狐火の章6 白梅
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狐火の章6 白梅
凶賊狐火が都の夜を騒がせた当時、新興の妓楼だった牡丹楼に、十八の若さで君臨した名妓が居た。
華奢な少女の体に、少年の美しさと娼婦の妖しさを併せ持ち、多くの男達を手玉に取った老獪な妓女は、客を盗られたと怒鳴り込んで来た他の見世の妓女を相手にしても、一歩も引かぬ胆力の主でもあったと言う。
美麗な容姿だけでなく、その気性も併せて彼女に献じられた二つ名は、白梅。
一の姫の座を十年守った後勇退、以降は後進の育成に回ったが、どういう経緯が有ったものか、誰も知らぬ間に古巣の主に納まった、葛音の事である。
「あれは嫌な事件だったよ。あたしの馴染みに、呉服屋の若旦那と金貸しのご隠居が居てね」
「呉服屋と金貸し……藤間と末富士だね」
資料で読んだ名を思い返した紅子に、老婆は皺首を点頭させる。
「遊女と客に、情なんて、直ぐ融けちまう淡雪より無いに等しいもんだがね、それでも、一度ならず肌を合わせた相手が、次の晩に無残に殺されたなんて聞きゃあ、心中穏やかじゃいられなかったよ。それも二人もだ。馴染みじゃないが、同じ座敷で顔を合わせた相手も何人か居たしね。毎夜火事に怯えるのも辛かったさ」
紅子は妹分達を見遣る。
「あたしのお客に亡くなった方はござんせん」
「幸いな事にあたくしもです」
幸いねぇ、と嘆いたのは葛音だった。
「知己が無事なのは確かに幸いだが、豪商が軒並み被害に遭う事件で、一人も馴染みじゃないとは、妓女としては名折れじゃないのかね」
と、葛音は何処までも厳しい。
「違いない。あんた達じゃ、まだ白梅の足元にも及ばないか。よし、ちょっと出てくるよ」
大先輩の叱責に、しゅん、と悄気た二人だが、敬愛する紅子がやおら立ち上がったので我に返った。
代表で、清りが袖に取り縋る。
「お待ちを。一体どちらにお出かけですか」
「有体に言やぁ、狐火捜し、かね」
「姐さん!?」
突拍子も無い発言に、二人は仰天する。
やれやれ、と、葛音だけが天を仰いだのは、年の功か。
「だってねぇ、この牡丹楼の女は、みーんな、わたしが腕に縒りを掛けて仕込んだ芸妓であると同時に、最も信の置ける優秀な情報屋だ」
名妓と褒められるより、頼れる情報屋と言われた時の方が、二人の表情が輝いて、楼主は更に首を振った。
もし葛音が武早を知っていたら、どちらが女誑しだと嘆いた事だろう。
「そのあんた達が何も知らないって事は、狐火擬きに牡丹楼は敷居が高いのかと思ってね」
紅子は芸妓と言ったが、百良を筆頭に下は小女に至るまで、実は牡丹楼に居る女は、何かしら紅子に恩義を感じている者ばかりで、その紅子の表の顔の為に、皆が皆日頃から情報収集には余念が無い。つまり、牡丹楼は、都一の情報屋集団でもあるのだ。
その牡丹楼で賊の手掛かりが得られぬとは、仮に裏で糸を引く者が居たとして、それを含めて見世の客筋ではないと言う事に等しい。
警邏に組み込まれてしまった為、動ける時間は数える程も無くなった。紅子は雲を摑む様な話でも、もっと下層の酒屋を回ろうかと思ったのである。
昨日の今日だ、もしかしたら一味の数人位は、何処かで祝杯を上げているかもしれない。可能性が皆無ではないなら動く価値は有る筈だ。
しかし。
「また姐さんは……! 仰る事は尤もでございますけどね、一体都に何軒酒楼が在るとお思いですか。女を置かぬ一膳飯屋でも酒は出るんです。居酒屋まで含めたら、たとえ半年掛かったって姐さん一人じゃ回り切れませんよ」
と、清りに呆れられてしまった。
「姐さん自ら動かれるなんて、あたくし達が役立たずと言われたも同じ事。牡丹楼の姫の名に懸けて、これを捨て置く訳には参りません。承知しました。牡丹楼に上がれぬ輩だけでなく、最近様子の、金遣いの変わった者にまで網を広げればようございましょう。全員に触れを出します。どうぞあたくし達にお任せ下さいまし。それとも姐さんは、ご自分が育てた情報屋を信頼出来ないと仰いますか」
おまけにそう百良に迫られて、それでも我を通す程紅子は無謀ではない。
「……分かった。一先ずあんた達に任せよう。迅速に、でも相手が相手だから慎重に、ね」
はい! と二人は嬉しそうに口許を綻ばせた。まるで、好いた男に褒められた初心な娘の様だ。
後ろで葛音ががっくりと肩を落とす。
「……清りは頼もしくなったよねぇ」
馴染み客の指名が入り、流石にこれ以上仮病は出来ぬと葛音に追い立てられ、清りは、どんな男との別れよりも名残惜しそうに自室に下がった。
勿論、部屋を出る時は壁の仕掛けを作動させる。
袋小路の細い廊下に面した壁の二本の柱。その一方の一部を軽く押すと、かたり、と音を立てて三寸四方程の蓋が脇に外れる。
其処に繊手を突っ込んで、輪になった金具を引き、蓋を元通りに戻すと、もう一方の柱も、矢張り三寸四方の蓋の留め金が外れるのだ。
奥に在るのは今度は出っ張った杭で、それを突き込むと、柱と柱の間の壁が僅かに浮く。
細い隙間から廊下に客が居ない事を確かめ、浮いた壁の端に体を寄せて軽く押せば、どんでん返しを横にした要領で、くるり、と壁が回るのである。
完全に、忍者屋敷か絡繰屋敷だ。
客の様子を見て回ろうと葛音も一緒に退出し、不意に落ちた数瞬の沈黙に、紅子の懐古が柔らかく滲んだ。
思い返す声も柔らかい。
「うちに来たばかりの頃は、ガリガリの痩せっぽちで、目だけが異様に大きくて、人前じゃ食事もしない位、誰も信用していない娘っ子だったのに。変われば変わるもんだよね」
「……全て、姐さんのお蔭ですとも」
敢えて口にせずとも。
生意気に姉の様な口を利こうとも。
「皆、感謝しておりますよ」
様々な理由から牡丹楼で生きる女達。その殆どが紅子に危うい所を……生命の危機を救われて、生きる道として此処を選んだのだ。
「……苦しくないかい?」
優しく優しく問われて、百良は思ってもいない事を訊かれたと言う様に目を瞠った。
「とんでもない事でございます。姐さんは、無力な小娘を一の姫にまで仕込んで下さいました。何処に苦しい事がございましょう」
あの時。
どうしたいかと問われて、百良は唯一つの望みを口にした。
それが生きる目的であり、糧だった。
けれど、その為にどうすれば良いのか、何の手立ても無かった。
――本当に、心の底から、それを望むなら。
手を貸してやろう。力になってやろう。
――本当に、それが、生きる目的であるなら。
そうして差し伸べられた手を取って、此処まで這い上がってきた。
今此処に在る事全ては、その望みを果たす為。
――あと少しの。
「あんたがそれを望んだのなら、良いさ。……ああ、百良。禿を一人預かってくれるかい」
「姐さんの頼みでしたら」
それはまた、誰かの運命が一つ、牡丹楼に関わると言う事。
本当はそれは、この世の中があまりにも不条理で苦しい事の、証なのだけれど。
「……姐さんがお望みでしたら」
ああ、頼むよ、と、百良に希望をくれた人が言い、脇息に寄り掛かり、頰杖を付いた姿勢で、部屋の隅を指した。
心得顔で百良は、琴を用意する。
己の局に置かぬ百良の琴。時折最上階の何処かから漏れ聞こえるその音色は、天界で星の乙女が、月光と星芒で紡がれた絃を弾くが如く。
出処の分からぬ妙なる楽は、牡丹楼の不思議の一つで、客ではない唯一人の為に披露する楽士は、調弦しながらぽつりと漏らした。
「……嫌な世の中ですこと」
そうだね、と紅子は囁く様に同意し、だが、ふ、と笑みを零した。
百良を嗤ったのではない。以前、夜光に訊かれた事を思い出したのだ。
『……主よ。影よ闇よと呼び出すくせに、何故、主は、我を夜光と名付けた』
「何を今更」
『我は全き闇。人が妖と呼ぶ存在。或いは魔と、或いは堕神と。それに何故、光を与えた』
「……さあ。どうしてだろうね」
その時は、そう言って逸かしたけれど。
「……闇ばかりのこの世だからねぇ」
ええ本当に、と百良が頷く。
それに更に頷き返したが、それは夜光の問いへの答えで。
「……少し位、光が在っても良いだろう?」
光と対極に在る存在は、決して同意はしないだろう。
けれど、全き闇だけでは、人はそれを闇とは認識出来ない。
光が在り、その光が届かぬ部分を初めて、人は、闇と言うのだ。
同時に、光ばかりでは人は、それを光と思わないのだろうか。――実はそうではないのだ。この世の何処にも、全き光は存在しない――出来ない。
何故ならば、闇が人に認識されて初めて闇となる様に、光もまた、人に認められなければ光とならない。
そして、光の中に人が居れば、生じてしまうのだ――影が。
人の背後に。
「……では、姐さん。何を弾きましょうか」
「葬送の琴を」
端的な答えに、全ての想いが溢れる。
「……はい」
――その夜奏でられた琴の音は、微かながらも階下まで届き、僅か数音を拾っただけで、その者の胸を切なくさせたと言う。
稀な腕前で大勢の胸を打った百良は、爪に最後の一音の余韻を乗せて漸く、顔を上げた。
微笑む。
母とも姉とも想い人とも慕う人が、滅多に他人に見せぬ寝顔を曝してくれていたのだ。こんな不用心な事は特に無い事なのに。
お労しい、と百良は思う。
紅子がこれまでに支払った犠牲――代価。それを知る者はほんの一握り。否、完全に知る者はこの世に居ない。
葛音でさえ百良でさえ、知っているのは自分が知り合ってからの事と、紅子が明かしてくれた真実の断片だけ。
紅子の為に、自分はどれだけの事が出来ているだろうか。――出来たのか。
きっとまた、この人は、心を磨り減らせる。
狐火擬きの騒動が、これからどれだけ紅子の心を苦しめるか。それを思うと、百良には、都の者とは種類の異なる怒りを感じる。
でも、これは、紅子も承知の事。
誰が悲しみ苦しんでも構わないと、紅子と約束した事。
起こさぬ様に心を配りつつ寝具を掛けながら、百良は玻璃の様に透明な声で言った。
「何時か……姐さんが弾いて下さいましね」
葬送の琴を。
「どうか……あたくしの為に」
❖ ❖ ❖ ❖ ❖ ❖
「あの儘寝ちまうとは……不覚」
わたしとした事が、とぼやいて、紅子は髪の滴を絞った。翌日早朝の事である。
牡丹楼には湯屋が在る。
開店当初、上客専用に設けられたが、直ぐに不経済を理由に閉鎖。それを葛音の代になってから、牡丹楼の女達用に作り直したものだ。
庭に離れを作って籬で囲い、植え込みで、上階と庭を散策する人の目を巧みに排してある為、牡丹楼に湯屋が在る事を知らぬ客の方が断然多い。
早朝の所為か、五人位なら手足を伸ばして浸かれる浴槽と広い洗い場にも、檜の簀の子を敷いた隣の脱衣場にも他に人影は無く、紅子は昨日の疲れと埃を完全に落とす事が出来た。
乾き切らぬ髪に手拭いを巻き新しい着物に袖を通すと、紅子の身支度を待っていたかの様に、呼ぶ声がする。
『――主よ。昨夜の尾行者だがな』
「ああ。後を尾け返したのかい。首尾は」
『それなのだが、尾行するまでもなかったぞ』
眉を顰めた紅子に闇色の声が更に囁き――。
「――なにぃ!?」
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天に刃向かう月
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