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花雨  作者: 夜待花波
1/9

紅に染まる家

  信じられない光景が広がっていた。

  さっきまで、ここは確かに和やかなパーティーが催されていたのに。

 

 この音は何だろう。

 この目の前に広がる、テーブルと椅子の残骸は。

 そして何より、倒れている人は。

 目に映る色は赤。血の赤だ。腕から、そう、腕から胸にかけて赤い。そこからその下に、床まで続いて――

(怪我)

 血。血を流しているのだ。認識がやっと追いついた。

(手当を)

 そうだ、自分がやらなければ。招いた側の義務だ。

 そう思って身を起こそうとした。

「動いちゃいけない」

「え」

「このまま伏せて、ここにいるんだ。せっかく無傷なのに」

 え?

 疑問を口にする暇はなく、声の主は素早く消えた。

 頭が混乱する。

 今の声は、よく知っている彼のものだ。

 一緒に、いや、自分が祖父(そふ)に会わせたくて来てもらった人の。

 ――祖父。


(お祖父(じい)さま)


 ああ、祖父はどこだろう。



 こんな時に居合わせるなんて、運が良いのか悪いのかどちらだろう。

 予定の行動ではない。まして、こんな〝排除〟をしているなんて。

 生きるために、そして彼女を生かすために動いている自分は、後にどう評価されるのか。考えなくとも、その日はそう遠くないだろうけれど。

 手近にあったものをふるう。あとは自分の体が武器となる。

 使えるものは何でも使う、それが鉄則だと教えられた。名家の(うたげ)に出るのなら持ち込むのはまずかろうと武器になるものは何も持ってきていないのだ。それは考えが甘かったが、それでもできることはある。

 声もなく、一人また床に沈んだ。

(あと何人)

 それほど規模も大きくない茶会(ちゃかい)に、なぜこんな人数で仕掛けてきたのか。招待する側の家や本人の地位を考えても不自然である。

(それはいいか)

 今考えることではない、と頭を切り替える。大事なのは生き延びることだ。

 それに何より、守りたい人間を生かすことだ。


 ある種の熱を込めた目で自分を見上げ、笑いかけてくる少女を。


 初めは困惑しかなかったのに。




 何かを頼んだり、誘ったり。

 そのたびに、彼は少し戸惑った表情を見せる。その顔が好きだった。けして面白がっていたわけではなく、はにかむような、内気な様子がただ好ましかったのだ。

 ちょっとしたお茶会があるから祖父の家に来てくれと言った時も、そんな顔を見せた。

「ちょっと待って。何で僕が……場にそぐう人間じゃないよ」

「平気、私的なものなのよ。えらい方が来ていても、気づかないふりをしていて大丈夫だから。みんなでお茶をいただいて、おしゃべりするだけの集まりなの。ね、いいでしょう?たまには私のお願いを聞いて」

「たまには、って……」

 困った顔を見せた彼の目は、それでも眼鏡の奥で優しい光をたたえてくれていた。これならもう少し時間をかけて、もう一度おねだりすればたぶん聞き入れてくれるだろう。そう確信した世津子はそれで話題を変えた。

 ほんの数日前の会話だ。

 身分違いだと分かっていて、それでも同じ時間を過ごしてくれている彼には感謝している。いずれ別れる時がくるだろうとわかっていても。普通なら。

(でも)

 世津子はあきらめたくなかった。

 彼は優しいし、それに頭も良い。立ち振る舞いも乱暴ではない。むしろ、ある程度の作法は心得ていると見える。だから引き合わせてしまえば、祖父の、そして父母の眼鏡にもきっと叶う。そう思っていた。

 いや、願っていた。

 とにかく一度、一番自分を可愛がってくれている祖父に会わせてみよう、そう思っての誘いだった。

 これまで会ったことのある男性は――同級生の、少なからず縁のあるものにしても、不埒であったり、傲慢であったり、仮面の後ろの本音が()けて見えたりと、言葉を交わすごとに落胆せざるを得ないことばかり。けれど、学園生活のさなか、本当にたまたますれ違ったことから縁のあった彼は違った。

 どこまでも欲を見せず、ただ勉学に励み、それ以外は質素にすごしているという、今まで見たことのない異性だったのだ。

 だから、会わせたかった。

 だから、誘った。

 祖父の誕生日の茶会に。


 それなのに、これはいったい何が――


(ひどい)

 音が聞こえる。

 破裂音。人が負傷した時に発するだろう声。

 何かが崩れる音。

(いや)

 耳をふさぎたくなる。いや、実際ふさいだ。伏せた姿勢のままで、手を移動させただけだが。

 本当に、何がどうなっているのだ。

(ああ)

 彼は、どこに行ってしまったのだろう。

 ――加賀さん。




 銃声が響く。


 撃ち抜いたのは誰か。

 撃ち抜かれたのは誰か。

 そんなことを考える余裕はない。

 泣き出しそうになるのをこらえながら、世津子はただ黙って待つしかなかった。周囲が静寂(せいじゃく)を取り戻すまで。




「言ったとおりにしてくれたんだね」

 知っている、あたたかい笑みがそこにあった。

 世津子に手を伸ばそうとして、彼は途中でやめて、また下ろした。

「大丈夫?」

「僕なら平気だ」

 頬に何かが擦った痕。傷ではない。シャツも破れたりしてはいない。袖も皺やほこりで汚れていたが。

 けがはなさそうだと見て、世津子はほっとした。

「君のお祖父さまは?」

「……ご無事だったわ」

「そう。よかった」

 そのまま見つめ合う。何を聞いたら、どんな言葉をかけたら良いのだろう、そう思ったのは互いにだったのだろうか。

「……何があったのかしら。わかる?」

「さあ。警察が調べるだろう、僕にはわからないよ」

「ええ」

 そうよね、と言って周囲を見る。

 ひどい。(さん)(じょう)以外の言葉はなかった。

 広間の中の調度どころではない、窓も壁もめちゃくちゃである。人も数人倒れている。怪我(けが)をしている者は、すでに隅に寄り集まっていたり、椅子や、時には壁際に座り込んでいたりしている。

 じきに救急車も来るだろう。来れば、怪我人はみな手当を受けられる。それで間に合わなければ病院にも運んでもらえる。

 祖父はさっき書斎に行った。たぶんそこから知り合いに連絡をとり、人を頼んだり指示を出したりしているはずだ。

「災難だったな」

「ええ、そうね。ごめんなさい」

「なぜ君が謝る?君のせいなの?」

 世津子が首を振った。

「直接には違うかもしれないけれど。でも、家のほうで探せば何かあるかもしれないわ。人は(ねた)む生き物でもあるもの」

「そうだとしても、僕は君のせいにはしないよ」

 息を吐く――本当に小さく、息を吐く音がした。

「行かなきゃ」

 見ると、彼は今までに見たことのない顔をしていた。

 のんびりとした表情でお茶をすすり、のどかな声で笑ういつもの彼。それをすべて否定するかのような、鋭さをたたえた顔を。

 だから思わず声が出ていた。

「あなた、さっきまで何をしていらしたの?」

 笑みだけが返ってきた。

 だがそれも一瞬で消え、彼は背後を見、また左右に目を走らせてどこかに目を止めた。

「じゃあ」

 そのまま軽く手を上げる。いつもとは逆の手を。


 その手に、一筋赤いものが走っていた。



 *



 ヘマをしたな、と目の前の男は笑った。

「だが、責めはすまいよ」

「なぜです?」

 宿の狭い一室で、ひじ掛け椅子に座る相手を見やると、また笑う気配がした。

 部屋の(あか)りはつけておらず、窓の外からの月明かりのみ、そのせいで表情は捉えづらい。

「すみません。出すぎた質問でした」

 答えがすぐにないということは、自分に聞かせることではないということだ。

「いや。察せられる範囲の考えで間違いではない、ということかな」

(ああ)

「そうですか」

 つまり、排除したのは少なくとも――

 心当たりを考えていると、相手のそばの卓上で電話の着信音がした。

「わたしだ」

 短い応答。

 すぐにやり取りは終わり、受話器を置きつつ次の命令を伝えられた。しばらく身を隠せ、と。

「迎えをよこすそうだ。準備しておくように」

「準備などするものは」

「私物を取りに行く時間くらいはやるぞ」

 思わず相手を(ぎょう)()してしまった後に、首を振る。

「ありません」

「……そうか」


(身を隠せ、か)

 当然だ。あれだけ派手に動いてしまったのだ、誰の目に止まったかわかったものではない。目立たない学生としての振る舞いを指示され、ずっと心がけてきたのに。

 上手くやっていたはずだったのに。


『それについては不可抗力だ、気にしなくていい』


 ただ釘は刺された。


『近づいていい人間かどうか、その判断は誤らないように』


 首肯する以外にない。

 間違ってはいたのだろう。不用意だったという自覚はある。親しく言葉を交わしていい相手ではないことくらい、わかっていたのだ。初めから。

 ――秋嶋世津子。

 どちらかといえば一世代前の政治家の係累であって、それほど重要な人間だと思っていなかった。それもあって、警戒が甘かったのは事実である。




 *



――読みが甘かったよ。

耄碌(もうろく)したか、と言った祖父は、普段の好々爺の顔とは別人のような表情をしていた。



自分も険しい顔をしているのだろうか。



(何があったのか、なんて)

 落ち着いてから考えれば、自分から尋ねたというのに答えを知っているのは世津子のほうだった。

 政敵。

 テロリストとその組織。

 そんな言葉が思い浮かぶ。

(わかっていたことだけど)

 祖父はもう引退したのだが、と思う。

 一部めちゃくちゃになった別邸は、そのまま取り壊すことになった。この際だからと庭も更地にして、後をどうするかはまた考えるという。あまり使っていなかったから、思い入れもないのだろうか。

 それとも、()まわしいことが起きた(たて)()など、つぶしてしまえということなのか。

 世津子にはわからなかった。


『怖い思いをさせたなあ』


 ――あの時。

 孫に一言そう言った後、客の一人一人に声をかけに行った背中は年齢に違わず小さくて、(いたわ)りが必要なのは祖父のほうだろうと思ってしまったくらいだった。

 引き合わせたかったひとは、()(どお)りがかなわなかった。それも祖父は気にしてくれたが、すでに当人は消えてしまっていた。もう無理かもしれない、と世津子は思った。

 そうなれば、次に待っているのは、親の持ってくる配偶者候補との見合いである。そう、もう結果がわかっている見合い。顔合わせなどただの茶番だ。

 心当たりは何人かいる。顔を思い浮かべて、世津子は目を閉じた。

 開け放された窓から風が通る。広縁の向こうで咲き誇っている菊の香りが届いた。


 あれから学校にも行っていない。

 彼は、学び舎に姿を見せているだろうか。




 さらに半月が経った。

 その間、ほぼ家から出ずに過ごした世津子は、そろそろ本を読むだけの生活にも飽き、外に出たいと言いに祖父の部屋を訪れた。


「護衛ですって?」

 何を言うのかと思って尋ねると、祖父はからからと笑った。

「用心のためだ、お付きが一人増えるだけだよ。気にするほどのことじゃあない」

「でも、それで学校に行くのですか」

「嫌かい?」

「目立ちます」

 言葉少なに言うと、祖父は(あご)に手をあて考え込んだ。

 車での送り迎えも珍しくないような学校ならば、お付きのねえやがいても誰も気にしないだろう。が、今、世津子の通っているところはそのようなこととは無縁だ。あれこれと噂の種にされるのは想像に(かた)くなかった。全員が全員というわけでもないだろうが。

 ふむ、と祖父の声が聞こえた。

「だが、一人では危険なんだよ。これまで黙っていたが、周りに妙な動きをする(やから)がおるのでな、誰もつけずに外に出るのはなあ」

「そんな、わたしごときに()(らち)なことを考えても仕方ないことくらい……」

「甘いことを言うのではない」

 間髪を入れずに祖父はぴしりと言った。

「お前は私の孫だ。それを忘れてはいかんよ、どんな時であろうともな。お前を巻き込むのは本意ではないし、なるべくなら普通の生活をさせてやりたいが、あちらはそんなことは(しん)(しゃく)してはくれんのだよ。でなくば先日のようなことが起きるものか。」

 苦いという言葉がぴったりの表情だった。

「お祖父さま」

「今度ばかりは勝手は許さんよ。わかっておくれ」

 あまり見たことのない顔をしている祖父に世津子はそれ以上のことは言えず、承諾するほかなかった。




 とはいうものの、祖父には喜ばしくなかっただろうが学校のほうから呼び出しがあったため、それ程経たずに赴くことになった。

 これだけは譲れん、という祖父の言を聞き入れ、その日は車で登校した。

 さすがに昨日の今日では護衛は間に合わず、多少武術の心得があるという程度の者を運転手にということになったが。

 外を窓からちらちらと見ていたら、硝子の向こうからの視線を受け止めてしまった。慌てて目をそらし、正面を向く。

「世津子さま」

 運転手に顔を向ける。

「何でしょう」

「じきに近くまで参りますが、どのあたりにお付けしましょうか。校門まで行ってもよろしいですか」

「お祖父さまは何も?」

 指示はございませんでした、という返事を聞いて、世津子は学生の通る道からはあまり見えない場所を指定した。


 事務所に行き、書類を受け取る。その間に一人二人学生がやってきて、やはり書類を出したりもらったりしていた。中には退学するから書類がほしいという者までいた。

 季節が変わったと感じるのは、冷たい空気のせいばかりではなく、その学生たちが冬用の外套や襟巻をしていたためもある。

 試験はもうじきだろうか。課題は。

 そんなことを考えた矢先、後ろから声をかけられた。

「世津子さんじゃない?」

 振り返るとほんの子供のころから見知った友がいた。


 欠席していた間の授業のこと、それに噂話に興じ、世津子は頃合いを見て一番知りたかったことを尋ねた。

「ああ、あの方ならしばらく見かけないわ」

「来てないの?」

 幼なじみは、ええ、と返事をした後にゆるりと首を傾げた。

「どうして?何か気になることがあったの?」

「わたし、ずっと欠席していたのだもの。様子を知りたいと思っただけ」

「ああ、世津子さん、あの方とよく話をしてらしたものね」

 それには受け流す程度の返事をし、世津子は、それでと先を促した。

「そんなこといっても詳しくなんてわからないのよ。ほかの方も同じと思うわ。あまり目立たない人だったもの、世津子さんが気にしていたから私も見知っていたのだし、覚えている方はいないのじゃないかしら」

「…………そう」

 おっとりとした彼女はもうそのことについては何も言わず、休んでいる間の他愛のない話に話題を移した。本当に取るに足らないくらいの、けれど日常のおしゃべりに。

 それは彼女なりに世津子のことを思いやったものであることはすぐに察せられたので、世津子も話を合わせた。

「ねえ、講義室にいらっしゃいよ、世津子さん。次の時間は選択ではないもの、みなさんいるはずよ」

 お時間あるなら行きましょう、と誘われて、つい断ることもせずに教室へと世津子は足を運んだ。


 概ね、学生の反応は同じだった。挨拶をする程度の間柄から会えば昼食を一緒に食べるような仲まで。

 世津子の家のことを知ったのか、距離を変えた者もいた。

(意外と知らない人がいたのね)

 と思ったものの、もとより誰も彼もが知っていると思っていたわけではない。自分もほとんど話さなかった。けれども、祖父のことを知っている人間は時折現れて、折にふれそのことをほのめかしたり、口にしたりしていく。ずっとそうだった。

 それに何かを思うことはないが、無邪気な会話を交わしていた女学生が何人かそっと離れていったのは世津子の小さな傷になった。

 ――ああ、また言われるのだわ。

 子供の頃から耳にしていた、そして今の環境では久しく思い出すことのなかった言葉を。



 脅迫状が届いたのだと知らされたのは、その後のことだった。



「三島京子と申します」

 どうぞよろしくお願いいたします、と頭を下げた女性はすらりとした体躯を男の着るような黒一色の洋装に包んでいた。

 細い腕、細い脚。描かれる線も細身ながら女性らしく、それで暴漢を懲らしめることができるのかしらと思ってしまった世津子は、次の瞬間に顔を赤らめることになった。

「これでも正規の軍の訓練を受けております。どうぞご安心ください」

「……そう。お任せします、よろしくね」


 ――よろしくね。

 それは何気なく言った言葉だったが、ふと引っかかって以前の加賀との会話を思い出した。


『使う者が多い立場でしょう?』

『いくら普通だと言っていても、そういうところで反感を買うんですよ。庶民を装っていてもそこでわかってしまう』


 学校で。どこかの家でのお茶会や、同じ年代の女子ばかりが集まる席で。

『世津子さまはわたくしどもとは違いますものね』

 そんな言葉を投げかけられ、そのたびに何が違うのかと尋ねるが、返ってくるのは目くばせの後の嗤いばかり。

 もちろんそんなことをしてくる者だけでなく、気にせず友と笑っていればそれでよかったのだが。

 ――大丈夫。

 ここは家だ。それに、祖父の雇った護衛だ。そんな言葉づかいも許されるに違いない。

(悲しい)

 意識しなかった自分の世界。

 育った環境。祖父の庇護。


『ああ、責めているわけではないです』


 多少困ったかのような顔で笑って見せた加賀は、その件に後に触れることはなかったのだが。



「どうかなさいましたか」

 そんな声で我に返った。

「いいえ」

 気にするほどのことではない、と言外に匂わせる。訓練されているなら通じるはず、と。

 果たして三島と言った彼女は心得たような表情になり、その場を辞した。

(加賀さん)

 話がしたい。他愛のないことでいい。ほんの五分でもいい。


 声が聴きたかった。



 *



 やかましいくらいの音楽が聞こえる。

 こういう場所は得意ではない。だが仕事だ。ただただ対象を見ている。もちろん、さりげなく、見つめるでなく、自然に視界に入る程度に。

 喧噪の中、音楽に乗って対象が踊り始めた。

(いい気なものだな)

 暗がりのフロアを赤や青の光が裂いて回る。その中で若い男女が狂ったように腕を振り腰を振り、絡みあっていた。

「待った?」

「いや」

 低く答えると相手は隣の椅子に腰を掛けた。

 自分よりは年嵩の、けれどもカップルとして不自然でない年齢の同僚は深いスリットの入ったドレスを着ていた。

 明るい場なら体の線がもっとよくわかるのだろうが、生憎というか上手いことにというか、そんなものは密着でもしなければ気にならない。

 ……はずだったが。

「踊りましょうよ」

 あまり聞いたことのない声色だった。しなやかな動作で手を取られ、するりと止まり木のような場所から若者の中に連れ出される。

「あの」

「気にしない。音楽に乗ればいいの」

 艶やかな笑みを見せた同僚は、体を寄せて首に腕を回してきた。

 腕も、うなじから胸元までも肌がむき出しで、周囲の男がちらちらと目を走らせている。ドレスの色が黒のせいだろうか、よけいに白さが強調されている気がした。

 言われるがまま、導かれるままに体を揺らしていると、彼女は時折方向を変えた。音楽が途切れるまでに半周もしただろうか。数度、その間に人とぶつかりかけた。

「いい夜ね」

 声に、はっとなる。

 改めて見た彼女は、いつもの――これまでよく見知っていた顔をしていた。

「帰る?」

「そうね」

 あなたもよね?と微笑まれ、心得たようにうなずく。

「まっすぐ帰ってね、ご家族が待ってるでしょ」

「そうだね」


 仕事は終わったらしい。

 ここで、何があったのか知る必要はなかった。





 ――夢を見た。


(笑い声)

 ああ、彼女だ。明るく軽やかに、ほんのりと頬を染めながら笑う声を聴くのが好きだった。

 屈託のない、まっすぐな瞳で見つめてくる、そして戸惑う自分をくるむように暖かく微笑する彼女。

 それまで、そんな風に他人に見つめられたことなどなかった。

 なぜそんな目でと問うこともできず、ただ見つめ返し、目を反らす。そう、ただの学生ではなく、任務の一環で構内を歩いていたのだから。

 何度言いたくなったことか。自分はあなたと連れ立って歩いたり、本を挟んで論じたりするのに相応(ふさわ)しい相手ではない、と。

 まして、そんなに無垢な瞳で見つめられるような人間ではないと。





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