第二十二話 ゼツボーグ91号・落涙態
説明しよう。元ゼツボーグ91号、鳴島ニコ。彼女はアンチネガリアンの大量生成によりゼツボーグに異常をきたし、戦えない体になってしまった。その原因は、彼女が自ら起こしたゼツボーグの出力強化。自身をも滅ぼしかねないほどの過剰な力。彼女がそれを欲した理由は、彼女の絶望、そして最後の敵が大きく関係していた。
羽崎の書類にもあったように、ゼツボーグに異常をきたした例は少なくない。小堀はこの状態をゼツボーグの落涙態と名付けていた。彼らの共通点はこの異常ともうひとつ、それぞれのゼツボーグの意匠が本体の目元に集中するという点である。実際、小堀のタブレット端末に映し出されたドローンの写真では、ゼツボーグを脱ぎ去った後、那珂畑の姿は完全には元に戻っていなかった。もともとゼツボーグにあった背骨と肋骨のような白いラインが体表に残り、そして肋骨のラインは胸元から首を通って、下瞼に集束。まるで複数の涙ラインのように変形していた。
宇宙開発局の研究では、この落涙態はネガリアンがもたらした人間の進化の道しるべ。宇宙から持ち込まれた災厄に打ち勝ったものだけが手に入れるギフトであるという仮説がある。
当初、そのギフトはゼツボーグそのものだと考えられていた。しかし、ゼツボーグを発現した者の中から、さらに落涙態という選定が行われた。すなわち、この落涙態を乗り越えた者こそ、ネガリアンからのギフトを真に受け取った者と言える。
落涙態はその変化過程において、莫大な量のアンチネガリアンを必要とする。それによりゼツボーグは一時的に凄まじい変化やパワーアップを受けるが、その大きな反動は本体を激しく傷つける。そのため、落涙態はゼツボーグの限界点である、というのが現在の定説だった。
しかし、そこに例外が現れた。ゼツボーグ98号、那珂畑逸。彼だけは、落涙態に至ってなお、正常な体を保っていた。
彼の落涙態を調べ上げることで、今後のゼツボーグへの新たなアプローチが可能になるかもしれない。だが、小堀の目的はもうひとつ。落涙態に至ったことで再起不能になった者の回復、戦場を退いた者の復帰。それこそが、彼の真の狙いだった。
そして、今その目的に最も近いのが、元ゼツボーグ91号、那珂畑の前に落涙態に至り、今なお解析官として宇宙開発局に所属する鳴島ニコだった。
鳴島は現在、ゼツボーグへの変身こそできるものの、その状態を維持することができない。そして、ゼツボーグに異常をきたした後遺症と言うべきだろうか。平時でもわずかなきっかけで部分的にゼツボーグが発現してしまう体になってしまった。
そこで、小堀は落涙態の研究、鳴島の回復、そして加山がいなくなった穴埋めのため、那珂畑の補佐役に鳴島をあてることにした。このことについては、すでに鳴島本人から承諾を得ているらしい。ゼツボーグ不足の現状からか、彼女は戦場に戻ることを望んでいるようだった。
落涙態の参考資料として次に小堀が見せたのは、鳴島のゼツボーグの記録だった。ゼツボーグ91号、その特徴は那珂畑と対照的な全身白のボディスーツ。ただし左脚の太ももから下は大きく露出しており、皮膚には赤いあみだくじのような線が無数に伸びていた。そして頭部。まず目元には耳を避けるように良橋が高く吊り上がった目隠しのような黒いバイザー。そして頭からは赤と緑のコードを束ねたような2本の太い触覚のようなものが伸びていた。触覚の先端はひとつのイヤホンジャックのように鋭く纏まっている。
91号の性質は、この触覚を体の各所に刺し込み、その部分を強化するというもの。足に繋げれば走力や跳躍力が、腕に繋げればパンチ力が上がるといった、近距離限定の万能ファイターだった。
しかし、単なる身体強化だけではネガリアンと戦うことは難しい。加山のように、感染者の体を傷つけずウイルスだけを攻撃する立ち回りが理想である。そこで彼女が編み出した必殺技が【オーバーセンス・ハウリング】。触覚を両手の甲に刺し、その手で相手の頭部を掴むことで自らの絶望を数倍に増幅して流し込む。これにより食い尽くせないエネルギーを受けたネガリアンは活動を停止するといったものだった。
運動能力、攻撃力、安全性。まさに走攻守のすべてを成立させる強力なゼツボーグだったが、鳴島の登場から1年足らず。彼女にとって最大の宿敵が現れる。
当時の話をすると、鳴島はトラウマを掘り起こされ冷静さを欠いてしまう。ゆえにこの場に彼女がいないことは好都合だと小堀は言った。だが、小堀や羽崎を通して他者にそのことが知れ渡ることはいいと、鳴島はそう言ったらしい。
ことの始まりは、5年以上前。すなわちネガリアン騒動が始まる以前のことである。鳴島家のひとり娘、ニコは物心つく前に母親が失踪したため、長いこと父親とふたりで暮らしていた。
鳴島曰く、父は寡黙だが気配りのできる優しい人物だったという。母親の欠けた家庭でも、彼女はそれなりに幸せな生活を過ごしていた。
しかし、彼女が小学5か6年生になった頃から、父の様子が変わり始めた。日常的に体に触れる回数が増え、娘が拒もうとともに入浴し、よく眠れないと言っては彼女の寝室に潜り込んだ。
言葉に表せばもう察しがつくだろうが、いわゆる性的虐待である。父は妻を失ったためか、妻に向けるべき愛情を、欲情を自分の娘にぶつけ始めた。そして虐待は時間と共に、娘の成長と共にエスカレートし、初めは親子のじゃれ合いだと思っていたことが実は虐待であると娘が気づく頃には、それは暴力を伴うまでに増長していた。
だが、そんな彼女に救済の手を差し伸べたのは、ネガリアンだった。鳴島ニコ、当時高校1年生。他に行くあてもないので遠回りしつつ下校していたある日、彼女はネガリアンの集団感染に遭遇する。度重なる虐待によってアンチネガリアンを獲得していた彼女は無傷で生還、科学衛生局による身体検査を受けることになる。もちろん、この時彼女にゼツボーグへの道が開かれることになるのだが、その身体検査はもうひとつのおぞましい事実を明らかにした。
父親による暴行、隠し続けられた虐待。少女の制服の下に潜んでいた闇が、白日の下に晒されたのである。
科学衛生局は彼女の情報を宇宙開発局に渡すと同時に、家庭裁判所に連絡。ほどなくして、鳴島父には娘への接近禁止命令が下された。
一方で鳴島本人はと言うと、両親との関係を失い、親戚付き合いもなかったので行きつく先がない。そんな彼女を、宇宙開発局が見逃すはずがなかった。司令本部付近に防犯システムの整った部屋を用意、生活を全面支援という形で、彼女を迎え入れた。
例の電気椅子こそ苦痛ではあったが、ヒーローとしての生活は鳴島に新たな幸せをもたらした。ゼツボーグに変身することで常に父親の存在が脳裏をちらつくこと、その中で自由に暴力的にネガリアンと戦えることは、彼女にとって気分のいいものだった。
当時、加山を含め他に数人のゼツボーグがいる中で、鳴島は瞬く間に最大戦力という地位を勝ち取った。羽崎との親交が深まったのもこの頃からである。
そして、最大戦力ゆえにその戦いから彼女が抜けるわけにはいかなかった。
鳴島にとって最後の変身となるその日、一体のネガテリウムが現れた。個体名はスクリーム。5メートル以上の細身の巨人のような姿、その各所には口や拡声器、スピーカーなどの発声部があり、大音響による破壊や高周波攻撃で周囲を荒らしていた。
ほとんどのゼツボーグが音圧に阻まれる中、鳴島だけがその脚力をもって強引にスクリームに接触。【オーバーセンス・ハウリング】によってその大部分を破壊する。
しかし、破壊した大きな頭部の中、感染者本人と目が合った時、鳴島は思わず攻撃を止めてしまう。なぜなら、その人物こそ、もう二度と会わないと信じて疑わなかった父親だったからである。彼はネガテリウムでありながら、本体の意識を保っていた。そしてすぐさま、目の前のヒーローが自分の娘であると気づいた。
「会いたかッタぜ、にコォぉォォ……」
拡声器もスピーカーも通さない、父親の肉声。それは鳴島に封印していた記憶を呼び起こさせた。
心が忘れようとしても、体は憶えていた。父は「行為」の際、毎回必ず娘の名前を連呼していた。それが彼の目的にあったかどうかは不明だが、結果としてその行動パターンは娘の深層心理に強く刻み込まれる。鳴島は名前を呼ばれることで、心拍数が上昇、激しい興奮に襲われる。端的に言ってしまえば、そのたった一手で鳴島は発情するように洗脳されてしまったのだ。
1年かけて、自分の中から父の存在を消そうとしても、長年の教育に勝ることはなかった。いや、むしろそれまで戦った相手に父の姿を重ねていたからこそ、長い間彼の声に耳を塞ぎ続けてきたからこそ、その存在は彼女の中で肥大化していた。
鳴島はゼツボーグになる前から、自分の名前を呼ばれることに謎の嫌悪感を抱いていた。だが、その瞬間、その理由が自らの体験として明らかになった。刻み込まれた教育、表面だけでも抗う心、乱れるゼツボーグ。それらは鳴島の精神にこの上ない負担を押し付け、アンチネガリアンの大量生成に至った。
ゼツボーグ91号・落涙態。その詳細な戦闘データは残っていない。ほんの一瞬の出来事だったからである。生体データの大きな乱れも記録こそされているが、それがどのように落涙態に影響したか、父の教育とどのように関係しているか、データからは読み取れない。
鳴島は抗う勢いのまま、ゼツボーグの暴走をすべてスクリームに向けた。そして放たれる彼女の強化必殺技、後に付けられた技名は【オーバーセンス・フラッシュバック】。それは激しい音と光を伴い、スクリームの全身を本体ごと粉微塵に消し去った。
スクリーム戦以降、鳴島は自分のゼツボーグを制御できなくなった。彼女はすぐにそれが落涙態の反動によるものだと知らされる。
しかし、彼女をそうまで至らしめた宿敵を華々しく撃破した後も、鳴島の復讐心が消えることはなかった。彼女は局員として宇宙開発局に残る道を選択。自らの経験と、持ち前の鋭い感覚で他のゼツボーグをサポートすることにした。その鋭い感覚ですら、父親に怯え続けた日々の賜物であるのだが、そのことはもう誰も知る術はない。
その後、鳴島は髪に赤いメッシュを入れるようになった、それは、無意識に触覚が露出しても目立たないようにするため。名前を呼ばれることを嫌うのは、他人の声でも父親の洗脳が蘇る可能性を恐れたためである。
小堀は、ゼツボーグ91号とネガテリウム・スクリームの戦い、そのほぼすべてを那珂畑に話した。
しかしここで、那珂畑の心にひとつの疑問が芽生える。果たして、鳴島をゼツボーグとして復帰させることは正しいことなのかと。確かに、彼女のような優れた戦力は喉から手が出るほどほしい。しかしそのために、彼女を再起不能まで追い詰めた絶望に再び向き合わせることが、本当に彼女のためになるのだろうか。もし本当に彼女が戦いに復帰することを望んでいたとしても、彼女の居場所が戦場である必要なない。
那珂畑はその疑問を口に出そうとした一瞬、口を開いたまま思いとどまった。そもそもゼツボーグとは、自分の絶望に向き合い続けるもの。理由はそれぞれかもしれないが、自分も同じ道を選び、自ら戦場に飛び込んだ。ならば、鳴島本人に復帰の意志と覚悟があるのなら、その背を押すべきではないだろうか。
スクリームを倒した今、父親を倒した今なら、鳴島が再び落涙態になる心配は少ない。言わば今の彼女は、飼い慣らす前の猛獣。ひとたび制御権をつかめさえすれば、さらに安定性の増した最高戦力の復活となる。
「……協力、します」
開いたままの口から放ったのは、当初とは別の言葉だった。しかし、同時にそれは那珂畑の真意でもあった。自分や加山以上に優秀なゼツボーグが復活すれば、自分が死んだ後の心配をしなくて済む。おそらく加山がジュニア戦まで戦い続けたのも、後継者が育つのを待っていたから。ならば、彼と同じ道をたどればいい。
落涙態の制御は宇宙開発局にとっても未知の領域。自力で再現できたとしても、乱用はしないようにと小堀は釘を刺す。
構うものか。落涙態のデータが多く手に入れば、それだけ鳴島の復帰に近づく。落涙態を多く使えば、ゼツボーグを消耗し自らの死に近づける。
互いの了承を確認したふたりは、地下5階の司令本部へ戻り、鳴島のもとへ向かう。そして那珂畑は、彼女に右手を差し出した。
「話は、ひと通り聞いた」
鳴島は那珂畑を見ることなく「そうですか」とだけ返す。いつもと変わらない冷たい反応。しかし、今回からは違う。那珂畑は彼女のそれに言葉を返した。
「俺は戦うよ。鳴島、あんたのために戦って見せる。だから、その、なんていうか……」
ここまで格好つけておいて、那珂畑は言葉に詰まってしまった。わずかに自分に向きつつあった鳴島の関心をここで手放すわけにはいかない。何か最後の、決定的なひと言。人を救うヒーローとしての何か。
短い時間で言葉の海に溺れかけた那珂畑が見つけたのは、加山の言葉だった。シロヤマで初めて彼に会った時、彼も同じように言いよどんでから、ヒーローだと名乗った。しかし、彼ほどの自信は今の那珂畑にはない。だから、彼はその言葉を未来に託した。
「見ていてほしい。俺が、君のヒーローになるところを」
ここで初めて、鳴島は那珂畑の真っ赤に染まった顔を見た。しかしそれも一瞬。彼女は那珂畑の手を取ることなく、両手で書類を抱えて席を立った。
「……わかりました。では当初の取り決め通り、98号の活動は継続。那珂畑さんのデータ管理は、私が専任するということで。失礼します」
確認するように、しかしふたりの反応を待たずに鳴島は早口でことを済ませ、速足でどこかへ行ってしまった。
「ああ見えて、嬉しいんだよ。年相応に不器用なだけさ、鳴島君は」
鳴島の背中が遠のく中、小堀は彼女に聞こえないよう那珂畑に耳打ちした。
年の近い異性の相棒。しかも引っ越し先は隣部屋。なにやらちょっとしたラブコメが始まりそうな流れだが、そううまくは進まないのが現実である。現に、この時那珂畑は少し後悔していた。
また、生きる理由ができてしまった。最初に羽崎と交わしたヒーローとして戦うという約束、そしてジュニアと戦うために追加された加山を守るという約束。このふたつはすでに成功にしろ失敗にしろ、完了している。もう自分をこの世に縛るものは何もないと思ったところに、今度は鳴島のために戦うという約束をしてしまった。
だが、これでいいのだと那珂畑は後悔を振り払った。鳴島は言った、皆が正しいと思うことをしたと。そしてそれは、これからも変わらない。那珂畑はそれが正しいことだと信じて、鳴島を救う決断をした。ならば、自分の信念を貫き通すまで。いかにもヒーローらしい心構えを、彼は年下の少女からだが得ることとなった。
しかし、ネガリアンと戦うヒーローはゼツボーグだけではない。あの時、ジュニアに地名の一撃を与えた白スーツ。彼こそが次世代の戦士、新たなる希望。ヒーローものの第二章にはもってこいな人間同士の醜い争いが、まさにここから始まろうとしていた。




