Episode 3 仮面の訪問者
夕暮れの冷たい風が街角を撫で、朱色の空がゆっくりと夜へと移り変わろうとしていた頃。
詩織は重い記録文書の束を何度も繰り返し読み、微かな違和感を感じていた。
その時、店の入り口に置かれたアンティークのベルが、まるで静寂を破るかのように短く鳴り響いた。
カラン――。
開店の時間でもない。
それなのに、「小公女」の扉が静かに開かれた。
詩織が急ぎ足で階段を駆け降りると、店内は凛と張り詰めた空気に包まれていた。
カウンターの向こう、シャンデリアの淡い光に浮かぶのは、黒衣に身を包んだ一人の男。
その顔は銀の仮面で覆われ、まるで時代を超えた舞踏会の紳士のようだった。
「……仮面とは珍しい。辺境の地まで、随分と趣味が良いのですね」
詩織の言葉に、男は微動だにせず静かな声を落とす。
「この地で、ひとつの“鍵”を探している。
百年前に封じられた、ある“記憶”のかけらを――」
「鍵……?」
詩織の瞳が鋭く光った。あの古文書にあった言葉と繋がるのか。
男はゆっくりと懐から羊皮紙の封筒を取り出す。
そこにはかつての帝都魔術院の紋章が押されていた。
レンは封筒をちらりと見て、静かに首を振る。
「この店は、記憶を売る場所ではありません。ましてや他人の記憶なら、なおさら」
「だが、その記憶はもはや誰のものでもない。
かつて医術と魔術が交わった試みの結晶だ――」
レンの声に、男は慎重に続けた。
「彼は“忘却の結晶”の保管者だった。自らの娘の模造体を魔術式に封じ込み、虚構の中で共に生き続けることを望んだ」
「模造体……あの“娘”も幻なのですか?」
「それを判断できるのは君自身だろう。だが彼女は今も存在している。
魔術式の奥底で“娘”として動き続けているのだ――百年の時を越えて」
詩織の背筋に冷たいものが走った。
それはもはや人ではない。記憶の形を宿した、動く人形。
男は低く告げる。
「彼女はやがて、外界を求めて目覚めるだろう。
記憶の牢獄に芽生えた自我は、“渇望”そのものだ。
それが現実世界に溢れた時、魔術と現実の境界が崩れる」
レンは静かに言った。
「あなたは“娘”を探すのではなく、封じに来たのですね」
男は答えず、封筒を置いて店を後にした。
残されたのは緊張感と、不穏な未来を告げる足音だけだった。
詩織はレンに問う。
「レン……私は一体、何を見てしまったのですか?」
レンは目を伏せて、微かに呟いた。
「それは“夢の残骸”よ。だけど、夢がいつか現実を壊すの」




