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第二十話 あばよシロヤマ

 説明しよう。那珂畑逸、大学二年生にしてゼツボーグ98号。カナガワ県ヨコハマ市出身、現在は同県サガミハラ市シロヤマ地区在住。その生活実態は、ひとり暮らしである。

 彼が通う大学はヨコハマ市内にあるのだが、なぜこのような遠い場所にひとり暮らしとなったか。そのきっかけは、彼の成長期まで遡る。

 高校卒業まで、那珂畑は両親とひとつ下の妹の4人でヨコハマの実家に暮らしていた。何不自由ないごく普通の家庭だったが、ただひとつ、問題があった。それは、兄と妹の決定的な優劣の差。学力、運動能力、その他全般において、妹は兄の逸よりはるかに優秀だった。もちろん両親はよくできた妹を可愛がり、兄でありながら年下にも及ばない逸に厳しかった。兄の功績はすべて、その直後に妹が超える踏み石に過ぎない。後から思えば、兄に厳しく当たったのも、親なりに息子の向上心を煽ろうとしてのことだったのかもしれない。しかし当の兄は、妹の劣化版だという自覚はありながらも、そこに劣等感を感じることはなかった。ひとりだけ白い目で見られる普段の生活が、どこか心地よかった。やはり慣れとは恐ろしいものである。

 やがて、その差はさらに顕著に表れ、ふたりが高校に入学したあたり、もちろん妹の方が偏差値の高い方に進学したところで、両親は逸を見限った。そして、大学進学を機に、ついに逸は家から追い出されることとなった。そしてやって来たのがこのシロヤマ地区。高校時代欠かさず続けてきたアルバイトも辞め、那珂畑逸はある意味最悪の大学デビューを迎えた。まあ家賃やもろもろの経費は一部両親が工面しているので、完全に勘当されたわけではないというのが救いだろうか。

 よって、彼がヒーローになろうと、戦いの中で傷を負おうと、彼の家族は知る由もない。

 一方、宇宙開発局に所属したことで、彼の生活はいくらか豊かになった。まず、ゼツボーグの収入は時給や歩合制といった一般的な給料制度ではない。完全前払い制、しかも戦果に応じた追加ボーナスあり。それも具体的な金額は言えないが、最低賃金の時点でかなりの高額。とても大学生が学業の合間に稼げるとは思えないほどの高額。それはもう、他人に知られたら何らかの犯罪を疑われるレベル。

 仮に那珂畑がゼツボーグにならない道を選んだとしても、宇宙開発局は協力を断った候補者、つまりアンチネガリアンを持ちながら、ゼツボーグとして戦う道を選ばなかった者全員に、科学衛生局を通して高額な支援金を給付している。もちろん、断った候補者やゼツボーグ発現に至らなかった候補者も、再度志望すれば局は簡単に彼らを受け入れる。優性思想と言ってしまえばそれまでだが、宇宙開発局は、社会はそれほどにヒーローを求めていた。


 そして、ジュニアを倒した今、那珂畑は1年半ほど住み続けたシロヤマを離れる選択を迫られていた。引っ越し先は同サガミハラ市内F区域、宇宙開発局付近の社員寮。彼はこの移動をすんなりと受け入れるのだが、そもそもこの移動にはいくつかの目的がある。

 始まりは、ジュニア討伐作戦の後。那珂畑が病院のベッドで目を覚ましてからのことだった。

 真上には、意外にも見覚えのある天井。それもそのはず、那珂畑が搬送されたのは、シロヤマ地区内、彼がよく利用している総合病院だったのだから。しかし、ハチオウジで戦っていたはずが、なぜご丁寧に自宅近くまで運ばれたのか、どちらかと言うと情報整理などのために宇宙開発局付近に運ぶべきではないか。よく理解できないまま、彼は激しい倦怠感の残る体をゆっくりと起き上がらせた。

 気絶している間に精密検査を受けたのか、服装は全身検査着。右腕は痛みこそないが、安静のためかギプスで固定されている。それまで着ていた服や持ち物などは、丁寧に畳まれて枕元に並べられていた。その中には、最後に拾ったピンク色のイルカのメタルチャームも含まれていた。

 もう、涙が湧き上がることはなかった、しかし作戦を終えて晴れやかな気分にもなれなかった。そのチャームが、那珂畑の記憶がすべて現実であることを証明しているのだから。加山の死、沙紗の死、またしても守りたかったものを守れなかったこと。彼は個室のベッドでただひとり、後悔し続けた。

 そんな中、コンコンと個室のドアをノックする音がした。那珂畑がまだ眠っていると思っているのか、音の主は名乗ることなく、返事も待たずゆっくりと扉を開ける。そして、想定外にも目を覚まし起き上がっている那珂畑の姿を見て、まず驚いた。

「あっああ、目が覚めたんだね。よかった。どこか具合の悪いところはないかい?」

 すかさず那珂畑のそばに駆け寄り彼の両肩を持ったのは、小堀誠総司令官だった。こういった外回りの仕事はいつも羽崎かほかの局員がやっているイメージがあったため、彼の登場に那珂畑は少し意外な反応を見せる。そして、もしかして小堀の手が必要なほど深刻な何かがあるのではと、漠然とした不安に襲われる。

 その不安を察したのか、小堀は近くの棚からスポーツドリンクの入ったペットボトルを取り出し、那珂畑にそっと手渡す。

「いちおう、検査結果は問題なし。多少の打撲はあるみたいだけど、大きなけがもなく帰ってこれた。お疲れ様。そして、ありがとう」

 ありがとう。その言葉に那珂畑は辛い反応を隠しきれなかった。なぜならそれは、沙紗の最期の言葉。彼は瞬時に彼女の消えゆく姿を思い出し、顔を伏せた。

「でも、俺は結局何も……」

 その様子を見て、小堀は個室の隅にあった丸椅子をベッドのそばまで引きずり寄せ、そこに腰かける。

「わかってる。全部はわかってあげられないけど、きっと君は君にとって救った命よりも重いものを失った。現に羽崎君がここにいないのも、加山君を失ったからだ。本当だったら彼女も一緒に来るはずだったんだけど、彼女は加山君ととても仲が良かったみたいでね。相当ショックだったんだろう」

 その加山を失ったのも、自分のせいだ。那珂畑の表情はそう言わんばかりに沈んでいく一方だった。しかし、小堀は違う。100号にも迫るゼツボーグを見てきた彼には、戦いの中で死にゆく者を見届けるだけの覚悟があった。そして彼は、加山が自らの命を戦場に投げ捨てたことに異を唱えなかった。直接は聞かずとも、彼の決意をよく理解していたからである。

「……けれど、ずっと悲しみに沈んでいるわけにもいかない。私たちにはまだやるべきことがある。そのためにここに来たんだ。とりあえず、君に話したいことはふたつある」

 そう言うと、小堀はスーツの胸ポケットから三つ折りの紙を取り出し、広げて見せた。そこに書かれていた内容は、端的に言えば警察の捜査協力。情報共有と確認のため、捜査現場への立ち入りを許可するものだった。対象となる場所はふたつ。戦場となった学校と、もうひとつはこの病院の近所らしいが、見覚えのない住所だった。

 那珂畑がふたつ目の住所を気にするように目を細めた様子を見て、小堀は話を再開する。

「下の住所は、ネガトロン・ジュニアの推定潜伏拠点。つまり、三森沙紗の自宅だ。私がシロヤマに来たのは、その捜査協力のため。そして那珂畑君。ジュニアと少なからず接触のあった君にも、彼女のいた場所を見る権利がある。この家は捜査のため、家具や私物の一部が証拠として警察に押収される。その前に、なるべく生に近い状態を見てもらおうと思って、私の独断で君をここまで移送してもらった。もちろん。これはあくまでも権利であって義務や要請ではない。そして、この家もまた彼女の殺人現場だ。君が見たくなければ断ってもいい」

「殺人現場?」

 思わぬ言葉に、那珂畑は操作云々の話をさておきそのまま聞き直す。

「ああ。彼女はあの学校で大量殺人を始める前、自宅から出る直前に三森沙紗の母親を殺害している。我々の監視システムはネガリアンにしか反応しないし、ジュニアのエネルギー補給量があまりにも少なかったから、気づけなかった。もしこの時点で気づけていれば……。いや、この話はやめておこう」

 家族を殺すなど、自らの生活を守りたい沙紗から最もかけ離れた行動。やはりあの時、彼女は極限の飢餓状態にあったのだろう。察知されないほどわずかな栄養のために家族に手をかける。それが彼女にとってどれほど苦渋の決断だったか、那珂畑は想像してもしきれなかった。

 そして、もしもこの時点で気づけていれば、あの大量殺人も未然に防げたかもしれない。しかしそれは禁句。命をかけたやり取りに「たられば」などあってはならない。救えたはずの命など、後からいくらでも数えられる。

「それで、君はどうする? もちろん今すぐにとは言わない。だが、できれば今日中に決めてほしい。おそらく、あの家は捜査が終わり次第取り壊される。きっと二度と人の住まない土地になるだろう。私としては、君が立派に戦った証を、守りきれなかったものをしっかりと見てほしいんだ」

 やはり、この小堀という男、体の弱さに対して精神的に強い。いや、それ以上に那珂畑は自分の弱さに打ちひしがれた。ただ自分が死にたいという目的のために選んだ道が、こうも辛く険しいものであるなど、初めは想像もしていなかった。ただ夢を叶えることに目が眩み、大して考えることもせずふたつ返事でゼツボーグになってしまった。その結果がこの惨状である。

 那珂畑は、しばらく黙って考えた。そして、考え続けた。

「……しばらく、考えさせてください」

 この答えも想定していたのか、小堀はすぐに了承したようにうなずく。

「わかった。君の体の心配もあるしね。無理はしなくていい。私はこの後すぐ現場に入るが、まあ気が向いたら私に連絡してくれ」

 そして、紙を元通りに畳んでポケットに戻してから、彼は話を再開した。

「それと、もうひとつ。君の体にも関係することなんだけど那珂畑君、もしよければ、宇宙開発局の知覚に引っ越してみる気はないかな?」

 想定外の提案に那珂畑は少し驚いたが、考えればすぐにわかることだった。加山を失った今、残されたゼツボーグは現状自分ひとり。その貴重な人材を司令本部から片道2時間のシロヤマに放置しておくことは、かなり不安と言える。ジュニア監視の役目も終了した今、局としてはなるべく手の届きやすい場所に配置しておきたいというのが自然な考えである。そして、君の体にも関係するという発言。これはすなわち、ジュニア戦の最後に起こったゼツボーグの変化についてだろう。那珂畑自身にとっても未知の出来事。これを積極的に研究したいという目的もあるに違いない。

 また一方で、小堀が知ってか知らずか、いやおそらく知った上での提案だろうが、これは那珂畑にとっても有益なものだった。まず、ゼツボーグとして司令本部との連絡がとりやすくなること。そして、学生として宇宙開発局のあるF区域の方が大学に通いやすいという利点があった。と言うか、そもそもシロヤマは交通の便が圧倒的に悪い。同じサガミハラ市内でありながら、F区域とは天と地ほどの差である。むろん、那珂畑にまつわる場所で大学に最も近いのは、ヨコハマ市の実家なのだが。

「わかりました、引っ越しの方は俺としても賛成です。捜査の方は、また後ほど……」

 片方だけでも快い承諾に、小堀は笑顔で応えた。

「うん、ありがとう。じゃあ私は捜査の方に向かうけど、何かあったらいつでも呼んでくれ。君はひとりじゃない、私たちがちゃんとついている」

 その言葉を最後に小堀は席を立ち、椅子を丁寧にもとの場所に戻してから部屋を出た。

 ひとり残された部屋で、那珂畑は再び考えた。捜査協力のことももちろんだが、引っ越しに関しても引っかかる部分があった。

 ヨコハマから追い出されるようにひとり暮らしを初めて、1年半と少し。このシロヤマという場所に未練がないわけでもない。大学で初めてできた友人も同じ地域に住んでいた。加山に初めて出会い、ゼツボーグへの道を示してくれたのもこの場所だった。そして、今小堀が向かっている沙紗の家も同じ。

 しかし、那珂畑が心の拠りどころとしていた彼らはもういない。もはや自分だけが生きながら地縛霊のようにシロヤマの思い出にしがみつくのは、少なくとも精神衛生的に健全とは言い難い。そういった意味でも、小堀の提案は好都合だった。

 なればこそ、沙紗にしっかりと別れを告げる意味も含めて、彼女の家に行くべきだ。那珂畑はそう決心したが、今すぐこの病院を出てシロヤマの山道を歩くには、少し疲れが溜まりすぎている。彼はとりあえず小堀から受け取ったスポーツドリンクを飲み、枕元のスマホから「1時間後、三森宅に行きます」と小堀へメッセージを送った。

 そして出発時間まで休むべくタイマー設定のために時計を表示すると、時刻は10時を少し過ぎたところだった。それを見た那珂畑は色々と思うところがあったのだが、とりあえず今は目覚ましを45分後に合わせて、ベッドに戻ることにした。

 そして、再び天井を眺めながら思う。10時。ジュニアと戦ったのが日曜の午後だったから、あれから20時間近く気を失っていたのだろうか。月曜の10時と言えば、普段なら大学で講義を受けている時間。もちろん今日も普通の月曜日なので、おそらく丸一日無断欠席ということになる。このままゼツボーグとして戦い続ければ、このような日も増えるだろう。敵が都合よく休日や夜に現れてくれるなどあり得ない。むしろ加山のいない今、自分こそ常にネガリアンとの戦いに備えなければならない立場にある。

 そうなれば、大量欠席は不可避。講義について行けなくなり、進級や卒業も危ぶまれてくる。いや、今すぐにでも殺されたい自分が将来のことなど考える必要はないのだが、成績悪化が家族にばれて、理由も説明できず雷を落とされることだけは受け入れがたい。

 なればこそ、早く自分を殺せる相手を探すためにヒーロー業に専念すべきか。だが、たったひとりのヒーローがそのような体たらくで、本当に人類を守れるのか。そもそもいつ死ぬとも知れない自分がこれから長く続く多くの人生のために何かしていいものなのか。那珂畑の脳内は、まるで進学校を自称する底辺高校生のように、無意味な自問自答にすり減らされていた。やがて疲れが回って面倒になったので、那珂畑はそのうち、考えるのをやめた。


 1時間後、那珂畑は予定通り沙紗の家に向かって歩き出した。と言うか、意外にも目的地は病院のすぐ近くだったため、たまたま外にいた小堀と玄関前で合流する形になってしまった。

 小堀は周辺を警備していた警察官に声をかけ、那珂畑を中に入れるよう話す。話の内容は聞き取れなかったが、先ほどの紙からして、重要参考人とか捜査協力者という形で入ることになるのだろう。

 しかし、そこはあくまでも捜査中の殺人現場。那珂畑は事前に手袋と靴のカバー、そしてマスクを着用するよう指示され、中の物には極力触れないよう釘を刺されてから家に入る。規制線を示す黄色いテープをくぐる瞬間は、まるで自分が刑事ドラマの登場人物になったようで少しわくわくした。

 だが、目の前にあったのはドラマでも夢でもない現実。2階建ての家をひと通り見るべく最初に入ったリビングには、大きく床に染み付いた血痕と、被害者の位置を示す白いマーカー、そして証拠品があったと思わしき目印がそこら中に並んでいた。もう一晩過ぎているのに、よほど流血量が多かったのか、血と死体の臭いがする。なぜそれがそうとわかったかと言うと、那珂畑はこの臭いをよく知っていたからである。1年前のあの日、友人が自殺した時、死体の臭いは嫌が応にも彼の記憶に刻み込まれた。ゼツボーグに変身したわけでもないのに突然その記憶を叩き起こされ、那珂畑は一瞬だけ強い吐き気に襲われた。

 一方で小堀は慣れているのか、マーカーや目印をまたぐように歩いて2階への階段を目指す。

「まだ1階には見てないところがあるけど、君にとっては上の方が重要だろう。ほら、おいで」

 思わず手で口を押さえる那珂畑を落ち着かせるように、小堀は彼から離れないようゆっくりと先導した。

 そして2階。こちらは物置ともうひと部屋。小堀が重要と言っていた理由が那珂畑にはすぐにわかった。沙紗の部屋である。

「この部屋に限り、ジュニアの私物に触れてもいいと許可をもらっている。もうすでに警察が全部写真とかで記録したけど、慎重に扱うようにね。たぶん、君も色々思うところがあると思うから、まあ気の済むまで物色していいよ。私は下に戻る」

 説明を終えると、小堀は那珂畑の返事を待たずに階段を下りて行った。

 気がつけば、また那珂畑ひとり。殺人現場だの捜査協力だのと理由は複雑だが、まさかそんな理由で初めて女子の部屋に入ることになろうとは、夢にも思わなかった。もしこの場に羽崎がいたら、また「童貞ちゃん」などと煽られていたところだろう。

 リビングで嗅いだ臭いが鼻の奥にこびりついてまだ気分が悪いが、とにかく那珂畑は沙紗のいた痕跡を探し回ることにした。

 いや、探すまでもなかった。部屋の壁や本棚の上には何枚もの写真が額に入れられ、あるいは適当に画鋲で刺したり洗濯ばさみで固定するなどして飾られていた。いずれも沙紗以外は誰とも知れない顔ばかりだが、おそらくは家族や友人との写真。そのほとんどが眩しいほどの笑顔で、中には親か友人が撮ったのか、半袖Tシャツで全力疾走する体育祭と思わしき真剣な表情のものもあった。今どきの学生ならスマホの写真データでじゅうぶんな内容とも言えるが、わざわざ印刷して青春の思い出を大切に保存する、沙紗らしさがその写真たちからは感じられた。

 その時、那珂畑はふと思い出す。彼女の行動範囲は自宅と学校周辺に限定されていたこと。あたらめて写真を見回すと、その背景はいずれもシロヤマの山道やハチオウジの駅周辺、繁華街のファストフード店ばかりだった。やはり、ジュニアとしての自分ルールがこういうところにも表れていた。

 だが、たった1枚だけ例外があった。それは、勉強机の上で特に可愛らしい額に入れられたもの。どこか特別さを感じさせる配置に、那珂畑は思わずそれを手に取って凝視した。おそらくスマホの自撮り写真。その半分近くを占める沙紗の背後には、カフェのテラス席とその向こうに広がる海の景色。那珂畑はこの景色に見覚えがあった。なぜなら、それは彼女とふたりで行ったエノシマ水族館のものだったからである。よく見ると、端には何かを探すように慌てた表情の那珂畑。確かにこの時、彼は沙紗を見失って焦っていた。その一瞬を、彼女はカフェのレジに並びながら見逃さなかったのだろう。

 思えば、沙紗は水族館で一度も写真を撮る様子を見せなかった。おそらくこの1枚が、唯一の写真なのだろう。普通、水族館にデートに行ったなら、ツーショットやプリクラの1枚や2枚くらい残しておいて当然。しかし那珂畑はともかく、沙紗からもそういった提案はなかった。純粋にはしゃいで撮り忘れたとも考えられるが、その後の砂浜でのやり取り、あくまでも敵同士でいなければならないという思いが、彼女にそれをさせなかったのかもしれない。だからこそ、那珂畑に気づかれず一方的に撮ったこの1枚だけでじゅうぶんだったのだろう。いや、あるいはこの1枚ですら彼女には最後の足枷になっていたのかもしれない。

 考えれば考えるほど、彼女に何もしてやれなかった、必要な話をいくつも伝えそびれてしまった後悔に苛まれる。そして写真を机の上に戻そうとした時、彼はズボンのポケットに何かが引っかかるのを感じた。それを取り出した時、彼の精神は限界を迎えた。

 ピンク色のイルカのメタルチャーム。それは沙紗が存在した証。那珂畑とのたったひとつの思い出。

「あのバカ、どこまで俺を振り回しゃ気が済むんだよ……」

 那珂畑は歯を食いしばり、手袋では拭き取れない涙を上着の袖にこすり付けながらその場に座り込んだ。

 人は、ひとりでは生きられない。常に誰かとつながり、互いに何かしら影響を与え続けることで自我を維持する。三森沙紗は、ジュニアは、沙紗は、死んでなお、那珂畑とつながり続けようとした。人間とネガトロンの両立を欲張ったつけが、ここになお残っていた。

 那珂畑は一瞬、コピーでもいいからこの写真を持ち帰れないか考えた。彼女の想いを無下にしたくないと考えた。しかし、そうはしなかった。なぜなら、沙紗がこの写真を印刷しておきながら、学校に持ち込まなかったからである。おそらく家宅捜索で那珂畑が自分の部屋に来ることまでは想定していなかったのだろう。だからこそ、メタルチャームだけを持ち込んだ。万が一にも自分が敗北した時、それが遺品になるように、メタルチャームだけを選んで持ち込んだのだ。

 写真にはふたりの顔が写っているが、チャームにはふたりを表す要素はなく、また量産品で唯一性もない。つまりこれは決別。強欲な沙紗なりの配慮。自分のことは憶えていても、引きずることはないというメッセージだと那珂畑は受け取った。


 いずれこの家は取り壊され、殺人現場、殺人鬼の巣として二度と人が住むことはなくなるのだろう。那珂畑は結局他に物色することもなく、流すように他の部屋を見回してことを終えた。

 引っ越しについてはまた後日詳しい話をすると小堀から伝えられ、那珂畑はそのまま荷物をまとめて家路につく。そして沙紗の家が山道の向こうに消えそうになったところで、彼は一度だけ振り向いた。

「じゃあな。沙紗」

 彼が無意識に選んだのは、かつて友人が線路に飛び込む前に最期に発した言葉。彼から託されたそのひと言を沙紗に渡すことで、那珂畑なりにどこか整理がつくのではないか。そこまで深く考えていたわけではないが、それでもその別れの言葉は、彼にとってどこか清々しいものであった。

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