【7】
「瑛璃さん?」
伯母が行こうとするのを止めて、郵便受けを見に来た瑛璃を呼ぶ声。
「え? ……あ、佐野さん、でしたよね?」
門の外にいたのは見知った顔だった。航の友人だという少女。
「そうよ。佐野 めぐみ。ねえ、変だと思わない? つい最近会ったばっかのあなたが『瑛璃ちゃん』で、あたしが『佐野』ってさあ」
航の呼び方? そういえば、佐野は彼を「航」と呼び捨てにしていた。
「む、昔から、の習慣ならそういうものなんじゃ──」
「昔は『めぐみ』だったよ。この辺子どもの数も多くないし、小学校は一クラスしかなくてずっと一緒だからね」
食い気味に被せて来る彼女。だったら何だというのだろう。瑛璃にはどうしようもない、……関係もないことなのに。
わけもわからないまま「それが何か……?」と訊く前に、佐野が瑛璃を真っ直ぐに見つめて口を開いた。
「中学卒業するとき、あたしが航に告白したから。『そんなつもりない』って、それ以来急に『佐野』になったの。なんだよ、わざとらしい」
「こ、告……」
告白!? 佐野は航が好きだった、ということか? それを、彼は断った?
「あいつ、ずっとこの町にいるって言ってたのよ。東京とか都会には行きたくないんだってさ。みんな出て行きたがるのに。あたしは家に、ここに残らなきゃなんない。だから航にはあたしが、……それなのに、よそからちょっと来ただけの子が邪魔しないでよ!」
必死の形相で捲し立てる彼女。
瑛璃の心に浮かんだのは、怒りや悲しみよりも彼女に対する違和感だった。
もともと佐野は、このように誰かれなく他人を攻撃するタイプだとは思えない。
根がそういう人間だとしたら、航も距離を置きそうな気がした。
いくら幼馴染みだとはいえ、浜で初めて会ったときのように普通に会話もしないのではないだろうか。
佐野はきっと、何とかして瑛璃を傷つけて航から引き離そうとしているのだろう。
「あんたくらいキレイで可愛かったら、向こうにいくらでも相手いるでしょ! 航はこれからもここで生きてくんだから、この町の人間が一番いいのよ!」
瑛璃の反応など最初から気にしてもいないかのように、彼女が瑛璃の目をじっと見据えたまま言葉をぶつけて来る。
自分のように、と目の前の彼女が言わんとしているのは伝わった。
そうだ、そうなるのかもしれない。
航が「この町」に拘るのなら、……単純に「ここで一緒に住む」だけではなく、この町で共に育ったよく知る相手の方がいい、となっても何もおかしくはなかった。
伯母は東京で伯父と知り合い、結婚してこの町に来たと聞かされていた。彼らに限らず、そういう事象など全国的に珍しくもない。
しかし航が幼い頃からの時間を共有した存在を求めるなら、瑛璃は何があろうとも佐野のような立ち位置の相手には敵わないのだ。
いや、それ以前の問題か。瑛璃は航にとって「ただの従妹」なのだから。
そんな風にいろいろ考えて自分の中に入り込んでしまっていたため、気がついた時にはもう彼女の姿はなかった。いったい、その間瑛璃は何をしていたのだろう。
佐野は何も言わずに帰ったのか? それさえ覚えていないことが堪らなく後ろめたかった。
(清見こうじさんにお描きいただいた佐野めぐみです〜)
◇ ◇ ◇
母が来て、慌ただしく帰って行ったあと。
部活の練習に行く以外、航は他に誰かと遊ぶ予定などもないのかと申し訳なく感じるほどに、瑛璃との時間を作ってくれていた。
悪いと思っている気持ちも事実だ。
しかし、わかってはいてもつい甘えてしまう。今だけなのだから。何も気づかない、裏読みできない鈍い子だと呆れられても構わなかった。
夕方、ノックの音に声を返しながらドアまで歩き開けると、両手にアイスクリームを持った航が立っていた。
髪が濡れているのは、部活の練習で汗をかいたため帰宅してシャワーを浴びたのだろう。それが彼の習慣だ。
「俺の部屋で一緒に食わない?」
笑顔の誘いに迷わず首肯して、瑛璃は彼の部屋へ共に向かった。
「瑛璃ちゃん、いつもストロベリーだったよね? もしチョコのがよかったら俺はどっちでもいいよ?」
「いいの。これはストロベリーが一番好き」
ベッドの下の床に二人並んで腰を下ろし、話しながらフレーバー違いの冷菓をそれぞれスプーンで掬って口に運ぶ。
食べ終えて空いたカップを彼の分も纏めて机の上に置き、瑛璃は元通り航の隣に座り直した。
「俺、叔母さんが、……瑛璃ちゃんがあんな、お父さんにひどい目に合ってるなんて全然知らなかった。知ってても何もできないけど、俺は……!」
会話が途切れた間隙を突くように、航が声を絞り出す。
「私はパパに、……父、に叩かれたことはないの。いっつもママが助けてくれてた。パパが部屋に入って来たら『出て行け』って目配せしてくれたり、だから──」
瑛璃はむしろ、心傷めてくれる彼に申し訳ない思いが強かった。
それ以上に己が耐え難く卑怯な人間だと感じてしまう。
実際、瑛璃に物理的な被害が及んだことはあまりない。
なにか投げつけられるにしても、殴られるにしても。
母が必ず盾になってくれていたからだ。
瑛璃は母を犠牲にしてのうのうと暮らしていた。
今なら少しはわかる気がする。悩んでいたのは確かでも、母に比べれば瑛璃の苦痛など取るに足りないものだったのではないか。
瑛璃さえいなければ、母はいつでも逃げられた筈だ。離婚まで行かなくとも、一時的に家を出て父と距離を取ることは難しくない。ひとりなら。
それでも彼女は、絶えず瑛璃のことを考えてくれていた。
「だから! そういうのがもうおかしいだろ! その分叔母さんがやられてたんだよな!? あ、瑛璃ちゃんの身代わりになったとかどうこうじゃない。それは気にすることじゃない!」
従兄には、瑛璃が口籠った理由も伝わっているようだ。
「そんな、女の人、奥さんとか子どもに暴力振るうなんてサイテーだ! 生きてる価値ねえ!」
「わ、たるく……」
ずっと誰かにそう言って欲しかったのかもしれない。
母も瑛璃も何も悪くない。耐え忍ぶ必要などどこにもないのだと。
しかし、他人の前では父の家族に対する振る舞いを暴露しても、話半分にさえ聞いてもらえなかっただろう。
瑛璃なら「大人はいろいろあって大変なのよ。あなたは悪く取るかもしれないけど、親は子どものこと考えてるの」などと窘められるのが関の山だ。
母の場合、さらに状況は厳しかったのではないか。むしろ我儘で片付けられてしまいかねない。
「優しくていい旦那さんじゃない〜」
「贅沢よね。あなたバリバリ働いてて、家のこときちんとできてないんでしょ? そりゃあ旦那さんも不満あるわよ」
実際に小学生の頃だったろうか、母が家に来た友人に打ち明けて諌められているのを、ドアの影から覗いて耳にしたこともあった。
彼女は出産を機に職を辞したという。所謂「専業主婦」というものか。
「あ、ごめん! 自分の親のこと悪く言われたら気分よくないよな、それはホントに──」
慌てふためいた彼の姿が、涙の膜の向こうに霞んでようやく気づく。
瑛璃の目の淵から溢れた雫が頬を伝っていた。
「ちが、ち、がうの。うれしい」
どうにか出した声は聞き取れるかも怪しいものでしかない。
目を泳がせた航が、無言で立ち上がり部屋を出て行った。
いきなり泣き出した瑛璃を持て余したのか。それでも涙はあとからあとから湧いて出て来るようだ。
「これ!」
廊下を走る足音が近づき、きちんと閉まっていなかったドアを開けて従兄が飛び込んで来た。
差し出されたのは白いタオルだ。階下の洗面所まで取りに行ってくれたらしい。
「あ、りがと」
ほぼ吐息だけで礼を述べ、タオルを受け取って目元に当てる。
「うちはさあ、なんだかんだ父さんも母さんもいい人っていうか。文句がないわけじゃないけどさ、怒られんのも結局は俺が悪い、ってわかってることばっかだし」
「この家、は。私、すごくいいお家だと思ってる。来なきゃなら、あ! お世話になるのがここで良かった、って今も感じてるわ」
瑛璃の失言には触れることもなく、航は神妙な顔で言葉を繋いだ。
「そういう、なんていうかどうしようもない親がいるのは俺も知ってるんだ。……佐野、んちもお母さんもうだいぶ前に離婚して出てって、親父と小学生の弟の世話とか全部あいつがやってるんだって」
佐野が。
彼女にも何らかの、おそらくは家庭の事情があるのではないか、と彼女自身が口にしたことでそれとなく察してはいたけれど。
きっと誰もが、外から簡単には窺い知れないものを抱えているということなのか。
「聞いた後なら、そういえばあいつ、って思い当たることいっぱいあってさ。なんか親父がその、結構ろくでもないっていうか。一応仕事は行ってて暴力はないみたいなんだけど、家のことは全部あいつに押し付けてるって。弟がまだ小学校上がる前から」
だからあの親父は絶対あいつを離さないよ、無料のお手伝いさんみたいなもんだから家から出すわけない、と苦々しく話す彼。
瑛璃には何も言えなかった。この場に相応しい言葉を持っていない。軽々しく言及できない、彼女の事情。
もし自分なら、簡単に「わかるよ」と言われても嬉しくはないからだ。
「都会と違って人間関係も狭いからさ。中学のとき、近所の小母さんたちが井戸端会議でしゃべってんの聞いたんだ。そのときに、お母さんはもう再婚してて、あいつが家出して会いに行ったけど追い返されたらしいってのも」
もし母が瑛璃を父の元に一人残して消えた世界線があったならば。
弟は別として、彼女の立場はそのまま瑛璃のものだったかもしれない。……苦しい。
「瑛璃ちゃんがうちに来ることになった、って聞いたとき、全然いやとかじゃなくて『夏中ってすげえな〜』とは思ったんだ。父さんと母さんも『事情があるから』ってだけだったし」
「それは仕方ないよ。きっとママが口止めしたんだと思う。私にバレないように」
伯父と伯母は確実に母から教えられていた筈だが、同時に「航には詳しいことは話さないで欲しい」と頼まれたに違いない。
何も知らなくともあれだけ気遣ってくれた従兄のことだ。
もしすべて承知ならもっと腫れ物に触るような対応になり、きっと瑛璃にも何かただならぬものが伝わってしまった気がする。
「なんか気楽だな〜。叔母さん仕事忙しいっていうし、夏休みに子ども家にいたら面倒だから、や、厄介払い、えっと、そういうのか、ってくらいで。都会の人ってやっぱ違うんだなとか。……あの頃の俺を殴ってやりたい。だって『いろんな事情があるんだ』って、俺は誰よりよく知ってんのに」
佐野の家庭の件を指しているのだろうか。
顔を歪めて過去の自分に怒りを禁じ得ないでいる従兄に、その気持ちだけで報われる、と知らせたかった。
航に告げる気はないが、現に立ち聞いて知ったときの彼の声に蔑みが混じっていたとは感じていない。
「今は言い訳にしか聞こえないかもしれないのもわかってるよ。でもさ、叔母さんの話聞いてホントのこと知る前から、俺は瑛璃ちゃんが来てくれてよかったと思ってた。『なんだかな〜』と感じてたのはホントに最初だけ! あの、浜で話したのは絶対に嘘じゃないから」
「それは別に疑ってないよ。あのときの航くん、本心なんだってわかったし」
涙はもう止まっていて、ようやく声も震えなくなった。
「瑛璃ちゃん、すごく普通で、いや普通よりずっとしっかりしたいい子で自分が恥ずかしくなったのもホントだし。……会えてよかった、って」
「うん。私も会えて良かった。航くんにはもちろんだけど、伯母さんにも」
出逢いも含めて、この町に来て良かった。
今では心からそう考えている。航も同じならそれだけで満足な気さえした。
全部終わった気になっていた瑛璃に、航は何度か口を開き掛けては閉じてを繰り返し、──覚悟を決めたように話し出した。
「……瑛璃ちゃんは知らないんだよな? 俺の、こと。叔母さんも何も言ってない?」
「な、に?」
彼の言葉の意味がまったく掴めない。「航のこと」とは一体何なのか。
「俺、この家のホントの子じゃないんだ。養子」
一瞬、その内容が理解できなかった。そんな、いきなりそんなことを……。
「聞いたことないかな、『子どもできたけどいらない人』から『子ども欲しい人』に渡すルート、っていうか」
「あ、えっと。うん、なんとなく。養子斡旋、とかそういうの?」
瑛璃がどうにか呟くのに彼が首を縦に振る。
「そうそう。うちの親、父さんと母さんの両方に原因あって子どもできないんだって。だからそういうとこに頼んで、赤ちゃん産んでも育てられないって人から生まれてすぐに引き取ったんだってさ」
写真を見た時にも、ここに来て初めて会った時にも。
確かに航は両親のどちらにもあまり似ていない、と感じていた。身長にしても、伯父と伯母は決して長身の部類ではないにも拘らずかなり高い方だ。
「……いつから」
いつから知っていたというのだろう。瑛璃なら、高校生になった今でさえ聞かされれば平静を保てない気がした。
「小学校入るちょっと前くらいかなあ。中学生になったらちゃんと説明するつもりだったらしいよ。でもその前に、おせっかいな人が母さんに『あんた、他人の子を育てて偉いね。大変ねえ』って言ってるの聞いちゃってさ。それで──」
みんな知ってるから、周りの人は、と航が苦笑しながら口にするのを瑛璃は黙って聞いているしかできなかった。
いったい何を言えるというのか。
「大変だったね、でもこの家で良かったね」
そんな中身のない、ただ心を上滑りするような言葉を、わざわざ表に出す意味があるとは思えなかった。
「最初の、いや次の日かな? 瑛璃ちゃんが『よその家だから、ここは俺の家だから』って言ったとき、なんか……、そんなこと言うなよ! って急に思っちゃって」
「うん。あったね」
よく覚えている。当時も妙だと感じたからだ。
どう好意的に解釈しても、瑛璃は邪魔な「余所者」でしかなかった筈なのに何故、と疑問だった。
「俺は『この家のホントの子』じゃないけど、この家の子だと思ってる。だから瑛璃ちゃんにもそんな、よそなんて言って欲しくなかった。勝手だよな」
「あのときはよくわからなかったわ。でも、──勝手なんてそんなことない」
瑛璃が告げるのに、彼はぎこちない笑みを浮かべて頭を左右に振った。仕切り直すかのように。
「で、その斡旋だかの仕組みは俺もよく知らないんだけど、つまり『悩んでる女の人を助けるため』が一番なのかな。だから俺を産んだのがどういう人かは教えてもらえなかったって」
「そう、なの?」
朧気に、出産した女性が新しい両親になる夫婦に「この子をよろしくお願いします」と渡すドラマ的なシーンが浮かんだが、現実には違うのか。
あるいは航のケース以外にも様々な状況が考えられるのかもしれない。
「『一人で赤ちゃんできて困ってる若い人だった』ってだけ。完全にここんちの子になってるから、戸籍見てもホントの親のことはわからないしな」
子どもなんて絶対一人でできねえじゃん? 俺のホントの父親もどうしようもねえ奴だったんだよ、きっと、と俯く航。
声は明瞭であっても、心の中では涙を流している気がした。
「伯父さんや伯母さんは、その……。なんて言ったらいいのか、あの」
言葉にするのは困難な瑛璃の胸の内が、航に通じればいいのに。
彼らも、当然承知の上だった筈の母も、匂わせることさえしなかった。
伯父と会っているときに、「瑛璃より一つ年上の従兄がいる」と話に出ていたがそれ以上の言及は何もなかった。
瑛璃に知らせたくない以前に、普段はそれこそ「養子」だと認識することなく自然に親子として過ごしているからではないか。
ひた隠しにしていたわけなどではなく。
希望的観測かもしれないものの、それは外れていないと感じた。
「大丈夫! 俺は今幸せだし、瑛璃ちゃんもこれからは叔母さんと二人で、今までの分も幸せになればいいんだよ!」
「うん。ありがと」
このために今、話してくれたのだろうか。いつ打ち明けようかとタイミングを見計らっていたのかもしれない。
そこまで訊いていいのかわからない、という瑛璃の当惑が表情に出ていたのか。
「父さんと母さんには、瑛璃ちゃんに話すかどうかは自分で決めればいい、って言われてたんだ」
航が黙っていたくない、教えたいわけでなければ、わざわざ説明することでもないという考えなのだろう。
「あ、なあ! 今度街行かないか? なんか食べようよ。こっちにも美味しい店あるよ! 慣れたとこがよければモールにチェーンいっぱい入ってるし」
いきなり声のトーンを変えた航に、瑛璃もどうにか頭を切り替える。
「行きたい。航くんのおすすめのお店がいいな。私、好き嫌いないし」
答えながら自然に笑みが浮かんだのがわかる瑛璃に、彼も安心したように笑顔で頷いた。
「じゃあ明日にでも行く?」
「航くんがいいんなら。私は他に予定なんかないし合わせるよ」
明日は航の部活もないということで昼食に行こうと合意して、瑛璃は自室に戻った。