【2】
「航、ご飯の前に瑛璃ちゃんにこの辺いろいろ見せてあげたいの。あんたも行くでしょ? そのままじゃ汚いから着替えなさいよ」
「え──」
「あの、航さん帰ったばっかりで出掛けるの大変なんじゃ……。伯母さんも、私わざわざ案内してもらわなくても自分で勝手に歩いてみます」
思わず口をついて出た言葉は、なにか言い掛けた航を遮る形になってしまう。
世話になるだけでも悪いと思っているのに、余計な手間を掛けさせたくない、と断ろうとした瑛璃に、伯母はあっけらかんと笑った。
「何言ってんのよ〜。あのね、この家近所の人以外まず来ないの。久しぶりのお客さんで、あたしの方が楽しみだから一緒に行きたいのよ」
「母さん世話好きだから気にしなくていいよ。ああ、でも鬱陶しかったら我慢しなくていいから」
「……はい」
伯母にも、従兄にも宥められて、それ以上反論できずに頷く。
そこへ、ガレージに車を止めに行っていた伯父が入って来た。
都会の集合住宅しか知らない瑛璃の感覚とは違い、敷地に余裕があるため家屋の裏に独立ガレージがあるのだそうだ。
自分で運ぶと申し出たのに断られた、いま瑛璃が持っているショルダーバッグ以外のボストンやキャリーケースを抱えた伯父。
いくら夏で薄着だし洗濯するからとはいえ一か月分なのだ。
どうしても量が増えてしまった。
「あ、すみません! 私が」
「いやいや、重いから」
せめてここで受け取ろうとした瑛璃は、また伯父に制される。
「瑛璃ちゃんにこの周り案内してあげるんだけど、お父さんも行く?」
伯父が瑛璃の荷物を上がり框に置くなり、伯母が尋ねた。
「今から!? おいおい、瑛璃ちゃん東京から着いたところだぞ。ちょっとは休ませてやろうよ」
伯父の呆れた声に、伯母は初めて気づいたように瑛璃を見て来る。
「あー、そりゃそうよねえ。ごめんね瑛璃ちゃん。伯母さん嬉しくて、つい。少し休んでからにしようね」
「いえ、大丈夫です。新幹線もここまでも自分で歩いてないですから」
上辺ではなく本音だ。
まったく疲れていないと言えば嘘だが、今すぐ座って休みたいほどでもない。気が昂っているせいもあるのだろうか。
「荷物だけ上げとくよ。玄関に置きっ放しもなんだしな」
靴を脱いで家に上がり、伯父が再度瑛璃のバッグ類を手に取る。
「そうね、よろしく。ああ、瑛璃ちゃん。替えの靴とかあったら玄関に置いといて大丈夫よ。見ての通り広いから」
「はい。ありがとうございます」
そのまま階段の方へ進む彼を見送った伯母が、瑛理を気遣ってくれるのに礼を述べた。
「じゃあ航、待ってるからパッと着替えて来たら?」
「いや、どうせ汗かくしこのままで。……あ! え、瑛璃ちゃん、はいいかな? 汗びっしょりで一緒に歩くの嫌ならシャワーして来る」
伯母に促された航が、億劫そうに否定してからはっとしたように瑛璃に問い掛ける。
「いえ! 私は全然平気です!」
慌てて手を振り否定する瑛璃に、彼が白い歯を見せた。
「海、もっとすぐ近くだと思ってました」
伯父の家族三人と連れ立って、少し歩いた先の小高い丘の上から眺める浜。
港ではないが、海水浴場でもないのだそうだ。遠目だからだけではなく、コンパクトな浜辺。
「実はあたしも最初はそうだったわ。お父さんに『海のそばの田舎だ』って聞いてたから寂れた漁村かと思ったのに、来てみたら普通の町なんだもの」
「母さんはステレオタイプすぎ。『海=漁村』てさあ。横浜だって神戸だって、港町で海の近くだけど大都会じゃん」
呆れ顔の息子にも、伯母は平然としていた。
「海のすぐ近くは生活するには大変みたいよ。潮風でいろいろ錆びるとか家傷むとか」
うちも影響はあるのかもしれないけど、そこまで感じないから、と伯母が続ける。
「あとね、この先が商店街なの。お使い頼むことなんかないけど、もし何か欲しいものあったら一番近いわ」
「商店街ったって、お店がそこに集まってるだけなんだけどさあ」
「それを『商店街』っていうのよ。じゃああんたの思う『商店街』って何なの?」
伯母と従兄の話に耳を傾けながら歩き、途中にあるものを三人が順にその都度説明してくれる。
「まあこの辺で食べ物とか日用品は揃うよ。ここにないものはモールまで行けば大抵あるし」
「あと、ネットショッピングもあるからさ! 買い物には特に困んないと思う」
伯父が教えてくれるのに、横から従兄が付け加えた。確かに今はネットで何でも買える。配達に困難が生じる僻地というわけではないのだし。
「とりあえず帰りましょ。航、また細かいことはあんたが連れて来てあげてよ」
伯母の言葉を合図に、瑛璃を含めた四人は来た道を引き返した。
(清見こうじさんにお描きいただいた伯父さんと伯母さんです〜)
「じゃあ夕ご飯の用意するから。ちょっと待ってね」
玄関を入るなり、伯母が瑛璃に声を掛けて来る。
「あの、私お手伝いします」
「あらあ、そんなこと言われたの初めて! いいのよ。これが伯母さんの仕事だから」
ただの「お客さん」のつもりでいてはいけない、と口にした瑛璃に、伯母は笑って手を振った。
「でも──」
「だったらまたおいおいね。今日はもう下拵えもしてるし、何より瑛璃ちゃんの歓迎会だから」
これ以上逆らわない方がいいのか。伯母も途中から手を出されるのは嫌かもしれない。悪いが今日は甘えておこう、と引く。
「瑛璃ちゃん、部屋に案内するからおいで」
伯父のあとをついて、瑛璃は階段を上がった。
「荷物は全部そのまま置いてあるからね。もし何か手伝うことがあったら遠慮しなくていいよ。伯父さんに言い難かったら伯母さんにな。世話好きで気のいい人だから」
廊下の両側に並んだドアの一つを開けて、伯父が中を指して話してくれるのを聞く。伯母に対する評が航と同じだ。瑛璃の印象とも重なる。
そして部屋。
……そうだ、夏の間泊まるのだから当然かもしれないとはいえ、「瑛璃の部屋」を用意してくれたのだ。
そこへ伯母の「ご飯よ」という声が掛かり、斜め向かいの部屋から出てきた航も一緒に一階へ向かった。
「どう? 口に合うかしら?」
「美味しいです! 伯母さん、お料理上手なんですね。……私、手伝うなんて言ったけど別に料理得意でもないし」
瑛璃が食べるのを見ていた伯母が少し不安そうに訊くのにすぐに答える。
万が一違う感想を持ったとしても、返しとしては「美味しいです」以外にはあり得ない。
ただ、伯母の料理は忖度なく美味しかった。
味付けも特に癖はなく、食材は瑛璃の家庭とは違う感じのものもあったが、思い切って口に入れたらすべて好みの味だった。
これは瑛璃に合わせてくれたわけではないので、もともとの味覚が似ているのか。
この町は母の故郷なのだから、母の料理のベースもここの味になるのだろう。父がよく「味が違う」と文句をつけていたものだ。
もしかしたら伯母の味付けもこの地元に寄せていて、そのため瑛璃にも馴染みがあるということなのかもしれない。
ただし、父の不満は土地柄の問題ではなく「自分の家の味に合わせない」という一点らしかった。
実際、学校で友人と弁当のおかずを交換しても、母の料理は常に「美味しい」と好評だったからだ。中には「レシピ教えて! お母さんに作ってもらう」という子までいた。
そういった経過もあり母も料理は普通に上手だと思っているものの、もし順位をつけるなら問答無用で伯母の方が上だ。
「あたし、主婦歴二十年以上になるのよぉ。高校生の女の子より上手くできるのなんて当たり前じゃない。それより、作ったもの『美味しい』って言われたらこんなに嬉しいのねぇ」
伯父と航の方をチラッと見やると、伯母がまた瑛璃に視線を戻して笑う。
「いや、俺だって『美味しい』くらい言って、……た、たまには、言ってる、じゃん」
「そうね~。『これだけかよ!』『あー、肉がいいなあ』とかの二十分の一くらいは言ってるかもね」
伯母の笑い混じりの返しに、航はバツが悪そうに俯いていた。ここで開き直らないというのは、きっと性格が良いのだろう。
「ああ、お母さんごめんな。美味しいのが当然だからつい言わなくなってて」
「お父さんは結婚したころはすごい大袈裟に喜んでくれてたもんねえ」
伯父の台詞はまさに彼のキャラクターに合っていると感じる。
今まで会っていた時にも、口数は少なかったが無神経なところはなく、瑛璃と母に細かく気を遣ってくれていた。
「瑛璃ちゃんて綺麗な名前よねえ。キラキラ宝石、というか『宝物』って感じかしら」
いきなり変わった話題に、瑛璃は一瞬戸惑ったものの伯母に頷く。
「あ、はい。そういうイメージ、らしいです」
幼い頃から母に聞かされていた。優しい、温かな笑顔の母が不意に脳裏に浮かぶ。
自分でも調べてみたことがあった。「瑛」も「璃」も、「透明な美しい石」といった意味を持つ漢字だ。
宝物、……皮肉に感じるのは流石に被害妄想が過ぎる。伯母の言葉にそんな含みはあるはずもない。母も、そうだと信じたかった。
「うん。瑛璃ちゃんていい名前だよな! 俺なんて海だから『航』だもんなあ。安易だし、『コウ』って間違われる。いや、どうせなら『コウ』でよかったじゃん。『小野塚 ワタル』より『小野塚 コウ』のがリズムいいしさ」
あーあ、と天を仰ぐような航の台詞に、伯母が即座に返した。
「『海の近くだから航でいいか〜』なんて手抜きじゃないわよ! 『人生という海を〜』ってちゃんと考えたんだから。お父さんと一緒に。これ、何回も言ったでしょ!? それに『わたる』って読む方が普通よ。あたしとお父さんにとってはそうなの!」
力説する母親に、その感覚がもう古い、と航が呟く。
「航海の『航』でしょ? 名前ならやっぱり『わたる』じゃない、かな」
おずおずと口を挟んだ瑛璃に、伯母が我が意を得たりといった様子で続いた。
「そうよね!? ほらあ、瑛璃ちゃんもそう言ってるじゃない! 第一、健治と芳恵の子なんだから『航』でぴったりじゃないの。古い一家で。瑛璃ちゃんのママは『祥子』さんよ。お洒落よねえ」
伯母の言葉は瑛璃には意外だった。
「マ、母は『子のつく名前なんて、古臭くて嫌だった』って言ってました。伯母さんみたいな『恵で〇恵』とか『美で〇美』とか羨ましかった、って。だから私には今風の名前つけたかったらしいです」
これも、母から折りに触れ聞かされていた。
「ああ、確かに祥子はそういうこと言ってたなあ。『子のつく名前』も少なくなってたし。まあ伯父さんもおじいちゃん世代と変わらないような名前だし、もうこういう家とか土地だからって諦めてたのかもな」
伯父が言葉を添えるのに、伯母が驚きを示す。
「そうなの? あたしは『よしえ』なんておばあちゃんみたいじゃない、って子どもの頃から気に入らなくてねえ。瑛璃ちゃんのママの名前聞いたとき、『しょうこ』ってスマートでいいなあと思ったのよ」
親世代でも、同じものに対する感じ方は人それぞれここまで違うのだ。
所謂「隣の芝生は青い」というのもあるかもしれないが、瑛璃がわかっていないことはまだまだ多く、そして大人も決して完璧な存在ではないということなのだろう。
知らない家に来てよく知らない人たちと長い間過ごすことなど、まったく嬉しくはなかった。
ただ母を困らせたくなくて本音は出せなかっただけだ。
けれど瑛璃が来たのがこの家だったのは、せめてもの幸運なのかもしれない。