プロローグ Hero is coming.
時は現代、日本はカナガワ県サガミハラ市。
『シロヤマ地区N区域より、オーバーシュートの通報あり。緊急出動ハッチ、開きます』
人々が助けを求める時、ヒーローは必ず現れる。
だが、それが必ずしも正義と希望のヒーローとは限らない。
『あらためて聞くが加山君、調子はどうだい?』
「ああ。絶好調だ」
読者諸君は、ヒーローと聞いてどのような姿を思い浮かべるだろうか。マントを羽織った筋骨隆々の大男か。それとも華麗に二丁拳銃を振り回すエージェントか。はたまた機械の鎧を身にまとう天才発明家か。世界のあらゆる創作物には、それはもう様々なヒーロー像が描かれている。しかし、現状今作唯一のヒーローは、とてもそうとは呼べない風貌をしていた。無造作に伸び散らかした黒髪、剃り残しの目立つ無精髭、やる気を感じさせない眠気眼。ただやせこけたその身を包む喪服のような黒いスーツとネクタイだけが、最低限の清潔感を主張していた。
現実は小説より奇なりとはよく言ったものだが、今作においてこの言葉は、現実は想定しうる可能性の中で最もつまらない方向に動くという意味で捉えていただきたい。そういった意味では、この加山という男のヒーロー性を完全に否定することは不可能である。
「耳鳴りと片頭痛、あと多少の胸やけ。おまけに昨日のレースで大負けときた。酒も煙草もやってねえのに、最高の気分だね」
加山はヒーロー射出用のカタパルトに足を乗せながら、不敵に笑みを浮かべる。
『……まあいい。いま残っているのは君だけだ。少なくとも次が見つかるまで、くれぐれも無理はしないように』
「ああ。わかってるさ。あとさっきのはダジャレじゃねえからな!」
加山がインカム越しに叫び終えるのを待たず、カタパルトは勢いよく前進した。
地下5階の司令本部から地上にヒーローを射出するまでの時間、わずか0.5秒。
そこから、最寄り駅まで徒歩15分。電車を乗り継ぐことおよそ1時間。その内乗り換え待ちに費やした時間、合計20分。現場までのタクシーを待つこと10分、タクシーの乗車時間10分。
「……チッ」
と、靴紐を結び直すのに1分。最初の通報からヒーローが現場に到着するまでにかかった時間、実に2時間近く。すでにヒーローとして最悪のタイムを叩き出している可能性すらあるのだが、人には人の事情がある。ヒーローにだって、それなりの問題があるというものだ。
一方で現場の状況は、一言で言えばゾンビ映画のパニックシーンのようであった。付近まで輸送してくれたタクシードライバーは運賃を受け取るなり一目散に引き返し、反対の道路には加山の行く手を阻むように顔色の悪い人々が呻き声をあげながら徘徊している。先着した防護服の救急隊ですら、ひとり残らず彼らから逃げまどっていた。
「遅いですよ、ヒーロー!」
加山の到着に気付いた隊員のひとりが、周りに知らせるように大声で叫ぶ。しかしその様子は、言葉通り歓迎のそれとは言い難いものだった。
「うるせえ! こちとらお偉いさんがケチったせいでタク券も出ねえんだ。だいたいなんでサガミハラからサガミハラに行くのにトウキョウを通らなきゃなんねえんだよ! ふざけんな!」
「それ我々に言うことじゃないですよね!」
前言撤回。この加山という男のあり様は、ヒーローと呼ぶにはほど遠い。
「まあいいや。今日の電車賃は今度の造花賞で取り戻す」
しかも加山は経費でおりない部分を競馬で取り戻そうと言うのだから、もう目も当てられない。この際だからはっきり言おう。加山はクズだ。クズ人間だ。
しかし、だからと言って彼が完全なるダメ人間かと聞かれるとそうでもない。この短いやり取りの間に彼は現場を見渡し、必要な行動を脳内で計算していた。彼はそれから拳骨を鳴らし、軽く首回りをほぐしてからこう叫ぶ。
「やるぜ、ゼツボーグ!」
直後、加山の両掌からメスのような刃が現れた。彼はそのまま群衆に突進し、顔色の悪い人々を次々と切りつけていく。人は切られたら死ぬ。至極当然の道理を、彼の背後でほぼ同時に倒れる無数の人々が証明していた。
しかし、そこは腐ってもヒーローの仕事。加山はこの場において、誰ひとりとして殺害などしてはいなかった。
初手必殺【アトロシティ・スパイク】。彼が生成した刃物は人体に危害を与えず、「特定のウイルス」だけを的確に切除する。
遅れて現れたヒーローの活躍により、現場は一瞬にして静けさを取り戻した。
事態が落ち着いたことで、ようやく救急隊が本来の任務に戻った。加山はそれを横目に、まだ使われていない担架に腰かける。
「トリアージ忘れんなよ。やり残しがあるとこっちも面倒なんだ。あといつものことだが、『候補』がいたらこっちに回してくれ。そろそろひとりの仕事もしんどくなってきた」
ひと通りの念押しを済ませてから、加山はスーツのポケットから煙草とライターを取り出し、その場でふかし始めた。路上喫煙はやめましょう。特に医療現場での喫煙は絶対にやめましょう。
しばらくすると、救急隊員が加山のもとにひとりの青年を連れて来た。
「……『候補』か」
加山は煙草を咥えたまま、その日で最も真剣な眼差しを青年に向ける。外見からして、高校か大学生といったところだろうか。状況が状況だからか、加山よりひと回りほど背の低い細身の青年はひどく怯えていた。
「はい。表皮に反応がありました。今のところ発症した形跡も見受けられません」
隊員はそれだけ伝えると、青年と検査結果の記された紙束を加山に預けて仕事に戻った。
青年はまだ怯えている。当然と言えば当然だろう。突然ゾンビパニックに巻き込まれて、2時間耐え抜いてようやく救助されたと思ったら今度は明らかに怪しい男に引き渡されたのだから。
「よお。坊主」
そんな青年に対し、加山はデリカシーのかけらもない冷たい挨拶から始めた。青年は声こそ出さなかったが、恐怖に震える瞳を加山に向けることで応えた。
「怖いか。まあ同情するぜ。今までだってみんな似たような反応してた。こんな騒ぎに耐えられるほど図太い奴なんて、逆に向いてねえよ」
加山は喋りながら、担架を軽く叩いて自分の隣に座るよう青年に促す。青年は震えながらも、へたり込むようにそこに座った。
「とりあえず、初めましてだな。俺は加山大悟。まあそのいちおう言っておくと、お前らが言うところの、ヒーローだ」
蝉も蛙も静まり始めた晩夏。青年は生まれて初めて本物のヒーローに出合った。
ちなみに、青年は坊主頭ではない。




