【3】
夕食後に用意してもらった部屋で荷物を解いていた瑛璃は、ドアをノックする音に手を止めて立ち上がった。
この部屋には、内側からだけ閉められる鍵がつけられているのだ。
よくトイレや洗面所のドアにあるようなタイプではなく、外からは開けられないもの。中が無人のときは誰でも入れるが、そんなことは気にならない。
わざわざホームセンターで買って付け替えてくれたのだという。
夕食前に案内してもらったとき、ドアは古そうなのにレバーハンドルや土台だけが新品に見えたため理由を訊いたら伯父が教えてくれたのだ。「年頃のお嬢さんをお預かりするんだからこれくらい当然だよ」などと言い添えて。
「瑛璃ちゃん、俺バスケ部で休み中は練習半日が週三回だから結構時間あるんだ。もし行きたいとこあったらどこでも連れてくよ? いや、車じゃないからあんまり遠くは無理だけど、電車乗ってもよければ街も行けるし」
開けたドアの向こうには航が立っていた。
「あ、はい。ありがとうございます。でも航さん、そんなに──」
「なんで航『さん』? 年上ったって一個だし、後輩にも『小野塚さん』て呼ばれてるから名前にさんってなんか落ち着かない。『航』で全然いいけど、まあ呼びにくいだろうし『くん』にしてよ。あと、もっと普通に喋っていいから。従兄妹なんだしさ」
苦笑いの従兄に、「はい、……うん、じゃあ航くん」と瑛璃は素直に従う。
「で、どこ行きたい? 街にはさ、大きいモールあるよ! ああいうとこっって、店も東京と同じなんだろ?」
「私、あの……、できたら海に行ってみたい」
正直、「東京と同じ」には興味がなかった。
せっかく来たのなら「この町ならでは」の場所の方がいい。
わざわざ「東京ではない、『東京と同じ』もの」で疎外感を強調されるのは気が進まない。
瑛璃の希望に彼はあっさり頷いた。
「そうなんだ。泳ぎたいってこと?」
「ううん。私海で泳いだことないし、ちょっと怖いんで」
海で泳ぐのが当たり前の土地で失礼だったろうか、と口にしたあとで焦ったものの、航は気にしていないようだ。
「そんなら今日見た浜行こうか。あそこ遊泳禁止なんだけどさ、きれいな海だよ。ちょっと歩くけどそれはいい?」
「うん、そんな何時間も掛からないでしょ」
答えた瑛璃に、従兄は安心したように見える。
「じゃあ明日、午前中に出よう」
それだけ言い置くと自分の部屋に入って行く彼を見送って、瑛璃はまた荷物の整理に戻った。
おそらく伯父も伯母も従兄も、瑛璃を預かることになって可能な限り労ってあげようと決めていたのではないか。
いきなり一人で、まるで捨て猫同然によく知らない人の中に放り込まれた瑛璃に同情して?
今の従兄の誘いもその一環に違いなかった。
しかし、例えそうだとしても不貞腐れるのだけは違う。彼らは好意なのだから、瑛璃が感謝もしないで捻くれるのはどう考えてもおかしい。
明日は楽しめるといい。
航が気遣ってくれるのなら、瑛璃も精一杯喜んで見せないと。
「瑛璃ちゃん、ちょっといい?」
決意を新たにしたところに、またノックの音と伯母の声が同時に耳に届いた。
「伯母さん、何でしょう?」
「ごめんね、さっき言い忘れちゃって。お風呂沸いたから、瑛璃ちゃん先に入ってよ」
「え、私は最後で──」
驚いて口にし掛けた瑛璃に、彼女が微かに眉を寄せる。
「そういうのやめてよね。『普通』にしてくれてていいんだから。ああ、もしよそのお風呂に入るのは気になるとか、元々湯船に浸からないんならシャワーでいいのよ。慌てなくていいから着替え持って降りて来てね」
それ以上瑛璃に何も言わせず、伯母は微笑んで階段に向かって歩いて行った。
好意を無下にしてはいけない、とすぐに荷物を探ってパジャマと下着にバスタオルを取り出し、瑛璃は階段を降りてリビングルームに顔を出す。
「あの、伯母さん。すみません。それじゃお言葉に甘えて……」
「うん。お風呂と洗面所はここね。で、瑛璃ちゃんが入るときはドアにこれ掛けといて」
渡されたのはスマートフォン程度の大きさのプラスティックのプレートだった。「入浴中」の文字が刻まれ、両端に細いチェーンが通されている。
示されたドアには、このためなのだろうフックも付けられていた。
「こんなのまで……」
「大事でしょ〜。同じ家で暮らすのに、トラブルあったら互いに気まずいじゃないの。この入り口にはないけど中のドアは鍵掛かるのよ。でも、いくら曇りガラス越しでも洗面所まで誰か来たら嫌よね」
ありがとうございます、と受け取って、伯母の目の前でフックにチェーンを掛けて見せる。
「タオルはこの棚に置いておくから自由に使ってくれていいのよ。もちろん自分のがよかったらそれでいいし。あと、洗濯物は遠慮しないでこのカゴに入れといて。でも人に見せたくない物とか、自分で洗って部屋に干したかったら好きにしてね」
与えられた部屋には小型の室内用物干し台まで置かれていたのだ。
おそらくは伯母が細かく考えて差配してくれたのだろうことは、考えるまでもなく予想がつく。
入浴を終えて、瑛璃は洗面所の鏡で身なりを確かめた。
家族以外の前に湯上がり姿で出るのは、中学の修学旅行以来だろうか。そもそも旅行自体、学校での集団以外ほぼ行ったことがなかった。
どこもおかしいところはなさそうだ、と洗面道具と手洗いした下着類を入れた袋を手に取り、忘れ物がないか周囲を見渡す。
生まれたときからマンション暮らしの瑛璃は、他所の一般家庭の風呂に入ったことはない。親戚付き合いもないに等しく、友人の家に泊まりに行ったこともなかったからだ。
自宅マンションのバスルームも足を抱えて入らなければならないといった狭さではないが、一戸建てならではなのかゆったりしたバスタブは予想以上に快適だった。
風呂場の床もきちんと流したし、シャンプーとコンディショナーは自前だが使わせてもらった備え付けのボディソープも元通りに直した。
歯を磨いた洗面台の水はねも拭き取ってある。これでもう見落としはない筈だ。
脱いだ服は、下着以外は籠に入れさせてもらった。「自分でやる」というのも、実際にするのも造作ないものの、一人分だけ別に洗濯機を回すのは不経済だしかえって迷惑だと自重したのだ。
髪はまだタオルで拭いただけなのだが、持参したドライヤーを部屋で使っても構わないか確かめなければ。
もし無理だとしても、真夏なのでタオルドライだけでも時間を置けば乾くので問題はない。
とりあえず伯母に入浴が済んだことを知らせよう、とリビングルームのドアの前まで来た瑛璃は、中から聞こえる声に硬直した。
「──の頭、あんな色だと思わなかったからちょっとびっくりした。写真は光の加減とかでイメージ変わることあるし、実物より暗く写ってたってことなんだよな。父さんは生まれつきすごく明るい色なんだって言ってたけど、さすがにあれほどだと思わないだろー」
「まあたしかにあの色はね。お父さんも赤っぽいけどまた全然違うし」
「うん。聞いてなかったら『高校生なのにこんな目立つ色に染めるんだ!』って思っちゃったかも。あ、だからわざわざ教えてくれたのかな?」
「お父さんは実際瑛璃ちゃんと何度も会ってるからね。写真が本当の色と違うのも気づいたからでしょ」
「そうだよな。俺と母さんは初めてだけど、父さんは知ってるんだもんな」
「でもさ、染めたり色抜いたりだったらあんなむらなく自然にはならないんじゃない? ……ここ来る人の中にも、中高生くらいで派手なカラーにしてる子もいるけどひと目でわかるでしょ。傷んだ感じもだし、『プリン』とかいうあれも」
送った写真は、母が室内でスマートフォンのカメラで撮影したものだ。
瑛璃の髪も陽の光の下とは確かに違う色味に見えるため、航の驚きも理解はできる。
色素の薄い髪は紛れもなく天然であるにも拘らず、これまでにも「染めているのでは」と疑われたことはあった。
今通っている高校は結構自由なためそういった心配もないが、中学時代はわざわざ「地毛証明」を提出していたのだ。
「それにしてもさあ、夏中遊びにってすごいよな。いや、来るのがただの田舎町なのはどうなんだと思うけど。一か月も旅行とか普通はないじゃん?」
「……どこのお家にも事情があるのよ。それはあんたにもわかってるんじゃないの?」
「それはそう、だけど」
伯母の咎めるような声音に、航が言葉を詰まらせる気配がした。
「まあでも、思ったよりはよさそうな子って感じ? エラソーなとこもないみたいだし、ちょっと安心したかな。明日は浜行くんだ」
「そういうの、瑛璃ちゃんにわからないように気をつけなさいよ。考えてることって態度や表情とかに出るんだから」
「それくらい俺だって知ってるよ。つーか俺、結構頑張ってただろ?」
「そうね〜。意外とやればできるじゃない、ってそこは見直したわ」
二人の会話は、悪意のある陰口でもなんでもない。むしろそれだけ瑛璃に神経を遣ってくれている証だ。
それでも、自分の立ち位置を改めて突き付けられた気がした。
このまま身を翻して部屋に戻りたかったが、そういうわけにはいかない。
最初に入浴させてもらったからには、待たせた彼らのためにも「空きました」と知らせて礼を述べるのは義務だ。
瑛璃は少し考えて、浴室に繋がる洗面所のドアをそっと開けると故意に音を立てて閉めた。
「お風呂、先にいただきました。すみませんでした」
何食わぬ顔でリビングのドアを開け、精一杯繕った笑顔で中の伯母と従兄に告げる。
「そんなのいいのよ〜」
温かな伯母の笑みの裏側さえ勘繰ってしまうのが苦しかった。
「あ、私ドライヤー持って来てるんですけど、部屋で髪乾かしてもいいでしょうか」
平静を装いつつ、それだけは忘れずに確認する。
「もちろんよ。うちのを使ってくれてもいいけど、自分のがあるならその方がいいわよね。女の子で髪も長いし」
「すみません。本当にありがとうございました。それじゃおやすみなさい」
口々におやすみ、と返してくれる二人に頭を下げて、ドアを閉めた途端に歯を食いしばり小走りで廊下を進み階段を駆け上がる。
自室に入った途端に気力が尽きてしまい、ドライヤーを取り出す前に瑛璃はベッドにうつ伏せに寝転んだ。
可哀想な子だから優しくしてあげないと。面倒だけれど、姪だから、従妹だから仕方がない。
きっとそれが彼らの本音。
いや、母の兄である伯父でさえ、頼まれて不本意ながら止むを得ず、かもしれないのだ。
スマートフォンに目をやり朱音に電話を、と一瞬頭を過ぎった思いを押さえつける。
まだ初日。
いや、初日だからこそかもしれないが、ここで安易に友人を頼ったら足元から崩れて行くような気がした。もう二度と、立ち上がれなくなりそうで怖い。
どうにか気合いを入れて髪を乾かしたあと。
眠気もなく、このまま一晩中悲観的な気分で過ごすのか、と諦めの心地で床に入る。
しかし自覚する以上に疲労が溜まっていたらしく、瑛璃はいつの間にか眠りの淵に落ちていた。