ひそやかに
「あれは、私ではありません」
否定されて、世津子は目を見張った。
「あなたではなかったの」
三島京子が首肯する。
「申し訳もたちません。あの時、違うことに気を取られておりまして、銃声に振り返った時にはすでに世津子さまは倒れておられました」
「まあ……」
「本当に不甲斐なく、お詫びのしようもないことでございます。もしお望みなら、人員を変えることも御前はお考えになるというお話ですが、聞いておいででしょうか」
それには首を振った。
「聞いていません。それに、おそらくお祖父さまはその必要はないとおっしゃるわ」
今度は三島が目を見張った。
「あなたの働きには満足していると思います。今度のことも、これまでのことも」
微笑みかけると、三島は「恐縮でございます」と頭を下げた。
「ああ、お前に不満がないならよかろう」
他に適任もおらぬということだからなあ、と祖父は顎を撫でた。
「お話相手にもなってくださるのよ。警護のほうに問題があったわけではないのでしょう」
「警護か」
祖父の手が止まる。
「満足はしておらんぞ。たまたまあの時に他の人間がお前を庇ったからこその無事なのだ。上には文句を言っておいた」
「そうでしたの」
それでは、三島に言ったことは嘘になってしまう。それを彼女との会話から告げると、仕方あるまい、という返事が返ってきた。
「結果としてお前は無事だった。だから今こんな話もできようが、悪くすれば今頃は坊さんがお前のために経を上げておったのだぞ。そうでなくとも体に」
祖父が唐突に言葉を切り、首を振った。
「まったくもって、不甲斐ないのはこちらも同じだわ」
深々とため息をついて目を伏せた祖父は、しわが深くなったように見えた。
――今頃は坊さんが。
自室に帰った後、祖父の言葉を反芻する。
確かに、それには頷く他はない。
命が危機にさらされたことに今一つ実感がない――と言ったら祖父も母も、おそらく護衛もどんな顔をするかしれないが、世津子はその瞬間を知らないのだ。
如実に物語ってくれるのは、数か所の打ち身と髪の長さ、そして。
『手元に置くというなら、洗い張りをして、仕立て直すしかないでしょうね』
それでいいのかと母がいつもの調子で冷静に尋ねてきたのに応えを返すと、次の日には人が来た。
矯めつ眇めつした後に、然るべきところに出してみる、と言ったのはその着物を誂えた呉服屋だが、渡してからは音沙汰がない。見通しはついたのだろうか。
窓から入る風の色が変わっている、と思った。
こんな――あくまで世津子の感覚だが――こんな短期間に二度も銃声を聞くことになるとは思ってもみなかった。
新聞を繰ってみたところ、そんな事件が起きているのはこのところは自分の周辺だけで、他は窃盗だの自動車事故だの、それに誰かが病死をしただのというくらいで――と言ってはいけないのだろうが――誰かが恨みつらみで人を殺そうとしたというのはそうそうあるものではないと改めて思ったくらいだ。
(恐ろしいこと)
おかげで自分は籠の鳥だ、と思う。
いや、自ら籠もったともいう。これでは危なくて、祖父に言われずともそんな気軽に外に出られる気分ではなくなってしまった。
学校は、休学することにした。本が読みたければ手配してやる、安全なところになら行くもよかろうというのは祖父の弁である。
息が漏れた。
窓の外では梅が咲いている。もうじき桜がつぼみを膨らませ、そして――
(今年は花見などできないわね)
さて、どうするか。
本も読みたいが、時間はそれだけでは埋まらない。いっそ花嫁修業でもどうかと母には言われている。
『花嫁修行……何を?』
そうねえ、と母は笑った。
『もうひととおりのことはできるでしょうから、不得手なことをもう少し習うか、得意なことを深めるか、かしらね。玄人はだしとはいかなくても、技量を磨くのはいいことですよ』
『ええ』
――ええ。
そうだ。どこに出しても恥ずかしい思いをしないように、作法も華道も茶道も仕込まれてきた。いわゆる教養である。
必要ならば先生も呼んであげると言われたが、何をするかが決まらない。結局今しているのは、本を読むこと、外国語の書物や新聞を翻訳することである。それに舞か。
「いっそ、武道がいいかしら」
そう独り言ちた時である。障子の向こうに気配が、そのあとに声がした。
「世津子さま」
声のほうを見る。声の主は護衛ではなく、小間使いだった。
「どうしたの?」
「応接間のほうにお客様がおいででございます」
自分への客など誰が、と思ったが、応接間に行くと見知った人がいた。
「まあ、歌子さま……ようこそ」
「しばらくぶりね、世津子さん」
「ええ、お久しゅうございます」
女学校で親しくしていた一学年上の先輩である。
「どうなさったの、こちらへいらっしゃるなんて聞いておりませんわ」
「父に頼まれてお使いに。それで、あなたのところにもと思って」
歌子が手を伸ばしてきて、世津子のほほに触れた。
「大変な目にあったそうね。無事でよかったこと」
「ありがたく存じます」
「驚いたけれど――あなたがこんなこと。もう具合はいいのかしら」
歌子がやや首をかしげる。その時、お茶の支度を整えた小間使いが入ってきた。
ここはいいから、と小間使いを下がらせて、世津子が茶を淹れる。その間にとりとめもなく話していたはずの話題がいつの間にか劇場でのできごとになっていた。
「ああ、それなら聞いていてよ。誠子さんのこと覚えている?あの方その時帝劇にいたの」
「誠子さまが?」
噂が広まるのは早いことは知っていたので歌子が耳にしていても驚かなかったが、噂どころか知人がその場にいて見聞きしていたとは。
「では」
「ええ、初めからご覧になってたのですって。驚いていらしたわ、あの世津子さんが顔をしかめてらしたってね」
片目を瞑りそうな表情で、歌子が笑った。
「そんな顔をしていたんですか、わたし」
「ちゃあんとにこにこしながら、だそうよ。わたくしも聞き返してしまったわ、誠子さんも大げさに言うから」
「ああ……」
思わず肩の力を抜いた世津子に、歌子がほほ笑む。
「いいのよ、少しくらい顔に出しておやりなさいな。あなたのほうが立場は上よ、お話まとまっているのでしょ」
くすくすと笑いながら歌子が紅茶を口にした。
(まとまって……)
気が重くなったが、歌子におそらく他意はない。自分に当てこすりなど言うはずがなく、どちらかといえばよくある話という風であった。だからそれに対して続けて何かを言うのはためらわれた。
だから、ふと口をついてこんな言葉が出た。
「……歌子さまは、そんなご心配はご無用なのでしょう?」
歌子がわずかに眉を上げる。が、すぐに唇に笑みを佩いた。
「そうねえ……、ないのは確かね。けれど、わたくしの婚約者は幼いころから見知っている方なのだもの、何もかも知っているのも風情がなくてよ」
「そうでしたの」
「あら、ご存じじゃなかったのね。ごめんなさいね、お知らせしていなかったの、あなただけではないのだけれど……。わたくしのお姉さまの雪子さま、知っているでしょう?あの方の弟さんよ。融さん」
カップを手にしようとしていた手を止める。それは既知の人物だったためではなかったが。
「そうでしたの」
「そうよ。なるべく伏せていたから、あまり広まっていないのね」
「歌子さまのお相手は皆さんが気にしていたのに」
「だからこそ、よ。融さんもできるだけ噂になりたくないっておっしゃっててね、お友達にも口止めして回っていたみたい」
「まあ……」
何も知らなければなぜそんなことをと言うだろうが、詳しくはないにしろ世津子は事情を汲み取れる位置にいる。それは付き合いの長さもあったが、何よりも姉妹のように接していたからだ。
それでも話がまとまったということは、歌子にとってはむしろ嬉しいはず、と世津子は思う。
「そうねえ」
歌子が紅茶を口に運んだ。
「他に良い方もいなくてね、わたくし、実は殿方にはあまり好かれてないのよ」
「そんなこと」
「嘘。わかっているでしょ?学校でも社交場でも、ほとんど声などかけてもらえないもの」
「それは、お姉さまの周りにお小さい方々がいつもいらっしゃるからではありませんの?」
歌子が笑む。
「みんな、歌子さまを頼りにしているのですわ」
「有り難いこと」
「わたくしもですのよ」
「まあ」
笑顔が花が咲くようなものになった。
「期待にお応えしなくてはね」
その笑みにつられて世津子の心も明るく軽くなった。
「お姉さま」
「なあに?」
「わたくし、お姉さまにお慶びを申し上げます。お幸せになってくださいね」
ありがとう、という言葉とともに歌子が世津子に柔らかく微笑んだ。
顎の線でふっつりと切られた豊かな髪は、きれいにうねっている。似たような長さで切り揃えられた自分の真っ直ぐな髪とは対照的にふわりと広がり華やかだ。
今日まとっているのは小振袖だが、身軽な洋装もよく似合う姉であった、
歌子の家は格式が高い。
融と呼んでいた婚約者の家もほぼ同格なのだが、彼は養子であり、縁付くならば、その従兄の方が年齢他の面からも釣り合っていたはずだ。なのに、融――史融との話がまとまったというのは、よほどのことがあったに違いないと世津子は思う。
歌子の、あるいは二人の意思を通せるだけの何かが。
例えば、表向きはどうあれ、歌子だけでなく、融も相手を慕わしく思っていた――というようなことが。
そんな折、幼いころから見知った友から手紙が届いた。
『お忍びで、お花見と、その後お食事に行きませんこと? 気晴らしにいかが』
そんな言葉が添えられた便箋に、場所と時間が記されていた。
「世津子さん、こっちよ」
手を振る姿が見える。
洋傘を手に、招いてくれた友がにこにこと笑っていた。
「しばらくぶりね。このたびはありがとう」
「お怪我されたのだと思っていたので声をかけなかったのよ。でも、歌子さまが世津子さんお元気よ、って知らせてくださったの。それならお招びしてもいいのねって皆さんとお話ししたのよ」
「ありがとう、うれしいわ」
そんな会話をしながら足を向けた先には見知った友が数人笑顔で世津子たちを待っていた。
庭園を散策し、池のほとりで立ち止まって萌えたばかりの新芽の緑と花とを見つつ話すのは、互いの近況がほとんどである。
「ずっとお家にいらっしゃるの?」
「ええ、そうなの」
「まあ、大変」
「あら世津子さんなら大丈夫ではない?ほら、本を読むのがお好きよね」
「あなただって。お部屋にこもって、ずっと奏楽のお稽古なさってても平気でしょ?」
笑い声が起きる。
「そうねえ、わたしたち、一つくらいはそういう趣味があるわよね」
「そうね。……ああ、わたし、刺繍ならできるかもしれないわ。いつも時間が過ぎるのを忘れてよ」
「きれいな手だものね、器用でうらやましい。そういえば先日の、あなたにいただいた手鞠なのだけれど、見事な作品だって両親がほめていたわ」
「あら、嬉しいこと」
お忍びといいつつ、笑いさざめくうら若き乙女の集団――というには規模が小さめだが――は、やはり華やかで人目を惹く。そのことが分かっているのかといえば、否であろう。
(仕方ないか)
普段守られているのも理解していない者が大半だ。危険な目にあったばかりの世津子を除いて。




