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やって来たのは青山にあるいつもの美容室だ。
予約は入れていないが、平日の午前中の為、客の姿はあまりなかった。
店内に入ると、深雪を担当しているスタッフが近づいてきた。
「いらっしゃいませ、近藤様。珍しいですね、午前中にいらっしゃるなんて」
年齢は、恐らく深雪と同じか少し上だろうか。
人懐っこい笑顔の女の子だ。
「急にごめんなさい。大丈夫かしら」
「勿論です。今日はどうなさいますか?いつも通りカットでしょうか」
「カットと、せっかくだからカラーとトリートメントも。あと今日は、ネイルもお願いします」
スタッフは少し驚いたような表情を浮かべた。
「ネイル、初めてですね。ハンドだけで大丈夫ですか?」
「えぇ。デザインは考えていないから、いくつか見せてもらえますか?」
「わかりました。ではシャンプー台へどうぞ」
案内され、 シャンプー台の椅子に座る。
長い髪は気に入っているが、手入れが大変だ。
初めは鬱陶しくて仕方なかった。
しかし慣れてしまえば、背中まである髪を5センチ切っただけでも違和感を覚えてしまう。
「今日は有休ですか?平日は空いているから、落ち着きますよね」
ニコニコ笑いながら、慣れた手付きでカットしていく。
ネイルも同時進行でしてくれるらしく、カラー待ちの時に施術してもらう予定だ。
ポリッシュとジェルを選べるらしく、せっかくだから長持ちのジェルをお願いした。
カラーは今の季節にあう、ブラウンとホワイトのものだ。
「仕事は……もうしていないんです」
スタッフの彼女とは一年くらいの付き合いだが、あまりプライベートな話をした事がない。
恐らく、深雪のことを会社員だと思っているのだろう。
「もう、って事は今はお休み中なんですか?あっ、転職ですか」
「ううん、ただの無職よ。旦那がね、別に仕事なんかしなくても良いだろうって。確かに、お金に困っているわけじゃないけど、ずっと家にいても退屈なのよね」
「えっ!?ご結婚されてるんですか!」
既婚者に見えないらしく、結婚し
ていると告げると、大体は同じリアクションをされる。
理由はわからないが、もう慣れてしまった。
「だから今は専業主婦なの。でもそれが退屈で」
「えぇーいいなぁ。稼ぎの良い旦那様がいて、専業主婦になれるなんて羨ましいですよ」
どうやら彼女も、テレビに出ていた女の子と同じように、専業主婦が夢らしい。
「あなたみたいに、スキルのある人は勿体ないと思うわ。確かに専業主婦は楽だけれど、とても退屈なの。私には、あなたの方が羨ましいくらい。仕事をして自立していて、毎日が充実していて」
「ふふふ。お互い無い物ねだりなんですかねぇ」
苦笑いを浮かべると、綺麗にまとまった髪を軽くすく。
「カラーはどうしますか?秋なんで、少し暗めにしてみましょうか」
「そうね。茶色は飽きちゃったから、違う色にしてみようかな?」
「じゃあ、アッシュにハイライトなんてどうですか?きっと、すごくお似合いだと思いますよ!」
「ハイライト?」
聞いた事がない名前に、首を傾げる。
「ハイライトっていうのは、部分部分だけを少し明るめにする方法で……あ、こんな感じです」
読んでいた雑誌がちょうどそのページを開いていたらしい。
アッシュは少し緑がかったグレーで、これはランダムなのだろうか。細い束がそれよりも明るいグレーに染まっている。
「素敵ね。インパクトがあるのに派手すぎなくて」
「はい。ハイライトは、近藤様みたいな若い美人に似合うんですよ。ブリーチもするから、少し時間がかかりますけど──」
「構わないわ。時間ならたっぷりあるもの」
時計を見ると、まだ正午だった。ブリーチにヘアカラー2色を併せても、公一の帰宅時間には充分間に合う。
「わかりました。では早速ブリーチから始めますね。旦那様、きっとびっくりしちゃいますよ」
「そうね」
小さく笑うと、再び雑誌に視線を落とす。
少し派手と言えば派手だが、下品な派手さではない。
何より、昔の金髪の丸坊主に比べたら、全然まともだ。
あの頃は女扱いされるのが嫌で仕方なくて、男になろうと必死だった。
「できました。うわぁ!思った通り、すごくお似合いですよっ」
鏡の中に映った自分を見て笑みを浮かべる。
「本当。凄く良いわね。とても気に入ったわ」
髪の毛の色を暗くしたのは何年ぶりだろうか。
しかし黒すぎず良い感じにグレーで、ハイライトがオシャレだ。
ネイルもそれに併せて、やはりモノトーンに変えてもらった。
「イメチェンも楽しいわね。ネイルも素敵」
ネイルなんて、生まれて初めてと言っても過言ではない。
しかし、キラキラした自分の指先を見ていると、つくづく女でよかったと実感してしまうのだ。
「少し遅くなっちゃったかしら」
店を出たのは、午後4時半だった。
予定通りマツエクの店にも寄った為、思ったより時間がかかってしまった。
そろそろ冬がくるため、陽が落ちるのが早い。
最近は仕事が暇らしく、公一が帰ってくるのは7時くらいだ。
今から買い物をして夕飯の準備をすると、間に合わないかもしれない。
「今日は簡単なもので良いかしら。給料日前だし」
前でも後でも使える金額には変わりないが、一応節約はしておいた方が良いだろう。
そろそろ寒くなってきたし、鍋にでもしようかなと考えていると、突然声をかけられた。
「あのー、今暇ですか?良かったらご飯行きませんか?」
「えっ?」
見知らぬ若い男だった。
一体なんだろうと眉を寄せると、男は照れ臭そうに頬を掻く。
「そんな警戒しないでくださいよ。お姉さんすげー美人だなぁって思って、声かけてみたんで」
もしかしてこれはナンパだろうか。
今まで一度も会った事がない為、どうリアクションすれば良いかわからない。
「俺、全然怪しいモンじゃないんで。大学生です。お姉さんはどこの大学?」
「えっと、急いでるのでごめんなさいっ!」
言い放ち、早歩きで逃げ出す。
追いかけて来ていない事を確認し、ほっと安堵する。
「び、びっくりした……。ナンパなんて初めてだわ」
会社員だった時に痴漢をされた事はあるが、ナンパは初めてだ。
今までも1人で街中を歩く事はあったのに、どうして突然声をかけられたのだろうか。
ふと、ショーウィンドウのガラスに映った自分の姿が目に留まった。
思わず、イケてると思ってしまう。
髪の毛はオシャレなカラーだし、マツエクをしたお陰で目も大きく見える。
そしてキラキラとした指先。
「そっか。イメチェンをしたからモテるようになったんだわ」
今さらモテても仕方ないが、綺麗になったのは気分が良い。そして自信も沸いてくる。
昔、誰も勝てないと噂の高校生をボゴってやった時の様な。
「やっぱりご飯はデパ地下にしちゃお。ネイル、傷つけたくないし」
せっかく綺麗に甘皮の処理までして綺麗に整えてくれたのだ。料理をしていて、うっかり傷つけたくない。
ついでにデパートで、この髪に似合う新しい服も買おう。
無意識に鼻歌を唄いながら、近くにあるデパートに立ち寄った。