14 忘れていく、人間だった頃のことを
結果を言うと、猛牛との相撲は引き分けだった。
鋭い角が何度かかすったことで、俺の体にはいくつもの擦り傷が出来上がっていたが、傷と言えばそれだけだ。俺と猛牛は地面を削って一進一退の攻防を繰り広げた末、ついにもつれ合って倒れた。そして疲労によって、両者ともに起き上がれなくなってしまったのだ。
俺と猛牛は草の上に倒れ、荒い息をしながら互いをたたえ合った。
「ふふふ、良い突進であったぞ、牛よ。こんなに白熱した勝負は何年ぶりだろう。……そうだ、あの勇者との決闘以来かもしれぬ」
「モウン、モウン」
「ああ、もちろんだ。またいずれ相撲勝負を受けて立つとしよう」
「モウン、ブモォォ」
「なにこれ……ボクらは何を見せられてるの……」
アーティナが、割と本気で困惑している。俺は体を起こし、額に三日月形の傷を持つその猛牛の背をポンポンと叩いた。そして、ゆっくりと立ち上がった。
「愛しの魔王様。お怪我の治療をしますね」
「ありがとう。だがその必要はない」
ライムに対して俺がそう答えたときには、すでに擦り傷は自然にふさがっていた。魔王治癒力をなめてはいけない。この程度は怪我のうちにも入らない。
俺は手早く魔王的な服を着ると、離れたところで見ていたミノタウロス娘に声をかけた。
「すまない、残念ながら引き分けになってしまった。期待に沿えなかったな」
「いいえ。正直、あんな体格差で互角に押し合うなんて思っていなかったわよ」
ミノタウロス娘――ルカルカは、感心した様子でそう言った。そして意外なことに、こう付け加えたのだ。
「決めたわ。私は坊やについていく」
「なに? 俺は勝てなかったのだぞ?」
「魔力を使えば楽勝だったのでしょう?」
「む……ばれていたか」
俺はチラリと猛牛の方を見た。彼は真剣勝負に満足した様子で、のっしのっしとこの草っ原から離れていくところだった。幸い、ルカルカの言葉は聞こえなかったようだ。
「正々堂々と戦いたかったものでな」
「ありがとう。だからこそ彼も納得して、私を諦めて去ってくれたみたい」
ルカルカは去っていく猛牛に目を向けた。すでに未練はないらしく、猛牛は振り返ることなく森の中へと消えていった。
「……というわけで、あらためてよろしくね」
「ああ、よろしく頼む。歓迎するぞ、ルカルカよ」
「坊やの国はここから遠いの?」
「北に少し歩いたところに丘があるだろう。あそこだ。大して遠くはない」
「ああ、あの集落ね」
合点がいった、というように、ルカルカはうなずいた。そして上目遣いで俺を見ると、いたずらっぽく笑った。
「私、牛だった頃、あの集落の子たちに何度か狩られかけたのよね。仲良くなれるかしら」
俺はアーティナと顔を見合わせた。牛ジョークというやつなのだろうが、俺たちは笑うに笑えず、困ってしまった。
――――――――――
その後も、ボクたちは森の中で牝牛を見つけて、そのたびにミノタウロス娘に変えていった。結果的に帰路に就く頃には、10人のミノタウロス娘を連れていくことになった。
「一人のミノタウロス娘から、何人分の牛乳が作れるのだろうか」
「分からないわよ。計算したことないから」
「そうか、まあいい。とにかくこれで乳製品を確保できたわけだ。ミノタウロスの乳は高品質だからな、場合によっては他国に輸出することもできるだろう」
「モンムス王国には、いい草が生えているといいんだけど。私たちは草食だから」
グランとルカルカがそんなことを話しているのを聞きながら、ボクたちはモンムス王国へと向かって歩いた。結局、大物の獣を狩ることはできなかったが、ゴーレム娘のテレーゼが樹木を丸ごと何本か肩に担いでいる。切り倒したわけではなく、グランの指示で引っこ抜いてきたのだ。国内に植えるつもりだろうか。
また、ミノタウロス娘の話を聞いていたアイアンメイデンのネイブルは、かなり感激した様子であった。
「ご自分で乳製品を作れるなんて。ミノタウロス娘さんってすごいんですね」
「まあ、もともと牛だからな」
ネイブルの言葉に、グランはそう答えた。身もふたもない返答である。が、ネイブルは変わらず、ミノタウロス娘たちに尊敬のまなざしを向けている。
「それに比べて、私はお役に立てるでしょうか。メイドをしていたときも失敗ばかりで……。前にもお話しした通り、私には取り柄らしい取り柄が一つもないのです。この体でできることといったら拷問くらいで……」
彼女は少し不安そうに言った。
たしかに、ネイブルは勇者に洗脳される前、貴族の家でメイドをしていたが、どうにもうまくいかなかったと話していた。モンムス王国でもやっていけるか、心配しているのだろう。
「拷問以外に取り柄がない? そんなことは気にするものではない」
けれどグランは、まるで心配していなかった。
「この世は分かりやすい取り柄がある者たちばかりではない。そもそも、人間も魔族も魔物娘も、一人で生きていける生物なのだったら国など作るまい。他者を頼れるのが、国で暮らす利点だ。お前も大いに我が国を利用して生きるがいい」
「いいんでしょうか。拷問しかできない私が、国民として暮らしても」
「うむ。無理に自分の長所などを探す必要はない。どんな者でも居場所は自ずと見つかる。いつの間にかあるべき場所におさまる。そういうものだから気楽になれ」
「わ、分かりました。頑張ってやってみます!」
「気楽になれと言っているのに。さっそく肩に力が入っているぞ。仕方のないやつだな」
「す、すみません……!」
ネイブルは目をぐるぐるさせて慌てている。
(自分の居場所……)
ボクはネイブルの言葉を聞いて、考え込んだ。そろそろ夕暮れが近づいていたけれど、モンムス王国のある丘もすでに見えてきていた。オレンジ色の光に照らされて、他の魔物娘たちと一緒に、ボクは歩いていく。
「ねえ、テレーゼ」
「どうしました、アーティナさん」
「テレーゼは土から生まれてフラワーゴーレムになったわけだけど……どんな感じ?」
「どんな感じ、とは?」
「その……ボクは人間からバフォメットにされちゃったからさ。人間だった頃のことを当然覚えてるんだ。でもテレーゼは、土だった頃のこととかは、やっぱり記憶にないのかなって」
「ええ、記憶にありません。そして、そのことを特に問題には感じません」
「そっか。ごめんね、変なこと訊いて」
「謝る理由が分かりません。他者について知りたいと思うのは当然のことです」
テレーゼは首をひねった。ずしんずしんと足音が響き、彼女が担ぐ樹木が揺れる。
話しているうちに、グランやライム、ネイブル、そしてミノタウロス娘たちとの距離が開いていく。
「知りたいっていうかね。ボクが考えてたのは自分のこと」
「自分のこと、ですか」
「うん。ボクは人間に戻りたいんだよね」
前を歩くみんなに聞こえないよう、ボクは少し声を低くした。
以前は当たり前のことだと思っていたのに。
今は、少し後ろめたいことのように思えていた。
「ボクはだんだん、魔物娘たちの中で暮らすのに慣れてきちゃってる。だんだん、自分の居場所だと思えるようになってきちゃってる」
ボクは前方――モンムス王国の方に目を向けて言った。
「今はまだ盗賊とか魔物が怖いけど、そういう脅威がなくなったら……モンムス王国が安定したら、人間に戻してもらうって決めてるのに。その日が来てほしいような、来てほしくないような。ボクは、自分の気持ちがよく分からないんだ」
「人間に戻ってどうするのですか?」
「え?」
それはきっと、純粋な疑問。
本気で不思議に思っている様子で、テレーゼは尋ねてきた。
「人間のアーティナさんとバフォメットのアーティナさん、どう違うのでしょうか?」
「それは……」
ボクは、すぐには答えられなかった。
人間だった頃の自分と、今の自分。
どこが変わってどこが変わっていないのか、もう思い出せない。
(もしかしたらボクはもう、芯まで魔物娘になっちゃってるのかもしれない)
不安と安心が胸の中で渦を巻いている。
ボクの心に決着をつけるときが、少しずつ近づいてきていた。
早いところだと11月からツリーが飾ってあるので、もう街では1か月以上クリスマスが続いているような気がします。
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