第十四話 確認の時間
説明しよう。ネガトロンは、元になった人間の記憶を引き継ぎ、その性質に見合った能力を手に入れる。現在、対処不可能と判断され那珂畑に監視されているネガトロン・ジュニアの能力は擬態。外見や声、匂いまでも自由に化けることができる。だが、ジュニアの元になった三森沙紗が強い変身願望を持っていたかと言うと、そうではない。彼女の擬態が持つ本当の力、そしてその意味を知る者は、もはや誰もいない。
エノシマ水族館でのジュニア監視任務から、1週間が経った。その間、小規模な感染報告は複数あれど、各地のネガトロンに目立った動きはない。那珂畑が気になったのは、もちろんジュニアの住むシロヤマとハチオウジだった。あれ以来、ジュニアが彼の前に現れることは一度もなかった。
ジュニアとの初接触以来、那珂畑は該当地域の殺人事件や行方不明の件数をよく気にしていた。むろん、それは彼が始める前から宇宙開発局が打倒ジュニアに向けて続けていたことだが、彼女が1週間と何も行動を起こさないことは珍しい。以前は警察に発見されなかったケースもあったが、那珂畑を含む厳戒態勢の中でこれほど穏便に過ごしていることは、逆に何か悪い予兆を感じさせる。
具体的には謎だが、ジュニアが何らかの準備をしている可能性がある。小堀は那珂畑に、ジュニアの通うハチオウジ近辺まで巡回範囲を広げるよう命じた。目的はあくまでも一般人として、ジュニアの行動の痕跡をいち早く見つけること。那珂畑は彼女の通学時間を避け、同じ経路でハチオウジまでの往復を試みることにした。
だが、この判断は彼らにとって、ジュニアにとっても手遅れだった。
ジュニアは那珂畑と水族館に行って以来、誰も人を殺していない。いや、そもそもネガトロンが生きていく上で殺人は必要ないのだが、彼女が好き好んで続けていたはずのことが、あの日以来できなくなった。
ジュニアには、その理由に心当たりがあった。確かに、こんなことを続けていれば腹は減るし、求めていた幸せな生活から遠のいていく。しかし、誰かを殺そうと決めた時、脳裏に那珂畑の姿が、ヨシ君とミー子の写真が、それまで殺してきた多くの人間が蘇り、彼女の動きに邪魔をする。それまで考えもしなかった、あるいは考えるほど殺人欲が高まっていたことが反転したように、殺人に対する抵抗感が芽生え、強まっていった。
そして、生き物の不調はその態度や表情にわかりやすく現れる。彼女は学校で暗い顔をすることが多くなり、放課後の部活見学にも行かなくなった。クラスメイトや友人には「ちょっと進路のことで悩んでる」と誤魔化したが、実際のところは彼女自身にもよくわからなくなっていた。那珂畑を殺すために始めた部活見学なのだから、彼を殺したくなくなれば、もう行く必要はない。だが、それだけでは説明のつかない何かが、彼女の脳内には渦巻いていた。
進路、という表現はあながち間違いでもないのかもしれない。普通の高校生なら進学や就職への不安について吐露するところだが、ネガトロンとしてはある意味それ以上の死活問題。今の状態でどのようにかつての豊かさを取り戻すか。このままでは、那珂畑を殺すという約束を果たせず、一方的に自分が餓死しかねない。現実は想定しうる可能性から最もつまらない方向へ動くと言ったが、彼女はそれだけは避けたかった。
そして、ジュニアの異変に気づいているのは、最も身近な家族も例外ではない。三森沙紗の母親も、娘がどこか不安そうにしているのを見逃さなかった。
「……紗、沙紗!」
「……あっ! なっなにママ?」
普段と変わらない土曜の昼食。ジュニアはひと口かじった沢庵を箸で摘まんだまま、明後日の方向を見ていた。それを母のひと声で呼び戻される。
「もう、最近また浮かない顔してるじゃない。そんなんじゃ、彼氏君にも心配されちゃうよ?」
「いや、だからそういうんじゃ……」
母の中では、すでに沙紗が那珂畑とうまくいっている前提で話が進んでいるらしい。この娘にしてこの親ありと言うか、ジュニアに負けず劣らず思考が一方通行な母親である。
「何があったか細かいことは聞かないけど、ずっとそんな顔されたら、まるでママのご飯が美味しくないみたいじゃない」
ジュニアがふと手元を見ると、皿に盛られた肉野菜炒めがほとんど手つかずで放置されていた。彼女は慌ててそれをかき込んで食べる。
「いやいや、そんなことないよ。うん、おいひいおいひい」
人間の料理の味など初めからわからないので、この手の演技は得意だった。しかし、強引に頬張る娘の顔を見て、母はため息をつく。
「……後片付けは私がやるから、それ食べたらどっか出かけてきたら? 宿題もそんなに溜まってないんでしょ? たまには気晴らしにでも行ってきなさいよ」
気晴らしという話であれば、先週の水族館でじゅうぶん達成できたはずなのだが、まあ母の言うことにも一理ある。基本的に通学以外の外出は殺人のための深夜帯に限っていたので、週末の昼間に出かけることはあまりなかった。今は特に行くあても思いつかないが、もしかしたら何か別の刺激、新しい殺人衝動が生まれるかもしれない。
考えてみれば、今までそうしていた影響で、昼間は宇宙開発局や那珂畑の監視も弱まっている。それはそれでチャンスではないか。空腹のせいかあまり積極的な気分にはなれなかったが、ジュニアはとりあえず外出することにした。
ハチオウジ駅。ジュニアは何となく降り立ったはいいものの、そこからどこへ行けばいいのか迷っていた。
そして意外なことに迷子は、よりによって最も遭遇したくない迷子は同じ場所にいた。
「んと、あいつの高校は確か……。あれ、この地図どっち向いてんだ?」
那珂畑逸。彼は相変わらず右腕を固定したまま、左手でスマホの地図を見ながら右往左往していた。歩きスマホはやめましょう。
「あっ」
「あっ」
ジュニアは思わず声を出してしまった。それにネガトロンの気配を察知したのか、ふたりが互いの存在に気づくのはほぼ同時だった。
しかし、那珂畑の方が一瞬先に動いた。ジュニア関連の情報を探すはずが、まさかご本人に遭遇するとは。この機を逃すまいとジュニアに向かって走る。
一方で、ジュニアも那珂畑に向かって走った。互いに相手が逃げることを想定していたのか、ふたりはあわや改札前の人ごみの中で衝突事故を起こす寸前まで接近してしまった。いや、仮に衝突したとして、おそらく那珂畑の自動防御でジュニアが爆散していただろう。
「おおおおいおいおいおいおい」
ふたりは同時に急ブレーキをかける。やはり接触の危険があったのか、那珂畑の右腕が黒く変色していた。
「や、やあ逸君」
「おおおう沙紗。水族館以来だな」
とりあえず人前では普通の人間同士ということになっているので、ふたりとも尋常でない量の冷や汗を流しながらあいさつを交わす。
「ていうか逸君はどうしてこんなところに……?」
まだ怪我も癒えていないので先制攻撃に来たとは思えないが、シロヤマ以外の場所で遭遇するのは初めてなので、さすがのジュニアもたどたどしくなってしまう。だが、その質問で本来の目的を思い出した那珂畑は落ち着いて答えた。
「いやその、ここ最近、妙にお前が静かにしてるから、何かあったんじゃねえかって気になって」
あらためて言葉にすると、まるでストーカー。いや付き合っている相手と仮定すれば、彼氏としてなくはない動機と言える。しかし那珂畑がジュニアに接触するのはともかく、ジュニアの方が逃げなかったのはどう考えても不自然だった。
「お前こそ、なんで逃げねえんだよ」
まさか、こんな大衆の面前で決戦を始めようという気がないことは互いに理解している。だからこそこうして普通に言葉を交わしているのだが、ジュニアはそもそもここに来る理由からして何も考えていなかった。那珂畑に近づいたのも、言ってしまえば無意識の行動だった。だから、ジュニアは少し考えてから口を開く。
「……ちょっと、確認したいことがあってさ」
「確認?」
那珂畑が聞くが、ゼツボーグとネガトロンのやり取りをこんな所で始めるわけにはいかない。ジュニアは場所を変えることを提案した。
「ここで立ち話もなんだし、ちょっと歩こうか。僕の学校を探してたんでしょ? いいよ教えてあげる。近くの公園で話そう」
まさか目的地までばれていたとは。那珂畑は恥ずかしげに頭をかきながらも、案内人がいることに越したことはないと、ジュニアに付いて行くことにした。
駅から徒歩20分ほど。平日であれば通学用のバスが往復しているという場所に、ジュニアの通う高校はある。周辺は繁華街と住宅街に挟まれ、この立地条件だけでもいかにも青春といった雰囲気を醸し出していた。
そして、さらに住宅街方面へ5分ほど歩いた場所。マンションが乱立するエリアに、それらの隙間を埋めるような小さな公園があった。週末は住民がもっと賑やかな所に行くのか、ふたりが付いた時そこには誰もいなかった。
ふたりは公園奥のベンチに並んで座る。那珂畑の目的はもはやじゅうぶんに達成できたので、彼はジュニアの話から聞くことにした。
「……で、確認ってなんだよ」
水族館での最後のやり取りは、加山の本性についてだった。それを受けての確認となれば、少なくとも穏やかな話ではないだろう。那珂畑の声はそういった警戒を孕んでいるのか、少し低くなっていた。
しかし、ジュニアは作り笑いしつつ胸の前で両手を振って悪意はないとアピールする。
「いや、たいしたことじゃないんだ。水族館でやりそびれたことがあってさ。ちょっと失礼」
ジュニアは立ち上がり、那珂畑の正面で彼を見下ろす。そしてゆっくりと、怯えるように右手を彼の方に伸ばした。
ジュニアの手が近づくにつれて、那珂畑のゼツボーグが体の正面に黒い鎧を作り始める。それでもジュニアは動きを止めない。やがて彼女の指先が那珂畑に触れると、ジュニアはすぐに手を離した。まるで静電気でも走ったような反応だ。
「……やっぱりね」
「いや、だからなんなんだよ」
ジュニアはゼツボーグによってわずかに焼け爛れた指先を見て、ため息をつく。ネガリアンがゼツボーグに触れれば、細胞が破壊され形を保てなくなるのはごく自然なこと。ジュニア程のネガトロンがわざわざ確認するまでもないことのはずなのだが、彼女の反応は当たり前ではなく、むしろがっかりといった様子だった。そして崩れかかった右手をパーカーの袖に引っ込めると、彼女はベンチに戻った。
「逸君、君と僕が初めて会った時のこと、憶えてる?」
「あっああ。お前に捕まって、ナイフで刺されるところだったな」
突拍子もない質問に那珂畑は少し驚いたが、その後は冷静に答える。
「そう。あの時僕は君を捕まえたんだ。後ろから抱きつくようにね」
ジュニアが気になっていたのはそこだった。あの時は全身隙だらけの那珂畑を簡単に捕まえることができた。しかし今は、いや水族館の時からすでに状況は変わっていた。那珂畑のゼツボーグは、敵意の有無にかかわらずネガリアンが触れただけで反応する。それも服や包帯の上から覆うように出てくるので、今や那珂畑はジュニアが文字通り指一本触れることのできない無敵状態となっていた。
「君は成長したんだ。あの時はゼツボーグになりたてだったからうまく扱えてなかったみたいだけど、たぶんあのネガテリウムと戦ったからかな、うん、とても強くなってる」
ジュニアが今の接触でどう成長を見たのか、那珂畑にはよく理解できなかった。まあ確かに加山との訓練やマンションとの戦いを通して、少なくともゼツボーグ初心者ではなくなったと自負してはいたが。
那珂畑が根拠のない自信に少しだけ胸を張る一方で、ジュニアは再び大きくため息をついた。
「それなのに、僕は何をやってるんだか」
「どうした?」
那珂畑が横を見ると、ジュニアの横顔は悲観か憔悴か、ひどく落胆しているように見えた。
「あれから僕、誰も殺してないんだ。いや、殺せなくなっちゃったんだ」
那珂畑には、彼女の言うことが本当かどうかわからなかった。しかし、この1週間で被害者らしき通報がないことと辻褄はあっている。
考えてみれば皮肉なものだ。失うばかりの人生に嫌気がさして、誰かに殺してもらうことを望んだ那珂畑。しかし、今その目的に最も近いジュニアが彼を殺すためには、より多くの他人を殺さなければならない。
単なる敵同士だったはずのふたり。しかしその関係は、互いの目的によって複雑化し、ついに破綻の時を迎えようとしていた。
「僕、人間が好きになっちゃったみたいでね」
ジュニアの確認、それは彼女の想いを口に出すことで、自分の本心を問い直すことだった。本当にそれでいいのか。自分は、那珂畑はこの状況を認めてくれるのかと。
いや、正確にはジュニアが好きになってしまったのは人間そのものではない。那珂畑のことである。それまでさんざん振り回しておいて、母に背を押されて、カップルのふりまでさせて、そして今になって彼女はようやく気づいた。
思えば、初めて会ったあの時からことは動き出していた。自ら素性を明かしたこと、秘密の共有。ジュニアにとって殺せない相手である以上に、勢い余って口走ったことが、それまで順調にはたらいていた彼女の歯車を崩壊させた。
決して見返りを求めていたわけではない。しかしこの時点で、彼女は那珂畑に心を許してしまった。何を話しても、何を思ってもいいと思ってしまった。だから、彼のために殺してあげたいという異例の目的までもが発生してしまったのである。
水族館でもそうだった。あくまでもカップルのふりという建前で、ジュニアは那珂畑との時間を心から楽しんでいた。その時だけは、彼と同じ人間でいられた気がした。だから、彼に宇宙人扱いされたことが少し悲しかった。だがそれが逆に、ジュニアを冷酷なネガトロンに引き戻した。
そして今、ジュニアは自分がどちらなのか、三森沙紗なのかネガトロンなのかわからなくなっていた。だから、最も信頼できる相手、すなわち那珂畑に委ねたかった。今なら、彼が応援してくれれば誰でも殺せる気がした。
「このままだと、きっと僕は君を殺せない。どうしたらいいんだろ」
明らかに涙混じりの震えた声。那珂畑は思わずジュニアの方を見たが、キャップを目深にかぶって目元を隠す彼女を直視することはできなかった。
本心を言うなら、那珂畑は自分を殺すために何でもやってほしい。しかし、ヒーローとしての自覚が、加山を見届けるという決意が、最終目的を遠ざけた。自分を殺すのはジュニアでなくてもいいと、そう考えてしまった。
「知るかよ。お前が弱ってるなら、俺たちがお前を殺すだけだ」
「……そう、だよね。うん。言ってくれてありがとう」
まるで失恋の涙。しかしこれが本来のふたりの関係。ゼツボーグとネガトロン、決して相容れない種族の壁を、ジュニアはようやく思い出せた。
そして今度は、那珂畑になら殺されてもいいと、ジュニアの方から考えるようになった。
曲がりに曲がったふたりの決戦は、それまでの関係を否定するように、極めてシンプルな理由で始まろうとしていた。




