狐火の章7 また、ある者の序
新章に向けて、読み易いように、改行等の手直しをしております。
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狐火の章7 また、ある者の序
後ろ手にきつく縛られ身動きが取れぬ自分の前で、どうか、と母が哀願した。
少し前までは在った筈の怒号と悲鳴は何時しか鳴りを潜め、今は、八方から破壊と狼藉の音しか聞こえない。
それ等が盛大に絶望と言う名の曲を奏でる中、母の声は歌姫の独唱か、それとも音の外れた合唱だったろうか。
子供達の生命だけは助けてくれと、近隣に美貌を謳われた母が、賊の首領と思しき男に縋る。
代わりに何でも差し出すからと衣の裾を摑む母の、だが首領の心を動かしたのは、必死の想いではなく、腕に嵌った細工も見事な腕輪だった。
寄越せ、と首領が、少女の様に細い母の腕から乱暴に腕輪を抜こうとしたが、鮮やかな翡翠に繊細な彫りを施し、更に最薄部に金で縁取った大粒の黒と白の真珠を対で象嵌した腕輪は、夫――つまり、自分の父親が結婚の際新妻に贈った名品で、彫り自体が建築で用いられる継ぎ手仕口の様になっており、母の腕に合わせた寸法のそれは、死ぬまで――死んでも外れぬ。
吊り上げられる様に腕を引かれ、肩が抜ける程の痛みに耐えかねた母が悲鳴混じりにそう訴えると、この期に及んで惜しみもすまいと察したか、首領はやおら太刀を構え。
――斬、と。
その時迸った絶叫は、果たして母の口からか、それとも自分の口からであったろうか。
腕輪を抜き取ると、首領は、手首から先を、まるで手袋でも棄てる様に抛り、だが母が日頃していた絹の手袋とは異なり、ぼと、とそれはあまりに重い音を立てて、絨毯に落ちた。
一方で、奪われた腕輪は、首領の穢れた指が内側から細工を押せば、呆気なく開き。
そのあまりにも呆気なく開いた腕輪の向こうで、寸前まで在った持ち主の腕が、容赦も頓着もなく、過ぎる程無造作に落ちた絨毯を埋めるのは、手首から噴き出す大量の赤い色。
自ら生んだ赤い池で、母が、容姿と同じく評判だった均整の取れた肢体をのた打ち回らせる。
見る間に全身を生命の色に染めた母から飛沫が飛んで、あまりの事に目も背けられず、硬直するだけだった九歳の妹の頰を彩った。
母の苦悶さえ味わう様だった首領が、その様に更に唇を歪ませて、言った。
姉貴と違って、妹は父親似の醜女じゃねぇか。そんな不細工な男顔じゃ、売り物にならねぇな。
おい、と配下に顎を刳る。太刀を床に突き立て空いた汚らわしい手に、頰を摑まれた。
安心しろ。お前程の上玉は高く売れる。傷物なんかにゃしやしねぇよ。
その意味に、自分は蒼白になった。
これから我が身に降り掛かる事を恐れたのではない。何処に売られ、どんな目に遭わされるかを察したのではない。それは死ぬより辛いだろうが、でも、自分は生命を繫ぐ事が解ったからだ。
そして、売られない妹の災厄を悟ったからだ。
傷付けても構わぬとは、即ち――。
案の定、これしか利用価値が無いと、十人は超える賊達に妹は順に犯された。
姉様、と泣き叫ぶ舌足らずな声は直ぐに調子が外れ、妹は恐怖の中で自我を手放し狂死した。
失血死寸前でひくひくと痙攣する母も、その美しさに涎を垂らさんばかりだった賊達に、死に掛けでも構わないと辱められた挙句、息を引き取った。
「……おのれ……おのれぇぇっっ!」
自分の目の前で母を汚され、幼い妹が寄って集って玩ばれても、自分は血の涙を流しながら叫ぶ事しか出来なかった。
父と兄弟は怒声が止んだ時、既に骸にされていた。
――それからどれ程の月日が流れようと、耳にこびり付いた母の絶叫と、目に焼き付いた二人の最期が薄れる事はなく。
自分から全てを奪った首領の顔もまた、忘れる事はなかった。
だから、願う。
破滅を。
同等――否、それ以上の苦しみを。
これは報復であり、正統な復讐。
その為にはどんな手段をも選ばない。
それだけは譲れぬ一線。自分の心を保つ、唯一無二の糧。
生きる――目的。
だから、何処に在ろうと、自分は毎夜空を見る。
覚悟の程を問われた時、言われたのだ。夜空を見ろ、と。
どれでも良い。この夜空に輝く星をどれか一つ選ぶがいい。
お前の望みは途方も無い。喩えるなら、この地上から――お前の地獄から、今お前が選んだ星へ、届かぬ手を伸ばして摑もうとする様なものだ。
星へ迫るにはどれだけ階を上がらねばならぬか。恐ろしく薄い玻璃で出来た階は、踏み抜けば地獄へ真っ逆様。
しかもお前は迫るだけでなく、正体不明の星を摑もうと言うのだ。
階を一段上がる為に、何を犠牲にせねばならぬか、その覚悟は有るか。
あの時自分は、払う犠牲等無い。自分が払うのは犠牲ではないと答えた。
何かを犠牲にして階を上がるのではなく、階を上がる度に力と知識を得て星に迫るのだと思ったから。
良いだろう、との呟きは、その時は満足のいく返答を得られたからだろうと思っていたのだけれど。
後に思い返してみるに、何処か切なそうな――哀しそうな声ではなかったか。
それでも自分は、毎夜、空を見る。
自分と星との距離は。
賭けではならない。手を伸ばして確実に摑む位置まで、あとどれ程かを、測る為に。毎夜繰り返す。
望みが叶う、その時まで。
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全く別の世界観ですが、お時間がございましたら、
天に刃向かう月
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