第十五話 スタートダッシュ・キャンペーン! ハチオウジ決戦・その一
説明しよう。これまで対処法がなかったため放置されてきた、いわゆる指定監視ネガトロン、個体名ジュニア。三森沙紗になりすまし、4年にわたって殺人を繰り返してきたにもかかわらず、擬態能力によってその罪を立証できず法律と人情に守られ続けてきた存在。そんな怪物の討伐作戦が、ついに決行されようとしていた。
きっかけは、昨日の那珂畑による現地調査、およびジュニア本人との接触である。彼女がこの1週間誰も殺さずに衰弱していること、そして那珂畑の右腕が順調に回復していることから、小堀ら司令本部はこれを絶好の機会と判断した。
那珂畑が骨折した際に羽崎が軽く説明していたが、ゼツボーグの合金は本人の体内にも影響を及ぼす場合がある。特に骨折に対しては、修復部位を合金で繋げることで仮止めし、回復を促進させる効果がある。そうでなくとも、仮止めが完了した段階である程度の運動は可能になる。
そして作戦の内容だが、いつも通り出撃するのは那珂畑ひとりだけ。加山は他の通報に備えて本部に待機となる。監視システム総動員でジュニアの位置を特定し、那珂畑が接触。右腕がまだ使えないと装っての騙し打ちから戦闘開始となる。
最終的にジュニアがネガトロンとして崩壊していく様子を録画できれば、少なくとも那珂畑が三森沙紗を殺したという結果にはならない。三森沙紗がネガトロンであるという証拠さえ手に入れば過程は関係ないのだが、これまでは勝利を確信できる条件が揃わず、実行に移せないでいた。
作戦開始時刻は、ジュニアの部活見学を想定して18時以降に決定した。早くとも16時にしてほしいという加山の要望から決まったのだが、この男、間違いなく今日の造花賞を見てから仕事にかかる気でいる。この期に及んでやはり加山はクズである。
千載一遇のチャンス。宇宙開発局、ひいては人類の未来が、今まさに那珂畑のゼツボーグに委ねられていた。
12時。作戦開始時刻まで、那珂畑は加山と共に局内で待機することになった。相手に気取られないためにも、先回りするわけにはいかない。戦場がシロヤマかハチオウジのどちらになるにしても、ジュニアには偶然の遭遇を装う必要があるからだ。
「……緊張するか」
司令本部壁面の大型モニターを凝視する那珂畑に、加山が隣で声をかける。那珂畑が声の方を見ると、食っとけと言わんばかりに、プロテインバーが差し出されていた。
那珂畑はそれを受け取りこそしたが、とても食べる気にはなれなかった。
「それはもう、めちゃくちゃに緊張してますよ」
緊張だけではない。果たして今のジュニアを一方的に殺していいものか。あれほど自分に心を許した相手を、自分はこれから騙し打ちで殺さなければならないのか。ジュニアが万全の状態であれば自分が殺されるチャンスだったのに、それを自らふいにしていいのか。彼は作戦への緊張以上に、誰にも打ち明けられない不安で逡巡していた。
「安心しろ。いざとなったら俺が小堀を殴り倒してでも駆けつけてやる。それにお前が強くなってるのも本当だ。大先輩の俺が保証するから、お前は堂々とぶつかってこい」
明らかに小堀にも聞こえる声量だったが、那珂畑を元気づけるためか、加山の言葉に小堀は何も反応を示さなかった。
大型モニターには、いつも通りロックダウン内の地図、そしてジュニアの活動範囲を拡大したものが表示されている。特に今回は周辺の感知システムもすべてジュニアに集中させ、さらに警備会社にも侵入して情報を得ているため、かなり詳細にジュニアの動向が確認できる。少なくとも、今のところジュニアは三森沙紗の自宅から動いていない。那珂畑が少し寒気を感じたのは、彼女が屋内のどの部屋にいるのかまで正確に把握できるという点だった。作戦のため、ネガリアンにしか効果を発揮しないものとはいえ、プライバシーのかけらもない。この技術がいつか犯罪に利用されないことを願うばかりである。
12時30分、ジュニアの位置を示すマーカーが自宅の敷地を出て、バス停に向かって動き出した。
「ターゲット、外出。想定パターンA、部活動見学に向かうものと思われます」
局員の報告が、マイクを通して司令本部全体に伝わる。この時点でインカムを付けていた那珂畑にだけ、その声はしっかりと二重に聞こえた。
13時45分。突然、司令本部各所のブザーが鳴りだした。
「何事だ!?」
小堀、羽崎、そして鳴島がすぐさま情報整理に動き出す。
「警察への通報多数! 場所は、ハチオウジ市M区域。学生が刃物を持って暴れていると……」
「そんな、まさか……!」
小堀がハチオウジの地図をさらに拡大させる。そこでは、三森沙紗の通う高校の中でジュニアの反応がみるみるうちに増大していく様子が表示されていた。
ジュニアが、殺人を再開した。それも白昼堂々、自らの学校で。そしてこの増大スピード。すでに被害者数は10人を超えていると考えていいだろう。まったくの想定外。彼女の擬態能力をもってすれば警察に捕まることはないにせよ、これほど目立つ行動は今までなかった。
「ゼツボーグ98号、緊急出動! 監視ドローンも出せるだけ出せ!」
小堀が言い終えるのを待たずして、那珂畑は地上へ向かうカタパルトに走った。そしてどちらが先か、司令本部内の照明が緊急事態を示す赤に切り替わる。
『緊急出動ハッチ、開きます』
那珂畑はハッチの向こうからわずかに地上の光が差し込んだのを確認すると、カタパルトの発射を待たず、その急斜面を駆け上がった。何度か足が滑って落ちそうになったが、それでも彼は構わず走った。
『那珂畑君、こういう時こそ落ち着くんだ』
インカム越しに小堀から声がかかった時には、すでに那珂畑は開きかけのハッチをこじ開け、地上に出ていた。だが、落ち着けと言う小堀の声も、冷静さを欠いていた。
ジュニアが本当に1週間、誰も殺さずにこの事件を起こしたのなら、想定されるのは飢餓状態からの暴走、暴食。その脅威度は普段の同一個体をはるかに上回る。例えるなら、冬眠し損ねて気性が荒くなったヒグマのようなものだ。那珂畑の防御力をもってしても、まともに相手できるかどうかというレベルの問題である。
確認する限り、被害は学校の敷地内に留まっているが、それだけでも被害者数は増え続けている。このままジュニアが外に出たら、過去最悪のネガトロン事件になりかねない。小堀は歯を食いしばり恐怖に震える体を押さえながら、各所に指示を出し続けた。そしてもちろん、那珂畑にも。
『那珂畑君、たった今、M区域全域に避難指示を出した。これから電車もタクシーも通らない状態になる。悪いけど君にはM区域手前で電車を降りて、走って現場まで向かってもらう。事態が事態だ、区域内でのゼツボーグ使用も許可する。状況はすでに最悪と言っていい。作戦もとっくに破綻している。とにかく気をつけて、相手はもはや今までのジュニアではない!』
早口でまくし立てる小堀の声が、状況の深刻さを克明に伝えた。
いつだったか。ヒーローは遅れてやってくるのではない、ヒーローが先着して周囲に不安を与えてはいけないと那珂畑は学んだ。しかし、今まさに取り返しのつかない遅れが刻一刻と状況を悪化させている。
だが、これは視点を変えれば那珂畑にとってチャンスだった。ジュニアが強くなっている。小堀がここまで不安を感じているなら、彼女の力は自分の防御力を上回るのではないかと。すでに起こってしまったことは仕方がない。必要な犠牲と冷たく割り切ることもできる。あくまでも那珂畑の予想のひとつだが、ジュニアは彼を殺すために、強引な手段でパワーアップを試みたのではないだろうか。
M区域手前。電車を降りた那珂畑の口元は、引きつりながらも笑みを浮かべていた。
時は遡り、同日12時頃シロヤマ地区。三森家はいつも通り昼食の準備をしていた。日曜日は沙紗の父親も同席するのだが、今日に限っては「造花賞の応援に行く」と、どこかの競馬施設に出かけてしまった。結果、今回も母娘のふたり。今作ではもはや恒例となった三森家の食卓に、食器や料理が並べられた。
相変わらず、ジュニアの表情は暗い。母は何か言いたそうに何度も彼女に視線を向けるが、昨日彼女が帰宅した時、いい気晴らしになったと言われたので、それ以上の話を切り出せずにいた。
「……ほら、ご飯食べて、元気出して!」
それでも娘の心身の健康のため、母は作り笑いでも明るく振舞って見せた。
「うん、そうだね。いただきま……」
そう言ってジュニアが箸を持とうとした時、その片方を床に落としてしまった。
それは、ごく短い時間の出来事だった
カツン、と軽い音が部屋に響いた。
ジュニアが手元を見ると、昨日の確認で傷ついた右手が治っていない。それに、手に力が入らなくなっていた。
「沙紗……?」
母が心配そうに声をかける。
ご飯を食べれば元気が出る。この母親は正しかった。きっと三森沙紗にとっても良い母親だったのだろう。そしてジュニアにとっても、勘違いとは言え頼れる理解者だった。
思えば、ジュニアが那珂畑にどう接するべきか。迷う心の糸口を、母は示してくれた。背を押してくれた。失敗してもいいと、勇気を与えてくれた。
そしてそれらは、4年間積み上げてきた信頼関係は、ジュニアの母に対する感謝は、食事というあらゆる生き物が共通して持つシンプルな行動原理に集束した。
ご飯を食べて、元気を出そう。
「……もう、限界だ」
ジュニアは食材の並んだテーブルに乗った。白米の盛られた茶碗を踏み砕き、最短距離で母に接近した。そして、擬態能力で右手に小さなナイフを生成。エネルギー不足でその形はあまり整っていなかったが、母の肩口に根元まで突き刺さったという結果から、その殺傷力がじゅうぶんであることが証明された。
致命傷にはつながらない、ただの大怪我。母は痛み以前に状況に脳の処理が追い付かず、口を大きく開けたまま目を白黒させていた。
三森沙紗を模倣したこととこれまでの経験から、どこを刺せばどうなるか、ジュニアはよく理解していた。気管をわずかに傷つけ、大声を出そうとすれば更なる激痛が発生する刺し方。想定通り、母は大きく息を吸いかけて、苦痛のあまり両手で首元を押さえた。
愛する娘に突然刺された。ジュニアが次のナイフをより大きく美しく生成するのにじゅうぶんな栄養が、この一撃で得られる。しかし、それは言ってしまえば非常食。それまで守り続けてきた三森沙紗の生活を捨てて手に入る、最高にして最後のひと口だった。
「沙……紗……?」
母はうずくまったまま、目線だけを正面のジュニアに向ける。最愛の娘は、すでにもう一本のナイフをその手に構えていた。
「ごめんね、ママ」
ジュニアは栄養を残さず取り込むため、ナイフをテーブルに置き、母の顔を優しく持ち上げて目を合わせる。だが、どちらが先に気づいたか、涙を流しているのはジュニアの方だった。
「僕は沙紗じゃない。4年前の高熱で、沙紗は死んだんだ。それからずっと、僕が沙紗になり替わってた」
最悪の裏切り、最悪の告白。ジュニアはこれを打ち明けることで更なる栄養補給を試みたが、意外にもその時母から得られた栄養は少なかった。代わりに母は、ナイフが刺さったままの体で、震える両手で、ジュニアの体を抱きしめた。
「ありがとう」
「えっ……?」
それは、ジュニアの想定から最も外れた感謝の言葉。力のない母の体は、ジュニアに2本目のナイフを使わせるのにじゅうぶん過ぎるほど隙だらけだったが、ジュニアはそれができなかった。決して母に拘束されていたわけではない。突然体が動かなくなったわけでもない。ただ、ジュニアの意思が、母にとどめを刺すことを思いとどまらせたのである。
「ずっと、沙紗の代わりをしてくれたんだよね……。ママは、それが嬉しい。ありがとう。ありがとうね……」
ジュニアは気づいていないが、ネガリアンの塊であるネガトロンと4年も共に暮らしていれば、重度の感染で心身に多大な悪影響が発生するのが普通である。しかし、母にはそれがなかった。この4年間、何も変わらず、何が変わったとも気づかず、ごく普通の生活を続けていた。
そして、母からの栄養が想定より足りなかった理由に、ジュニアはようやく気がついた。それは、娘への信頼、母の愛。たとえなりすましの偽物であっても、存在しないはずだった4年分の幸せを与えたジュニアに、母は感謝の感情でいっぱいになっていた。
そして、気がついた時には母の腕はジュニアから離れ、その体はバランスを崩し椅子ごと横に倒れた。
ジュニアは、しばらく動けなかった。栄養が足りなかったからではない。彼女はこの時初めて、人を殺したことを後悔していた。最も殺してはいけない相手を殺してしまったことに、自分への愛を壊してしまったことに、彼女は後悔の涙を止められなくなっていた。
床に倒れた母は、まだわずかに意識が残っていた。当然、最初のひと刺しだけでは内出血による重いショック症状だけで、即死には至らない。しかし深い傷と激痛に苦しむはずのその顔はどこか穏やかで、浅い呼吸の中には「ありがとう、ありがとう」とひたすらに同じ言葉を繰り返していた。
ジュニアは涙を拭わず、鼻をかむこともなく、テーブルから降りて2本目のナイフを手に取った。そして数秒ほど母の様子を見てから、その首にある頸動脈だけを正確に切断した。彼女がそれまで一度も試したことのない、知っている中で最も優しい殺し方。
母は首の傷口から大量の血を流し、そのまま息絶えた。
「ごめん。ごめんね、ママ……」
ネガトロンに、ネガリアンに親と呼べる者は存在しない。しかしこの時だけは、ジュニアは心から目の前の死体を自分の母親だと認めていた。
「ごめんね! ごめんなさい! ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!!」
そして、すでに亡くなった母の体を、何度も刺した。叫ぶように謝っては刺し、叫びながら刺し、刺しながら叫ぶように謝り続けた。
ネガトロンは、人間の肉を好んで食べない。だから彼女の行動はもはや食事でも殺意でもなく、ただの錯乱だった。しかしただ一点、心まで返り血に染まりゆく中で、冷静に留まり続ける感情もあった。
終わりにしてほしい。
水族館に行った時、ジュニアは心の底から人間として幸せを感じていた。だから、彼女は砂浜で終わりにしたくないと言った。しかし、加山の正体を晒すことで無理やり打ち切ったはずの時間は、彼女の中でまだ続いていた。1週間が経っても、母親を殺しても、まだ那珂畑への想いが尽きることはなかった。
だから、今度こそ純粋に敵として、最悪のネガトロンとして殺してほしい。あるいは那珂畑を殺すことで、自分では止められない想いを止めたい。その一点のみにおいて、ジュニアの思考は、行動は冷静で的確だった。
彼女はまるでそれまで必死に動いていたエネルギーを使い果たしたかのように手を止め、ナイフを刺したまま母の側を離れた。そして自室へ戻り、返り血と肉片で汚れきった服を脱ぐ。肌に付着してしみ込んだ部分は、ウイルスを細かく動かすことで体外へと排出した。
ジュニアの次なる目標は、那珂畑に見つけてもらうこと。どちらかが死ぬまで、全力で戦うこと。そのために、彼女は人間らしく玄関から家を出た。
12時30分。ジュニアの精神的な乱れに、宇宙開発局はまだ気づいていない。




