【4】
起きて部屋で着替えてから、階段を下りて昨日の入浴時に自由に使うように言われた洗面所で歯を磨いて顔を洗う。
「おはようございます」
キッチンに顔を出すと、伯母がもう朝食の支度も済ませていた。もっと早く起きなければいけなかったのだ……。
「あら、おはよう。瑛璃ちゃん、そのお洋服すごく可愛いわ。女の子っていいわねえ」
瑛璃が今身に着けているのは、白いレースのキャミソールタイプのワンピースだった。
夏の一番のお気に入りで、海にはちょうどいいか、とこれを選んだのだ。
髪は昨日と同じくハーフツインで、二つに結んだ毛束を小さなお団子にして服とお揃いの髪飾りをつけた。
派手になり過ぎないように、かといっていい加減にはしていません、という雰囲気を出すのもなかなか難しい。
「ありがとうございます。あの、ご飯の支度手伝うつもりだったのに間に合わなくてすみません」
「そんなの気にしなくていいんだって! でも起こさなくてもちゃんと起きられるの流石ねえ。航は、……何よあんた、できるんなら普段からやんなさいよ」
高校生なのだからそれくらい、と思っているところに、寝巻き代わりらしい軽装の航が右手で顔を擦りながら「おはよー」と現れた。
伯母の言いようからすると、毎朝起こしてもらっているということか?
やはり写真のイメージとは違う。
「あ、あ。俺、着替えて来る!」
「今さらでしょ。先に顔だけ洗って早く食べて」
瑛璃と顔を合わせて焦っているらしい航に、伯母が冷たく命じた。
「あの、私は他所のお家だからきちんとしないと失礼だと思って。航、くんは自分の家だから気にしなくていいんじゃない?」
「よそ、……まあ確かによそだけど、夏の間はここの子だと思えばいいじゃん。ねえ、母さん!」
何も卑屈になっているわけではなく、そうするものだと考えている瑛璃に、彼は何故か怒ったように伯母に振った。
その感情の意味が理解できない。
所詮、瑛璃は「邪魔な余所者」だ。航も間違いなくそう感じているはずなのに。
「そうよ、あたしはそのつもりで引き受けたんだから! でも瑛璃ちゃんて本当にしっかりしてるのねえ。航より年下なのに信じられない」
そんなことはない。それに航にしてもごく普通の高校生ではないか。
それでも、「こんな行儀の悪い子」と嫌がられるよりは余程いいのだけは間違いなかった。
これ以上お荷物にならないように、気を緩めないでいなければ。
決心した通りに早速、朝食を終えて制止する伯母に今度こそと引くことなく、皆が使った食器を洗う。
もちろん、「明日から支度もちゃんと手伝います」と告げた。
◇ ◇ ◇
「航くんって写真苦手とかある? 私、来る前にみんなの写真見せてもらったんだけど、なんか会ったら全然感じ違うから」
着替えて来た航と二人で、瑛璃は海へ行くために家を出る。
他に話題もなく、無言のままは少し居た堪れなくて気になっていたことを訊いてみた。
口にしたあとで昨日の二人の会話が蘇り、この話題は避けた方が良かったか、と焦るがもう遅い。もし瑛璃の写真の話になったら、何も知らない振りで通さなければ。
「あの、家の前で制服で写ってるやつ? あれ、瑛璃ちゃんに送るからって学校行くとこを母さんに捕まってさ。『ふざけんな、朝練に遅刻すんだろ!』ってのと、『いや、ブスッとしてたら会う前から俺のイメージ最悪じゃん!』でどうにか笑ったら結局あんなんに……」
やはりそうだったのか。それならああいった微妙な笑顔になるのもわかる。
それにしても、そこまで急ぐことでもないのに。デジタルのデータなのだから送るに際してタイムラグも生じない。
「そうなんだ。あれ、航くんがなんか笑い方が自然ぽくないから、写真苦手な人なのかなって。そう! あと伯母さんが綺麗すぎてびっくりしたわ」
「はあ!? いや、別に気ぃ遣うことないって」
どうやら航は瑛璃のお世辞だと受け取ったらしい。
「そんな気の遣い方しないよ。かえって失礼じゃない? 伯母さんがすごい美人だと思ったのは本当に本当!」
必死の瑛璃に真剣なのだということだけは伝わったようだ。
「……あー。じゃあもしかして『お母さん、きれいでいいね』ってのは嫌味じゃなかったのか?」
口の中で呟いた航の言葉はかろうじて聞き取れたものの、嫌味でそういう言い方はしないような気がする。
「それは単なる事実でしょ。伯母さんを知ってたら誰でもそう感じるよ」
悪く取り過ぎでは、というよりも、航は照れや謙遜ではなく伯母が美人だとは感じていないのだ。
自分の母親のことは客観的に見られず、よくわからないということだろうか。
とりあえず、自分の写真に話が流れなくてよかった、と瑛璃は内心ほっと息を吐いた。
そうして、他愛無い会話を交わしながら辿り着いた浜。
少し遠かったけれど、航は話し上手なのか瑛璃が上手く話題を探せなくとも自然に繋いでくれていて、その間沈黙が流れることはなかった。
そのため特に退屈もしなかったし、たかだか十数分の徒歩など瑛璃の日常でもよくあるからだ。
「田舎はねえ、どこに行くのも車だったから逆に歩かないのよ。お店でも必ず駐車場があるの。海は止めるとこないから自転車ね。こっち出て来た頃は、『みんな普通にどこでも歩いて行くんだ!』ってびっくりしたくらい。今はもう、ママもそれが当たり前になったけど」
母がいつだか話してくれた内容を思い出す。
航にとっては、この距離を歩くのは非日常だったのかもしれない。
「瑛璃ちゃん、足だけでも海入ってみない? 見てるだけじゃ暑いしつまんないだろ。タオルも俺持ってきたからさ」
波打ち際の手前で、航は瑛璃の反応を待たずにもう裸足になっている。
頷いて瑛璃も白いサンダルを脱ぐと、熱い砂の上に足を下ろした。航に促されて、並んで数歩先の濡れた砂の上まで進む。
「わ!」
足元に来た波に驚いて声を上げた瑛璃に、彼がおかしそうに笑った。
それはそうか。ここまで波が来るのは、考えなくてもわかることだ。
「もしかして海初めて?」
「見たことは何度もあるけど、入るのはそう」
家族旅行の経験などなかった。
幼い頃、母と二人の日帰りレジャーはよくあったが、海水浴場に行ったことはない。
「じゃあちょうどいいな! こんな何にもない田舎でも、瑛璃ちゃんが知らないことあったんならさあ」
従兄の返しは、瑛璃にはただ意外だった。
呆れや嘲笑ではない朗らかな弾んだ声が、瑛璃の中の警戒心やその他の身のうちに抱えていたくないいろいろなものを溶かして行くようだ。
もし昨夜何も聞いていなければ、その裏にある彼の努力が過ることもなくただ無邪気に喜んでいられたかもしれない。
「ありがとう。あの、私も『田舎来るの嫌』なんて全然思ってなかったよ。だって、夏休み全部潰れるのにわざわざ来たくもないとこ来る?」
屈託ない口調で告げながらも、心の底では来たくなどなかった。
厭々、仕方なく、とまではいかなくとも、気が進まなかったのは事実だ。できることなら帰りたいのが嘘偽りのない気持ちだった。
それでも認めたくなかった。
口にしたら「望まないまま遠くに追いやられた」己があまりにも惨めすぎる。
何よりも、心配したように冷たくあしらわれることもなく、本心がどうであれ瑛璃に心砕いてくれる航やその両親にだけは知られてはならない。
そう考えられる余裕があったのは幸いだった。
「いや、俺もこういうの久し振りでなんか楽しいよ! だってこんなことしようと思わないもん。あ、悪い意味じゃなくて! ああ、俺の町ってこんないいとこあったんだな、って。旅行で『海』に来る人は多いけど、こっちの浜は寂れてるから滅多に来ないし」
泳げない小せえ砂浜なんて、せっかく休み取って遊びに来た人には時間の無駄じゃん? と続ける彼。
これは本心からの言葉なのではないか。明るく柔らかな声がそう伝えてくれる気がした。
瑛璃の濁った内心など、この従兄には隠せていたようで安心する。
「……ゴメンな」
「え? 何か言った?」
航の呟きは耳に届いてはいたが、瑛璃は迷わず聞こえなかった振りをした。
これは反応してはいけない。おそらくは、──まず間違いなく「昨夜」に関わることだろうから。
「いや、何も! あー、そろそろいい時間だし帰ろうか。昼前には家に戻らないと」
「そうね、なんかあっという間だったわ。すごく楽しかった」
誤魔化す航に、素知らぬ風に返した。
「……瑛璃ちゃん、そんな色白いのに日焼け大丈夫か? あと、髪とか目も色の薄い人は陽が強いのよくないんじゃなかった? ごめん、俺もっと早く──」
ふと気づいたように慌てる彼の気遣いはありがたい。しかし、実際にはそこまでのこともないのだ。
「髪も瞳も特に気にしたことないわ。それにちゃんと日焼け止め塗ってるから大丈夫よ。海に来るっていうんで強力なの買って来たから。でも長時間は持たないからそろそろ塗り直した方がいいかも。だからタイミングぴったりよ。……そこまで気づくの、かえってすごいよね。男の子って全然わかんないんじゃないの?」
素で感心した瑛璃に、彼は軽く肩を竦めた。
「まあそれは環境かな。見るからに日差しが強い南国じゃなくても、海面や砂浜の照り返しなんかあんまり舐めない方がいい。旅行者で油断して、焼きすぎて火傷みたいになる人毎年必ずいるんだ。それも一人二人じゃなくてさ」
「じゃあ次は日傘持って来た方がいいかな」
小振りな紫外線遮断効果のあるパラソルも、母に買ってもらい持参している。
「ああ、そうだな! 日傘、あるなら差したほうがいいかもね。全然身なり構わない母さんでも、日焼け対策だけはしてるみたいだよ」
伯母の、年齢相応には見えない白く滑らかな肌。彼女の美しさはあの肌も大きい気がした。
航が渡してくれた柔らかなタオルで濡れた足を拭き、サンダルに入り込んだ砂を払って履く。
ひとつだけでもいい想い出ができた。
ここで過ごさなければならない夏の、結果的には支えになるかもしれない楽しい記憶。
瑛璃のために頑張って行動してくれている従兄の直ぐ傍で、今もそんなことを考えている悲観的な自分から目を逸らすことはできなかった。
◇ ◇ ◇
「瑛璃ちゃん、泳ぐの嫌ならそれでいいし、もしその気になったら言ってくれよ。遊泳場いつでも行けるからね」
数日後、部活の練習から帰って来た航が瑛璃の顔を見るなり話し出す。
もしかして泳ぎたいのだろうか。
瑛璃と浜遊びなど面白くなかった? ……それも当然か、と顔には出さないようにして反省する。
「ありがと。一応プールで溺れない程度には泳げるんだけど、海はちょっとまだ……。航くんは私のこと気にしないで泳ぎに行ってね」
泳ぐにしても、瑛璃と行けばお守りをさせることになるだろう。航の自由時間を奪って悪かったな、とつい俯いてしまう。
「俺はもう海なんて今更だよ。ここで十七年育って毎年泳いでたんだから。海ってさ、やっぱそこそこ泳げる人でも危ないから大人でも普通に浮き輪とか使ってる人いるよ。地元の連中はともかく遊びに来た人たちはさ」
「そうだよね、風や波で流されたりするし。カッコより安全が大事よね~」
何気ない口調は本心なのか、……それとも瑛璃が気にしないように?
とりあえず瑛璃も軽く合わせる。
ここで暗い顔で謝っても航に負担を掛けるだけだ。
「だから『入るだけ』でも楽しめると思うしさあ、いつでも一緒に行くよ。うちにはないけど浮き輪なら買ってもいいし、友達んちは小さい弟いるからイルカボート借りられるんだ」
瑛璃を何とか退屈させまいと計画してくれているらしい従兄の気持ちを無駄にはしないように、どうすれば上手く伝えられるだろう。
「わかった〜。でも私は足だけ浸かって波が来て~くらいのが楽しいの。子どもっぽいかな?」
無理に合わせたり合わせてもらうよりも、正直な気持ちを知らせて航の意志で選んでもらう方がいい。
それで彼が一人で泳ぎに行くならその方が瑛璃も気楽だった。
とはいえ流石に幼稚だったか? と気になって訊いた瑛璃に、航は首を左右に振っている。
「全然! むしろ子どもの方が無謀なことしたがるんだよなあ。怖いもん知らずだからさ。じゃあまた明日か明後日、浜行こう!」
従兄との次の約束。
夏休みはまだ一週間も過ぎてはいない。なのに一日ずつ減って行く中で、つい残りを数えている自分がいた。
来たくて来たわけではないのに。早く帰りたかった筈なのに。
その晩、家人に就寝の挨拶を済ませて自室に戻った瑛璃は、友人にメッセージを送った。
《朱音、元気してる〜? 私もようやく馴染んできたよ。連絡しなくてごめんね。全然知らないところだしさすがに緊張もしちゃってえ。でもここ、海が綺麗なの! 親戚もみんなすごくいい人よ。》
到着した日に無事着いた報告はしていた。
本当はその夜にこの町や小野塚家の印象を書いて送るつもりだったのだが、伯母と航の会話を聞いてしまったことで動揺してタイミングを逸していたのだ。
《あたしは元気〜! 瑛璃も大丈夫みたいでよかったよ。でも無理しないようにね。》
彼女の安堵が滲むような返信に、心配させていたのだろうと感じた。
《あ、私そろそろ寝ないと。朝早いんだ。》
《おお、規則正しい生活! じゃあおやすみ~(-_-)zzz》
いくつかメッセージをやり取りして、これ以上遅くなってはまずい、と切り出した瑛璃に、朱音もあっさり返して来る。
これからは些細な一文だけでも毎日送るようにしよう、と「おやすみ」のスタンプだけ送信し、瑛璃はベッドに入った。