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花雨  作者: 夜待花波
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思ひ出(二)

 通信環境の関係で、レイアウトの直しや推敲が甘いかもしれません。悪しからずご了承ください。

 母の手を見、顔を見ると、笑みを返された。

「よく傷を作って帰ってらしたのですよ。それでもお父さまは笑っていらしてね」

 そのくらいは子供が元気よく遊んでいればよくあることだと。手当をしながらそう言ったのだと東子は言った。

「世津子さんが元気に何をなさっているのかと思ってお尋ねしたら、しどろもどろになっていらしたけれど。あの時は可笑しかったこと」

 母が笑う。穏やかに。そして、懐かし気に。

「でも、お父さまとのお時間は楽しかったのでしょう。いつも嬉しそうにお父さまとお出かけしてらしたものね」

「お母さま」

 母がまた笑う。思い出し笑いか。

「いいのよ、わたくしもですから。お父さまとの時間はいつも楽しかったわ。学生の頃からあのユウモアと物の見方にはいつも驚かされて、そして笑っていました――三人で、ね」

「三人…」

「ええ、お父さまと、今日会ったあの方と三人で。あの方もお話がお上手でしたでしょう?お父さまといつも周りを笑わせていらしたわ」

(さっきの方と)

 そうなのか。

「仲がよろしかったのですね」

 そうねえ、と母が手を口元に持っていく。

「どちらかといえば、わたくしはあのお二人のおまけでしたよ」

「え…?」

 母が首をかしげる。

「ええ。みそっかす、というのでしたかしら。庇われていましたからね」

 何もわからず、慣れないのはお互い様。けれども間に誰か入らなければいらぬことが起きよう、と指導教員や学校側で人当たりのいい者を見繕ってくれていたらしいと。それで後に伴侶となる男性と出会ったのだから縁とはわからないものだと母は言う。

(縁)

「お母さまは、お幸せ」

 ふとそんな言葉が滑り出た。

「そう?」

 柔らかな笑みをたたえている母は自然に世津子を見、また庭に目を投げた。

 その先には雀がいる。何かをつついて羽を広げ、また閉じて首を動かして、さえずった。

 それに応えるように一羽の雀が下りてくる。

「だって、お父さまと出会えたのですから」

 ――そして結ばれたのだから。

 目を合わせずに、庭を見つつ言う。母はこちらを見ていたようだが自分の様子にやはり庭に視線を投げた気配がした。

「そうね」

 穏やかな声が耳に届く。

「それは幸せなできごとでしたよ。いろいろ――本当にいろいろあったのですけれどもね。お父さまにもご事情がおありでしたし。……世津子さんにはもっと早く話をするべきだったのでしょうね」

 聞こえてくる母の声が、少し変わった。

「そんな経験をしていながら言っておかなかったのはわたくしが行き届かなかったのだけれど、もし、もしもですけれども、あなたにどなたか意中の人がおありなら、わたくしにはおっしゃいね。いきなり家にというのはいけないけれども、何か場を設けることを考えましょう。そのくらいは約束して差し上げられますから」

「お母さま」

 思わず母を見る。ふ、と母が笑みをこぼした。いつもよりも、あたたかな優しい笑顔だった。

「誰かいらしたのね」

「お母さま……」

「そんな顔をしないで。さあ」

「でも、待って、お母さま、もうお話は進んでいるのに」

「世津子さん」

 母が手を伸ばして世津子のほほに触れた。

「お父さまがいなくなった時のあなたのこと、わたくしは忘れていないのですよ」

 母の指がほほをぬぐう。

「あなたは小さくてもとても大人で、何かを感じ取ったのか、お父さまが出て行かれた時もあまり騒がずにじっと耐えていらして。わたくしにもお父さまのことを聞いたのは一度きりでしたね」

「…それは」

 思い出す。何もなくそんなことをしたわけではないのだ。

「お父さまは、……お父さまが、行ってしまわれる前にわたくしにこうおっしゃったからです」


『世津子、よくお聞き。お父さまはお母さまと世津子と、三人で暮らすことができなくなってしまった。でもそれだけだ。世津子のこともお母さまのことも大切で、変わらず家族だと思っているし、離れていてもいつも二人の無事を祈っているよ。覚えておいてくれるね』


 だから安心していいのだ、と。

 お母さまにあれこれ聞いて困らせてはいけない、と。


『でも、世津子が転んでも、お父ちゃまはもう立たせてくれないのでしょう』

『それは』

 父が苦笑した。そう、今ならわかる。表情の裏の悲しみが。

『良い機会だ。世津子、もう一人で起き上がっても良い年頃だよ。できるだろう?知ってるんだよ、いつもお父ちゃまに起こしてほしいからぐずぐずしていたんだろう?』


 駄々をこねて、少しでも話す時間を延ばしたかったあの時。

 ――泣きたくなった。

「わたくしは、世津子さんに幾度も辛い思いをさせていますね。だから、このくらいは致しましょう。少し時間はかかるかもしれないけれど。あなたはあなたの道を歩んでいいのですよ。それは覚えておおきなさい」




 抱えていたことを話し、ひとしきり頬を濡らした後、新しく淹れてもらった茶を手に父の思い出話を聞いた。

「あの人は、何にも代えがたい方でした。頭も行動力も……それは確か。あなたのお祖父さまも認めていらっしゃいました」

 子供心にも、祖父と父の仲が悪かったわけではない、と思う。尋ねると――確認に等しかったが――母は首肯した。

「ではなぜ――なぜ、出て行かれてしまったの」

「それはね、お祖父さまとお考えを違えたからですよ。お二人とも見ている先は同じでしたのに、一歩も引かずに論争になって。折り合いがつかないままにとうとう出て行ってしまわれたの」

「そんな…」

「お二人ともそれぞれの信念がおありでしたからね。お祖父さまもそこが気に入ったと仲を許してくださったのに…」

 そんな、と漏らすと母は小さく笑った。

「悲しいことでもあるけれど、あの人らしいわね。だからそれでよかったのですよ」

「お母さま。なぜ一緒に行かれなかったのですか」

「それはね、お父さまが残れとおっしゃったからです。あなたがいることも考えてね」

「わたしの?」

「ええ。自分の行く道は(いばら)の道だから、と。一緒に行けば、確実に互いが互いの足手まといになる、とね」

 少し寂しそうな顔になり、母は漏らした。でも、そのくらいの覚悟はしようとも思ったし、ついていくとも申し上げたのですけれどもね、とも。

「でも、小さなあなたを…やはり、あなたにもし何かあったらと心配なさったのね。それも当たり前のこと」

 幾日も話し合い、今のようになるのがよろしかろうとようやく結論を出したのだと母は言った。

 ふと引っかかった。

「お母さま」

「何かしら、世津子さん」

「お父さまは、どのようなことをなさっていらしたの」

 母が怪訝そうに世津子を見た。

「どう、…そうねえ」

 言い淀み、そして茶碗に口をつける。ほんの一口、唇を濡らす程度かと思う程度の。

「詳しいことは存じませんでしたけれど。そうね、お祖父さまと一緒にあちらこちらを訪ねたり、話を聞きに行ったり相談に乗ったり」

(では)

「何か危険なことをなさっていたのではないのね」

「ああ、聞きたいのは…そう、そうね、荒事をなさっていたわけではありませんよ」

 母がくすくすと笑みを漏らした。

「剣術や体術はお強くていらしたけれど。ほら、柳原のお嬢様の、あちらのお宅の精鋭の方々とも渡り合えるくらいには」

「那美路さんの…」

「ええ」

 母が庭に目をやった。

「そういったことはあまりあなたの前ではなさらなかったものね。…そう、世津子さんは、お父さまのお背やお顔はもう朧気になっているのかしら。それでも不思議ではないわね」


 ずっと――父の話になってから、ずっと母はやや遠くを見ている。


 それは初めて見る母の表情だったかもしれない。

 世津子にとって、母――母親である東子は、いつもゆるぎない自信に満ちているように思われて、身近でもあるが、同時に遠い遠いところに存在している女性でもあった。

 母のようになれと言われたことはない。だが、母を目指すということを考えたこともない。幼いころを除いては。

 無邪気に母の後を追っていた、あのころ。



 ――母は、一緒に行きたかったのだ。慕うひとの傍にいて、支えたかったのだ。



 *



 他愛のない、そういうのは容易いことだ。

 だが。

 思っていた最悪のことよりもはるかに手前だったことに東子は安堵もし、またほんの少しではあったが娘のまだまだ幼いことに心配もした。

(それでも)

 危ないことに好奇心のみで踏み込むよりは良い。そう、ずっと。


 若いころの己を振り返り、東子は我知らず笑みを漏らした。



『ええ、わたくしもですわ』

 目の前にいる学生――男。間違(まご)うことなき男ばかりの学生の中で、東子は言い切った。

 ひるむという選択肢はなかった。

 女学生はおりませんよ、という忠告というより警告じみた言葉を聞きながらも己の意思を通したのだ、(ひる)んでなどおれぬ。

 だから、ほほ笑んだ。

 場が音をなくした。

 こちらは一人。多勢に無勢とはこのことだ。どうなるだろうか。当然のことだが東子にもわからない。

 その時、外から声が響き渡った。

『いったい何なのですか、これは?』

『あ』

 誰かの声に続き、集団が揺らぐ。人の注意が逸れ、東子はそっと息を吐いた。教授が現れたのだろうかと思ったが、それは一瞬のことですぐに記憶が否定した。

(――この声は違う)

 何度か会って言葉を交わした老齢の落ち着いた紳士はもっと細い、そう、枯れた声だった。

 背は低めだが、がっちりした体つきの若い男性が姿を見せた。東子を見留めると、目を細めて笑った。

 いや、ただ笑いかけてきたのだが、何とも言えない人懐こさをたたえており、東子は一瞬戸惑った。

『……御機嫌よう』

『ごきげんよう。あなたですか、先生から話は聞きました。勇気のあるお嬢さんがいらっしゃると伺ってますよ』

『勇気…ですか?』

『違いますか。女性が一人でこのような場に飛び込んでいらっしゃるというのはなかなかないと思うのですがね。…さあ、こちらに。皆さんに紹介しましょう』



 どんな道をたどったのか、今は細い筆を手に絵を描いている人がその頃は教授の助手として働いていた。くるくると身軽に大量の資料を用意し、学生たちをさばき、時に先輩として談笑し、悩みを聞きつつ示唆を与える。当然学生たちには頼りにされており、傍から見ている身としては、研究室の運営は教授よりもこの人が要なのではないかと思ってしまうくらいだった。

 ――ま、いろいろありましてね。

 にこにこと言ったその顔は間違いなく笑んでいたのだけれども、それ以上尋ねるのは遠慮すべきだと小娘ながら思ったので、東子はそれより先のことを訊こうとしたことはない。

 彼が少なくとも己には悪い感情も企みも持たぬのを感じ取ったからだ。


 その彼と、しょっちゅうでもないが、顔を合わせれば打ち解けた様子で話に興じていたのがのちに夫となった人間である。



『え?』

『お貸しなさい。まったく、なぜ気にしないんだ』

 いや、なぜ婦女子に頼むんだ、いったい誰が、とぶつぶつ言いながら東子の手の鎌を取りあげ、草を払い始めたのは、初めて見る男子学生だった。いくつ上なのだろうか、そんなことを思うがわかるわけもない。

『どうかお待ちになって。わたくしが(おお)せつかったのですわ。わたくしがしなければ』

『黙っていればいい。こんなことはあなたはやったこともないでしょう。手を見ればわかる』

『でも』

『いいから少し離れておいでなさい』

 有無を言わせぬ様子で言った後、その人は手を止め振り向いた。

『仰せつかった?誰に』

『教授ですわ』

『きょう…』

 一瞬呆けたようになり、口元を引き締めたかと思うとまた草を払う作業に戻る。

『あの』

『少し黙っていてください。こんなことは早く終わらせなければ』

 その後、何てことだというつぶやきが聞こえた。



 出会いはそんな調子だったが、果たして娘に話す日が来るだろうか。

 そんなことを考えながら、東子は後部座席の隣に座る世津子の顔を見ていた。

 娘は窓の外をずっと見つめている。


 *


 帰ると、応接に許婚がいた。

「まあ、陽一郎さん」

 東子が声を上げる。立って待っていたらしい彼が軽く一礼した。

「お約束もせず、申し訳ありません」

「いいのですよ。…世津子さん、ご挨拶をね」

 前に出るよう促され、一歩踏み出すがそれだけにとどめた。

 自分を見、安堵したように相手の表情から緊張が抜ける。

「無沙汰をいたしまして」

「いいえ。それよりも、お待たせしてしまったのですね」

 ゆるりと彼が首を振る。

「それはこちらの無作法のせいです。時間のことはともかく、早くお顔を拝見したかったので。今になってとお思いでしょうが、世津子さんへのお見舞いも部屋に運んでいただきました」

 まあ、と母の口から声が漏れた。

 世津子も礼を言う。

「何も知らなかったので、こんな時期になってしまいました。かえって失礼かとも存じましたが、…ともかく申し訳ないことであります」


 あのような会話を母とした後では、複雑な気持ちである。

 ともかくも障りのない対応はするべきであって、失礼のないよう世間話はした。

 相手のほうも、以前よりも物腰が柔らかく、言葉も滑らかになり、どこかで何かを学んできたのかと思えるくらいにはなっていた。



 *



「それは、組織の中でご苦労されたのではなくて」

 馬上で風に髪をなびかせた歌子が言った。体にぴったり合うようあつらえた乗馬服に帽子。それに鞭を手にした様子はそれこそ一枚の絵のようだった。

「いい影響があったのなら良かったこと。少し揉まれたらいいのじゃないか、と融さんも言ってらしたもの」

 許嫁のことにはあまり好意的な感情を示さないことにそろそろ世津子も気づいていたが、けれども異を唱える気にはなれなかった。

「そうですの」

「ええ。笑ってらしたわ、だからそんなに気にすることではなくてよ、きっと」

 もう一駆けしましょう、と言われてうなずき、歌子の後に続いた。

 高原にある、歌子の家の別邸に誘われて――夏の避暑にいらっしゃいということだった――十日になる。

 特に何か、これといってしなければならないこともなく、世津子はただただ時間を過ごしている。

 歌子は毎日のように馬を駆っている。他にも他家の集まりや夜会があれば顔を出していたが、行く先のことを口にはしても、それに世津子を誘うことはなかった。社交場に行きたいと思ったら申し出るように、といわれているが、世津子は元から華やかな場には誘いがあれば行く程度で、積極的に行きたがるほうではない。それもあって、今のところは歌子が出かけるのを見送りはしても、同行を願い出ることはなかった。


 歌子は笑って自由にさせてくれていた。

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