップし、まさに集団リンチの様相を呈していた。那珂畑は駅に向かうべく彼らから離れるように歩き出すが、シネマを責め立てる怒号と体を蹴る音は、聞くに堪えないものがあった。
因果応報。少なくない期間、多くの人を巻き込んで自分の作品にしてきたネガトロンの最期としては、ふさわしい光景なのかもしれない。シネマは人々の攻撃とは関係なく時間経過で消滅していくが、彼らにとっては憎い相手を攻撃すること、それ自体に意味があるのだろう。外見こそ集団リンチだが、無力な一般人がネガトロンを集中攻撃したという出来事は美談になる。ヒーローだけでなく、皆で協力してネガリアンに勝利した。これほど美しいことがあるだろうか。
その美しさこそ、那珂畑は許せなかった。彼は駅に向けていた足を返し、群衆の中へ戻っていく。
相当エネルギーを蓄えていたのか、シネマの体は消えゆく一方とは言えそのスピードはかなり遅かった。そしてその時間は、人々の加虐心をいっそう駆り立てているようだった。
那珂畑は、最初は何も考えていなかった。後で聞かれても、考えるより先に体が動いていたとしか言いようのないことだった。気がつくと彼は【スーサイド・バイスタンダー】を展開し、人々をシネマから離れるように振り払った。
「おい、何すんだおま……」
群衆のひとりが怒り任せにつかみかかろうとするが、その相手が先ほどの黒いヒーローだと気づいた時、彼の闘争心が一瞬で凍りついた。
「もう、やめろよ」
気がついた時には、口からそんな言葉が出ていた。そして那珂畑は両手を大きく広げ、鎧と背中合わせの形でシネマを守るように立ちはだかった。
予想しない形でのヒーローの再登場に、他の人々も那珂畑から距離をとる。だが、ヒーローがネガリアンを守るという状況に誰もが納得できるはずがなく、不満の目を向ける者は少なくなかった。
「おい、兄ちゃん。あんたがそこの黒いのとどう関係してるか知らねえけどよ。そんなの守るこたあねえだろ」
「違う……」
那珂畑よりひと回りほど大きな男が威圧的に迫ってくるが、それでも彼は動かなかった。
「そいつはな、俺たちにさんざん迷惑かけて、俺たちで倒したんだ。白い方はどっか行っちまったしよ、また何かしでかす前に、ちゃんとけじめはつけとかねえとな。俺たちにだってそれくらいの権利はあるだろ?」
男の言葉に、他の人々も次々と賛同の声をあげる。そしてそれは次第に、那珂畑へのブーイングへと変わっていった。だが、ともすれば那珂畑さえリンチに巻き込まれかねないと思われた時、彼は叫んだ。
「誰か、こいつのせいで死んだ奴がいたか!!」
そのひと言に、群衆は少しざわついてから黙り込んだ。那珂畑の迫力のせいではない。実際に、シネマが誰も殺していなかったからだ。彼と戦った那珂畑には、確認せずともわかった。彼は人を殺さない。誰も死なない世界を実現するために、自分の能力を使い続けていたのだと。彼が大嫌いなはずの那珂畑ですら殺そうとせず、死の間際まで録画しようとしていた。そんな彼が、他に人を殺す理由などないのである。
「確かにこいつは悪者だ。ヒーローにやられて当然のネガリアンだ。けどな、あんたたちが危険になるようなことは絶対にしなかった。そういう奴だ。誰よりも平和を望んで、5年前の町を取り戻そうとしてたんだ」
「……なんで、お前がそんなこと」
男は少しだけ納得した様子だったが、それでも食い下がる姿勢を見せ続けた。
「そんな優しい奴を、俺は殺したんだよ」
那珂畑は分離していた鎧を自分に戻し、黒いヒーローの正体を明かす。その目元には、今にも溢れそうなほどの涙が溜まっていた。
「生きるか死ぬか、殺すか殺されるか。それがヒーローの戦いなんだ。そのルールを、こいつは正面からひっくり返そうとした。そんな優しい奴を、俺は殺しちまったんだぞ!」
那珂畑は感情のまま、男の両肩に掴みかかった。理由のわからない涙はとめどなく流れ、その表情はとてもヒーローとは思えないほど情けないものだった。
「俺は、俺は……!」
『那珂畑君、そこまでだ』
インカムからの小堀の声が、那珂畑を止めた。那珂畑はその場で膝から崩れ落ち、少し息を整えてから立ち上がる。そして群衆の中から離れる前、一度だけ男の方に振り向いた。
「悪かった。あとは、好きにしていい」
涙声。そして鼻をすすりながら那珂畑はゼツボーグを解除し、駅に戻っていった。
その後、シネマの死体を攻撃する者は誰もいなかった。
ヒーローの正体が人々に知れてはいけないという規則はない。だが、これまでゼツボーグの構造上、顔を隠してきた那珂畑にとって今回の行動は明らかな間違いだった。そしてあの男とのやり取りも、小堀に止められて当然のことだと、彼は電車に揺られながら反省した。
今回のことで自分の、ゼツボーグの信頼はさらに落ちるだろう。そしてポジトロンが活躍し、科学衛生局が力をつけていくこと自体は、世間的に何の問題もない。だが、それでは解決できない問題が多すぎる。加山の後継任務、鳴島の不調、そして殺されるという約束。
那珂畑はズボンのポケットからスマホを取り出す。だが彼は画面を点けることなく、ぶら下げられたメタルチャームを眺めた。それは、水色とピンク、ひと組のイルカの形。かつて水族館で沙紗と買ったパフェに付いてきた唯一の土産物である。彼はそれを眺めて考えた。自分はちゃんと死へと向かっているのだろうか。死ぬために必要な要素を、気に入らないという理由だけで排除してしまっているのではないかと。
どんなに小さなものであっても、夢を叶えるにはそれなりの努力や忍耐が必要である。那珂畑はそれがゼツボーグになること、ネガリアンと戦うことだと考えていた。しかし、どうやらそうではないらしい。唯一自分を殺せる可能性を持っていた沙紗ですら、彼が放置し続けたことで最終決戦を引き伸ばし、ポジトロンの完成まで至ってしまった。
今回のシネマがそうであったように、人間を殺さないネガリアンが他にいないとも限らない。また、ジュニアのように強い戦闘力を持ったネガリアンが他に現れるとも限らない。このままヒーローの勝利で物語が終われば、人々にとってこれほど喜ばしいことはない。しかし那珂畑には逆だった。自分を殺せる可能性に賭けた相手が、もうどこにもいないのではないかと。仮にいたとして、また失ってしまうのではないかと。
失うばかりの人生に嫌気がさすまで、それほど長い時間は必要ない。ただ、人々の歓喜が自分にとっては失望で、人々の羨望が自分にとっては皮肉となる。そんな人間が長く生きられるだろうか。いや、きっとそういう者こそ苦しみの中で長生きしてしまうのだろう。
アンチネガリアンは本体の絶望によって、免疫系を破壊するまで無尽蔵に生成される。那珂畑は確実に、鳴島と同じ崩壊へと進みつつあった。
那珂畑と志村の疲労回復を考慮して、シネマ討伐作戦の結果報告は、作戦の翌日に延期となった。そもそも初回でここまで激しい戦闘、そして討伐に至ることは両局も想定していなかったらしく、当初は帰還後すぐに報告の予定だった。
ゼツボーグを酷使したため、しっかり休息をとるべき夜、那珂畑はあまり眠れなかった。
そして、来たる翌日、宇宙開発局地下5階司令本部。水上らを含む作戦関係者全員が集められ、作戦の結果報告が始まった。
シネマの能力によって電子記録がかなり少ないため、報告は志村によるシネマとの戦闘についての話題が中心となった。那珂畑も戦闘に参加していたとは言え、時間停止を受けたせいで戦況をほとんど把握できておらず、結果からすれば数回の不意打ちに成功しただけ。戦闘を通じての情報収集は志村に任せきりとなった。
今回初めて鮮明に記録されたシネマの声や人相、そして普通のサラリーマンという発言から、元となった感染者の特定にもつながる。その点においても、志村の報告はかなり大きな戦果と言えた。
結局、報告とは言いながら那珂畑の出番はほとんどなく、話は終わった。いちおう那珂畑も勝利自体には大きく貢献したため、当初の目的通り宇宙開発局と科学衛生局の協力による完全勝利という大見出しは成立する。今のところ、那珂畑にとってはそれだけが唯一の救いだった。
報告と一連の会議を終えて科学衛生局の面々が去った後、小堀は地下6階の小部屋に那珂畑を呼び出した。その目的は、那珂畑の予想通り、シネマ討伐後の彼の行動についてである。
「那珂畑君、私が言いたいことは、わかるね?」
いかにも生徒を叱る教師のような文言だが、小堀の表情はそこまで怒りに満ちているようには見えなかった。
「……はい。最後、ついカッとなって余計なことをしました」
自分のしたことをよく理解しているからこそ、那珂畑は小堀の目を見ることができなかった。
だが、小堀は決して那珂畑の行動を咎めるために呼び出したのではない。ゼツボーグとなる人材は、ただでさえ大きな絶望を抱えた変わり者の集まり。そんな人間の行動を規範だ何だと制御するのは不可能だし、彼らの実力を引き出すにはむしろ逆効果である。すべてのゼツボーグを見てきた彼は、誰よりもそのことを知っていた。だから、叱るようなことを言っておきながら、彼は那珂畑に反省を促しているわけではなかった。ただ、那珂畑の感情を確認し、尊重するための呼び出しだった。
「わかってるならいいんだ。私は別に怒っているわけじゃない。ただ、君自身のやりたいことと、実際の行動が少しずれているんじゃないかと思ってね」
その言葉に、那珂畑は少し悪寒が走るのを感じた。これまでひた隠しにしてきた殺されるという最終目標が、小堀にばれたのではないかと。いや、おそらくかなり初めの頃からばれていたのだろう。考えてみれば、98人もいるゼツボーグ候補の中に、同じ考えを持った人間がいてもおかしくない。様々な絶望を見てきた小堀ならば、他人の絶望を見透かすのも可能なのだと、那珂畑は納得した。
那珂畑が黙り込んで考え始めたのを見ると、小堀はそれ以上何も言わずに部屋を出た。ここで何か話したところで、良い答えも悪い答えも出るはずがない。無理に結論付けようとするのは、自称心理学者の悪い癖である。もともと宇宙科学を専門としていた小堀は、それ以上の対話が必要ないと判断した。仮にこの場に心理学のエキスパートがいて、那珂畑に画期的なアドバイスをしたとしても、それは彼の悩みを解消し、ゼツボーグの出力を落としてしまうことになる。ゼツボーグの精神が壊れないようサポートしつつ、その絶望を強く維持し続ける。この繊細な心理操作を、小堀はこの5年で無意識に習得していた。
那珂畑と小堀が話している間、羽崎と鳴島は引き続き情報の精査に勤しんでいた。精査と言っても、必要な部分はすでに昨日の時点で終わっているため、今やっていることはあくまでも余計なお世話。個人的に気になる所といった状況だった。
報告では那珂畑の落涙態が本格的に実戦で使われたとあったが、シネマの能力によりその記録は残されておらず、鳴島にとっての収穫はゼロ。ゆえに、彼女は次に気になることを口にした。
「羽崎さん」
「ん、どうしたの鳴島ちゃん?」
ふたりはそれぞれの書類を整理しながら、目を合わせず会話をする。これが彼女たちの日常風景である。
「ネガリアンって、変異するんですかね」
「さあね」
羽崎は無責任にも即答した。実際に未知であることは確かなのだが、まあこの無責任さが彼女らしくもあった。
だが実際問題、鳴島の疑問がまったく手がかりのないものであるわけでもない。一般的にウイルスとは、感染者の免疫に対抗するように感染力や毒性などが変異していく。この5年間で一般人への感染はある意味安定しているが、那珂畑が加入してからの短期間でネガテリウム1体、ネガトロン2体が討伐されている。その上に落涙態やポジトロンといった強力な敵の登場により、ネガリアンにも何らかの変化が起こるのではないかという疑問は、決して鳴島だけのものではなかった。
しかし、それは現状では検証のしようがない。羽崎はそんな手の届かない疑問より、まず目の前の問題を鳴島に提示した。
「これは……?」
羽崎が鳴島に渡した紙には、複数の交番が管轄するエリアでの犯罪件数やその内容がこと細かに記されていた。
「会議の前に、警察に連絡して見せてもらったんだ。シネマの活動範囲内で、奴が死んでからの一般人の犯罪記録」
鳴島はまず、その数の多さに驚いた。彼女は別に犯罪に詳しいわけではない。しかし、その数と凶悪さは誰の目にも明らかに異常だった。シネマの能力が解除されてからこの情報を手に入れるまでおよそ20時間。たったそれだけで、すでに殺人だけでも6件を超えている。それも驚くべきことに、すべてネガリアンとの関係が否定された、一般人による犯行だった。
シネマは人々の行動を固定化することで、表面上の平和を実現していた。そこから突然解放された町が、すんなりと元の生活を取り戻せるわけではない。それまでには多少の混乱を伴う。その間に町の治安が悪化し犯罪件数が増えることは、考えてみれば自然な流れだった。
「こんな状況だ。またすぐに新しいネガトロンが現れてもおかしくない」
羽崎と同じことを、鳴島も簡単に想像できた。
「たぶん、逸ちゃんの次の仕事はあの町のパトロールだ。でも、きっと彼には戦う以上につらい仕事になるかもしれない」
そう。たとえ相手が犯罪者でも、重度の感染が確認されない限りゼツボーグによる攻撃は許されない。つまり、犯罪だらけの町で数々の悪事を見逃しながら、存在すら不確定な敵を探すことになる。それは生半可な精神でできることではない。
だから、羽崎は鳴島に委ねる。
「鳴島ちゃんには、逸ちゃんを支えてあげてほしい。もちろん私も協力するよ。落涙態の件もあるけど、彼がちゃんと戦い続けるためにも、君たちには仲良くいてほしいんだ」
「……はい」
鳴島の返事は、消えそうなほど小さかった。それは、彼女のゼツボーグが察知したからか、彼女自身の性格がそう判断したのか、羽崎の目的がポジトロンを排除することにあると感じたからである。加山の立場を奪い、否定するポジトロンを絶対に許さない。そのためなら何だって利用する。そういった意思が、羽崎の心の奥底から湧き出ていた。
司令本部の同じ女性幹部ということで、鳴島はそれなりに羽崎を信頼していた。彼女のゼツボーグが不調をきたした時も、一番そばで支えたのは羽崎だった。だが、この時ばかりは、羽崎の憎しみにも似た感情に彼女は恐怖した。




