第一話 絶望のヒーロー
自殺も殺人も勇気だ。その人が命をかけて成し遂げた夢の形だ。那珂畑逸がそう思うようになったのは、彼が大学に入学し、人見知りながら初めての友人を作った最初の夏のことである。
その友人が、自殺した。
理由は那珂畑にはわからない。もっとも、出会って数か月の人間に自殺のサインを出すほどオープンな人間などそういないだろう。しかし彼の心境がどうであれ、那珂畑にとってひどく衝撃的な出来事であることには変わりなかった。これが彼にとって初めての、身近な人の死という体験だったのだから。
それからというもの、那珂畑は生きる目的を見失っていた。ただ学生という職業を最低限にこなしながら、その日が終わるのを待つだけの毎日を過ごしていた。いや、きっと多くの人が同じように無味乾燥な人生を過ごしているのだろう。夢など必要な時だけうわごとのように語られる妄想であり、そこに技術や才能が伴って起こる奇跡を夢叶うと呼ぶのだろう。那珂畑がそう思うようになってから、もう1年が過ぎた。
那珂畑に夢があるとしたら、誰かに殺してもらうこと。この無間地獄のような人生を終わらせてくれる誰かを彼は探していた。残念なことに、彼にはあの友人のように自殺するほどの勇気がなかった。
そして、ようやくそのチャンスが巡ってきた。ある週末の夕方、大した用もないので自宅周辺を散歩していた時のことである。
最初に聞こえたのは、近所の高校からの悲鳴だった。続いてガラスや扉が破壊されるような衝撃音。次第に悲鳴が校舎の複数個所から聞こえるようになると、そこら中から学生たちが出てきた。そして彼らを追うように出てきたのは、同じ制服を着ていながらまるで様子の違う人々だった。その顔色は血の気を感じさせないほどに青白く、両目は焦点が合わないようにどこか遠くに向いている。そして両腕でバランスを取りながら、ふらつく足で他の学生たちに向かっていく。
その光景はまるで、いつか見たゾンビ映画のパニックシーンのようであった。そして事態はその映画と同じように進行する。ゾンビのような学生たちは他の学生に噛みつきや引っかきなどの攻撃をし、深い傷を負った者から同じようなゾンビになって次の学生を襲い始める。こうしてゾンビパニックは瞬く間に高校全体を覆い尽くし、敷地を出て近所の住民たちまでに広まった。
誰かが通報したのだろうか。ことが始まって10分後には数台の救急車や消防車が駆けつけたが、すでに事態は彼らの手に負える範囲を軽く超えており、救急隊でさえも防護服をまとったまま逃げ惑うだけになっていた。
那珂畑は、その光景を黙って見ていられなかった。
「考えるより先に体が動いていた」。スーパーヒーローの素質を持つ者がここにいたら、きっと同じことを言うかもしれない。しかし、那珂畑がゾンビ軍団に飛び込んだ理由はそれとは真逆。彼らに殺してもらうためだった。
どんなに小さな夢でも、最後につかみ取るには己の努力が不可欠である。那珂畑はこの千載一遇のチャンスに、無意識の努力を怠らなかった。無防備に飛び込んだ一般人をゾンビが見逃すはずもなく、彼らは那珂畑を押しつぶすほどの勢いで襲いかかった。
しかし、ここで思い出してほしい。現実は小説より奇なり。現実は想定しうる可能性から最もつまらない結果を出してくる。
すでに無数の人間を攻撃し、その血に染まったゾンビの歯が、那珂畑の皮膚に触れた瞬間に砕け散ったのである。他のゾンビたちもめげずに、と言うよりは本能的に那珂畑を襲うが、那珂畑に触れた場所から壊れたり力を失ったりなど、とにかく一切の攻撃が通用しなかった。誰が予想できただろうか。この場で誰よりもゾンビの仲間入りを望んでいた那珂畑だけが、ゾンビに対して無敵の状態にあったのだ。よりによって、那珂畑の夢が叶う大チャンスは、彼の無傷の体とは真逆に粉々に崩れ去ったのである。
そして、事態はそこから流れるように急変する。
「やるぜ、ゼツボーグ!」
どこかからそんな声が聞こえた直後、ゾンビたちが一人の男に蹂躙された。一瞬の出来事である。正確には1分ほどかかっていたのだが、夢をくじかれた失望に茫然としていた那珂畑には一瞬の出来事に感じた。
事態がひと通り落ち着いたのだろうか。救急隊の慌ただしさが少し解消されるまで、那珂畑は立ち尽くしていた。彼が我に返るのは、隊員のひとりに声をかけられてからのことである。
「君、大丈夫かい?」
その後ひと通りの身体検査を受けた那珂畑が連れてこられた先にいたのは、先ほどゾンビ集団を一瞬で壊滅させた男だった。驚くべきことにその男は、救急用の担架に腰かけて煙草を吸っている。
「……『候補』か」
「はい。表皮に反応がありました。今のところ発症の形跡も見受けられません」
隊員はそれだけの短いやり取りの後、那珂畑を男のもとにいるよう促しどこかへと行ってしまった。
それにしてもこの男、見た目や様子からして、明らかに医療関係の者ではない。だがこの状況に関する何らかの専門家であることは確かだ。先ほどの出来事から考えると、例えばゾンビバスターとか。初めて直面する出来事の連続に混乱しかけていた那珂畑だが、その程度のことを考えるだけの余裕は残っていた。
ただ、やはり精神的にかなり疲弊していたのだろう。那珂畑はその後のやり取りをあまり憶えていない。確か男は加山とか名乗って自分を安心させるよう話しかけてくれたような気がするが、詳しい内容までは思い出せなかった。
またしばらくして救急隊が解散すると、ようやく加山も動き出した。どうやら那珂畑には彼と同行しなければならない理由があるらしい。
「ひとりか。まあ『候補』がいただけ上等だな」
加山は首回りの骨をゴキゴキと鳴らしてから、軽く伸びをして那珂畑を見る。
「歩けるか? 悪いが大事な用だ。たとえこの後お前の親友の結婚式があって、お前が友人代表のスピーチに出る予定だとしてもついて来てもらうぞ」
そして先導するように数歩歩いてから加山は再び、今度は恐る恐る那珂畑に振り向いた。
「……マジでないよな、結婚式」
そう聞かれて那珂畑の顔が僅かに曇ったのを、加山は見逃さなかった。しかし、那珂畑は何かをこらえるように空を見上げ深呼吸をし、首を横に振ってから初めて加山に作り笑いをしてみせた。
「いえ。もしかしたらあったかもしれないなって思っただけです。今日じゃないですけど」
那珂畑の足取りは、加山が不安視していたほど重くはなかった。
それから目的地に着くまでタクシーと電車を乗り継ぐことおよそ2時間。ふたりはまったく口を開くことはなかった。
ふたりが目的地、サガミハラ市F区域の宇宙開発局に着いた頃には、すでに日が沈んでいた。
那珂畑はこの施設に一度だけ来たことがある。小学生の時の社会科見学でだ。まさか理系でも宇宙オタクでもない自分が再びここを訪れることになるとは、那珂畑自身、まずそのことに驚いていた。そして次に、自分があたかも事件の重要参考人のような形で連れてこられることになるとは。彼はすでに今日中に帰宅することを断念していたが、関係者専用のエレベーターで地下5階まで連れられると知った時には、それはもはや無傷で帰れるかどうかという不安に変わっていた。
かつて社会科見学の時に那珂畑が印象深かったのは、宇宙開発局の中が思ったよりも地味だったということである。宇宙と銘打っているからには、それはもうSF映画の戦闘司令室のように、薄暗い部屋に無数のモニターや謎の配線だけがこうこうと光り、少数精鋭の科学者たちが謎の数式と戦っている光景を想像していた。しかし実際はどこの部屋も地味なデスクとパソコンだらけで、他の会社や事務所と大して変わらなかった。強いて言えば、大きな壁に無数のディスプレイが貼り尽くされていたくらいだろうか。
小学校から2時間もかけて見るものがそれだったのだから、たいそうがっかりしたのを那珂畑はエレベーターの中で思い出した。きっとこれから行くのもそんな場所なのだろう。状況が読めない以上余計なことは考えないようにしていた彼だが、わりと余計なことを考えていた。
しかし、小学生時代に砕かれた那珂畑の幼稚な妄想は、およそ10年の時を経たいま、現実となる。
地下5階。加山に連れられて入った部屋は、それはもうSF映画の戦闘司令室のように、薄暗い部屋で無数のモニターや謎の配線だけがこうこうと光り、少数精鋭の科学者らしき人々が謎の数式と戦っていた。
その中でもやはり気になるのは、奥に行くほど低くなっていく部屋の中心、いかにも司令部のような所にいる3人だった。いずれもまだ那珂畑たちにきづいていないのか、彼らに背を向けて何か話している。3人とも裾の長い白衣を羽織っているため服装では見分けがつかないが、おそらく中心にいる短い黒髪の男がリーダー的存在なのだろう。左右にいる茶色い長髪の女と、黒髪の所々に赤いメッシュの入ったセミロングの女は補佐官といったところだろうか。
「おーい。『候補』、連れて来たぜ~」
加山は入り口付近から、部屋の雰囲気にまったくそぐわないほど気の抜けた声で3人を呼ぶ。3人とも同時にそちらを振り向いたのだが、まず満面の笑みで駆け寄ってきたのは長髪の女だった。彼女は那珂畑のすぐ目の前まで来ると、とにかく顔を近づけて両手で握手をした。
「やあ初めまして! 私は羽崎京華。ここの副司令だよろしく!」
羽崎は相手の反応を待たず、やたらハイテンションで続ける。
「で、そっちの眠そうなのが総司令官の小堀誠。今は元気ないけど気にしないでね、仕事には私より熱心だから。で、隣の可愛いのが鳴島ニコ(ナルシマ ニコ)。解析官をやってもらってる。彼女は名前で呼ばれるのが嫌いだから、できるだけ解析官って呼んであげてくれ。ああ私? 私は鳴島ちゃんって呼んでる。君もちゃん付けで呼んでいいかな? 関係者とはなるべく良好な関係を作りたいんだ。まず名前を教えてくれるかな?」
「……な、那珂畑逸、です」
「オッケー。じゃあ君は今日から逸ちゃんだ」
羽崎の背丈は彼女のハイヒールを含めて那珂畑とほぼ同じなのだが、その様子はまるで何でも話したい大きな子供のようだった。一方的に話を進める羽崎に、那珂畑は何も言えずただ圧倒される。そこで、それまで入り口付近で壁に寄りかかっていた加山がようやくフォローに入った。
「おい副司令。あまり『候補』を粗末にすんじゃねえ。ちゃんと必要なことから説明しろ」
彼も羽崎の態度に思うところがあったのか、その声には先ほどよりも僅かに怒気が含まれているように聞こえた。
「ああ、そうだったね。時間も時間だし、本題に入ろう。君もわからないことだらけだろうし、私は23時になるとどうしても眠くなっちゃうタイプなんだ。健康的だろう? というわけで、ここからはお互いのために時間を有効利用しよう」
最も時間を無駄遣いしているのは羽崎だろう。というツッコミをこらえるように、加山は大きくため息をついた。
羽崎に案内されて那珂畑が入ったのは、同地下6階の小部屋。先ほどとはうって変わって、こちらは病院の診察室のように全体的に白く落ち着いた雰囲気をしている。羽崎はちゃぶ台ほどの四角い机を挟むように、ふたり分の椅子を用意しその片方に腰かけた。那珂畑も彼女に促されるまま、反対側の椅子に座る。加山は部屋の前までは付き添っていたのだが、何かを察したのか後のことを羽崎に任せるようにどこかへ行ってしまった。
「……さて。まあ状況からある程度察しはついているかもしれないが、君は私たちが求める大切な仲間候補だ。私はこれから君に協力してもらうための説明と説得をするのだが、最終的な決定は君の自由だ。断っても君が困ることは何もないと約束しておこう」
「はあ」
那珂畑の気のない返事に、羽崎は最初の一手と言わんばかりに白衣のポケットから個包装のクッキーを取り出し、彼に渡す。
「まずは状況説明だ。少し長くなるがとても大事なことだから、いちから説明させてもらうよ」
5年前、小惑星探査機ミュゼス3が、小惑星スジカワから微粒子の入ったカプセルを地球に届けた。何年もかかったプロジェクトに世間は大いに盛り上がるのだが、数日後、この微粒子が再び世間を震撼させることになる。微粒子には地球に存在しないウイルスが付着しており、宇宙開発局は解析中に多くの局員が感染。その増殖は留まることを知らず、最初の感染から3日後、日本政府は異例の速さでカナガワ県とトウキョウ都の都市封鎖を実行した。
ウイルスの性質は、知的生命体の体内で増殖し、脳を支配して感情を操作するというもの。科学衛生局はこの性質から当該ウイルスをネガリアンと命名した。
ネガリアンの脅威は洗脳に留まらない。感染の初期段階において宿主の負の感情を増幅させ、そのエネルギー、正確には脳内伝達物質を餌として増殖する。そして感染部位は脳に留まらず、最終的には全身をウイルスが食い尽くし、元の宿主と同じ姿のネガリアンになり替わるというものである。先のゾンビパニックも、このネガリアンが爆発的に拡大したことで発生したものとされる。
感染経路は空気や接触など様々であり、日常生活レベルでの対策はほぼ不可能。ただし、このネガリアンの特質に着目し、他のウイルスとはまったく違う対処法が提唱された。それは、感染以前の段階でウイルスの餌となる負の感情を持たないこと。あるいは、初期の少ないウイルスに食い尽くされないほど大きな負の感情、すなわち絶望を持つことである。現在、科学衛生局は前者を、宇宙開発局は後者を中心に対策を進めている。
宇宙開発局がこのような非人道的な対処法を研究することには、特別な理由があった。それは、5年前に最初の集団感染に巻き込まれた小堀が絶望によってネガリアンを克服し、強力な抗体を得たからである。
科学衛生局による検査の後、小堀の体内で作られた新たな抗体はアンチネガリアンと命名される。そしてこの抗体は他の免疫細胞とは異なる特性を有していた。それは、ネガリアンに反応して本体表皮に特殊な合金を生成するというものである。
科学衛生局はすぐさまアンチネガリアンの培養と特効薬の開発に取り掛かった。しかし、元が完全に未知のウイルスであったため、研究は現在も難航、ほぼ停止の状態となっている。
宇宙開発局に戻った後、小堀はアンチネガリアンを別の方法で他者の感染対策に使えないか考えた。その結果彼がたどり着いた答えは、アンチネガリアンが生成する合金で自らを武装し、手の届く範囲で人々をネガリアンから守るというものであった。
小堀は後にこの合金、またそれを纏い戦う者を絶望の戦士、ゼツボーグと名付けた。そして彼と同様の体質を持つ者は次々と現れ始め、ゼツボーグは人々を守る戦士として注目され始める。
やがてゼツボーグを引退した小堀は、宇宙開発局の地下深くにネガリアン対策本部を設立。ゼツボーグの管理や育成に注力ようになった。
なお、ゼツボーグを暴力的な事態解決に利用することは生物兵器として国際条約的なあれこれに引っかかってしまうため、日本政府は彼らを「ヒーロー」という新たな職種としてひとくくりにしている。
これが、今なお続くネガリアンとゼツボーグの戦い。そのあらすじである。
「まあ、ネガリアンとヒーローの存在は今や常識になっているわけだが。なにぶんヒーローには秘密が多いからね。……で、君の体からもアンチネガリアンが検出された。君にはヒーロー、ゼツボーグとなる素質があるというわけだ。大悟ちゃんが君のことを『候補』と呼んでいたのも、このことだね」
羽崎の話は、おおよそ那珂畑の知るところでもあった。しかしひとつ、最後のひと言だけに那珂畑は違和感を覚えた。
「いや待ってください。抗体って、俺はネガリアンに感染したことはありませんよ」
どんな小さい病気でも、かからなければ抗体が生成されることもない。確かに那珂畑は人生に絶望しているという自覚はあったが、体内で勝手にアンチネガリアンだけが生成されることはあり得ないのだ。
那珂畑の問いに、羽崎は待ってましたと言わんばかりにわずかに笑みを浮かべ、話を続ける。
「そう。そこがヒーローの、ひいては政府の秘密だ。実はこの5年の間に、ロックダウン内のほぼすべての人間が無症状で感染してしまったんだ。君にその憶えがないのは、政府が大規模な検査を禁止しているからさ。皆が感染していると知れたら、それはもう大パニック間違いなし。負の感情を餌にするネガリアンにとっても思うつぼってわけ」
政府の秘密と聞いて少し背筋が冷えるのを感じた那珂畑だったが、淡々と話す羽崎の口ぶりからしても当然の対応と言える。そして、無症状感染を絶望によって克服したことで、勝手にアンチネガリアンが生成されていたと。那珂畑の思考は、自身の思うよりも冷静にはたらいていた。
那珂畑が何か腑に落ちたのを察してか、羽崎は少し間を置いてから続ける。
「さて、話を戻そうか逸ちゃん。君にはヒーローとして、私たち人間の平和を守る素質がある。君も見たであろう今日の大悟ちゃんのようにね。しかしそれを使うかどうかは君次第だ。君には君の人生がある。私としてはぜひとも協力してほしいし、君のヒーロー活動を全面的にサポートする環境も整っているんだがね」
君次第などという言葉を使っておきながら、いよいよ羽崎は那珂畑のスカウトに踏み出した。
一方で那珂畑は話を理解こそしたものの、いざ自分がどうするかに関しては何も考えられずにいた。話の前に羽崎から受け取ったクッキーを開封もしないまま、ただ何もない一点のみを見つめるのみだった。
羽崎も強要までするつもりはないらしく、那珂畑の返事を待つように白衣からもうひとつクッキーを取り出し、今度は自分で食べ始めた。
羽崎がクッキーをかみ砕く音だけが部屋に響いた数十秒の後、彼女はそれを一気に飲みこんでから再び口を開く。
「まあ、即決はできないよね。ならば少し具体的に考えてみよう。例えばこういうのはどうかな。『ごく普通の青年那珂畑逸は、ある日謎の男に連れられて国の極秘組織に仲間入り。スーパーヒーローとなって世界を危機から救うのでした。めでたしめでたし』と。どうだい興味ないかい?」
「いや別に」
即答だった。羽崎がわざと大仰に振舞ったことで、具体的に胡散臭さが増してしまった。しかし一方で、長話のせいか那珂畑自身にも少し将来を考える余裕ができた。彼の目的は死ぬこと、自殺する勇気もない自分を誰かに殺してもらうこと。ならば、今日のようなゾンビパニックに、より強力なそれにやってもらえばいい。必要な情報はすでに羽崎からじゅうぶんに得られた。死にたがりが人の命を救うなど、自己犠牲のヒーローに対する侮辱でしかない。
逆に決意めいた那珂畑の表情に驚いたのか、羽崎は少し呆然としてしまった。そして数回瞬きをしてから、白衣の襟を直して真剣な口調に戻る。
「……さすがに冷静だね。まあ実際、5年かけて私たちが決定的な解決法を見出せなかったことからも、ゼツボーグの非力さは露見している。スーパーヒーローなんて存在しないのが現実だ」
どこか自責の念を感じるように、羽崎の様子は少しずつ暗くよどみ始めた。第一印象からそうなのだがこの羽崎という女、短気なのかひょうきん者なのか。ころころと態度を変えて相手のペースを乱している。少なくとも他人との交渉に向いている性格には見えない。
「確かに、ヒーローってのはデリケートな仕事だ。世間から賞賛される一方で、必要とあらば生きた人間を殺さなければならない時もある。そして人間である以上できる範囲にも限りがある。救えなかった人たちからの非難も絶えない」
もはやスカウトを諦めたのか、羽崎は先ほどまで真っすぐに那珂畑に向けていた目を伏せていた。まだ何もしていない、それどころかやる気のない青年に何を懺悔しても意味などないというのに。
「そして何より、自分の命を投げ出す選択を迫られることもある」
羽崎が「あるだろう」ではなく「ある」と断言したということは、それらがこれから確実に起こるという宣告と捉えていいだろう。しかし、この一言が、死の危険性という普通なら何よりも受け入れがたいたったひとつの条件が、那珂畑の感情を根底からひっくり返した。
「それでもなお、君がその素質を皆のために活かしてくれると言うのなら……」
「望むところだ」
どんなに小さな夢でも、最後につかみ取るには己の努力が不可欠である。あのゾンビパニックに飛び込んだようにより危険な戦場に行くことができれば、殺される可能性などいくらでもある。人助けだ世界の危機だと言っている場合ではない。夢を叶えるためなら藁にもすがれる。それが人間の強さだと言うのなら、那珂畑の強さを活かすのにこのヒーローという仕事は最高の環境と言えた。
「……え?」
まったく予想外の反応に、羽崎はしばらく言葉を失った。彼女が俯いたまま見上げた先では、強く立ち上がった那珂畑がクッキーの封を開けていた。
「やりますよ、ヒーロー。今日みたいに、皆を危険から守りたい。そのために仲間はひとりでも多い方がいい。俺をスカウトするのもそういうことですよね」
まったくの嘘だ。しかし、夢とはあらゆる綺麗事や幻想を乗り越えた先にあるもの。死ぬためにヒーローになる。それこそが、今の那珂畑にとって最も現実的な方法だった。あのゾンビパニックから自身を守ったアンチネガリアンという素質が、彼を更なる死へと突き動かした。
「戦わせてください。一緒に」
座り込んだままの羽崎に手を差し伸べながら、那珂畑はこう考えた。
俺より強い奴に会いに行く。某格闘ゲームのキャッチコピーのような決意が、彼を本作の主役たらしめた。
かなり遅れたが、ここで説明しておこう。この物語は、那珂畑逸がヒーローとなり、死地を求めて魑魅魍魎渦巻く戦場に飛び込む物語である。ひとつだけ結果を言うと、この選択が彼にとって最悪なものとなるのだが、彼自身がそのことを知るのはまだ少し先のことである。




