Episode 2 夢なき記憶
記録室を出たあとも、詩織の足取りは重かった。
レンの案内で診療所へ戻る途中、頭の中で何度もあの幻影の言葉が反芻された。
――娘は、どこだ。
虚ろな声、しかし確かな想い。あれはただの記録ではない。
あれほどの強い情念が、百年の時を越えてもなお形を保っている――そんな現実が、詩織には恐ろしく思えた。
「……レン、さっきの記録に……心はあったと思う?」
ぽつりと問いかけると、隣を歩く小さなアンティーク店主は、わずかに足を止めた。
「記録に“心”は宿らないわ。けれど、“記憶”には残る。
それは、ねじれた時の中で、まるで夢の亡霊のように漂うの。時には、夢より鮮明に――」
レンはくるりと振り向いて、微笑んだ。
「……だから、それを“見た”あなたは、もうこの世界の外側にはいられない」
詩織は背筋に冷たいものを感じた。
レンの言葉は、どこか穏やかで、どこか突き放していた。まるで――それが当然だと、知っているかのように。
ふと、通りすがりの時計塔が時を告げた。
――カン、カン、カン……
正午の鐘。
霧が薄れ、遠くの山並みがうっすらと見える。だが、その風景さえも、詩織にはどこか作り物のように映った。
「レンは……ずっと、ああいう記録を見てきたの?」
「ええ。店をやるよりもずっと昔から」
その言葉に、詩織は何も言えなかった。
言葉にできるものではなかったのだ。
そして、その日の夜。
詩織は診療所の屋根裏に眠る旧い書簡の束を発見する。
埃にまみれた手紙の差出人には、こう記されていた。
――《帝都魔術院臨床実験課 第十三記録補佐官 雨宮つかさ》
差出人は、明らかに政府の中枢にいた人物だった。
そして、その文面には、かつて帝都がこの地で何をしていたかが、断片的に記されていた。
「対象個体は、構文式の変調により人格断裂を起こした――」
「医療目的の魔術式は、量子領域において異常干渉を確認――」
「記憶装置内で“娘”を造形し、それを介して……」
詩織の背に、ぞっとするものが走った。
もしかしてあの記録の男は、実在した誰かではなく――造られた幻影なのか?
それとも、逆に、誰かの犠牲で“記録として生き延びた”存在なのか?
ページの端が震える。いや、手が震えているのだった。
「何が……起きていたの、ここで……」
詩織は初めて、レンがこの辺境にいる意味を、ほんの少しだけ感じた気がした。
けれど、それでもまだ、彼女は知らない。
この場所が、忘れられた真実のただ中であることを。