思ひ出
時折飲み物で喉を潤しながら話は続く。
時に笑い、時に軽く冗談も交え、二人は楽しそうに歓談していた。
内容はといえば深刻なものではなく、絵もあまり関係なく、本当に大したことのない、そう、よもやま話とでもいえばいいのか。
しばらくぶりというのは本当らしい。近々のことから始まり思い出話を挟み、双方ともに知っているらしい人の噂や伝聞を伝え合い――正直よくこれだけ話すことがあるものだと思うくらいの時間がかかっていた。己のことを思い返せば、そういったこともあることは知っていたが。
(お友達、なのよね)
実のところ、常について回っているわけではないので、当たり前のことだが世津子が母の交友関係をすべて知っているということはない。
どちらかといえば、世津子にも見知っていてほしいと思う人に会わせるために、また社交上必要である相手に会わせるために母はこういう場に世津子を伴うのだ。もちろん娯楽の意味もあれば教養を身に着けるなど、様々な目的も兼ねているが。
(今日は)
個人の展覧会を訪う以上の意味はあるのだろうか。
いつも社交場で会うような知人友人――無論母や祖父の――はたいてい幼い頃から家にも訪れており、人によっては抱き上げてあやしてくれた記憶まである。そんなことをしてくれるのは当たり前にほぼ家族ぐるみの、そして家族同然の付き合いがあるような関係の人だけだ。この会場内に現れるのはまた違う世界の人々なのか、声をかけられることもなかった。
「世津子さん」
母に呼ばれた。思考から現実に帰る。
「はい」
画家がにこにこと自分を見ていた。
「これはこれは。何か良きことを思っておいでかな」
「まあ、娘を揶揄わないでくださいな。世津子さん、ちょっと立って、一回りして差し上げて頂戴。振袖をご覧になりたいのですって」
「あ」
では、と立ち上がって腕を開いて袖を見せ、そのままゆるりと回って背を向ける。背後でほうという声を聞き、止まったほうがいいのかと思ったが、何も言われないのでまた元のように前を向いた。母を見る。
頷いた母が、画家に「よろしくて」と言った。
「ええ、けっこうなものを拝見いたしました。ああどうぞお座りください。感謝申し上げます、いや、相変わらずご趣味がよろしいですな」
「これはこの子が自分で注文をつけたのですよ。呉服屋さんには要望をいくつも聞いていただきましたの」
世津子が目を見張ると、母がくすりと笑った。
「この子の祖父がそうするようにと言ったのですわ。ね、世津子さん」
「…、はい」
母はいったい何を考えているのだろう。こんな話になるなんて、と思うが今それを言うのは憚られた。
ほうほう、と画家が頷いている。
「いや、眼福。お嬢様を見ていると、あなたのお若いころを思い出しますよ。わたしたちみんなのマドンナであらせられた頃の」
「まあ」
臆せず花のように母が笑った。
「言い過ぎですわ。わたくしが世間知らずの娘だったのを、みなさんで囲ってあれこれお世話してくださったのを存じておりますのよ」
「いやいや、そんなことはない。ねえ、お嬢様、東子さんはみんなの憧れの姫だったのです。他愛のないことでも気にせず微笑みかけてくださって、どれだけの男がぼうっとなったことか」
手を口元にあてて母が笑う。
「いやね、そんな風におっしゃられて。恥ずかしい」
本当のことです、と画家が澄まして言った。
「いや、本当に、懐かしい。学生の頃のことは今でも懐かしいのですよ。こんなお話ができて若返る思いです」
「わたくしの昔話など、聞いても面白くはないと思って娘にはこれまで何も話して来なかったのだけれど。……このままではあなた、何でもおしゃべりしてしまいそうね」
「おや、知らないなどとはなんてもったいない」
ねえ、と視線を流して笑いかけられ、思わず世津子はうなずいてしまうところだった。
「まあ、このくらいにいたしますよ。東子さんにもう二度とお目にかかれなくなるのは御免ですからね。」
「ええ、そうなさってくださいまし」
「そう、それに、決心がつきました。あのお話、お受けしましょう。是非にやらせていただきたい」
一瞬だが東子が真顔になった。
「お時間とっていただけますの」
「ええ」
画家が深くうなずく。
「描けそうです。お嬢様を連れてきていただいて感謝いたしますよ。そう、このお召し物でもよろしいかな、その辺りはまたご相談ということで」
母が丁寧に礼を述べた。
そのうち、次の接客相手が現れたのを見、それを潮に画廊を出ることにした。
外に出るとまだ日差しが熱い。手をかざしながら世津子は母に疑問をぶつけた。
「お母さま、先ほどのお話」
「絵のこと?」
「はい。わたくしの絵を描いていただくのでしょうか」
「突然で驚かせてしまったけれど、お話が決まるまでは、と存じて何も申さなかったの。少し前に、あなたの絵を描いていただきたいとお願いしていたのですよ」
「…なぜですの」
母が日傘を広げた。そして自分にではなく娘に差し掛ける。
「一枚くらいあってもいいでしょう。そう、それだけ」
(それだけ…)
何でもないことのように。気まぐれの産物とでもいうように、軽く母は言った。
(肖像画?わたしの?)
これまで、高名な画家が家まで訪ねてくるようなことなど目にしたこともなかったのだが。例えば歌子のような、姫と呼ばれておかしくない立場の人ならあるのだろうが。
「不思議そうね、世津子さん」
「あ、そんな…」
母がほほ笑んだ。
「いいのですよ。わたくしね、あなたがお嫁に行く前の今のあなたを絵に留めておきたくなったの。けれどもあの方も今お仕事が詰まっていらして、無理だろうと初めはご承知いただけなかったの」
何度か話した後、折を見て顔を合わせ、それから考えるという返事をもらったのだという。
「あなたの時間も取ってしまいますね。母のわがままだけれど、許して頂戴」
「…いいえ、お母さま」
車が見えた。画廊の前に止める事は叶わなかったので、少し離れた場所にいたのである。
「あの方のことも少しお話しなくてはね。あの方は、わたくしの若いころをご存じなのですよ」
「え……」
それは先ほどの話を聞いていれば理解できたのだが、そんな答えを返したのは、母のうら若き頃からの友人知人は山ほどいることを知っていたからである。だから世津子は次の言葉を待った。
そんな娘にもう一度東子は微笑みかけた。
「学生の時――大学に行って知り合った方の一人なのですよ。あの時、上の学校で学ぼうと思わなければあそこに通うこともなかったでしょうし、それであれば一生言葉を交わすことなどなかった方でしょうね」
まるで何かを夢見ているような、そんな目をしていた。
(お母さま?)
本当に、どういう関係なのだろうか。
「マドンナ、ってあの方がおっしゃっていらしたのは」
「あれは冗談」
くすりと母が笑う。
「皆で丁寧に接してくださっていたのは本当だと思うけれど、誰もが好意を寄せていてくれたなどということはありませんよ。むしろどうしたらいいかわからなかったからそういう接し方になった、というのが正しいのではないかと存じますけれどね」
その後、車の傍まで来ると、東子は待っていた運転手に何かを握らせ一言二言告げた後に帰してしまい、世津子にはその先にある庭園を見に行こうと言った。
「でも、暑うございます。せっかく気分よくなられたのに」
「案ぜずとも良いのですよ。先ほどゆっくり休めましたからね」
母の顔を見る。
変わらずいつもの母の――いや、表情はいつもよりも柔らかかったが――様子であることを認め、世津子は心配をやめた。
「……画廊でお話していらした時、あの方、上つ方と交流がおありだとかお母さまは仰ってらしたように存じますけれど」
「ええ、いつの間にか。どのようにしてかは存じませんけれどもね。あの方がご自分の力で得たご縁ですよ。わたくしにはわからないところでのこと」
「では」
「一念を貫いてご自分の道を歩まれた結果の今なのですよ。……うらやましいこと」
(お母さま)
こんな話を聞くのは初めてだ。
「ではもう少し歩きましょう。こちらですよ」
世津子も日傘を開いた。
道を少し行って奥まったところに入ると、街中と呼べる空気はなくなり静かな宅地になった。
土塀の続く道を行き、途切れたところでどっしりした木の門をくぐる。
細い、一人だけが通るに適した幅の石畳の両側には、紫陽花や南天の木、また桔梗の花や百合が混植されていた。
――個人の邸宅ではないのか。
そんなことを思う。
(ああ、くちなし)
緑濃い葉を繁らせた木には花はすでになかったが、時が合えばさぞ芳香を楽しめるであろうことは想像に難くなかった。
少し先を行く母の背中と日傘を見る。迷いのない足取りで歩を進める母の向こうには、狭い間口の玄関と手入れの行き届いた木々の前庭とがあった。
楓の葉が青々と垂れ下がっている。
「ちょうど花の切れるころだけどそれもまた――」
母がそんな言葉を口にしたとき、中から人が出迎えに来た。
*
レンズの先に捉えていた姿は邸宅の中に消えた。
(豪胆な)
「ある意味弟よりも肚が据わっているというのは真実らしいな」
そんな言葉が聞こえたが、頷く程度にしたらそれで会話は途切れた。
今朝当たり、何通目かの脅迫状が届いているはずだ。それを東子が知らないはずがない。
娘の世津子もおっとりした風情の深窓の令嬢だが、その母親もそれ以上に雅な、世間の風に当たらず育った空気をまとっている。
なのに。
『闘うと決めたのだろう。いつからかはわからないが』
上司は笑っていた。
*
庭に面した座敷に通されて、そこで待っていると茶を供された。
「時に、世津子さん。お父さまのことは、どのくらい覚えていて?」
濃い緑の茶の茶碗を手にしながら東子がそんなことを言った。
「お父さま…?」
「ええ。あなたのお父さまの。思い出や、声や」
母が茶を一口含んで飲み下した。
「ああ、喉が渇くこと。ごめんなさいね。そう、お父さまとの記憶はどのくらいあって?」
わたくしの、と思わずつぶやく。
幼いころのことか。それとも――まだ学校にも上がらない、あの頃の記憶か。
「多いか少ないかはわかりませんけれど、思い出はありますわ」
「そう…」
「一体どうなさったの、お母さま。なぜそんな」
突然、と続けようとしたが、飲み込む。視線の先の母が、ひどく悲しげに微笑んでいたからだった。
「なぜかしらね。あなたがもう、縁談を受けるほどに大人になっていたのだと思うと、なぜか考えることも多くなってしまっているのですよ。…あんなにお小さくて、いつもいつも、お母ちゃま、お父ちゃまとわたくしやあの方の後をついて歩いていたのにと」
これも何かの郷愁なのかと母は笑む。遠い何かに思いを馳せるように。
世津子も同じように笑んだ。そうすれば、還ることができるだろうかと。
遠い、遠い、あのころに。
――ほうら世津子、見てごらん、面白いだろう?
そう、幼い頃は父がいた。
手をつないで散歩に出、川辺で草笛を吹いてくれたり、水切りを見せてくれたり。
そのまねをしようとし、またさせてくれようともしたのだが、世津子はいつも上手くいかずに泣きそうになった。
『お父ちゃま……』
『ああ、泣くんじゃない。世津子は女の子だ、お父ちゃまとは得意なことが違うんだよ。』
涙をぬぐってくれ、手を引いて帰ってくれたあの道。
あの時の家には今とは違う温もりがあった、と思う。上手く言えないが、おとなしく座って祖父が人と談笑しているのを見ている時とは違う何かをあの頃でさえ感じていた。
そうだ。あの空気。
こっそり肩車をしてくれたり、庭の桑の実をとって口に入れてくれたり。避暑に行った先で、どんぐりを拾い、あけびを食べさせてくれ、そうだ、火を焚いて二人で魚をあぶったのはいつの季節だったろう。
その時に母はいたか。
泥遊びをしたり川で遊んで転んで水をかぶったところで母に叱られたりはしなかったが、大わらわにはなった。
母がそんな時だけはいつもと違う感情を顔に丸出しにして世津子を扱った。そして。
『――さん、世津子は女の子ですのよ。もう少し』
父に呆れた声を上げた。
「ええ、あなたのお父さまはそういう方でした。女の子のあなたにも木登りや虫取りや、そうね、凧揚げもさせていたわね。お相撲も」
「お相撲ですって」
「それは覚えていないのですね。もっとも、本格的にしたわけでもなくて、傍から見ていると、ただあなたにぶつからせていただけのようにも思えたから…」
何かを思い出したのか、目を伏せて東子はふふと笑った。
「それでも、あなたは笑ってお父さまの腕の中に飛び込んでいましたものね。楽しかったのねえ」
「それは…」
どうだったろう。遊んでもらっているのは嬉しく、また楽しかったが。
「…お父さまは、わたくしが男の子だったらとお思いだったのでしょうか」
「いいえ」
東子が首を振る。
「それは関係なかったようですよ。あなたのことはとても可愛がっておいででしたもの。子供のうちに様々なことに触れておくことが大切だと口癖のようにおっしゃっていましたから、子育てというものに対してそうお考えだっただけでしょうね。でも」
東子の手が、そっと世津子の手に触れた。
「怪我は、ね。女の子に傷を痕してはいけません」




