知らない世界
「お前らしくもない」
「そうでしょうか」
己の時はどうだったろう、と考える。それまでと違う環境の、限られた身分の者だけが通うわけではない学び舎に足を踏み入れた時の緊張感を今も忘れていない。
気を引き締めていたつもりの自分が、ただ気を張り詰めていただけに見えていたと知った時は思わず困惑して笑みを漏らしてしまったが、それでも学友と呼べる間柄の人たちは親切にも受け入れてくれた。
そんな体験から、何かあってもそれほど困ったことにはなるまいと楽観していたのだった。
実際、娘がそれほど不快な思いをした様子はなかった。それとも見逃したか。
(それもない)
むしろ、以前に比べてうきうきしている様子も見せていたのだから。それで自分も安心していたのである。
勉強もよくしていた。以前にも増して本を手放さなくなって、ほかの稽古ごとが疎かになりはしないかと心配していたくらいに。別邸の事件以来、ずっと――事務の手続きに一度行った以外は――煉瓦造りの西洋風の、どっしりとした校舎に通えなくなってからのほうが、娘は明らかに気落ちしている。
それまでと全く違う環境、違う世界に出して、果たしてよかったのだろうか。間違いを犯したのだろうか。そう何度己に問うても答えは出てこない。
――間違っていたとは思いたくない。
それはただの願いであることは承知の上で、それでも思わずにいられなかった。
「そういえば、世津子の相手、あの坊主はどうしている? まだ欧州から帰ってこんのか」
「またそんな言い方をなさって」
父が気に入らない相手に対して口が悪くなるのはいつものことで、苦笑するしかない。
「さあ……まだではないかと」
「お前にしては珍しいことだ。気にしてはおらんのか」
「年が明けてから、というお話でしたから。まだあちらで勉強したいことがあるそうなので」
それには、ほう、とだけ返ってきた。
それでその話は終わりらしく、持ってきた代筆の手紙と色紙の礼を言われ、次の代筆を頼まれた。父のもとには、いつの間にかまた方々から手紙が来るようになっていたのだ。
「まだお休みになりませんの」
「ああ。連絡を待っておるのでな」
「お身体にはお気をつけてくださいまし」
「お前に言われるまでもないよ。心配するな」
*
木々がぶつかる音。
それに混じって気合を入れる声が聞こえる。ほとんどが男性ばかりだが、ごくたまに女性の高い声も。
何にせよ、世津子にとってはあまり馴染みのない空気であることは確かだ。
「世津子さん、いらっしゃい」
取次ぎの後に案内された場所で待っていると、あまり時をおかずに友が現れた。
「那美路さん」
白の上衣に墨色の袴、まっすぐな黒髪は後ろで一つに結わえて背に流している。いかにも剣士そのもの――あくまで世津子の想像する姿、だが――のいでたちで、鉢巻をして得物を持てばさらに凛々しく見えることだろう、と世津子は思う。
「今日はありがとう。こちら、お借りしていた本よ。それから、那美路さん、こちらのお店のお菓子はお好きかしら」
あら、と那美路が風呂敷に包まれた本とともに受け取った小さな箱を見つめた。
「立派なものを。かえって恐縮に存じますわ」
「ご本がとても興味深かったので、そのお礼ですのよ。それに、今日のこともありますもの」
「いいえ、こちらには特別なことでも何でもないのよ。でも、ありがたく頂戴します、わたくしここの砂糖菓子大好きなの。……袴でいらしたのね、様子を見るだけというお話だったけれど」
「ええ。皆さんがお稽古なさっているところなのだからと思ったので」
「まあ」
那美路が目を細めて笑った。
「お心遣いかたじけなく。さ、いらして。こちらよ」
そして手を挙げ、行く先を示した時だった。
「那美路!」
世津子の背中から呼ばわる声がした。
あ、と那美路が声を漏らし、世津子がゆるりと背後を見やる。
「まあ、なんて声を出すのかしら」
ため息とともに那美路がいった。
「あれは兄です。無作法をお許しくださいね、世津子さん」
二人の視線の先には、灰色の道着に黒の袴、下駄を鳴らしながらずかずかとやってくる一人の青年がいたのであった。
「ここにいたのか、那美路。探したぞ」
「お兄さま、待って。お客さまですのよ」
那美路が、制するように言葉を滑り込ませた。
「む、すまん。そちらのご令嬢がか」
「ええ。女学校でわたくしの学友でいらした秋嶋の世津子さまです」
これは、と那美路の兄が世津子に目を向ける。
「世津子さん、兄の茂です。お見知りおきを」
紹介を受けて男性が軽く頭を下げた。
「それで、探していたってどういうことなの、お兄さま」
「父上がお呼びだよ。たいそうおかんむりでな、俺はお前を連れて来るようにと言いつかったのだが、お前、何かしでかしたのか」
「ええっ? 心当たりはないわ、どうしてかしら」
「いいから早く行ってこい。相当お急ぎの様子だったぞ」
「でも、世津子さんを案内しなければなりませんの。困ったわ」
「俺でよければ替わろう。どこにお連れすればいい、応接間か、お前の部屋か?」
「いいえ」
那美路が首を振った。
「そうしてくださるなら、どちらでもなく、道場のほうへお願いしますわ」
「道場だって?」
茂が眉根を寄せた。
「いや失礼を申し上げた。謝罪いたします」
「どうぞお気になさらないで下さいませ。その、場違いなことは十分……」
「いやいや、そのようなことを言いたかったわけではないのです。あのような妹ではあるが、そのご友人はみなおとなしやかな人ばかりと聞いていたのですよ。まさか我が家の道場に見学においでになる方がいるとは思わなかったもので」
照れたように頭に手をやり茂が笑う。
「それで、何をご覧になりたいと思っておられるのかお聞かせ願えますか」
何を、と口の中で繰り返す。
「特には……というのも、わたくし恥ずかしながら道場というものにお邪魔するのは初めてなのです。ですから、那美路さんにも様子を見せていただけないかとだけ申し上げたのですわ」
「そうでしたか。お試しに、というわけではあらせられなかったか」
「学校の修練とは違うとうかがいましたので……」
「まあ違うでしょうな」
茂が笑う。
「心身を鍛えるだけではなく、実戦も考慮しておりますれば。そういう家なので」
「実戦というと、試合のような?」
「そんなところです。このご時世ですから、外で仇と遭遇して切り結ぶようなことはないですがね」
冗談だとすぐにわかったので互いに笑いあってそれで会話は終わった。目的の建屋に着いたということもある。
こちらにどうぞ、と言われて入ろうとした時、目の端に道場の建物の切れた先が映った。顔を向けると整地されている開けた先が見える。欅の大木が何本も枝を伸ばしている下を来たのでそれまではわからなかったが、鍛錬のための場所があるのだろう。
案内されるままに足を踏み入れる。
「どうぞ、こちらでよろしいかな」
「ええ、お気遣いありがとう存じます」
磨かれた板張りの床。その隅のほうに案内されたのでそこに正座をした。
「妹は何か考えているかもしれませんが、そのあたりは聞いておりませんので、今のところはご容赦を。では、妹を呼んで参ります」
礼儀正しく――とはいっても世津子としてはあまり見ない動作で頭を下げ、茂は立ち上がってすたすたと出て行った。出入り口では再び礼をしたのを見て、女学校での屋内修練場では同じように入る時出る時に礼をしていたのを思い出す。
その後は、那美路が来るまでは誰も話しかけてくることもなく一人だったが、珍しさも手伝って、道着姿の男性が素振りや打ち合いをするさまに見入った。
「あら、兄はそんなことを申したのですか。ごめんなさいね、無神経なこと」
あのこと知らないわけがないのに、という那美路の言葉に世津子はゆっくり首を振った。
「いいのよ。何も気にしていませんから」
「いいえ、後でとっくりと言い聞かせておきますわ。そんなことだから、これまで一人として長く交際を続けられた女性がいないのよ。嘆かわしいと母も憂えています」
どうやら知らぬうちに触れてはいけないところに触れてしまったらしい。自分は気にしていなかったので口にしてしまったが、軽率だったのは自分のほうだと世津子は思った。
どうしようかと迷ったが、話題を変えることにする。
「ねえ、那美路さん、お聞きしたいことがあるのだけど、よろしくて」
ぷんぷんと怒っていた那美路が勢いを収めて世津子を見た。
「……ええ、どうぞ」
「いつもあのように男の方と打ちあっていらっしゃるの」
「ええ、そうよ。特に女だからと分けてもいないの。幼いころから兄と一緒に混ざって稽古をしていたのよ」
「大人の方とも?」
「そうね」
那美路が笑んだ。
「わたくしにとってはあそこが子供のころからの遊び場。兄も父も、通ってくるお弟子さんたちも、みんな幼いわたくしをあやして遊んで下さった人たちよ」
そこで会話は途切れた。手元に集中したからだ。
那美路は茶を点てている。
通されたのは和室だ。
いわゆる茶室というわけではないが、炉が切られるようになっている造りで、そこで釜が湯気を立てている。
普段から茶をたしなむにはこのくらいのほうがいいのかもしれない、と世津子は思う。すっきりした柄の着物に着替えた那美路は髪も簡単にだが結い上げている。細帯を片結びの文庫に結んでいるだけなのがよく似合っていた。
茶筅が止まった。泡を切り、すい、と目の前に茶碗が出される。
見れば濃い緑のお茶がきれいな泡を乗せていた。作法どおりいただいて、菓子の甘さと茶のほろ苦さを味わう。
「けっこうなお点前でした」
お恥ずかしゅうございます、と那美路が笑う。
「まだまだ至らなくて。母にしょっちゅう注意されましてよ」
「そんなことないわ。わたくし、那美路さんの点ててくださったお茶、おいしくいただいてよ」
本心である。緊張感のある自分の母親の茶席よりも肩を張らずに楽しめた。
ふふ、と那美路が笑う。
「まあ、嬉しいこと。少し世津子さんに来ていただいて、お客になっていただこうかしら」
「あら、何かお役に立てて?」
「わたくし、こういうの苦手なんですもの。だから回数をこなして慣れろと口うるさく言われているのよ。でも一人でというのも、と思っていて」
那美路が小首をかしげた。
「兄に時間があれば付き合ってもらうのですけれど、あの調子であれこれとお小言ばかりなの。そんなことだから、つい口にしてしまったわ、いけないわね」
「いけないなんて」
「だって、世津子さんは今でも大変なのでしょう? 気軽にお外にというわけにはいかないのかと思って」
思わず目を見開くと、那美路が優しくほほ笑んでいた。
「先日のお花見の席でも、護衛の方が何人か、周囲に目を配っていらしたから、ああ、そうなのね、と思って。それだけなのだけど」
「……そう。みなさん気づいていらしたのかしら」
那美路の答えは否だった。
*
素振りのための木太刀を手にした茂が妹を振り返った。
「ああ、あの運転手か」
「ええ、世津子さんのお車の。兄上さまはどうご覧になった?」
「ちらりと見ただけだが、そうだな、少なくとも素人じゃないと思うぞ」
「暴漢くらいならたたき伏せられそう?」
うなずいた兄は、それがどうしたという顔になったが、それよりも気になっていたらしいことを口に出した。
「父上は何とおっしゃったのだ。叱られたんだろう?」
「それとは少し違うかしら。ああ、わたしが行った時には特にお怒りではありませんでしたわ」
「どういうことだ?」
「秋嶋の……世津子さんのお祖父さまからご連絡があったのですって。孫がお邪魔するようだけどよろしく頼む、って」
「秋嶋って、」
それ以上は言わずに茂はゆるりと首を振った。
「これはまた。あの家のお嬢さんか」
「分かっておいででなかったの」
「わかっていてたまるか。お前の学友だ、そのくらいの認識で十分だと思っていたからな」
「そう」
この兄にその手の察しの良さを望むのは無理だったか。
いや、それでは将来が思いやられる――それを思って両親がまた頭を抱えるに違いないことを想像し、那美路はちらと藍の長着に身を包んだ兄を見やった。
「ねえ、わたしがあのように申し上げたわけがわかって、兄上さま」
「ああ、理解したよ。だがな、お前や母上の言う婦女子の扱いとやらは俺には無理だとしか思えない。承知しておいてくれないか」
「兄上さま」
声に兄が妹を振り向く。その目を見返して那美路は言った。
「それとはまた違うお話かと」
「別だと?」
「ええ」




