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第十話 水族館に行ってみよう デート作戦・その二

 説明しよう。人間にとって何よりも恐ろしいことは、日常である。日常とはすなわち習慣、慣れとも言える。どんな過酷な環境でも、長続きしてしまえば人々の感覚はそれに適応し、それぞれの尺度に当てはめて日常に変換してしまう。5年前にトウキョウ都とカナガワ県がロックダウンされた時、それはもう大変な騒ぎだった。しかし今となっては大きな状況の変化がないにも関わらず、人々は以前の平穏な暮らしを取り戻している。ヒーローの存在が多少影響しているのかもしれないが、それでもネガリアンの脅威は依然として継続している。

 ヒーローとネガリアン、彼らの命がけの戦いすら日常茶飯事として日常の中に取り込み、ほとんどの人々は今日も平和に過ごしていた。


 ハチオウジ市の繁華街で死体が発見されたことは、ヨシ君の死から数時間と待たず各所に報道された。もちろん、宇宙開発局もこれを見逃すことはできず、翌朝の招集はこの事件に関する話から始まった。

 場所と状況からして、ジュニアの仕業であることは誰の目にも明白だった。しかしやはり、犯人の特定ができない状態で三森沙紗に扮したジュニアを直接攻撃するわけにもいかない。那珂畑はあらためて、彼女との継続的接触を命じられた。

 そして、ほどなくしてその機会は訪れる。那珂畑が大学から帰る途中、もはや恒例となったバス停付近でジュニアは待っていた。彼女も学校帰りなのか、初めて見るブレザー姿をしていた。ついでに、それまでキャップで隠れていた彼女の髪も露わになっている。肩まで伸びたストレートの黒髪。普段は結んでキャップの中に隠していたのだろうか。

「やあ逸君、待ってたよ」

 相変わらず、ジュニアは気さくに話しかける。那珂畑は昨晩のことを思うと今すぐにでも彼女を倒したいほどの怒りに震えたが、まだ攻撃するわけにはいかない。たとえ攻撃の許可が出ていたとしても、まだ右腕がギプスに固定された状態ではまともな戦いにすらならないだろう。

「……さすが殺人鬼。よくもその面で現れやがって」

 那珂畑は身動きこそ冷静さを装っていたが、その言葉はあまりにも荒れていた。

「いやな言い方するなあ。前にも言っただろう? 僕だって幸せに生きたい。それに君を殺すためにはまだまだ強くならないといけない。食事以外にたくさん理由のある、実に有意義なことさ」

 話しながら、ジュニアは通学鞄を漁り始め、しばらくしてその動きを止めた。

「それに、今日は君のためにもいい提案を持ってきたんだ」

 ジュニアはいつもの不敵な笑みをさらに強めて、鞄から何かを取り出す。那珂畑は思わず身構えた。間違いなく凶器を突き付けられる流れだ。それに昨晩の殺人でじゅうぶんにエネルギーを補給できたのなら、自信を付けたジュニアがここで決戦を始めてもおかしくない。あくまでも殺されることが目的の那珂畑だが、それは別に今日でなくてもいい。何より今は無関係の人間を殺した目の前の相手が許せない。その怒りが、彼の体を少しだけ臨戦態勢に近づけた。

「今週末、空いてる?」

 そう言って彼女が勢いよく那珂畑に突き出したのは、水族館の前売り入場チケットだった。しかもふたり分。そして彼女の発言。その場にいるのは男女ふたりのみ。明らかにデートの誘い方だ。

 ジュニアは以前、那珂畑の彼女として振る舞ってもいいと言った。那珂畑はそれを冗談として聞き流していたのだが、ジュニアの中ではもう自称彼女が成立してしまっているのだろうか。どこまで自分勝手なのだろうかこの女は。那珂畑は驚きと呆れが混ざったように大きくため息をつき、左手でチケットを押し返す。

「誰がお前なんかと行くかバカ野郎。友達多いなら、クラスメイトでも誘って行けよ」

 那珂畑がどこか羨ましそうに吐き捨てて立ち去ろうと足を動かした矢先、ジュニアがその行く手を入場券を持ったままの手で塞いだ。

「三森沙紗に同じことを言われても、君はそう断るのかい?」

「どういうことだ」

「僕は三森沙紗の精神を一部模倣して今の性格を持っている。こないだママにも言われたけど、要は恋する乙女なお年頃なのさ。だから、何か違う運命で沙紗が生きたまま君に惚れて、今と同じ状況にならないとも限らない。仮にそうだったとしても、君はこんな魅力的な逆ナンを冷たく断るのかって話だよ」

 那珂畑にとって、ジュニアの話はそもそもの筋違いだった。確かに女子高生から水族館デートなんて誘われたら喜びのあまり最低でも3日は浮かれ続ける自信がある。しかし今同じ誘いをかけているのはネガトロン。見た目や言動がどうあれ、敵であることに変わりはないのだ。

 だが、ジュニアはそんな那珂畑の思考をも見抜いたように、次の一手を放つ。

「それに、さっきも言ったけどこれは君のためにもなる。この誘いを受ければ、君は最低でも半日、僕を監視することができる。もちろん仲間と協力してもいいよ。それに僕だって水族館みたいな人の目が多いところで殺しなんてしたくない。つまり君たちで僕を水族館に軟禁できるってわけだ。あとこれはもしかしたらだけど、話しているうちにお互いの弱点とか戦いのヒントも得られるかもしれない。どうかな? ネガトロン1日独占チケット、見逃す手はないと思うけどなあ」

 確かに、そうまで言われるとこれは那珂畑にとっても魅力的な提案に見えてきた。本来であればチケットを受け取って目の前で破り捨ててから、すれ違いざまに「お前を殺す」とか言いそうなところだが、ジュニアとの戦いには、たとえ最終的には肉弾戦になるとしても戦略的行動が不可欠。ここは怒りを抑えて、ジュニアの提案に乗ることにした。

「……わかった。とりあえずチケットは受け取る。当日俺たちが水族館を貸し切って集中砲火でお前を攻撃したとしても、文句言うなよ」

「もちろん。じゃ、土曜日の朝、バス停で待ってるね!」

 那珂畑がチケットを1枚受け取ると、ジュニアは満面の笑みで大きく手を振りながら走り去った。

 小さくなっていくジュニアの背を見送りながら、那珂畑は考えた。この機をどう生かすか。むろん、宇宙開発局に水族館を貸し切るだけの予算がないことは彼も承知しての冗談だ。こちらとしても、わざわざ水族館で戦いを始めるつもりはない。それ以前に、右腕のハンデもある。つまり、ジュニアが持ちかけたのは殺し合いでもデートでもなく、あくまでも情報戦。宇宙開発局が全面監視するであろう状況で、彼女が何を話すのか。自分は何をするべきか。まだ予測すらできない。

 しかしどう転ぶにせよ、ジュニアとの決着に向けて大きな進展となることは変わりない。那珂畑はまずこのことを本部に報告することから始めた。


 そして、時はあっという間に流れていき、土曜日。

 小堀たちとの相談の結果、この日那珂畑に課せられた任務は至って単純、というか誰もが予想した通り。ジュニアをできる限り長く水族館内に拘束すること。そして可能であれば、ネガリアンに関する情報を聞き出すことである。

 右腕はまだ動かせないが、最悪の場合を想定して「それなりに動きやすい服装」を選んできた那珂畑は、まず待ち合わせ場所のバス停に先着していたジュニアの姿に驚いた。

 膝下までを長く覆う白いワンピースにベージュのカーディガン。秋風になびくそれを見た時、那珂畑は別人かと目を疑った。そして足元は少しかかとの高い黒のショートブーツで、柔らかな印象を引き締めている。

「あっ、逸君! おはよー!」

 ジュニアが那珂畑に気付いたようで、まだ表情まではよく見えない距離を、手を大きく振りながら駆け足で詰めていく。右肩からチェーンで提げる黒いミニバッグを押さえながら走る様子は、まさにこれからデートに行くといった雰囲気をありありと演出していた。返り血の目立ちそうな色の、大きな立ち回りが難しそうな服。これだけでも、彼女が今日誰かを襲う意思がないことを表明しているようだった。

 天気は快晴。思えば初めて昼間に見る彼女の顔は、無垢で晴れ晴れとした、ネガトロンとも殺人鬼とも見えないものだった。夜のパーカーと前回の制服姿しか見たことのない那珂畑は思わず足を止め、顔が紅潮していくのを自らも実感していた。

 そして、ジュニアが那珂畑の間合いに入ってまずひと言。

「こほん。年頃の女の子が気になる男のために服装選んできたんだよ。何か言うことないの~?」

 無理に目を逸らす那珂畑の反応を楽しむように、彼女はその場でくるりと回って見せた。風に遠心力が加わり、ワンピースの裾が大きく広がる。

「あー、その、なんだ。監視体制がっちがちに固めてきたこっちの身にもなれってんだよ。見てるのは俺だけじゃないんだぞ」

 那珂畑の言う通り、現在このふたりはバス停から水族館まで、あらゆる監視システムや観測機器で宇宙開発局に見張られている。また彼が装着してきた小型インカムからは、各監視システムやドローンが検知したジュニアの変化が逐一報告されることになっている。つまり、今の那珂畑はひとりではない。彼氏と彼女がふたりきりで楽しむデートという形は、初めから存在していないのだ。彼はその意も込めて、ジュニアの横を通り過ぎてバス停へと向かった。

 ちなみに加山は、別の通報に備えて局に待機している。

「もー! そこはお世辞でもかわいいって言うとこだろー! 逸君のバカ―! ドーテー! ヒーロー!」

 ジュニアもある程度はこのことを想定していたが、それでもお決まりのやり取りを無視されたことは不満だったらしい。わざとらしく頬を膨らませながら那珂畑の後を追う。ヒーローという単語をこのようなくだらない罵倒に使ったのは、歴史上で彼女が初めてかもしれない。


 待ち合わせ場所からバスと電車を乗り継いで1時間と少し。カナガワ県南端の海岸沿いにあるエノシマ水族館に那珂畑が来たのは、小学校の遠足以来だった。正直なところ、相手が相手でなければ久々のレジャーを満喫したいところだったが、いざ水族館の最寄り駅に降り立っても、とてもそんな気分にはなれなかった。

 地域の目玉スポットだからか、駅にはすでに水族館の看板と大きなクラゲ水槽が展示してあり、同じ駅で降りた人々はほとんど同じように水族館へと流れていく。

 移動中、ジュニアは那珂畑に一度だけ釘を刺した。それは、他人の前でジュニアと呼ばないこと。周りからすればジュニアでもあだ名か何かと思われてスルーされるかもしれないが、もし何らかの事情を知っている人が近くにいたら、互いに身の安全を保障できない。それに、名前で呼び合った方がデートっぽくて楽しいから。とのことだ。後者はともかく、那珂畑は前者に同意し、自分のためにも約束した。

 電車を降りて水族館へ向かう途中、ジュニアはデートらしく那珂畑の左腕に抱きつこうとした。しかし彼女の手が触れそうになった一瞬、那珂畑のゼツボーグが自動的に反応し、ふたりの接触を阻む。ジュニアは黒く変色した左腕に慎重に近づくが、触れた指先に焼けるような痛みを感じ、すぐさま手を離す。

「あっ……」

 思わず声が漏れたジュニアに、那珂畑は何も知らない顔で振り向く。ジュニアは手を自分の胸元に寄せ、どこか寂しそうな顔をしていた。

『おい、油断するんじゃないよ童貞ちゃん』

 突然、那珂畑のインカムから羽崎の声がした。ついぞジュニア以外からもその呼ばれ方をしたことに、彼は一瞬で顔を赤らめる。今回の作戦指示は、小堀よりもコミュニケーション能力に長ける彼女に任せられたらしい。

「ちょっ、余計なこと言わないでくださいよ」

 那珂畑は小声で返事をするが、明らかにジュニアにも聞かれている。局と連絡をしていることは彼女にも知られているが、まさかインカムの音声まで聞かれたのではと那珂畑は恐怖した。

『余計じゃないさ。目を離すなって話だよ。いくら取り繕ったところで、今君が仲睦まじくデートしている相手はネガトロン。17時の閉館まで、奴に何もさせないのが君の仕事だ。くれぐれも忘れないようにね』

「……わかりました」

 羽崎の言いぶりにはどこか引っかかる所を感じたが、那珂畑はそれのおかげで冷静さを取り戻した。そう、ジュニアが最初に提案したのはデート。バス停でのやり取りからもそうだったように、今でも彼女はカップルとして振る舞うことに執着している。わざわざ不必要に手を繋ごうとした理由まではわからないが、とにかく違和感のないよう、できる限り彼氏を演じよう。交際経験ゼロの那珂畑はそう決意した。

「じゃ、行くか。沙紗」

「……うん!」

 ジュニアはしばらく固まってから、元気に返事をした。それが初めて那珂畑に名前で呼ばれたせいか、それとも何か別の理由があってなのか。それだけは誰にもわからない。


「ほら見て逸君! あのエイさっきくしゃみした!」

「こっちのタカアシガニ、ヤンキーみたいな座り方してるね……」

「あっはは! このクレーンゲーム、全然取れないんですけど! 面白っ!」

 水族館に入場してからというもの、ジュニアはとにかくはしゃいでいた。その様子はまるで、初めてこの水族館に来た時の那珂畑たちのように無邪気なものだった。

 いや、きっと本当に初めてなのだろう。那珂畑はデート以前にジュニア監視任務にあたって、小堀から彼女の詳細を聞かされていた。彼女は発見から4年間、学校行事を除いてシロヤマ地区とハチオウジ市の学校、またその周辺数キロでしか活動していない。それ以上の派手な行動は、ヒーローや警察の目につくと知っているからだ。言ってしまえば、ジュニアは保身のために自らを指定区域に閉じ込めていた。なればなおのこと、これほどの遠出や水族館という場所は彼女にとって初めての体験なのだろう。仮に三森沙紗がここに来た経験があったとしても、ジュニアが持っているのはその記憶だけ。体験に勝るものではない。

 つまり今彼女は、那珂畑の存在を利用してようやく解放されたのだ。全面監視のもとではあるが。

「おい、JKがあまり走り回んじゃねえぞ」

 だが少なくとも、こうしてはしゃいでいる内は純粋に水族館を楽しんでいるのだろう。閉館までの長丁場、終始気を張り続けるのではと恐れていた那珂畑だったが、意外とそうでもないのかもしれない。最低でもジュニアを視界から外さないよう、彼はゆっくりとその後を追った。

 ジュニアを視界に入れつつ、那珂畑は時々周囲も観察する。週末だからか、家族連れやカップルなどで入場者数はかなり多い。彼らの姿を見て、那珂畑はふと考える。デートの話を持ちかけた時ジュニアが言ったように、普通の三森沙紗とここに来ていたかもしれないのか。そうであればたった今目の前を通り過ぎたカップルのように、肩を寄せ合って手をつなぎ、周りの目など何も気にすることなく笑えていたのだろうか。入場前にジュニアが一瞬だけみせた寂しげな表情。あれは普通のカップルにはあり得ない、ゼツボーグとネガトロンの間にある壁を感じたからなのか。だとしたら、彼女は本当に……。

 いや、あり得ない。仮にも相手は殺人鬼。今一緒にいる相手すら殺そうとしている化け物。任務に集中しなければと那珂畑が視線を上げた時、そこにジュニアの姿はなかった。

「……しまった!」

 思わず声が出る。そう、相手はネガトロン。普段の活動範囲を出るために他人を利用したに過ぎない相手。目を離せば水族館どころか、町に出て行かれる可能性もある。そうなれば大惨事になること間違いない。那珂畑はとっさにインカムに伝える。

「すみません、奴を見失いました! 監視は……」

『焦るな逸ちゃん。奴なら今近くのカフェに並んでいるよ。君からも見える範囲のはずだ』

 落ち着かせるようゆっくり話す羽崎の声に、那珂畑は焦りながらも周囲を見渡す。すると彼女の言う通り、カフェのレジに並ぶジュニアの姿が目に入った。

 那珂畑は安どのため息を吐きつつ、列に横入りするわけにもいかないので、近くの席を取ることにした。こうすればレジ列を監視しつつ、彼女を待つ彼氏という体で休憩もできる。ナイスな判断である。

 しばらく待っていると、ジュニアがふたり分のサンドイッチとパフェの乗ったトレーを持ってやって来た。

「……食うのか?」

 ふたり分。つまり那珂畑とジュニアの分。ネガトロンにとって何の栄養にもならない人間の食事をするのかと、那珂畑はそれとなく問う。

「何言ってるのさ。もうお昼だよ。ほら食べよ食べよ」

 緊張のせいか、那珂畑はすでに時刻が13時近くなっていることも、自分の腹が減っていることも気づいていなかった。しかし、彼の返事を待たずしてサンドイッチにかぶりつくジュニアの姿を見て、ようやく空腹を思い出した。

 だが、食べる前にひとつ。やっておかなければならないことがある。

「いや待て。少なくとも食事代は俺に出させろ。さすがにお前におごられるのは俺のプライドに関わる」

 その言葉にジュニアは驚いたように一瞬だけ食べる手を止めてから、クスっと笑う。そしてひと言。

「わかってきたじゃん」

『わかってきたじゃん』

 インカム先の羽崎からもまったく同じセリフが飛んできたのが引っかかるが、とにかく那珂畑は財布からふたり分の食事代をトレーに置いて、ジュニアに受け取るよう促した。しかしやはり観光地、食事量に対していやに値段が高い。

 食事(?)を済ませて最初のハイテンションが落ち着いたのか、ジュニアはそれから急に駆け出したりはしなかった。那珂畑にとってはある意味ここからが本番である。

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